そんな激戦を繰り広げる下とは違い、丘の中枢は少しの囁きすら許されない程の静寂があった。黒桜軍最後尾よりも後ろに位置する瑛藍は、昨日までとは違うことを肌で確と感じて気を引き締める。その様子を
「(紀彗軍は飛信隊のせいで迂闊に前に出られない。でもこの状況も長くは保たないよなぁ…。飛信隊が潰れるか、それとも退却するか……そのどちらかに傾いた時点で、紀彗軍は必ず攻撃に出る)」
紀彗軍にとってのその好機がやってくるかどうか。それは全て桓騎の行動に委ねられていた。
太陽が真上を指し、容赦無く兵士達を照り付ける。時間と共に体力も気力も失われていくことを知っている瑛藍は、早々に隊の三分の一を飛信隊へ援軍に出していた。だがもう予備兵も尽きてくる頃だろう。そうなれば必然的に壊滅も視野に入れなくてはいけなくなる。
未だ静けさだけを保つ場。いつその均衡が崩れるか分からない中、瑛藍は頭の中で地図を浮かべて幾度も模擬戦を行った。その数が30を超えた時、ふと考えることをやめて顔を上げる。
「左迅、右舷」
「はいよ」
「ここに」
決して大きな声では無かったが、当然のように返事をする二人に、思えば長い付き合いだと笑う。だからこそ、安心して命令できる。
「この場は任せた」
「――了解」
「――御意」
恐らくここも激戦になるに違いない。それでも自分が離れることを彼らは当然のように受け止め、そして守り切ってくれる。どんな時でも変わらない二人の返事に目を細め、紀彗軍には気付かれないようにソッと自軍から抜け出した。
「――敵襲ーっ!」
「へ!?」
「前だっ!!」
馬呈・劉冬軍と交戦していた飛信隊後方。そして前方が丘からの襲撃に耐えている時に、慶舎軍が突然攻めてきた。どれだけ待っても動かない桓騎に痺れを切らした慶舎が、自軍から見て“楔”となっている飛信隊を殺しに来たのだ。
前から大軍を率いて丘から降りてきた慶舎軍は、自分達を分断する気だと早々に踏んだ河了貂は、何としてでも後ろへ行かせまいと指揮を飛ばす。信も必死に矛を振るうが、慶舎軍の兵士達は己の想像より堅かった。
「ん!?」
突然ゾクリと肌が粟立ち、信はその敵意に応えるように目を向ける。そこに居たのは、圧倒的なまでの強者の威圧を放つ男。その男こそ此度の趙軍大将“慶舎”その人であった。
「その矛の若い男が信だ」
「!?」
「李牧様が桓騎、瑛藍と並べて名指しであげた標的だ。確実に首を狩り取れ」
「!!」
「(つ…ついに……あの李牧が、信を脅威と認識したのか!!)」
慶舎の放った科白は、一方から見れば恐れ慄くものかもしれない。だが信にとってそれは恐れを抱くものでもなく、むしろ“やっと”と評して良い程だった。あの男に認められるまでどれ程の時が経っただろうか。馬陽での戦いからこれまで、本当に、本当に長い時を過ごした。
「河了貂!」
「分かってる、ここはもう止まれない! 後ろへ行って退却の指揮を取る! それまで何とか刻をかせいでくれ!」
「ぐォオ、急げよ!」
後方で指示を飛ばしていた劉冬も、慶舎が兵士を総動員させて降りてきたことに気がついた。ここで飛信隊を討つつもりだと察し、すぐさまそれに応えようと完全包囲に躍り出る。ますます勢いを増す敵軍に、飛信隊は一気に窮地に陥った。
「数が……っ多い!」
「海羅!」
「僕の心配をするくらいなら、目の前の敵を一人でも多く倒せ!」
「チッ! 言われなくても分かってんよ!」
そしてとうとう、隊が分断されるという最悪の事態を迎えてしまった。
後方へたどり着いた貂だったが、目の当たりにした包囲布陣を前に弱点を探すも見つからない。愚策と言われようと一点突破で包囲の外に出なければと、後方で唯一頼れる男、
「楚水副長!!」
その呼び声に応えるように、ふわりと薄藍色が舞った。
――ガキン!! 刃と刃がぶつかり合う音が、しっかりと耳に届く。河了貂は己の目に映る光景に目を見開き、次第に涙を浮かべた。
「――間に合った、かな?」
「瑛藍!!!」
喜びと安堵に満ちた河了貂の声が、女の名を呼んだ。
「迂回してたら後方に回っちゃってさ、どうしようかと思ったけど。
「そっそうなんだよ! 前は慶舎に、後ろは劉冬に挟まれてて……!」
「慶舎? まさか出てきてんの?」
「うん…っ! 会わなかったのか!?」
「言ったでしょう、迂回したって。でも、そう……慶舎が」
これでやっと紐が解けた。激戦とも言える最中、この場に似合わない笑みを浮かべた瑛藍は、ガッと斬馬刀を肩に担いで紺藍色の双眸を馬呈へ向けた。
「何が可笑しい?」
「いーや、別に? ただ……後で桓騎さまには文句を言おうと思って」
「瑛藍?」
「安心しなよ、貂。わたしの推測が正しければ、慶舎は今頃――」
ゼノウか雷土に遊ばれてるよ。
まるで歌うように紡がれた言葉は、河了貂も、そして馬呈も信じられないものだった。
「なんっ、どういう、」
「だって、
「こう、き……?」
「っまさか!」
馬呈は気づいた。気づいてしまった。
この時を、桓騎はずっと待っていたのだと。
「飛信隊を嵌めたと思った? ふふ、ざぁんねんでしたぁ」
「クッソがァ!」
「ほーら、攻撃が単調になってきた。分かりやすすぎだろ、お前」
嘲るように笑い、挑発する瑛藍に楚水や
そのことに更に馬呈の怒りも増すが、女の攻撃はより鋭くなって男に傷を作る。――当然だ、瑛藍も心の底では怒っているのだから。
「途中でわたしの兵士達が地に伏している光景を見てきた」
撃ち合う中、目に浮かぶのは血を流して倒れる自分の隊の者達。これは戦だと分かっていても、心が張り裂けそうなほどに苦しかった。
「
「――――ッ!」
長らく戦場に身を置いてきたが、久方振りに感じる恐怖に馬呈は襲われた。たかが小娘相手だと侮っていたが、数刻前の自分を殴りたい。何が
・
・
丘から少し離れた場所で、桓騎と厘玉は戦の様子を眺めていた。
「とっ捕まえた敵兵が吐くには、慶舎は“沈黙の狩人”。瑛藍は“待ち”の達人だって言ってたな…」
ぽつりと呟くように、厘玉は口を開いた。
「どの戦いでも敵は張り巡らされたワナに気づかず、先に動いてからめ捕られる。結局、いつも皆慶舎の手の平の上で踊らされて敗れると」
「へー、おっかねェな」
「……――で、」それはそれは楽しそうな声色で、桓騎は笑った。
「そういう奴に限って、最後は俺の手の平の上でクリクリ踊ってぶっ殺されて、大グソ漏らすって話だろ? 厘玉」
「っスね、クク」
「…………、“沈黙の狩人”? あっさり血相変えて動きやがって、ザコが」
口悪く慶舎の二つ名を罵った桓騎に、厘玉は「そういえば」と思い出したように話を続ける。
「瑛藍が単身で飛信隊に飛び込んだらしいっスよ」
「単身? 何してんだアイツ」
「さぁ? 何かを感じ取ったんスかねェ。ただ慶舎が出てきたって知ったら、今まで予測止まりだったお頭の作戦もこれではっきりするんじゃないですか?」
「だろうな。それじゃあ、後で怒鳴りに来るな」
「クク、相当キレてそうっスね」
桓騎から瑛藍の姿は見えていないが、それでも彼は愉しげに笑う。
――精々楽しく遊んでこい、瑛藍。