キミが自由に走れるように


 あれから三日間あの部屋で缶詰状態だった瑛藍は、四日目の朝に漸く解放されてヘロヘロになりながら馬に乗って城へ帰ることを許された。立ちっぱなしだったせいで腰がとてつもなく痛みを訴えている。

 早朝から訓練している兵士達が口々に出迎えてくれるがそれに応える元気もなく、かろうじて片手を上げるだけで精一杯だった。
 部屋に直行したい気持ちをグッと堪えて風呂に入り、髪もろくに乾かさずそこら辺の椅子に横になる。もう部屋まで行く気力もなかった。そのまま一分もしない内に意識を手放した瑛藍の元に、起きて顔を洗い終わった騰が近づいた。スゥ…スゥ…と穏やかな寝息を立てる彼女の目の下には濃い隈が出来ている。まともな睡眠すら取れなかったことは明白だ。

 ここで寝かせてやってもよかったが、どうせなら質の良い睡眠を取ってもらいたい。
 そう考えた騰は瑛藍を起こさないように抱き上げて自分の部屋に戻り、下女によって交換されたシーツの上にそっと寝かせてやる。これでも起きないのだから相当深く眠っているようだ。

「瑛藍が起きたら軽い食事を用意するように」
「かしこまりました」

 部屋付きの下女に言い付けて騰自身も朝食を食べに大広間へ向かった。




 瑛藍が起きたのは七つ下がり、つまり夕刻の四時頃だった。大きな窓からは夕陽が差し込み、室内を橙色に染め上げる。むくりと起き上がってまだ完全に覚醒しきっていない頭でぼんやりと周囲を見渡すと、きゅうう……とお腹が鳴った。
 そういえば何も食べずに寝たな……。ぺたりと床に足をつけて引き出しから髪紐を一つ摘み上げる。適当に手で髪を一つに纏めて髪紐で簡単に留めてから、瑛藍は厨房に向かって歩き出した。

 慌ただしく料理をする隙間を縫って、台の上にいくつか置いてある大皿を見つけた。どうやらあとは仕上げを済ませるのみとなったそれを、瑛藍はヒョイと摘んで口の中へ放り込んだ。一口食べた途端にこの三日間ろくに食べていなかった胃が喜び、もっともっとと脳が叫ぶ。
 もはや瑛藍はつまみ食いを止めることは出来なかった。その辺に適当に転がっていた箸を掴んで大皿に乗った鶏肉をガツガツと食べ進める。途中で料理人が咎めるように自分の名を呼んだ気がしたが、今の彼女には届かない。
 結局皿の上が空になるまで瑛藍は食べ続けたのであった。


「……何か言うことは?」
「…………ごめんなさい」

 厨で料理人達に向かって騰に頭を押さえつけられ、無理やり下げられた瑛藍だが、そんなことをされなくても今回ばかりは素直に謝った。幼い子どもでもないのに止める声にすら反応せず、ただ黙々と食べ続けたのだ。むしろ幼子よりタチが悪い。
 しかし騰とて彼女がまともに飲まず食わず眠らずで帰ってきたことは知っているので、それ以上叱責はせずに落ち着いて話せる部屋へ移動することにした。


「鄴へ攻め入ることは既に聞き及んでいる。昌平君が竹簡を寄越してきたからな」
「相変わらず仕事が早いなぁ、あの人……」
「我が軍への任務はないが、お前の動向はどう出る?」

 やはり、話が早い。瑛藍隊は騰軍所属なのだから、本来であれば同じようにこのまま待機だと考えるのが妥当なのに、こうして彼はどう動くかを問うてきた。

「一応は騰達と一緒に魏の牽制に加わるよ。今回の総大将は王翦将軍だから情報戦にも長けているし、何事もなく進めばわたしの出番は無し。だけど……」

 卓の上に乾いた盃を置く。そのままその指を口元へ持っていき、椅子の上で片膝を己の方へ寄せてぼんやりと空っぽになった盃の底を見つめた。

「もし昌平君の策が敗れた時は、わたしが走ることになる」
「具体的に」

「……途中の列尾れつびを捨てて、全軍で鄴へ向かうような事態になったら」

 卓に置かれた乾いた盃にトクトクと酒を注ぎ、自分の持つ盃にも並々と満たしていく。瑛藍はゆっくりと膝を伸ばして盃を手に取り、口は付けずに暫く揺れる酒を眺めた。

宜子ぎし城前線からは距離がある。それが分かった時点で動いては間に合うものも間に合わん」
「でも、わたしの所属は騰軍だ」
「瑛藍」

 名を呼ばれ、瑛藍はグッと下唇を噛んだ。まるで子どものような仕草に、騰は懐かしさを覚える。あれほど幼く、触れれば簡単に飛んでいってしまいそうなほど小さかったのに。今では秦国にとって代わりがいない武人へと成長している。
 この姿を、王騎殿はどれだけ見たかっただろうか。小さな子犬が成長し自由に走り出す様は、彼の方が一番待ち望んでいたものだった。

 いつだって彼は言っていた。瑛藍は隠し球だと。予測不可能な場面でこそ真骨頂を見せるのだと。
 その見極めを担っていたのは王騎だった。共に戦へ出たのはたった一度だったが、それまでの模擬戦では常に王騎が瑛藍の使い所を操っていた。

 しかし、その子犬はもう立派に成長を遂げた。自身の使い所は自身でよく分かっている。それも王騎譲りの軍略と知略を以て。
 自由に駆ける脚を阻むのは、例え己であっても許されない。騰はそれをよく理解していた。

それ・・がお前の足枷となるのなら、俺は──」
「やめて!!」

 喉奥から無理やり声を搾り上げたような、そんな叫び声だった。衝動的に立ち上がった瑛藍は、それ以上騰に言葉を紡がせないように影に沈む紺藍色の双眸で強く彼を睨みつけた。

「絶対にやめて。わたしは、」
「──お前を騰軍から、」
「やめろって言ってんでしょ!!」

 酒が入ったままの盃を容赦なく騰へ投げつける。服が濡れて盃が割れる音が辺りに響いたが、人払いをしているおかげで誰もやっては来ない。

「そ、っ、そんなにわたしがいらない!?」
「そうじゃない。お前自身分かっているだろう。殿と共に積み重ねたお前の価値は、ここで燻っていることじゃない。それをお前はあの初陣で見事中華全土に知らしめてみせた」
「っ…………てる、わかってる、〜〜っ、分かってるよ!」

 ギュッと両の拳を握って俯く瑛藍。前髪で隠れた奥からは丸い雫が次々と降り注ぎ、彼女の服の上で弾けて溶けていく。
 騰は盃を置いて立ち上がると、卓を回って瑛藍の隣へ近づいた。己より一回りも二回りも小さい彼女の肩を持って正面に向き合わせ、壊さないようにそっと前髪を持ち上げる。涙の海ですっかり溺れそうになっている紺藍に、騰はあまり動かない表情筋を動かして唇に弧を描かせた。

「ココココ……。大人になったかと思ったが、まだまだ泣き虫の子どもだな」
「っう、うるさい! 騰のせいじゃん!」
「だが嘘は言っていない」
「〜〜〜っ、騰のっ、馬鹿!!」

 ダンッと強く騰の足を踏みつけてやったが、痛みに悶える姿すら見せない男に苛立ちが募る。

「わたしの居場所は此処にあるって! 騰が言ったんでしょ!」
「────!!」
「だったら最後まで責任持て!」

 グイッと涙を乱暴に拭くが、怒りのせいかなかなか止まってくれない。仕方なくそのままにしながら瑛藍は半ば考えなしに吠え続けた。

「わたしは! 騰軍瑛藍隊! 誰になんと言われようと絶対魏に行くから!」
「昌平君からの許可は」
「なくても行く!」

 酒のせいか頬も赤みを帯びて、目も虚になってきた。記憶を失くす酔い方はしないので今の話も覚えているだろうが、もうそろそろ休ませたほうがいいかと騰が考えていると、勢いを失ったかのように瑛藍が自分の肩を掴む騰の腕に手を添わせた。


「……だから、もう二度と、あんなこと言わないで」


 先程までの喧騒とは打って変わって、涙が床に落ちる音だけが耳朶を打つ。弱々しい声色に、騰は肩から腕へと手を滑らせて自分の方へ引き寄せた。簡単に此方へ傾く身体を支え、もう片方の手であやす様に薄藍色の髪を撫でる。


「……悪かった」


 ぐす、と鼻を啜る音と「殿に怒られろ」という言葉が、優しく夜に落ちていった。