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翌日、相澤が漢字ドリルや計算問題集やらを持って葵の下へやって来た。前世の記憶が戻ったと言っても、知識レベルとしては赤子以下の葵にとって、ありがたいことこの上なかった。
相澤は仕事があるらしくすぐに帰った。両手にずっしりと乗っかる問題集をリビングに運び、まずは漢字ドリルをぱらぱらと開いた。

「うわあ、なつかしい…」

文字を見ていると少しずつ思い出してきたらしく、微かに笑いながらドリルを流し読みする。続く算数も同じ要領で見ていくと、簡単に理解することができた。
恐らく一般的な知識量は、前世の自分と同じなのだろう。ただそれを覚えていないだけで、こうして目で見ることで思い出すことができるようだ。

しばらく勉強とは言えない勉強をしていた葵だが、ズキンと眼の奥に走った痛みにガタタッと勢いよく椅子から落ちた。けれど眼の痛みは尋常ではなく、蹲って眼を押さえることしかできない。指の隙間から覗く瞳の色はいつもの深緋色ではなく、キラキラと輝く黄金色だった。

「〜〜……っ、ぃ、ッ……」

奥歯を噛み締めているせいで、うっすらと口内で血の味がする。けれどそれすら気がつかない葵は、只々この痛みを耐えるしかなかった。
30分後、次第に痛みが引いていき、星のように輝いていた黄金色からいつもの深い緋に戻った瞳の色。口の中に残る血の味に気がついて立ち上がると、少女はコップに水を注いで口を濯いだ。

この痛みは、生まれた時からの付き合いだ。もっと正確に言えば前世からある痛みで、葵自身この眼がある限りどうすることもできない。
一度はこの“眼”を手放そうとも考えた葵だが、そんな時に思い出すのは決まっての言葉だった。

「この世にある財宝は全て我の物だ。つまりお前の“眼”も我の物。そのことをゆめ忘れるな」

痛みで蹲る自分の傍には、いつだってあの人がいた。


なりたいもの



「どうだ、進行状況は」
「この間もらった問題集なら終わりましたよ」
「早いな…。それなら次、学年上がってもいけるか?」
「はい、ありがとうございます」

何度も足を運んでいる相澤には少しずつ打ち解けてきた葵は、彼相手には気を張らずに接することができていた。あまり外を知らない自分のために、近場のショッピングモールへ連れて行ってくれたことだってあった。

「最近はどうだ」
「特に問題ないです」
「そうか」

相澤は決まってこの質問をする。あまり外に出ない葵が問題を起こすはずもないのに、こうして尋ねてくる理由が分からなかった。

「“個性”は?」
「使うようなことがないので、なんとも」
「暴走したりは?」
「それもありません」

教師らしいといえば教師らしいが、相澤と自分は一言で言えば他人だ。それなのに、ただの被害者の子どもと言うだけでこんなにも気にしてもらえるのだろうか。ただの、とは語弊があるかもしれない。だって戸籍が登録されていなかった子どもなんて、今のご時世では有り得ないことなのだから。
けれど、だからと言って相澤の態度も、人の親切に慣れていない葵にしてみれば居心地が悪かった。

「それじゃ、俺は帰る」
「はい、今日もありがとうございました」
「鍵はすぐ閉めろ。飯もちゃんと食えよ」
「分かってますってば」

玄関の扉を閉めて、相澤の気配が無くなってから鍵を閉める。ガチャン、という冷たい音が何だか寂しく感じた。



初めて少女の下を訪れてから、数ヶ月が経った。漢字や英語、算数などの問題集を短時間で簡単にクリアしていく星月との付き合いも、最初の頃に比べたら少し軟化した。
たまに見る“個性”の練習もやはり完璧なコントロールで、今のところ必要ないと練習をやめた。

学校に通わせる方向で考えていたが、それは早々にやめた。両親共に居ないことや、すぐに問題を解いていく天才的な頭脳など、普通の学生とは掛け離れた少女を周囲が受け入れてくれるかどうか分からない。

「…ヒーローになる気があるかどうかを、今日も聞けなかったな」

あの子を雄英高校に入学させることは、最早決定事項だった。警察や校長、そして雄英教師陣達と相談した結果、星月を雄英で保護する流れになった。あと二年の間に少女の知識レベルを上げなければならない。
なによりも重要なのが、あの子の気持ちだ。ヒーローや警察に対してあまり良い思いを抱いていない彼女が、果たして最高峰を誇るヒーロー育成校に入学してくれるだろうか。






「ひーろー?」

まるで初めて言った科白のように、少女は今告げられた単語を鸚鵡返しで口にした。

「ああ。…まだヒーローを恨んでいるか」

いつもと様子が違う相澤に、どうしてそんな質問をするのだろうと思いながらゆっくりと答えを考える。
恨む、とは少し違う。そもそも世界とは得てして不平等なもので、今の自分がこう・・なのはヒーローのせいでも何でもない。強いて言うなら“運命”だった。ただそれだけだ。

少女は理解していた。この世界で職業として成り立っている“英雄ヒーロー”が、自分の知る“英雄”とは違うのだと。
多種多様な“個性”が存在する中で、今や英雄とは身近な存在へと成り下がってしまっている。けれど葵の知る英雄はそんな価値の低いものではなかった。

手を触れることすら烏滸がましいくらい、貴い存在だった。意見することも、言葉を遮ることも、赦し無く顔を上げることすらも躊躇われるような、それが自分にとっての“英雄”だった。

「恨んだことなんてありません。ヒーローが職業だということを、ちゃんと分かっていますから」
「(職業、か……)」
「ねぇ、相澤さん」

次の科白に言い淀む相澤を待つことなく、葵は言葉を続けた。

「わたしは、ヒーローになる気はありません」
「……だろうな」

先手を打たれ、次にどうやって雄英に誘おうかと悩む相澤。そんな彼の思考など露ほども知らない少女は、「ヒーローになりたいとは少しも思えませんが、」と変わらぬ口調で相澤を見つめる。

「英雄には、なりたいと思います」

――憧れた人がいた。その人は圧倒的な存在感で自分を惹き込み、あっという間に溺れさせた。想えば想うほど息が苦しくて、胸が痛くて。何度も何度も離れようとした。けれどその人はすぐに自分を鎖で絡めとって、逃げられないように雁字搦めに縛りつけた。
あんなにも深く愛した人は、恐らくいないだろう。あんなにも『愛したい』と思った人は、今後現れないだろう。

「その理由を聞いてもいいか?」

問いかけられたそれに、少女は深縹色に色づく髪を一房手に取った。

「憧れている英雄に、少しでも近づきたいんです」

隣にいないからこそ、どんなきっかけでもいい。――貴方を感じていたい。