キミに最上級の愛を贈ろう


 追走がなくなったことを確認した瑛藍は、適当な茂みの中で馬を止めた。後続も続いて馬から降りて王騎の元へ駆け寄る。彼を中心に親衛隊達が集う様子を眺めるが、傍に行こうとしない瑛藍に蒙武が眉間に皺を寄せると、馬が地を蹴る音が近づいてきた。

 茂みの奥から本陣を攻めていた騰が到着したのだ。王騎は自身の副官の姿を認めると、「………、騰」と穏やかに彼の名を呼んだ。「ハ!」間髪入れずに騰もいつも通りの返事をする。二人の目は揺らぐことなく重なり、一瞬の沈黙があった。

「誰一人として私の後を追うことを禁じます。軍長を始め一人もです」
「ハ!」

 始まりの台詞は、後を追って死ぬなというものだった。王騎は自分の軍が自分のことを慕っていることをよく知っているからこそ、これを第一声にしたのだ。

「……長く私を後ろで支えてくれましたが、本来あなたの実力は私に見劣りしません。この軍の先のこと一切をあなたに委ねます」

 王騎軍を騰に託した証人として、彼は隆国を選んだ。

「頼みましたよ、騰」
「ハッ」

 いつも通りの、二人の会話。けれど騰は拱手した手に文字通り血が滲み、滴るほどの力を込めた。
 そこで王騎は一度強く咳き込む。吐き出された血が地面を染めた。そんな彼に声を掛けたのは、今回主攻を務めた蒙武だった。

 一人輪の外にいる瑛藍は、未だ現実感がないのかぼんやりと地面を見ていた。足元には己の得物である斬馬刀“隗月かいげつ”が転がっている。もう手に力が入らなかったのだ。

「今回現れた趙将はいまだかつてない強敵です。瑛藍が早くに正体を突き止めてくれたおかげで、味方も多く生き残ることができましたが……今回は見事にしてやられました」

 自分の名前が出てきて、瑛藍はぴくりと反応した。

「ンフフフ、全く困ったものですねェ。いつの時代も最強と称された武将達は、さらなる強敵の出現で敗れます」

 かつてこの戦国の世で最強と謳われた六将。そんな自分をここまで追い詰めた李牧の姿を王騎は思い浮かべた。

「しばらくその男を中心に、中華の戦は回るでしょう……。しかし、それもまた次に台頭してくる武将に討ち取られて、時代の舵を渡すのでしょう」

 戦を、そして時代をよく知る王騎だからこそ言える言葉だった。

「果てなき漢共の命がけの戦い。ンフフフ、全く――これだから乱世は面白い」

 そして信に『素質はある』と言い放った王騎。自分の矛を彼に渡すと、やっと呼びたかった名を呼んだ。

「瑛藍」
「、……………」
「ココココ、拗ねているのですか?」
「拗ねてなんか! っ、……拗ねて、なんか……っ……」

 馬鹿にしたような物言いに思わず反論してしまった瑛藍は、グッと唇を噛み締めながら俯く。王騎は最小限の動きで少女の元へ行くと、城で過ごした時のようにふわりとその小さな身体を抱き上げた。いつのまにか紙紐は解けていて、綺麗な薄藍色の髪が優しく靡く。紺藍の瞳はゆらゆらと揺れながら自分を映していた。

「どうやら、私はもうここまでのようです」
「そっ……そんなこと、いわないでよ…。まだまだ、これからじゃない、まだ、まだ、これ、っからぁ……ッ、ふ、っ…く、」

 もう耐えきれない。瑛藍は大粒の涙を次々と流し、頬を濡らしていく。大きな指でその涙を拭うと、逞しい腕でぎゅうっと抱きしめた。

「あの日、“彼”から貴女を預かったことを、昨日のように憶えています」

 今よりもずっと小さかった瑛藍は、“彼”の脚に隠れながらこちらを覗いていた。遠ざかる“彼”の背を必死に追いかけようと手を伸ばす少女が、まさかこんなに自分に懐いてくれるようになるなんて、あの頃は思いもしなかった。

「瑛藍が成長していくにつれて、私はずっと不安を抱いていました」
「不安……?」
「えェ。こう見えて私、独占欲は強いらしくて。……貴女を“彼”の元に返すのが、とても惜しくなってしまいました」

 嗚咽で肩を震わせる瑛藍に、王騎はいつものように彼女に対してだけ見せる慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。

「いいですか、瑛藍。貴女は自由なのです」
「自由? でも、あの人は、」
「自由です。この王騎の言うことを信じられませんかァ?」
「そんなことない!」
「ンフフフ、でしたら、貴女は自由です。この六将が一人、王騎が手塩にかけて育てた狗――。自信を持って、前へ進みなさい」

 やだ、いやだ。そんな最期の別れみたいな言葉言わないでよ。もっといろんなことを教えて欲しいのに。もっと貴方と一緒にいたいのに。
 貴方がいたから、わたしはここまで強くなれたのに。

「との、」
「はい」

 ――でも、

「殿っ……」
「はい」

 ――泣くのは、違うよね。

「ここまでわたしを育てて下さって、ありがとうございました」

 ――貴方の存在は何よりも大きくて。

「殿の元に来なかったら、わたしはきっとあのままだった」

 ――いつも貴方を出迎えるのが、とても楽しみだった。

「こんなわたしを愛してくれて、守ってくれて、育ててくれて――」

 荒い息を吐く王騎に、瑛藍は城で見せるような笑顔を咲かせてみせた。

「本当に、ありがとう」

 流れるような動作で拱手する。
 立派に育った少女を見て、王騎の目尻には涙が滲んだ。

「瑛藍」
「なぁに?」
「ンフフフ、――愛していますよ、ずっと」

 それきり王騎の瞳から光が抜ける。瑛藍はそっと腕を回すと、抑えていた涙を静かに流した。

「……お疲れ様でした、殿」

 二人の姿は、まるで父と娘のようだったと後に咸陽で語られる。


 ――始皇三年 武に生き、一時代を築いた天下の大将軍・王騎死す。