血が滴るほどの怒りだった


 夜通し馬を走らせてやっとの思いで敵を撒いた瑛藍達は、目の前に広がる光景に言葉を失った。戦が始まる前から中央の丘を取ることに全力を注いで、数えきれないほどの兵士達が命を落としたというのに、戦が終わっているどころか丘は趙に占領されていて既に砦化が進められていた。
 考えられることはただ一つ。慶舎が死んだことをあの場にいた者達が隠したのだ。河了貂も同じ考えを口にしていたが、瑛藍はさらにもう一つあることを思い浮かべた。

 死んだのは慶舎だけではない、劉冬も羌瘣の手によって命を落とした。そしてそれはおそらく紀彗と馬呈には伝わっているだろう。こみ上げる怒りも恨みもすべてを戦にぶつけたことは容易に想像できた。

 ここで瑛藍は、ある違和感を覚えた。
 たった一日でここまで綺麗に丘を奪われるような真似を、あの桓騎がするか? 答えは簡単──否、である。こんな負け方あの野盗軍団が許すはずがない。
 であれば、丘を取られたこともあの人の策であるところまでは繋がる。だがその目的が分からない。丘取り合戦をやめさせた理由が、今の彼女にはまったく分からなかった。

「どうしたの、羌瘣?」

 ふと河了貂の声が耳に入ってくる。不思議そうに首を傾げる彼女の視線の先を見れば、そこには別の方角を見て目を見開く羌瘣が震えながら立っていた。つられて瑛藍も目で追えば、かろうじて目視できるくらいの小さな煙が上がっている。
 どうせ桓騎軍の誰かがむしゃくしゃした腹いせに、何かを燃やしているのだろう。そんな適当なことを頭に並べた瑛藍を他所に、羌瘣は反射的に馬の腹を蹴って走らせた。

「羌瘣!?」

 驚きながらも彼女の背を追う信に、慌ててついていく河了貂。他の男達もすぐに反応して追いかけていく後ろ姿を見ながら、纏めていない髪をくしゃりと乱した。まともに休憩していないくせに元気だなぁ、となんとも呑気なことを思いつつ瑛藍も「わたし達も行こうか」と声をかけて馬の首をぽんぽんと叩く。ブルルルッと鼻を鳴らすと、馬は信達が消えた方へ足を走らせた。

「どうしたのでしょうか……」
「さぁ、さっぱり分からん。でも普段直情型の信じゃなくて、冷静に分析できる羌瘣があんな行動を取るくらいだ。……よっぽどのことが起きたんだろうね」

 馬の手綱をぐっと握りしめ、海羅の質問に答える。その先にあるものを、今はまだ誰も知らなかった。



 ──着いた先は小さな集落だった。こんな樹海の中で暮らしている人達がいるなんて思いもしなかった瑛藍は、日夜続く戦の中で暮らしていたであろう人々に息が詰まった。いつどこで流れ弾が飛んでくるか分からないのに、何故ここから離れなかったのだろうか。
 家はすべて焼かれていて、かろうじて原型を留めている。シン、と静まり返ったこの場所に人の気配はどこにもなかった。

 先に着いていた飛信隊はどこだろうと見渡せば、その姿はすぐに見つかった。集落の少し奥まで行っていた彼らに「おーい、何かあった?」と緩い声で尋ねながら近づくと、瑛藍はそれ以上言葉を続けることができなかった。

 荷車にぎゅうぎゅうに積まれていたのは、大量の人間だった。その誰もが目を極限まで見開き、おびただしいほどの血を流している。一目見ただけで彼らがとてつもない苦痛の中で死んでいったことを想像でき、自分の身体が無意識に震えてしまった。
 着いてきていた海羅も、まるで声を失ったかのように呆然としている。無理もない、きっとこんな光景を見たのは初めてだろう。自分でさえ今にも吐きそうなのを必死に堪えているのだから。

「何を、してんだ」

 信はカラカラに乾いた喉の奥から声を振り絞り、小さく呟く。「あ?」血と涙で身体を濡らす裸の女を抱きながら下品な笑い声を上げる男の近くで、別の男が信に胡乱な目を向けた。

「何をしてると聞いてんだクソ野郎共がァ!!」

 激昂を孕んだ信の怒声が、異常に満ちた集落に響いた。
 耐えきれないとばかりに刃を抜こうとする信を必死に止める副長の渕と河了貂。そんな彼らの奥に、この場所を見つけた羌瘣はいた。ある一つの荷車の前で立ち尽くす彼女は何かを呟くと、瞬きの間にこの場を支配していた桓騎軍の男達を躊躇いなく殺した。
 まるで敵軍を相手にしているかのように次々と首を撥ねていく羌瘣。そんな彼女に恐れを抱いた男達は、及び腰になりながら助かりたい一心で叫んだ。

「待てっ、待ってくれ、全部命令なんだっ!」
「全部お頭の命令・・・・・でやっただけだァっ!!」
「──え?」

 やっと声が出た瑛藍は、彼らが吐いた科白に手が真っ白になるほど握りしめた。やっと馬から降りて今の言葉を言った男に近づく。するとそのすぐ隣を馬が駆けて行った気がしたが、今の瑛藍には見えていない。彼女の瞳には情けなく震えている男しか視界にはいなかった。

「ねえ、今のは本当?」
「お、お前はお頭のっ! あ、ああアンタなら分かるだろ!? これがお頭の命令だって!」
「……なんで、こんなこと……。無関係の人達を巻き込んで、こんなに、人を、ころして…」
「しっ知らねえ! 俺らは何も知らねえんだよ!」

 これ以上は本当に何も知らないと踏んだ瑛藍は、すぐに馬に乗って低く「行くぞ」と自分の隊の兵士達に告げた。たった一言、けれど彼らはすぐに「は」と短く返事をする。
 ──ぐつぐつ煮えたぎる炎のような怒りが、彼女の中をぐるぐると駆け回る。その怒りを海羅達は確かに感じていた。



 桓騎軍本陣は瑛藍達が到着した時点で荒れていた。信と羌瘣はこみ上げる感情のままに暴れたようで、信は雷土を中心に桓騎軍の兵士に囲まれている。対して羌瘣は桓騎の首に己の剣を当てて、全員に動くなと命令していた。
 話を聞いていると、信は話の流れで“中華統一”という科白を口にした。それは信の、そして──我らの上に立つ大王・嬴政の夢であり、目標だ。かつて“さい”で共に戦ったことがある瑛藍には、その言葉の持つ意味が何よりも誰よりも鮮明に理解できた。

 ──だが、現実は厳しい。
 今のこの中華で、“統一”という科白を吐く者なんて狂人かただの馬鹿だ。桓騎は“悪党”だと罵った。

 更に言葉を重ねていかにその考えが傲慢で、思い上がったものかをつらつら口走る桓騎に反論しようとする信を、羌瘣は「もういい」と止めて慶舎の首を信が討ち取ったことを告げた。やはり誰も知らなかったようで、この場にいる瑛藍隊、飛信隊以外の者は皆驚きにどよめいた。

 村焼きをしている場合じゃない、と暗に止めろと伝える羌瘣。それを桓騎は「断る」と一刀両断した。

「俺たちは村焼きを続行して、黒羊中の人間を皆殺しにする」

 ギリギリと手のひらに爪が食い込むくらい強く握りしめる。まだ、まだだ。まだ羌瘣達は戦っている。自分の主張は、その後だ。

「オイ、斬られないと思っているのかお前。相応の覚悟で来ているぞ、私達は」
「俺を殺って、その後飛信隊が皆殺しにあう覚悟だよな。面白ェ」

 「見せてもらおうか」桓騎が愉しそうに口元に弧を描きながら、飛信隊の田有の首を斬れと雷土に命令する。しかし雷土は未だ桓騎の首元にある刃のせいで、自分の腕を振れない。
 そんな彼に桓騎は構わず「殺れ」と命令すると、雷土はもう躊躇わなかった。田有の首に当てていた刃を食い込ませると、ブシュッと血が吹き出す。流石にやばいと思った瑛藍が動こうとした時だった。

「やめろ、どっちともォ!!」

 あまり聞かない声が、双方の刃を止めた。
 どうやら飛信隊のうちの一人だそうで、彼は村は戦と無関係じゃないと宣った。それは村を見てきた自分達からすれば有り得ないことで、余計に信の怒りを助長させる。尾平の胸ぐらを掴んで、腹の中にある怒りを言葉に乗せながら彼に詰めよる。

 状況は、最悪だった。

 よく考えれば分かったはずだ。桓騎兵からの言葉を鵜呑みにしただけで、彼は騙されたんだって。けれど今の飛信隊には尾平を助けられるほど心も体力も余裕がなかった。
 最後には「二度と飛信隊うちに帰ってくるな!」と信は吐き捨てた。桓騎はまるで茶番のそれを一笑し、飛信隊に行っていいと許すが、信は終わっていないと彼を睨む。そんな睨みを一蹴した桓騎は「もう全部終わったから、これ以上はねェんだよ」と笑った。

「目障りだ、失せろ。俺の気が変わる前にな」

 そう言われれば、もう退がるしかない。燻る怒りが治らない中去ろうとすれば、交代だと言わんばかりに瑛藍が前に出た。ここでやっと彼女の存在に気がついた信達は、「瑛藍……」とその名を口にする。その本人は信の横を通り過ぎる直前に彼の肩をぽん、と叩くと、来た時と変わらず踏ん反り返っている桓騎の前まで足を進めた。

「何だ、帰ってたのか」
「……………」
「そんな怖い顔してどうした?」

 俯いたまま何も言わない瑛藍を、桓騎は頬に手をついたまま見下ろす。ゆるゆると顔を上げた彼女の紺藍色の双眸と目が合った瞬間、彼はそこに含まれている感情をつぶさに感じ取った。

「……あそこまでする必要が、あったんですか」

 震えているようにも感じる声音。黒桜はここぞとばかりに「甘ったれたクソアマが! 黙れ!」と口汚く罵りながら近づいてきたが、彼女の手が自分の肩に触れる前にその手首を掴んで引き寄せると容赦なく顔面に拳を叩きつけた。手加減など一切なしの本気の殴打に、黒桜は鼻から血をぼたぼた流しながら瑛藍を睨みつける。けれどもう彼女の意識は黒桜には無く、また上座で笑う桓騎へと向けられていた。

「仮にも将軍の地位を与えられた人が、やっていい行動ではないでしょう」
「うるせェな。…いつからお前はそんなつまんねェ考え方をするようになった?」

 桓騎に反論する瑛藍に、信や羌瘣は目を瞠った。特に信は、彼と瑛藍の関係性を垣間見たこともあり、余計に信じられない思いでいっぱいだった。

「面白いとかつまんないとか、そんな話をしてるんじゃなくて──」
「そんな話だろ。昔言っただろうが、俺は勝つためなら何でもやるって。今回もそれを実行しただけだ」

 もう我慢の限界だった。桓騎の膝元まで一気に駆け上がると、彼の胸ぐらを掴んで怒りをぶつける。

「あの荷車に積まれていた人達は、女や子ども、老人ばかりだった! それなのに、抵抗すらできない一般人を、あんな、あんな風に殺すなんて……!!」
「それが俺のやり方だ。……やっぱり王騎のところに預けたのは失敗だったか?」
「なに、」
昔のお前・・・・なら、そんな科白は言わなかった」
「っ…………」
「飼い慣らされてんじゃねェよ。お前は俺の狗だろうが、なぁ? 瑛藍」

 彼の真っ黒な瞳が、ひたと自分を捕らえる。この瞳に見つめられてしまえば、逃げることなんてできなかった。

「…………、わたしは、」

 何年経とうが、今でも鮮明に、強く思い出せる大好きな殿の姿。大きくて、強くて、こんな自分を守ってくれた人。
 彼は言った。無意味な虐殺はダメだと。倫理観もクソもなかった自分に一から教え、学ばせ、人の感情を教えてくれた。

 その時間を否定することは、たとえ自分の絶対的な存在であっても許さない。

「狗にだって、飼い主を選ぶ権利はあるんだよ」
「…………あ?」
「わたしは、」

 ぶわりと風が舞って彼女の髪を攫う。空に溶けるような薄藍色を靡かせながら、強い光を携えた紺藍色の瞳で桓騎を睨んだ。

「わたしは、殿の狗だ!!」

 声高に叫んだそれは、瑛藍が初めて桓騎に逆らったものだった。