幸せな夢ばかり見ていたの


 王騎兵が二人の間に入ったことで、一騎打ちの体はそこで終わった。舞台を作っていた二、三千からなる大輪は一気に崩れ、そこは騎馬と歩兵の入り乱れる大乱戦の場と化した。
 王騎は今すぐにでも状況把握のために動きたいが、この状況で龐煖に足止めされてしまい、身動きが取れない。その様子を李牧は離れたところから感じ取っていた。

 そんな李牧は、王騎だけでなく薄藍色の少女にも意識を向けていた。あれだけ大口を叩いた少女は、それに見合う程の――いや、それ以上の実力の持ち主だった。
 たった一人で目の前に迫る敵の首を容赦なく屠っていくのだから。鬼気迫る姿は見ているだけで息を呑み、目が離せなくなる。

「そこを退けェ!!」
「っ、殿の所には……行かせない!」

 顔や腕に傷を作りながらも、瑛藍は言葉通り自分に向かってきた敵を一人も抜かせなかった。
 やがて趙荘が騰によって討たれた。本陣は壊滅して後ろに拠点を作ることができたが、李牧は焦らなかった。むしろすぐに遊軍が潰すと告げ、気にも留めなかった。

 騰が敵将の首を獲ったと聞いた瑛藍は、たった一振りで敵を数十人と倒しながら笑った。側から見ていれば不気味とも取れるが、どうでもよかった。

「騰…………!」

 命が、削られているのが分かる。これが戦場、これが戦なのか。この場に立って初めて感じた感覚に、瑛藍は知らず酔いしれる。けれど頭は自然と冷静で、たとえ後ろから刃が迫ってこようともかすり傷すら負わずにそれを避け、首を刎ねる。

 そんな時だった。

「この声を聞く王騎軍の兵士に言い渡します」

 聴きたくて聴きたくて堪らなかった声が、戦場に響いた。

「敵の数はおよそ十倍。ならば一人十殺を義務づけます。敵十人を討つまで倒れることを許しません。皆、ただの獣と化して戦いなさい」

 敵十人。自分にしてみれば簡単な命令だ。今一度斬馬刀を持つ手に力を込め、声が聞こえる方に背を向ける。

「いいですか、ここからが王騎軍の真骨頂です。――この死地に、力ずくで活路をこじあけます。皆の背には常にこの王騎がついていますよ
「「「オオオオオォォ!!!」」」

 瑛藍の時以上に士気が上がり、騎馬も歩兵も勢いづく。背後の熱気を感じながら、自分はただただ笑っていた。

「ふふ、ふふふ。……殿だ、殿の声だ」

 早くこの戦争を終わらせて、みんなで城に帰ろう。いつも通り自分が湯を張って、殿に一番風呂に入ってもらって。汗と血を洗い流したら一緒にご飯を食べるの。
 そしてね、たくさんたくさん褒めてもらうんだ。――がんばりましたねって。

「ッ、あぁァァっ!!!」

 精一杯の声を出しながら力を振り絞り、遊軍の数を減らす。すると微かにあの男――李牧の姿が見えた気がした。
 その瞬間、戦場が水を打ったように静まり返り、瑛藍は馬の脚を止めて漸く後ろを振り返った。なぜこんなに静かなのか、彼女には分からなかった。

 だが瑛藍が止まったのはその一瞬で、すぐに入り乱れる戦場に身を投じる。早く行かなければならないと、心の奥で自分を追い立てるのだ。邪魔な趙兵を倒しながらやっと王騎の姿を見つけると、彼の腹には龐煖の得物と思われる武器が深々と突き刺さっていた。

 息ができなかった。
 なぜ? どうして? そんな気持ちばかりが先走って、何をすればいいのか分からない。けれど王騎は諦めていなかった。
 彼は龐煖の首筋に矛を突き刺し、そのままグググ…と力を入れる。そんな余力なんてもうあるはずないのに。

「貴様は一体、何者だ」

 満身創痍の王騎が、それでも自分を追い詰める。故に龐煖は尋ねた。

「ンフフフ、決まっているでしょォ。――天下の大将軍ですよ」

 ――嗚呼。瑛藍は張り詰めた息を吐き出すと、王騎の腹に突き刺さっていた武器を龐煖が抜いた瞬間に間に入った。奇しくもそれは騰と同じタイミングで、まるで示し合わせたかのようだ。けれどいつもの軽口を叩いている暇はない。騰が龐煖の相手をしている隙に、飛信隊の信が王騎の馬に乗って彼の身体を支える。

「騰!」
「分かっている。騰隊は撹乱のため、これより敵本陣に突撃する。瑛藍と殿の親衛隊、それから飛信隊は殿と共に全速で左の端を目指して走れ」

 瑛藍に名前を呼ばれた騰は、すぐにこの場から王騎を逃すための策を告げる。信が「そこに行きゃ逃げれんのか!?」と訊いているのを意識の端で聞きながら、王騎の前、つまり一番先頭に立った。

「わたしが先に行く」
「はぁ!? お前っ……」
「いいから黙ってついてこいっつってんだろ!」

 本当に今の台詞は、この少女が言ったのだろうか。信は驚いて声も出なかったが、瑛藍も気にしなかった。むしろ自覚がなかったのだ。それほどまでに彼女は焦っていたし、何より――吐き気を覚えるほどに怒り狂っていた。

「何としてでも殿を守れ! いいな!」
「あっ…オウ!」

 前方を睨み、馬を走らせる。王騎に近づく敵兵を一瞬にして骸へと変えるその様は、まるで化け物のようだと後に語られることになるのだが、この時はそれどころではなかった。
 騰が本陣へ向かったことで、この戦争がまだ終わっていないと李牧は悟るはず。だからこそ騰が彼の足止めに行ったのだ。

「ハッ……っ、く、……邪魔ァ!!」

 泣くな。泣くなわたし。泣いたら前が見えないでしょう。何としてでも殿を咸陽に、城に帰さなきゃ。あの暖かい、彼の城に。
 ちらりと後ろを見ると信が乗る馬が少し離れていた。(だから離れるなって言ったのに…!)瑛藍が少し戻ろうとした瞬間、二人の騎馬が信に、正しくは王騎に向かって槍を振りかざす。

「殿!!」

 喉奥から絞りだされたその声は、まるで悲鳴のようだった。しかしその槍が王騎へ届くことはなかった。
 王騎の意識が戻ったのだ。彼は持っていた矛で周辺を薙ぎ払うと、信の肩を持って馬を走らせる。すると自分と目が合ったことを確と確認した瑛藍は、一度頷くとまた前を見て道をこじ開けるために斬馬刀で敵を屠っていく。

 やがて隆国が大声を上げながらやって来た。瑛藍はやっととでも言いたげに息を吐くと、少し気が抜けてしまったのか斬馬刀が手からずるりと滑りそうになる。慌てて手に力を込めて柄を見れば、そこは血で真っ赤に濡れていた。

「……………」

 すぐに目を離し、瑛藍は切り開かれる道を真っ直ぐに駆けた。――別れの時間はもう、すぐそこに。