最初からきっとこれは運命


 飛信隊が結束を強めながら西の丘の砦化を進めている頃、桓騎軍ではある一人の男が立ち上がった。

「ンだとてめェ! もう一回言ってみろ、那貴!」

 雷土の怒声が空気を震わせ、肌を舐める。にも関わらず、殺意を向けられた張本人である那貴は涼しい顔を崩さぬまま「別に、騒ぐほどのことじゃない」と言い放った。

「ただ、飛信隊に移ると言ってるだけだ」
「内臓ぶちまけられてェのか、那貴てめェ!」

 酒の入った杯を雷土が強く握りしめたせいで、バギンと鈍い音を立てて粉々に割れる。真下に滴り落ちる酒が、地面に模様をつけていく。

「そう熱くなるなよ雷土。ここは軍であって軍じゃない。堅苦しい縛りがないところが、桓騎軍のいいところだろ。……いいスよね、お頭」

 那貴の強い眼差しが、雷土から桓騎へ移される。いつもの薄っすらとした笑みを浮かべる桓騎の考えることなど、いくら考えたって分かるわけがない。飄々と立っている那貴だが、その背中はじっとりと汗をかいていた。

「………………、理由だけ教えろ。那貴」
「………ただの気まぐれですよ、いつもの」

 桓騎軍の野盗達の眼光を浴びながらも、那貴は口を開く。

「……そうっスね…。ただ、まー強いてあげるなら──飛信隊あっちで食う飯ってうまいんスよね。意外と」

 澄み切った空の下、堂々と言い放った那貴の科白に桓騎は目を細めた。その直後、雷土の号令によって周りの桓騎軍は那貴一家へ各々武器を振り下ろした──。



 その様子を最初から最後まで見届けていた瑛藍は、騒ぎが収まった頃を見計らって桓騎の前まで進んだ。副長である左迅、右舷、海羅の姿は一つもなく、本当に彼女はたった一人で彼の元までやって来たのだ。
 那貴の軍脱退の件で苛立ちが募ったままの雷土は、酒のせいで少し酔った眼で彼女を見つけた。一体どの面下げてお頭の所まで来たんだと罵ってやろうかと思ったが、桓騎から発せられる独特な雰囲気に呑まれ、開いた口から声が出ることはなかった。それは黒桜も一緒だった。思いつく限りの言葉で罵声を浴びせてやろうと息巻いた彼女は、しかし桓騎の鋭い眼差しのせいで叶わなかった。

「どうした、瑛藍」

 話しかけたのは、桓騎からだった。摩論や雷土と言った古株はふと思い出す。

 ──そう言えば、こうした場面で話しかけるのはいつもお頭からだったな、と。

「お別れを、伝えに来ました」

 片膝をつき、拱手する瑛藍。しっかりと下げられた頭。硬い口調。そのどれを取ってもかつての・・・・瑛藍とは程遠く、離れていた年月を嫌でも感じさせた。

「行くのか」
「はい。わたしの任務は終わったので」
「お前は桓騎軍だろ」
「いいえ」

「──いいえ。わたしは、騰軍が瑛藍隊の将軍です」

 強く否定されたそれに、桓騎は無意識に血が出るほど拳を握りしめた。どうしてあの時、彼奴を王騎の下へやってしまったのか。どうしてすぐに迎えに行かなかったのか。彼にしては本当に珍しく、後悔を覚えていた。

「久しぶりに桓騎さまの下で戦えて、いろいろありましたけど。……また貴方と一緒に戦えたことは、嬉しかったんです。これだけはわたしの、嘘偽りのない本心」

 顔を下げたまま吐露される彼女の気持ちを前に、桓騎はゆっくりと立ち上がった。那貴の時でさえ頬に手をついて崩した姿勢を正しもしなかった彼が、まさか腰を上げるとは思わなかった黒桜は目を瞠り、その後ろ姿を見つめることしか出来なかった。
 やがて瑛藍の目の前まで来た桓騎は、その場に片膝をついた。秦国の中でも特に残忍な将軍として知られ、桓騎軍でも畏れ敬われているあの桓騎が、相手も将軍とは言えただの女に膝をついたのだ。二人の関係性を深く知る雷土と摩論以外の兵士達は、皆驚愕して声すら発することが出来なかった。

「顔を上げろ。いつまでも下向いてんじゃねェよ」
「……ですが、」
「うるせェ。オラ、顔を見せろ」

 グイッと乱暴に顔を上げさせられた瑛藍。すると桓騎は思わず吹き出しながら笑ってしまった。

「ハハハッ! 酷い顔だな」
「わっ笑わないで下さい!」
「ぐっしゃぐしゃじゃねェか。ほら、」

 優しく指先で拭われるのは、瞳から溢れんばかりに流れる涙だった。泣くつもりなんてなかったし、そもそも昨晩頭が痛むほど泣いた。けれどどうしてだろう──この人を前にすると、決意を固めた心が揺らいでしまいそうになる。

「…………デカくなったな」
「え?」
「何でもねェよ。その不細工な顔を何とかして何処にでも行け」
「ぶ、さいくって! 桓騎さま!」

 急に罵られたことで瑛藍はガウッと桓騎に噛みつこうとするが、子犬のじゃれ合いとばかりに笑う目の前の男のせいで、それもしゅるしゅると霧散する。だって、だって。

 笑う貴方の顔が、あまりにも寂しそうで。

 遠い遠い昔。わたしを殿の下へ送ったあの日も、貴方はわたしに見えないところでその表情を浮かべていたのですか?

「……桓騎さま」
「あ?」

 己の双眸を、男のそれと合わせる。夜を閉じ込めたような、深い青に沈むこの紺藍色の瞳が、男は何よりも好きだった。
 その瞳が柔らかく、それはそれは蕩けるように細まる。そこに宿る彼女の感情を、桓騎は図りかねていた。

 だから、反応に遅れた。伸ばされた腕が自分の首裏に回り、引き寄せられる。ぽす、と彼女の肩に額を軽くぶつけるが、鼻腔をくすぐる瑛藍の甘やかな香りが思考を放棄させた。

「また会ったその時は、名前を呼んでいただけますか?」

 ──瑛藍。自分が名付けた、彼女の名前。気まぐれに拾ったら懐かれて、名前が無いと不便だからと適当に名を付けた。それが今やこれほどまでに手放し難くなるなんて、あの頃の誰が予想出来ただろうか。

「……当たり前だろ、瑛藍。俺の、俺だけの──…」

 やっと桓騎の腕が動き、今なお自分を抱きしめる彼女の背中にそっと触れる。己を支配する“怒り”とは別の感情が生まれるのを、彼は確と感じていた。


「その時を楽しみにしていますね。お頭!」


 きっと、花が咲くように笑っているに違いない。顔を見なくたって分かる踊ったような声音に、桓騎は喉奥で笑った。







 練兵中の騰は、今日も今日とて時折無茶難題を口にしながら兵達を扱いていた。遠くから聞こえて来る録鳴未の怒声に内心辟易しつつも、彼は向かい来る兵の刃を己の得物で受け止めた。

「騰様ー!」
「ん?」

 そこへ、ドガラッと馬の足音と共に自分の名を呼ぶ声に首を傾げる。男は自分の目の前まで来ると、転がり落ちるように馬から降りてグワっと騰へ迫った。

「瑛藍隊がっ……! 黒羊へ赴いていた瑛藍隊が、まもなく帰還致します!」
「………………………!!」

 その報せを受けた騰は「録鳴未達にも伝えておけ」と言いながら、すぐに訓練を中止にして城へ戻る。少々馬に無理をさせてしまったが、愛馬もいつもとは違う自分の雰囲気に気が付いたのか「ブルルルッ」と鼻を鳴らして懸命に足を動かしてくれた。
 見えた城。ぴったりと閉じられた門を開けるように指示を飛ばすと、ゆっくりゆっくりと、まるで焦らすように開いていく。

 目に飛び込んできた姿に、光景に、騰は時が止まったかと思った。

 ズラッと並ぶ兵の数、ザッと数えて一万。綺麗に整列して拱手する男達の奥から、誰かが歩いてきた。傷だらけで、ボロボロで、甲冑も血みどろ。けれど彼女の持つ瞳の輝きだけは少しも変わっていなかった。
 彼女は自分の前まで来ると、ニッと笑って見上げて来る。晴れ渡る空の下、ザァ…っと吹き抜ける風が結っていない薄藍色の髪を巻き上げた。


「ただいま、騰!」


 流れるように拱手しようとする身体に手を伸ばし、無理やり立たせて腕の中に閉じ込める。自分のすぐ近くで聴こえる息遣いに、心臓の音に、騰は数日振りに安堵した。


「よく帰った、瑛藍」






 ──瑛藍隊の帰還を祝して催された宴は、大盛況だった。海羅は早々に録鳴未に捕まって浴びるほど酒を飲まされていた。左迅と右舷は奥の方でチビチビ飲みながら、隊の新入り達と言葉を交わしている。
 そして、肝心の瑛藍はと言うと……。

「ん〜〜〜っんまい!」

 まあるく輝く月を背に、酒を飲んでいた。場所は彼女の特等席である、城下を一望できるあの高台だ。風に乗って聴こえてくる宴の喧騒を肴に、月見酒を楽しんでいた。
 傍らに酒筒を転がしつつ、グイッと盃を煽る。ごくりと嚥下するとカッと喉が焼ける感覚に襲われて、たまらず「く〜〜っ」と声を漏らした。

 数日振りに過ごす城での夜に、すっかり肩の力を抜いた瑛藍。盃が乾かぬうちにともう一献酒を注いでいると、階段が軋む音が耳に届いた。酒でとろんとした眼で誰だと見つめていると、もう何度も見た顔がひょこっと顔を出した。

「やはり此処か」
「騰じゃぁん、どーしたぁ?」
「……随分飲んだな」
「へへ〜、だーってひさびさなんだもん、飲むよぉ」

 にへら、と締まりのない笑みで自分を迎えた女は、完全な酔っ払いとまではいかないがいつもより上機嫌だった。
 とんとん、と隣に座るように床を叩かれ、騰は特に抵抗もせずにそこに座る。するともう一つあった盃を手渡され、すぐに酒を注がれた。見事な早技に思わず彼女を見るも、既に自分の盃に酒を注いで飲んでいた。その様子に笑いながら、騰も勢いよく酒を煽った。

「どうだった、黒羊は」
「戦いづらかったよー…。樹海なんてはじめてだったし、総大将もね、あのひとだったし」

 またいっぱいになった盃に、月が映る。琥珀色の水面が揺れると、ゆらりゆらりと月が歪んだ。

「でもね、いい経験になったよ」

 そうだろう、と騰は思った。今後の戦いにおいて重要な役となる黒羊での戦は、瑛藍にとってまたとない経験となったに違いない。きっと自分が想像する何倍も凄惨だったろう。帰還してからずっとある目尻の赤みが、それを物語っていた。
 流した涙の意味を問うなんて、そんな無粋な真似はしない。瑛藍と桓騎の関係性を知る自分だからこそ察せられるものもある。だからこそ、騰は城で彼女の姿を見て安堵したのだ。

 生きて、無事に帰ってきた。しかしそれ以上に、桓騎のところからちゃんと自分の元へ帰ってきたことが、何よりも安心させた。

「……桓騎の所には残らなかったのか?」

 聞くつもりはなかったのに、酒のせいか気づけば口からこぼれ落ちていた。やっぱりいい、と撤回する前に舌ったらずな声が耳を打った。

「だってわたし、とののいぬだもん」

 瞬きを忘れ、ゆっくりと隣へ顔を向ける。彼女はいつから此方を見ていたのか、すぐに紺藍色とかち合った。

「とう軍、瑛藍たい。それが“わたし”だよ」

 その科白を最後に、瑛藍はゆっくり目を閉じてトスッと騰の腕に頭を預ける。真っ赤な顔をしてすぅすぅと寝息を立てながら穏やかに眠る女に、騰は仕方がないとばかりに酒を煽って彼女の頭を己の膝の上にそっと下ろした。