濡れた頬で温もりを感じた


 瑛藍の予想通り、慶舎は血に飢えたゼノウ一家によって蹂躙されていた。まるで獣のように圧倒的な武を持って自分達を殺しに来るゼノウ達に、慶舎軍は何とか総大将である慶舎だけでも逃がそうと周囲を見渡すが、そこに立つ旗はどう見ても我々のものでは無い。

「ほっ……包囲されてる! 包囲されてるぞォっ!」
「な、何ィっ!!」

 先程までは馬呈・劉冬軍と慶舎軍で飛信隊を囲んでいたのに、一瞬で形勢が逆転してしまった。
 ――後方、未だ馬呈と鋒を向き合っている瑛藍は、猛々しい雄叫びを確かに聞いた。

「来たのはゼノウか。それなら前方は心配いらないね」
「つっ強いの!?」
「強いし容赦ないし、彼奴の包囲網はそう簡単には抜けられないよ」

 恐らく慶舎軍が主力を飛信隊分断に出したことすら、桓騎の思惑通りだろう。それは口には出さずに喉奥で飲み込み、強く踏み込んで馬呈を後ろへ圧しやった。

「(ただ一つ懸念するとすれば、紀彗の存在。もしもわたしが彼奴の立場だったら――)」

 気になり始めたら止まらない。強く奥歯を噛み締めて馬呈に一撃を決めると、「テン!」と飛信隊軍師の名を呼ぶ。

「何!?」
「前に行ってくる!」
「なっ何で!? 瑛藍の言う通りならゼノウってヤツがいるんじゃあ…」
「嫌な予感がする」

 ピッと斬馬刀に付いた血を払い、丘の方へ顔を向ける。眉を釣り上げ、睨むように強く前方を見据える表情に、河了貂はもう何も言えず頷くしかなかった。



 ――一方、前方で荒ぶるゼノウの強さを目の当たりにした海羅は、整った顔立ちを歪めながら刃を振り下ろす。最早指先に力は入らず、喉もカラカラ。まともに声さえ出やしない。
 それでも、自分を支える矜持が彼にはあった。例え力が無くとも、声が掠れようとも。それだけで海羅は戦える。

「――瑛藍様」

 喉奥から必死に搾り出して、他の誰でもない己の主君の名を呼ぶ。本人は居ないが、その名を口にするだけで不思議と力が湧いてきた。
 ゼノウ一家、飛信隊と共に少ない瑛藍隊の兵士達と敵を討ち取る。だが風向きが変わったのを海羅は肌で感じ取った。何だと思うのと同時に、弓矢の雨が天から降り注いだ。

「なっ――」
「蹴散らせェっ!!」

 丘から攻め降りてきた新たな軍。ゼノウでさえ予想外だったようで即座に反応できずにいたが、敵ならばやることは同じだとすぐに鉄塊を振り回して向かい来る頭を吹き飛ばす。

「紀彗様ァっ!!」

 援軍としてやって来たのは、紀彗軍だった。紀彗はひたすら敵に向かって武器を振るうが、相手が悪かった。個の力として最上と言っても良い男、ゼノウが相手ではいくら紀彗でも力負けしてしまい、右腹をぶん殴られた。武器で受け止めたとは言えその威力は半端なく強い。

 吹き飛ばされた紀彗は、しかして落馬することも意識を失うこともなかった。必死に痛みに耐え、惨劇を目の当たりにする己の兵士達に訴える。

「ひるむな、離眼兵……」

 喋ることすら無茶なくせに、目を瞑って言葉を紡ぐ紀彗。

「こ……これほどの暴力、こんな…獣の如き奴らだからこそ――」

 ギッと歯を食いしばって強く前を向いた。

「何があっても黒羊を抜かせるわけにはいかんのだ!!」
「「「!!」」」
「続けェ!」

 決死とも言える迫力で士気を高めた紀彗に、海羅は顳顬こめかみに流れる汗を震える手先で拭った。――拙い事態になった。こちらは完全に個々の力で圧していたが、士気は間違いなく向こう側の方が高い。“集”の力は時に“個”を上回ることは、戦では常識だった。

「海羅副長!」
「っ………!」

 ギラリと光る刃が、やけに目に焼き付いた。防ごうと武器を持つ腕を動かそうとするが、恐らく敵の刃が自分に届く方が早いだろう。
 ――ここで終わるのか。嫌だと心の中で叫び、振り下ろされるそれを睨んだ時。目の前にいた敵が突然呻き声を上げ、視界から崩れ落ちた。そしてその先に居たのは、たっぷりの光を浴びる己が求めてやまなかった人の姿だった。

「お待たせ、海羅。よく頑張ったね」

 グイッと引き寄せられ、包み込むように抱き締められる。肌で感じる温もりに、海羅の目尻には思わず涙が溜まる。しがみつくように背に腕を回すと、涙は溢れて頬を伝う。

「お待ちしておりました、瑛藍様……っ!」