運命の四日目を迎える前に


 皆が寝静まった頃、信は微かな物音が聞こえて閉じていた瞼をゆっくりと開けた。瞳だけを動かして気配を探っていると、男女が岩陰で顔を突き合わせて話し合っていた。少し距離があるが、月明かりが照らしてくれたおかげではっきりと顔が見える。

「瑛藍と那貴……?」

 まだ帰っていなかった瑛藍。そんな彼女が何故桓騎軍の一人である那貴と話しているのだろうか。桓騎と知り合いだったというのはこの戦いに集められた時に知ったが、まさか那貴もとは思わなかった信は身体を起こして物音を立てないように岩陰に近づいた。

「ここにいるからにはその分の仕事はしろよ、那貴」
「わざわざ言われなくても分かってる。それよりお前はどうするんだよ」
「…どうするって何」
「このままじゃあ、捕まるぞ」

 那貴の一言に瑛藍は無意識に視線を地面に落とす。髪紐から解かれた薄藍色の髪が彼女の顔を覆ったせいで、信からその表情は見えない。
 捕まる、とはどういう意味なのだろうか。そもそも“捕まる”というならば――彼女は一体何から逃げているのだろう。

「……向き合いたいって思ってた。逃げ続けたって結局は問題を先延ばしにしているだけだって」
「それで昔みたいに戻ってるなら世話ねぇな」
「…うるさい」
「もっと強く抵抗しろよ。……否定しろよ、あの人を」

 その科白に瑛藍は勢いよく顔を上げて強く那貴を睨みつけた。紺藍の瞳は月光を浴びてきらりと光り、まるで宝石のように輝いている。

「出来るわけないだろ! あの人は、何もなかったわたしに名前をくれた! 温もりをくれた! ――命をくれた!」

 聞いているだけで心が震えるような、そんな叫びだった。
 彼女の生い立ちなんて知らないし、知ろうともしなかった。だって戦場にはそんなこと関係なかったから。どういう経緯があって王騎軍に入ることが出来たのかは興味があったが、あの実力を知れば王騎将軍の下に就いていたことにも納得出来る。

 けれど、じゃあ、彼女が言っていることは何なのだろう。二人して“あの人”と呼ぶ人物とは、一体誰のことを指している?

「……それでまた逆戻りするのか?」
「っ………」
「しっかりしろよ瑛藍。確かにあの人は――お頭はお前を拾って、名前をつけて、命をくれたのかもしれない。でもいつまでもお頭の所にいたってお前に先はねぇよ」
「……………」
「お前は、何になりたいんだ?」

 不意に、あの夜を思い出した。
 王騎が死んで、初めて城へ帰還した日の夜だ。自分の定位置である高台に登り、ぽつぽつと明かりが灯る様を眺めていると、騰がやって来て今の那貴のように問いかけてきた。

「ならば瑛藍、お前は何をしたい? 何になりたい?」

 その人に、わたしは何て返したんだっけ。
 ――ああ、そうだ。


「殿みたいな将軍になりたい」

「殿みたいな人になりたい。殿みたいに大きくて、殿がいるだけで力が湧いてくるような。……あんな人になりたい」


 瑛藍の嘘偽りない気持ちに、那貴は仕方がないとでも言いたげに笑って、自分より幾分か低い位置にある頭をくしゃりと撫でた。




「――出てこいよ」
「!」

 瑛藍が自軍に帰った後、静寂が戻ってきた中で那貴が暗闇に声を掛ける。声を掛けられた本人――信は、立ちながら気まずそうに頬を掻いた。

「随分と趣味が悪いんだな」
「なっ! こ、これは、その、たまたまだ!」

 しどろもどろになる信に鼻で笑った那貴は、先程まで自分と話していた女を思い出して瞼を落とす。

「訳のわからねーことばっかりだっただろ」
「……あぁ。お前と瑛藍が知り合いだったことも知らなかったからな」
「そりゃそうだ。多分自分の部下にも話してねーんじゃねぇか、アイツは」
「どういう事だよ…」

 眉間に皺を寄せて難しい表情を見せる信。その硬い声色にそっと瞼を押し上げると、彼はゆっくりと月へ視線を向けた。

「瑛藍が言ってないことを俺が言うわけにもいかねーが……。ま、アイツとお頭には深い繋がりがあるのさ」
「深い繋がり? いや、ここに呼ばれた時に何か関係があるのは分かってたけどよ……」
「――じゃあ、お前は自分の命を救ってくれた奴が居たとして、其奴に何かを求められたらどうする?」

 命を救ってくれた奴、と言われて信がすぐに思い浮かんだのは、幼馴染みである漂と秦国の大王である嬴政。救ってくれたとは少し違うかもしれないが、それに近いものを持つ大事な人達だ。
 そんな彼らに何かを求められたら?

「ンなの、俺に出来ることなら全力でしてやるに決まってんだろ」
「フッ、だよな。それと一緒だ」
「ハァ?」
「アイツは、瑛藍はお頭に文字通り命を拾われた。それだけじゃない、住む場所も名前も、言い方を変えれば家族だって与えてくれた」
「まっ待てよ。だったら王騎将軍は? アイツずっと王騎将軍と居たんじゃねーのかよ!?」

 ごく当たり前な疑問に、那貴はやっと月から目を離して信を見た。

「そこら辺の事情は、瑛藍から聞くんだな」
「ここまで話しておいて!? オイ那貴!」
「お前だったら、いつか話してくれるだろ」

 適当な慰めを口にしつつ、那貴はひらりと手を振って自分の天幕へ戻った。残された信はこんな消化不良なままでもう一眠り出来る筈もなく、ついさっきまで那貴が立っていた近くまで行って岩を背に座り込んだ。

「……命を拾われたって、どんなところで生きて来たんだよ」

 奴隷だった自分も相当だと思うが、名前も命もあった。けれど彼女は違った。下手をすれば餓死してしまう状況の中で生きてきたのだろうと、想像するに難しくない。

 いつだって自分が知っている瑛藍は、強くて、口が悪くて、自信家で、そして――誰よりも王騎を深く慕っていた。王騎以上に彼女に想われている存在なんて居ないだろうと、誰から見てもそう思えるのに。まさかここへ来て桓騎将軍の存在が浮上してくるとは。

「…やーめた! ンなこと考えてる暇なんかねぇ!」

 羌瘣だって帰って来ていない。心配事は山程ある。今はそちらが最優先だ。信は無理やり思考を切り替えると、無い脳味噌を使って必死に今日の作戦を考え始めた。




 ――空がうっすらと白くなり、朝焼けが世界を包む。短いがしっかりと睡眠を取れた瑛藍は、天幕から出て思い切り腕を伸ばした。そんな彼女に歩み寄る足音が聞こえてくると、戦の朝とは思えないくらい穏やかな声で朝の始まりを告げられた。

「おはようございます、瑛藍様」
「おはよう右舷」

 右舷が瑛藍に対して柔らかな声で話しかけるのはいつもの事なので、瑛藍も特に何も言わず挨拶を返す。

「そろそろ伝者が来る頃か」
「はい」
「なら、手早く着替えてくる。右舷は場の用意と見取り図を準備しておいて」
「御意」

 天幕に戻った瑛藍を見届けた右舷は、緩んだ頬をしっかりと引き締めて踵を返し、言われた通り卓と見取り図を用意するために歩き出した。


 伝者が来た時間と瑛藍の準備が終わった時間は同時だった。天幕から出てきた瑛藍は、どうせ前回と同じ摩論が伝者役だろうと高を括っていたのだが、そこにあった顔を見て瞬時に回れ右をした。
 だが、相手の方が上手だった。

「なに人の顔見て逃げてんだよ、チビ」
「……いつの話してるわけ? もうあの頃のわたしみたいなチビじゃないんだけど」
「俺より小さいくせにチビじゃないって? 強がりなところは相変わらずだなァ、瑛藍」
「〜〜っうっさいなほんと! 何でお前が来てんだよ、厘玉りんぎょく!」
「おーおー、口悪いとこも変わんねェな」

 肩を組んできた厘玉から離れるために肘を後ろに引いたのだが、ひょいと避けられてケラケラと笑われる。愉快そうに歪む口元を見て瑛藍も更にヒートアップしてしまう。

「摩論は!」
「戦準備に決まってんだろ?」
「帰れ」
「伝者から何も聞かずに帰すのか? 後でお頭に締められても知らねェぜ?」
「桓騎さまはそんなことで怒らない」
「あーあ、その通りすぎて言葉が出ねぇわ。ま、揶揄うのはここまでにして、さっさと伝えるわ」

 最初からそうしろと言いたげに口を閉じた瑛藍に、厘玉は喉奥で笑いながら今日の動きを伝えた。飛信隊はそのままの位置で待機すること、時が来たら援軍を送ること、瑛藍隊は状況を見て黒桜軍、飛信隊に割り込むこと。
 簡潔にまとめると簡単だが、言っていることは無茶なことばかりだ。けれどそれに文句を言っている場合ではないし、桓騎の意図を全て把握出来ている訳ではない現状では、この策に乗るしかない。

「分かった」
「なら、俺は戻るぜ。……お前、そろそろお頭の所に行けよな。あの人ずっと待ってんぜ」
「……今そんな余裕ないことくらい分かるだろ」
「飛信隊には行ったくせに?」
「夜営地が近かったし、海羅もいたから。その他に意味なんてない」
「…そういうことにしておいてやるか」

 物分かりの良い兄のような科白を吐いて桓騎の所へ戻る厘玉の背中を見送りながら、瑛藍は力任せに卓に向かって拳を振り下ろした。ガンっ! と鈍い音を立てて卓が真っ二つになったことさえ、今の瑛藍の目には入っていないらしい。

「どいつもこいつも兄貴ヅラしやがって……!」

 苛立ちを抱えたまま、誰も予想ができない黒羊戦四日目を迎えた。