完全勝利と離別、それから


 丘から離れて自隊の兵士と合流した瑛藍は、そこから静かに移動を始めた。幸いにも紀彗軍が丘から急いで駆け下りていく時と同じだったので、自分達が戦線から離脱する様子は誰にも気づかれることはなかった。
 途中で紀彗軍が追ってきたことを察した桓騎軍がすぐ様黒羊へ引き返したが、樹々がせめぎ合う視界の悪いこの樹海では潜む相手を見つけることは不可能に近い。そのせいで桓騎も、そして瑛藍も、すれ違ったことすら気づかぬまま互いの目的のために馬を走らせた。

「……本当に、よろしかったのですか?」

 傍へ寄ってきた右舷が最後の確認とでも言うかのように訊いてくる。その言葉をゆっくりと飲み込んで、瑛藍はふっと笑った。

「そうだね。……実は、すっごく怖い」

 首だけ振り返った瑛藍の瞳からは涙がこぼれ落ち、まるで雨のように地面へ降り注ぐ。それでも口元は笑っているものだから、右舷には彼女がひどく歪に見えた。

「こわいよ、怖くて恐くて堪らない。どれだけ会いたくないって、非道い人間なんだって思っても、結局わたしはあの人から嫌われるのが怖い」

 思い出すのはまだ王騎にも出逢っていない、世界が桓騎とそれ以外で分かれていた頃。自分の中の絶対は桓騎さまあの人で、ただそれだけが全てだった。
 何も知らず、純粋に、素直に、盲目的に、あの人だけを信じられたら良かったのに。他なんていらないと周りの色から目を閉じることができたらどれほど良かったか。

 けれど、わたしは知ってしまった。
 世界はとても広くて、色鮮やかで、溢れんばかりの希望で満ちていることを。もう知らないふりをして、あの人だけを求めることはできないのだ。



「──見えてきた」

 立派な城だ。高い城壁に囲まれたその外には、甲冑を着た無数の兵士とその影に隠れるように小さな子ども達の姿がある。瑛藍が馬の速度を落として彼らに近づくと、離眼兵達も即座に武器を構えて応戦の姿勢を取る。

「何奴だ!! もしや桓騎軍か!?」
「おのれっ……ここまで来るとは…! 即刻その首刎ねてやる!」

 怒りの色を表情に乗せる男達だが、瑛藍はそっと視線を落として馬から降りた。彼女の一挙手一投足をギラギラと血走った目で追いかける彼らは、その次の行動に驚きの声を上げた。

「何故、何故だ……!」

 瑛藍が、己の武器を部下に渡したのだ。今や彼女は丸腰で、しかも部下を下がらせたまま自分一人で我らに歩み寄ってくる。これには離眼兵も怒りのまま衝突出来ず、狼狽えてしまった。やがて数歩離れた位置まで来ると立ち止まり、この場にいる離眼兵や子ども達に向かって頭を下げた。

「…………っ!?」

 息を呑む声が聞こえる。それでも瑛藍は頭を下げたまま「すまなかった」と謝罪の言葉を口にした。
 今は戦争中。例え此度の桓騎の戦法が常軌を逸脱していたとしても、“戦”の一文字で片付けられてしまうのは当然のこと。どれだけ非道であろうとも、紀彗達離眼兵は“敗北”したのだ。

 だからこそ、この謝罪は離眼兵にとって最大の侮辱にあたる行為だった。勝者だから許された謝罪の科白。それをどうして素直に受け入れられるとでも思ったのだろうか。
 再び騒めきを取り戻す離眼兵達だったが、少しずつその声がおさまり、やがて一人の男が奥から姿を現した。──紀彗だ。

「……何故、謝る?」
「………戦に何の関係もない人々を、無意味に死なせてしまったから」
「それを何故お前が謝るのだ」
「だって、」

 ギリッ…と拳を強く握る。浮かぶ光景は罪のない女子どもが惨たらしく殺され、挙句死に体までもが利用されたもの。


「だって、止められたかもしれなかった!」


 地面を見つめながら、瑛藍は叫んだ。

 ここに来るまでにたくさん考えた。今回の黒羊戦で自分がほとんど好きなように動けたのは、桓騎が自分のやり方に口を出されないようにするためだったら? もしも戦に足を突っ込まず、桓騎の隣にいたら? ずっと砂鬼を見張っていたら?
 考えれば考えるほど抜けられなくなり、止まらなかった。過去になんて戻れやしないのに『たられば』ばかりを考えて己自身を憎む。

 そんな瑛藍を、紀彗は上から見下ろしながら深い溜め息を吐いた。

「──傲慢だな」

 それはとても低く、温度のない声色だった。
 驚いた瑛藍は、ゆっくりと頭を上げて目の前の男を見る。眉間に皺を寄せたその表情は見るからに怒っていて、紀彗から発せられる怒気が場を支配していく。

「止められたかもしれなかった、だと? 敵軍である我等はともかく、同じ桓騎軍である者達でさえあの男の戦法を読めなかったのにか?」
「っ、読めなくたって、」
「ずっと傍についておるつもりか? 仮にも将軍の地位にある者が言う科白ではないだろう!」
「────!」
「お前は何の為に戦へ出たのだ!! 敵国の民を救う為か!? 違うだろう!」

 ビリビリと空気が震える。それだけ紀彗は怒っていた。全身で訴えていた。

「(……ああ、)」

 自分は何て莫迦だったのだろう。何の為に戦へ出たかなんて、これほど莫迦な質問は無い。それを紀彗に言わせてしまったことも、彼女は自分自身が許せないほど情けなかった。

「……そう、だね。そうだ」

 ぽつりと、こぼれ落ちた。

「…………、此処へ来て、桓騎と衝突するかもしれないとは思わなかったのか?」
「そんなの思ったよ。罠かもしれないとか、本当にあの人が行っているかもしれないとか、いろいろ考えた。でも、それでも……此処へ来ずにはいられなかった」

 普段、敵に対してこのような情に似た感情を持つことはあまりない瑛藍だが、今回は違った。桓騎の策に反旗を翻すような真似をしたのも、全てこの男が放ったあの一言がきっかけだったのかもしれない。


「薄藍の髪に紺藍の瞳…。其方、あの王騎の狗と言われた、騰軍が瑛藍隊隊長、瑛藍だな」


 『王騎の狗』だと、この男が言ってくれたから。瑛藍は胸を張って桓騎に言うことが出来たのだ。

「……何故、と聞いても良いのか?」

 本当は聞くつもりなんて無いくせに。此方を見て笑う紀彗に、瑛藍は此処へ来てやっと目尻を緩めた。

「言うわけないじゃん」

 そして改めて佇まいを正すと、瑛藍はパシッと拱手した。きらりと光る紺藍色に紀彗が映る。

「次に会う時は、素っ首貰い受ける。──覚悟しておけよ」

 口悪い時の瑛藍は心が昂っている証拠だ。クッとつり上がった口角に、紀彗も同じような表情を見せた。

「ああ。その時こそ、決着を付けよう」


 ──五日目夕刻 黒羊より趙軍全軍撤退

 よって黒羊戦、秦軍の完全勝利である









 すっかり夜が更けたが、黒羊の中央丘は灯りと笑い声に包まれていた。桓騎軍は片腕に女を抱きながら酒を飲み、飯を食らって楽しげに過ごしている。
 その様子を、飛信隊は舌を鳴らしながら眺めていた。しかし信や河了貂達の声が聞こえると、飛信隊の兵士達は皆そちらへ意識を向ける。

 話の内容は、此度の戦の総大将・桓騎についてだった。河了貂が那貴一家から得た情報を元に、今回の戦の流れ、そして桓騎の考えを推測していく。

 黒羊戦の四日目。飛信隊が慶舎を討とうとしていた頃、桓騎はすでに標的を慶舎から紀彗へと移していたこと。そして特別な拷問係砂鬼を呼んで、捕らえた離眼兵から紀彗の過去を全て聞き出したこと。その後“紀彗”と“離眼城”の関係を知った桓騎は、四日間両軍が必死に繰り広げていた丘取り合戦を急に止めて、全兵を中央丘から降ろして趙軍に明け渡したこと。
 そこまで仮説を立てると、あとの流れは簡単だ。趙軍が丘の砦化を進めたことで、桓騎軍は後が楽になった。村焼きを行って一般人の死体を紀彗に見せつけたことで、紀彗の頭の中では『もしも』の未来が鮮明に浮かび、結果的に丘を捨てることになった。──この流れが、桓騎が描いたシナリオである。


「………一体何者なんだ、あの男は…」

 河了貂の話を聞いた信は、思わずと言ったように吐き捨てた。今まで会ってきたどの武将とも違う性質を持つ桓騎の正体が全く掴めないからだ。

「お頭は謎の多い人だ」

 静かな沈黙を破ったのは、桓騎軍に属する那貴だ。この中では一番桓騎のことを知っている彼が、まさかここで口を開くとは思わなかった飛信隊は、皆黙ってその続きを促す。

「何であんなに強いのか、家族はいるのか、そもそもどこから来たのか。雷土ら幹部達でさえ知らない」
「何っ!?」
「だが昔一度だけ、俺は最古参・・・だという者から、お頭の“根っこ”の部分について聞いたことがある」

 あの冷酷無慈悲でら戦負け知らずの天才の“中心”。そこに何があるのか、那貴は最古参砂鬼から偶然知ることが出来たのである。


『“怒り”……。桓騎の“根”にあるのは、岩をも溶かす程の“怒り”だ!』


 「それは最古参だけじゃなくて……瑛藍も全く同じことを言っていたよ」薄っすらと笑みを浮かべながら言葉を続ける那貴に、信は訊ねた。

「………、何に対しての…“怒り”だ?」
「………………………」

 ──“全て”に対してだ。




 一人、自軍から離れた桓騎は、周りに誰もいない静かな場所に腕を組んで座り、ただ前を見据えいた。その口元は弧を描いてはいるものの、瞳は笑っていない。
 そんな男の背後に、誰かが近づいてきた。勿論それに気づかない桓騎ではない。彼は後ろを振り返らないまま、そっと口を開いた。

「来ると思っていたぜ──瑛藍」

 名を呼ばれた女、瑛藍は少しも驚かずに足を止める。二人の距離は瑛藍が数歩前へ進めば触れられるところまで縮まっていた。

「……このような所で、一人で何をしているんですか」
「言っただろ。……お前を待っていた」
「っ…………」
「来い、瑛藍」

 一度も自分を振り返らず、前を見たまま命令してくる桓騎に応えそうになる己の身体が憎い。けれど拳を握って俯いた瑛藍が唇をキュッと噛んでいると、音も立てずに彼女の前まで来ていた男の腕に簡単に囚われてしまった。

「かんき、さま……!」
「ったく……。この俺がわざわざ動くなんざ、お前くらいだぜ?」
「っ、っ………」

 いつも戦の後は女を抱く。それがこの人の常だった。だから今回も篝の傍に居なかったからてっきりテントに引っ込んで情婦を抱いていると思っていたのに。

 この温もりが、どうしようもないほど欲しかった。

「わたし、わたしはっ……」
「黙れ」
「────っ……」

 吐き出される言葉は冷たいのに、その声色はとても、とても優しかった。

「もう黙れ」

 彼の真っ黒な長い髪が視界を覆う。痛いほどに強く抱きしめられるそのかいなの温もりに、瑛藍は彼の胸に顔を埋めながら知らずうちに涙を流した。

 たくさん否定した。たくさん拒んだ。この人の残忍性や残酷さを改めて目にした筈なのに。

 心の奥底にあった感情は、ただただ“愛しい”だった。