歯車が軋み始める音がした


 瑛藍が城に帰還し、数日分の疲れを癒している頃。咸陽に国籍不明の一旅団が到着した。ものものしい警備の中、ゆっくりと扉が開かれ、地に足をつける。現れた二人の御仁は、その場にいる人間全員を圧倒させた。──一人は斉国の大王その人。そしてもう一人は、現在秦国の最大の敵である趙国の宰相、李牧であった。
 そうして蔡沢が場を整え、初めて斉王と舌戦を交わした嬴政は、その足で李牧と謁見を果たす。本題を急かした嬴政に対し、李牧は「中華統一の夢を諦めろ」と上奏した。しかしそれを強く否定した大王は、喉奥から声を絞り出すように強く張り上げた。

「秦は武力を以って、趙を含む六国全てを攻め滅ぼし、中華を統一する!! 血を恐れるならお前達は今すぐ発ち帰り、趙王に完全降伏を上奏するがいい!」

 ぐわんと響く王の言。血で血を洗う地獄の始まりを、秦国大王は告げたのである。

「分かりました。残念ですが“宣戦布告”、しかと承りました。しかし、最後に後悔するのは秦国の方ですよ、大王様──」

 拱手しながらも、嬴政を見つめる李牧の眼差しは依然として厳しいものであった。その言葉に「聞き捨てならんな」と待ったをかけたのは、秦軍総司令の昌平君だ。

「秦が後悔するとはどういう意味か」
「…………。分からんのか、秦軍総司令、昌平君。本気で秦が六国制覇に乗り出すというのなら、この中華七国で最初に滅ぶ国こそ、“秦”だと言っているのだ」
「なっ!? 何じゃとォ!?」

 李牧の考えはこうだった。秦にとって六国制覇とは、持久力との戦い。そのせいで、戦略的に秦は中華の中心にある“趙”を早い段階で滅ぼす必要がある。けれど、趙国宰相は言った。──この李牧がいる限り、秦は趙を討つことはかなわぬ、と。そちらが必死になればなるほど、私は秦軍を内地へ誘い込んで徹底的に討ち殺す、と。

「無論、こちらとてただではすまぬが、もはや“相殺”でも構いはせぬ。秦が趙と泥沼の戦争状態にはまり込み、体力を失っていけば、楚軍が北上して必ず咸陽まで攻め落とす」

 禍燐。楚の大将軍にして宰相の位に就いた彼女が、この絶好の好機を逃すはずがない。李牧は確信していた。

「そうなる前に、こちらはお前を討つと言っておるのだ、李牧」

 並べ立てられた現実味のある先の話を、昌平君は鋭く断ち切った。しかし李牧はこれしきのことで怯む男ではない。

「ほう。では、誰が私を討つのです? 桓騎ですか? 蒙武ですか? 騰、はたまた王翦ですか? ──笑わせる」

 心の内を全て見透かされそうな眼差しだ。どこまでも奥底を覗き込み、手の内を見られている錯覚に陥る。

「そんな目で中華統一を為せると思っているのか、秦軍総司令」

 最早、この場にいる文官達は誰も言葉を発することが出来なかった。それほどまでに重たい空気、殺気、威圧。それら全てがたった一人の男から醸し出されていた。

「貴公らは今、秦の抱える将軍達とこの李牧との力の差が、どれ程開きがあるのか分かっておらぬ! この際だからはっきり教えておいてやろう。
 ──今いる秦将全員がまとめてかかってきても、この李牧の相手ではない!! それでもやると言うのなら、かかってくるがいい!! だが、これだけは覚えておけ」

 キュ、と爪先が床を滑る。李牧がからだを翻したと同時に、趙国の人間はその背に付き従うかのように追いかけた。

「趙は、絶対に落ちぬ。この戦いで滅びるのは──秦であると!」


 正殿から堂々と去った李牧は、階段の途中で不意に足を止めた。眼下に広がる咸陽は素直に美しいと思える。

「李牧様?」

 馬南慈ばなんじが名を呼ぶ。つい今しがた思ったことを口に出した李牧だが、ふとある女を思い出した。少女のようだった彼女は、数年を経て女へと成長を遂げた。此度の黒羊戦でも随分と活躍したと聞き及んでいる。
 己を討つ将軍などいない。そう豪語したばかりだが、ある想いが込み上げてきて思わず口元で笑ってしまった。

「李牧様?」

 その様子に、今度はカイネが名を呼ぶ。「ああ、いえ」忍ぶように笑う李牧は、ふっと厳しい眼差しを解いて柔らかい表情で咸陽よりもずっと向こう側を眺めた。

「もしも私を討つ者が居るのならば、それは──」

 そこで言葉を止めた男に、カイネは「?」と首を傾げる。しかし李牧もこれ以上語るつもりが無いのか、何でもありませんと首を緩く振ると「先の展望が見えました」と再び眼差しを厳しいものへと戻した。

「思った以上に嵐が早く来る。馬南慈・舜水樹しゅんすいじゅ、戻ってすぐ二万ずつ徴兵から練兵に入りなさい」
「「ハ!」」

 李牧の帰国後、趙は軍事強化に国庫を開き出した。それを追うように、秦も国庫を開き各地の軍事強化に入った。

 ──それは、瑛藍がいい。李牧は誰に知らせることもなく、その想いを胸の内にひっそりと留めておいた。




「──李牧が咸陽に来てたぁ!?」
「声が大きいぞ」
「そりゃあ大きくもなるわ! 何で、ってかいつ!?」
「お前が惰眠を貪っている頃だ」
「あれは必要な休息だって何回言えば分かんの……!」

 騰の城(元王騎の城)、訓練地。そこでは瑛藍と騰が久方振りの手合わせをしていた。木剣で打ち合う二人は互いに汗を流していることから、長時間こうして鍛錬に励んでいることが窺える。その集中力も先程の騰の科白で吹っ飛んでしまったのだが。

「何しに来たの?」
「知らん」
「説明が面倒だからって、それで済むと思うなよ……」

 騰の返答にひくりと口端を引き攣らせた瑛藍は、ギリギリと拮抗状態にある剣を思い切り上から振り下ろした。ボキィ!と鈍い音を立てて、二人の木剣がぽっきりと真っ二つに折れる。ジィィン…と痺れる痛みが騰の手のひらを襲うが、反対に瑛藍は木剣を握る手に力を込めすぎたらしく真っ赤になった己の手にふうふうと息を吹きかけていた。

「ったく、お前昔からそういうとこあるよね……。で、これからどうすんの」
「伝達が来ただろう。あれの通りに進めていく」
「練兵、ねぇ。国庫まで開いたんだから、余程性急なんだろうなぁ……。となると、また遠くない未来で戦が起きるってことか」

 折れた木剣を拾い、割れ目を覗き込む。使い物にならなくなったそれで肩をポンポンと叩きながら、瑛藍は服の袖で乱暴に汗を拭った。

「相手は趙、だろうな」
「だろうね」
「恐らく今までにない大戦となる。……怖いか?」
「は、冗談。むしろ待ち望んでたよ」

 赤みを帯びた手のひらに視線を落とし、グッと握りしめる。待っていた、ずっとずっと待っていた。あの男と、李牧と戦えるその日を。

「明日から瑛藍隊うちも本格的に鍛錬を始めていくね。新入りも増えたらしいし、徹底的に扱いてくるわ」
「……程々にしてやるんだぞ」
「はーいはい」

 ひらりと手を振ってその場を後にした瑛藍。その紺藍の瞳には燃え盛る炎がちらりちらりと覗いていた。


 その足で瑛藍はある場所へ赴いた。城の中にあるその部屋は立ち入りが制限されているのだが、瑛藍は関係ないとばかりにひょいと足を踏み入れた。実際、彼女には許可が降りているので止められる筈もない。
 中に入ると、歩みを止めることなく奥まで進む。大輪の花々が咲き誇り、その中央にはとても大きな甲冑がドンと鎮座していた。ボロボロで、細かな傷がいくつもあるその甲冑を着ていた人物は、ただ一人。

 そう、ここは六将王騎の墓だった。

「とーの、また来ちゃった」

 大きな遺影の前に胡座をかいて座り、歯を見せて笑う。たかが甲冑一つなのに、まるで本物の王騎が居るかのように大きく見える。

「ついに始まるみたい。秦と趙の戦いが」

 大まかな作戦すら伝えられていない為、開戦がいつになるかは分からない。練兵のことを考えれば一年の猶予はあるに違いないが、それでも準備は進めておかなくてはならない。趙のどこから攻めるかによっては、戦の流れも規模も全然違うはずだ。

「李牧と出逢ってからここまで、長かったなあ……」

 あの馬陽での戦いから何年経っただろうか。もしもあの時に李牧を殺せていたのなら、と何度後悔したことか。年々増すあの男の脅威に魘されることだってあった。

「殿はさ、怒ってない? 何回か李牧と会ってるのに、殺してないこと」

 誰にも言ったことのない、自分と李牧だけの秘密。きっと騰や桓騎に知られたら拳骨一発では済まされないだろう。

「李牧のこと、たくさん考えてみたの。何で趙の宰相になったのか、あの馬陽で現れる前は何処で何をしていたのか。でも完敗、何一つ分かんない」

 情、なのだろうか。相手は自分の大切な人である王騎を殺す策を考えた人間なのに、どうしてか憎しむことも我を忘れるほどの怒りを覚えることも、最早今の瑛藍には難しかった。

「でもね、殿」

 目を閉じなくとも、王騎が死の一撃を喰らうあの瞬間はすぐに思い浮かぶ。ぞわぞわと殺気立ち、今すぐにでも己の得物を持って馬に乗れるくらい、怒りはあった。

「どんな理由があろうとも、李牧アイツがどんな人間であろうとも、あの首を獲ってみせるから」

 だから、だから。

「だから、どうか。見ていてね」

 鈍る心に今一度決意するかのように、瑛藍は強い言霊を放って彼の墓前に誓いを立てた。