その惨劇を人は地獄と言う


 桓騎軍の本陣から離れて自分の隊の野営地まで戻ると、瑛藍は中に入って座り込んだままぼうっと宙を眺めていた。飛信隊の仲間割れは気になるが、正直そこまで気が回らない。何せ彼女は人生で初めて神様みたいな存在だった人に反抗したばかりなのだ。

「瑛藍様」
「んー。……入っていいよ」
「では、失礼致します」

 姿を見せたのは海羅だ。その後ろから数刻前に別れた左迅と右舷が続いて入ってくる。それぞれ流れるような動作で地に膝をつけて拱手する様に、何故かひどく安堵した。
 三人は口を開かない。しかし彼らの双眸は泳ぐことなく自分を見ている。その瞳に映る自分に、彼女は深く息を吐いて卓に肘をつき、両手で目を押さえた。

「……なんか………………つかれた」

 これまで幾度と無く瑛藍と戦場を共にしてきたが、こうして彼女が弱音を吐くのはこれが初めてであった。
 それもそうだと三人は思った。何せ彼女は我らの隊長であり、そして秦国の将軍だが、歳は飛信隊や楽華隊の隊長達と同じくらいだ。そんな彼女が今まで弱音を吐かなかったことの方がどうかしていたのだ。

「……お風呂に入りたい」
「はい」

 右舷が頷く。

「……落ち着いた場所で、あったかいご飯を食べたい」
「……ん」

 左迅が頷く。

「……かえりたい」
「はい」

 海羅が頷く。


「──城にかえりたいよ」


 涙こそ流れてはいなくとも、彼女の心は確かに泣いていた。

「えぇ、帰りましょう」
「だーいじょうぶ。道なら、俺たちが作りますから」
「お背中はどうぞ、僕にお任せください」

 温かい言葉がするりと心の中に入り込み、溶けていく。疑う余地もないくらいに自分を想ってくれている三人に、瑛藍は泣き笑いのような、下手くそな笑みを浮かべた。

「ありがとう、右舷、左迅、海羅」





 喉奥から絞り出すような声に、中に入ろうとした手がピタリと止まる。男は何かを思い出すようにしばらく瞼を閉じていたが、やがて苦笑して「失礼しますよ」と中に向かって声を掛けた。
 返事も待たずに中に入ると、隊の長である瑛藍は椅子に座り、そして彼女の前に三人の男が膝をついている。桓騎軍うちではこの構図はあまり見られないなと、男は自軍に集う人間を思い浮かべた。

「何の用、摩論」
「冷たいですねぇ。これからのことを伝えに参ったのですよ」
「…………そう」

 本当は自分を目にして罵声を浴びせたいだろうに。思いつくままに罵って、胸ぐらを掴んで殴りたいほどには怒っているはずだ。それ程の怒りを瑛藍は見せたのだ。──我らが桓騎お頭の前で『王騎の狗』だと口にするくらいには。
 実際、桓騎の言う通りなのだ。昔の彼女なら、まだ彼女の世界が“桓騎”だけのあの頃なら、村焼きだろうが女や子どもを虐殺しようが怒らなかった。だってそれが瑛藍にとっての“普通”だったから。

 その“普通”が“普通”でなくなったのは、紛れもなくあの天下の大将軍“王騎”の元へ預けたせいだ。

「では、お伝えします」

 だから、おそらく、きっと。
 今から伝える内容で、また彼女からの信頼を失ってしまうのだろう。

 そこまで考えて、摩論は思った。
 ──なんだかそれは、ひどく寂しいですね。







「瑛藍様! お待ち下さい、瑛藍様!」
「まずは俺たちが先行するから、下がれって!」
「瑛藍様!」

 三人の男たちが一様に前を行く女に声を掛けるが、それでも彼女は止まらない。むしろ手綱の音を響かせて馬の足を速くさせる。ぐんぐん引き離されそうな距離に舌を打った左迅は、言葉を投げかけることをやめてただひたすら着いていくことに専念した。右舷と海羅も同じように手綱をしならせて前傾姿勢を取る。

「ハァッ……ハァ……っ、……ハ…………」

 ようやく馬の足が止まる。後ろから複数の足音が地面を叩き、自分と近い距離で止まった。けれど瑛藍の耳には一切の音が消えていた。

「…………………」

 音が、消えた。
 呼吸音も、草木が風で揺れる音も、自分の部下がそれ・・を見て嘔吐する音も。

 眼前に広がる光景は、一言で言えば地獄だった。門の形に建てられた物に、死した人が吊るされているのだ。ただ死んだ人ではない。
 頭部だけが二つ三つ重なって突き刺さっているものや、手足だけのものもある。吊るされた人間の手足はほとんど切り落とされていて、五体満足にある死体なんて見つける方が難しかった。

 もはや、人の所業ではない。ここが地獄だと言われた方が信じられた。

「………瑛藍、さま……っ」
「……三人とも、顔を洗って。水ならあるから」

 右舷に名前を呼ばれ、やっと音が戻った。振り返った瑛藍は三人の様子を見て、すぐに水を取り出して近くにいた右舷の頭から水をかけてやる。吐瀉物で汚れるのも構わずに顔を拭いて下から顔を覗き込むと、ここへ来る前と比べてその色は随分と青い。他の二人にも同じことをして、回復するまでは座って休めと促した。

「(このやり口は砂鬼さきか……。彼奴ら自身に会わなければいいと思っていたけれど、甘かった。──甘かった)」

 こんな思いをさせる為に、みんなを連れてきたわけじゃない。こんな光景を見せる為に、この戦に参加したわけじゃない。
 一生頭に残って離れない惨劇を彼らに見せてしまったことに、瑛藍は心の中でひどく自分を責めた。


 どれほどそうしていただろうか。まだ顔色は悪いままだが、いつまでも敵軍の砦近くにいるわけにはいかない。瑛藍はさり気なく周囲を見渡して耳を澄ませていると、一つの音を捉えた。

「………誰か来る」
「!」
「っ、すぐに隠れなければ……!」

 三人が馬に乗ったと同時に森の樹々に身を潜める。ブルルッ…と鼻を鳴らす愛馬の首を優しく撫でながら様子を窺うと、聴き慣れた馬の足音がなだれ込んできた。

「────!」

 その先頭の男を、瑛藍は知っていた。

「紀彗………!」

 一度刃を交えた男、紀彗。あの絶壁を馬で駆け下り、その力を存分に知らしめてくれた。
 此度の戦で、唯一“王騎の狗”だと言ってくれた、ただ一人の男だ。

 そんな彼だが、自分たちが先程まで見ていたそれを蒼白な顔色で見上げていた。はくり、と動く唇から音はなく、瑛藍と同様微動だにしなかった。
 その光景を目にした馬呈の「何だこりゃ…」と戦慄した呟きが、樹々に身を隠す瑛藍たちの耳に届いた。戦場で見た猛々しい姿はどこにもなく、あるのは目の前のそれ・・に恐怖を覚えるものだけだった。

 さらに話は進み、アレらの下に桓騎からの“伝文”があったという。惨劇にばかり目が行って気がつかなかった瑛藍は、ごくりと生唾を飲み込んで食い入るように見つめた。


“敬愛なる名将 紀彗殿へ”
“副将ながら獅子奮迅の活躍お見事”
“その紀彗殿を称えて、この骸の巨像を贈る”
“じっくりと見て、目に焼きつけろ”
“いいか紀彗”
“これ以上の惨劇をお前の離眼城で起こしてやる故、楽しみにしていろ”



 ──ガンガンガンガン!!!

「!!」
「急報! 急報ーー!」

「桓騎軍が移動し始めました! あれは……東南へっ………離眼城の方へ向かっています!!」

 鐘の音と共に降ってきた報せは、“伝文”の内容を認めるには充分すぎるほどであった。








 地鳴りがするほどの足音を轟かせながら馬が去り、人もいなくなる。ガランと静けさが戻ったそこへ、瑛藍は身を隠していた樹々からゆっくりと出てきた。
 一歩、また一歩。そして再び惨劇を確と目にして、痛いほど唇を噛みしめた。

「……どうする? 瑛藍サマ」

 そう問う左迅の顔色は、まだ戻っていない。けれどその声色にはどこか強さがあった。

「…………、きっと紀彗は離眼城に戻るでしょう。どれだけ悩んだとしても、彼奴は民を見捨てられない──見捨てない」

 今でも刃を交えたときの彼の眼差しがはっきりと思い出せる。

「罠だと分かっていても、彼奴は行く。だって紀彗は、一城の主だから」

 あぶみに足を掛け、勢いよく馬に跨る。ぶわりとはためく薄藍色の奥にある濃い藍色の瞳に映るのは、苦しみ、もがきながら死んでいった離眼の民の姿。

「きっとわたしの行動は、桓騎さまには許されないことになると思う。それでも──」
「勿論、お供致しますよ」
「右舷の言う通りです。というか、僕らを置いて行かれる方が有り得ません」
「そーそ。瑛藍サマは俺らの大将らしく、ドーンと構えといて下さいよ」

 着いて来てくれる? とは、続けられなかった。当たり前だと言うように言葉を並べてくれた頼もしい仲間たちに、瑛藍はくしゃりと笑って手綱を強く握った。