不動の三日目と夜の来訪者


 ――黒羊戦三日目の朝日が昇る。
 今日は黒桜隊の後ろに控え、戦場のピリピリとした空気を直接肌で感じる瑛藍。両軍動かずに睨み合いを続ける中、伝者が彼女の傍へやって来た。

「瑛藍様」
「なに」
「飛信隊が、丘の右下に揃っています」
「――! …そう、伝令ありがとう」

 瑛藍の労いに頭を下げて応えると、伝者はそのまま前に馬を走らせた。恐らく黒桜にも伝えに行ったのだろう。
 漸く場が整った。飛信隊がどうやって敵の罠を潜り抜けて、ここまで辿り着くことが出来たのかは分からないが、きっと沢山の仲間を失ったに違いない。それを乗り越えて彼らは、この黒羊において最も重要な丘に来ることが出来たのだろう。

「じゃあもうすぐ海羅も帰って来んのかね〜」
「海羅がもう援護は必要無いって判断したら、戻ってくるだろうね」

 けれど、きっと彼はまだ帰ってこない筈だ。飛信隊が今いる場所は、紀彗軍にとって最大の楔となっている以上、海羅程の戦力を欠くことは出来ない。

「さて……、この用意された場をあの人はどう使うのか」

 こればかりはいくら瑛藍でも予測が難しい。きっと他の指揮官達も同じことを思っているだろう。桓騎の動き次第では今日、三日目にしてこの丘の右半分――否、それ以上の戦果を上げることが出来るかもしれないのだ。

「(いくら桓騎さまでも、この好機を見逃すような人じゃない。絶対に動くはず。……いや、でも待って、あの人が動くのは当たり前だけど…中央丘この場に現れるかどうかは分からない……!)」

 考えろ、あの人の思考を、思惑を、狙いを。
馬の手綱を力一杯握りしめながら、瑛藍はこの状況でどう動けば敵が苦しむか・・・・・・を考え始めた。普段ならば絶対に考えないようなことだが、こと桓騎となれば話は違ってくる。あの人は敵が悶え苦しむ姿を見るのが好きな人だ。ただ用意されたこの場に現れて普通に敵を倒し、丘を奪取するだなんて桓騎風に言えば面白くない・・・・・

「……敵の総大将、慶舎。昌平君から聞かされたのは、いつもアミを張って敵が掛かるのを“待つ”男。此度の戦いも丘の上アミで敵の失敗をただ待っていた」

 一つ一つ可能性を呟き、繋げていく。

「今もそうだ。慶舎は桓騎さまが出てくるのを待っている」

 もしもあの人がそれに気がついているのなら。あの人は絶対に動かないだろう。

「…そういうことか」
「瑛藍様?」
「右舷、左迅も…襲撃があった時に動ける程度に楽にしていろ」
「どういうことですか?」
「多分、桓騎さまは少なくとも今日は動かない」
「!」

 己の主から告げられた科白に、右舷も左迅も身体こそ反応しなかったが驚愕した。それもそうだろう、今のこの戦況において誰が“動かない”と思うのか。

「何で動かないなんて思ったんだ?」
「桓騎さまは丘の争奪よりも、もっと先を見ていたからだよ」
「先、となると……趙軍総大将慶舎でしょうか」
「そう。慶舎をあの場所からおびき寄せる為にあの人が取る行動は一つ――動かないこと」

 そして瑛藍の予想通り、桓騎は一切何もせず三日目を終わらせた。




「なっ、ん、で! 桓騎は動かなかったんだー! 那貴!」
「俺につめよるなよ」
「つめよる! 桓騎の意図を解釈するためにここにいるんだろーが、お前は!」

 何とも口悪く桓騎軍から一時的に飛信隊に配属された那貴へ、怒涛のように詰め寄る河了貂。その様子を海羅は傍で見守りながら、彼自身も何故桓騎が動かなかったのかを考えてみたが、やはりさっぱり分からない。こういう時に瑛藍様が居てくだされば、と思ったところで居ないものは居ない。

 結局那貴にも詳しいことは分からず、河了貂が更に荒ぶることになり、慌てて飛信隊の隊長である信が止めに入ることに。そこへわざと足音を立てたかのように歩く音が、飛信隊へ近づいてくる。いち早く気がついた信と海羅だが、その片方の海羅はすぐに警戒を解いて足音の方へ歩み寄る。

「オイ! 海羅!」

 止める信の声には反応せず、ある所で止まるとそのまま静かな動作で拱手した。臣下の礼を取る海羅を戸惑いの眼差しで見つめる飛信隊だが、暗闇から現れた姿にあっと驚いた。

「こんな夜更けにごめん」
「お前――瑛藍!」

 飛信隊と瑛藍、実に三日ぶりとなる再会である。

 あれから瑛藍は目の前で跪く海羅の頭に手を置き、数回撫でてから彼を立たせた。たった三日とは言え、いつ死ぬか分からない状況の中、こうして会えたことは海羅にとって奇跡にも近かった。勿論自分の主君である瑛藍が簡単に死ぬとは思っていないが、直に目で見なければ安心できない。ようは気の持ちようである。

「で、どうしたんだ?」
「ん? いやぁ、今日桓騎さまが動かなかったから、ここまで場を整えた貂が怒ってんじゃないかなーと思って」

 やっぱり怒ってた、と笑う瑛藍に河了貂が「だって! 何なんだよアイツ! あそこまでしてやったのに!」と怒りの言葉を口にする。確かに河了貂にとっては盛大な肩透かしもいい所だろう。特に過酷な戦場を抜けて来たところも大きい。

「明日も動くかは分からないけど、気をしっかり持ちなよ。ていうかこんなんでイライラしてたら、この先やって行けないよ?」
「だって!」
「はいはい、続きはまた今度ね。えーっと…信!」
「何だよ?」

 河了貂との話を無理やり終わらせて、瑛藍は信を呼ぶ。現れた男に彼女は笑いながら髪を高く結い上げ、懐から短刀を取り出した。その姿にあの夜・・・を思い出した信は、同じように笑って今の自分の得物――王騎の矛を持ってきた。

「今回は、舐めてんのかって吠えないんだね」
「お前の実力は痛ェほど知ってるからな。だから今回は負けねェ!」

 合図もなく、信が矛を構えて走り出す。ぐるりと矛を回して鋒を躊躇なく瑛藍に向かって振り下ろすが、それは短刀によって阻まれ、ギギギ…と刃物同士がぶつかり合う音が響く。続いて突くように繰り出される信の攻撃を躱し、持ち前の速力で彼の懐に潜り込み、下から顎に向かって足を振り上げた。前回はここで信がその足を手で受け止めたことで敗因が決したが、今回は後ろへ仰け反って足を躱し、勢いを乗せて矛を横へ薙ぎ払う。暴力的な風が生み出されて砂煙が舞うが、既にそこに瑛藍は居なかった。

「(どこに、……っ!)」
「ハァァッ!」
「上か!」

 高く跳んだ瑛藍は、月を後ろに背負って力強く短刀を振り下ろした。間一髪で矛の柄で受け止めた信だが、とても女とは思えない程の力が彼に伸し掛かる。地面で踏ん張る足が少しずつ後ろに下がってしまうが、信もここで負けるわけにはいかない。今一度強く地を蹴って腕の力で瑛藍の短刀を押し返す。
 以前の信ならここで終わっていた。それなのにこうして反撃の機を狙われている。そのことにひどく――興奮した。

「いいね……いいよ、信!」
「そりゃあ、良かったなァ!」

 ギィン! と短刀は弾かれ、空を舞って地面へ刺さる。手元に武器が無くなった瑛藍に信は間髪入れずに「ルオォォ!」と矛を構えた。ビュン、と振り下ろす瞬間、矛の柄にそっと手を添えられて軌道が逸らされる。空ぶって体勢が崩れた時を見計らい、瑛藍の強烈な蹴りが信の鳩尾に入った。一瞬息が詰まって勢いよく吹き飛ばされた信は、ゴホゴホと激しく咳き込みながら片膝を立て、彼女を睨む。――「終了!」終わりの合図を告げる河了貂の声で、両者共に肩の力を抜いたのであった。

「ちっくしょう! 勝てると思ったのによー!」
「はぁ? お前がわたしに勝つなんて一生無いから! ……まあでも、前よりは強くなってるんじゃない」

 ふ、と微かに笑った瑛藍は、未だ立てずにその場に座り込む信の肩を軽く叩いて、河了貂を連れて本陣の天幕へ入って行った。
 残された信は瑛藍の言葉を思い返し、一人嬉しそうに叫んでいたとか。