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『英雄になりたい』
そう告げた少女に、相澤はヒーローとしてではなく一人の高校教師として、やっと勧めることができた。

「雄英高校?」
「トップクラスのヒーロー育成校だ。No.1ヒーローのオールマイトや、No.2のエンデヴァーなんかも雄英出身者…。つまり名だたるヒーロー達を輩出した名門校だ」

詳しい説明をしながら、相澤はパンフレットを広げていく。生憎テレビを観ない葵には、“オールマイト”も“エンデヴァー”も分からないのだが、分かったフリをしてパンフレットを覗き込んだ。
普通科だけでなく、ヒーロー科、サポート科、経営科など、幅広い学科が揃えられている。

「たくさんあるんですね」
「あぁ。それで、お前が受ける科はヒーロー科これだ」

ヒーロー科の枠を示され、そこに視線を定める。

「偏差値79、倍率は300倍だ」
「ななじゅうきゅう……さんびゃくばい…」

桁違いの数字に笑うしかない。そんな葵に相澤は「勉強も今までよりも詰めて行う。チンタラしてたら間に合わねぇからな」と追い討ちをかけた。
大前提に、葵が漢字やら算数やらを見て思い出すことが出来たのは、前世で蓄えた知識のおかげだ。そのレベルよりも上の勉強となると今までのようなやり方では確実に無理だ。
すると相澤は黙り込んでしまった葵に問いかけた。

「諦めるか?」

諦める? 何を? 英雄になることを?

「――冗談じゃない」

深い緋が相澤を射抜く。諦めなんて微塵もない瞳に、彼はニヤリと笑った。


夢現に貴方を求めた



まだ太陽も登りきっていない時間帯に、靴がコンクリートを蹴る音がリズム良く響く。朝焼けと溶け合う深縹色の髪は高い位置で一つに結ばれ、走るリズムと同じように左右に揺れている。

「はぁっ、はっ……はあっ……」

小さな口からは荒い息だけが吐き出され、それ以外の音はない。やがて目的地に着くと、がくりと膝を折ってその場にへたり込んだ。

「っ…〜〜、つかれたあ!」

空を仰ぐと、太陽が少しずつ顔を出している。まるで夕焼けのように茜色に染まっていく世界に見惚れながら、葵は相澤に言われたことを思い出した。

「とにかく、お前は圧倒的に体力が足りない。そんなんじゃあ、入学できたとしても続かんぞ」

そして葵の身体に合った体力トレーニングを組み立て、入学までの残り二年間は毎日これをしろと言ってきたのだ。自分とて体力がないことなんて分かっているし、こうしてトレーニングまで組んでくれたのだ。有り難い、けれど……。

「これはしんどい!」

思わず溢れる本音。
前世と含めて体力をつける機会なんて早々無かったし、そもそも魔術師には体力よりも魔力の方が重要なのだ。幸い魔術回路の本数にも恵まれ、良質な魔力を持つ葵には魔力切れなんて新米魔術師のような事故は起こらなかったが。

「…いざとなったら強化でなんとかしよう」

困ったときの魔術だ。使わなくてどうする。自分にそう言い聞かせながら立ち上がると、漸く走る気になったらしく来た道を引き返した。


家に着く頃にはすっかり太陽は登りきっていて、肌はじんわりと汗をかいていた。まずはその汗を流そうと、纏めていた髪をほどきながら風呂場に直行する。さっさとシャワーを浴びてリビングに戻った後、コップを一つ取り出してテーブルの上に置いた。
コップの真上に手をかざすと、どこからともなく水が出現し、溢れることなくコップの中に収まった。次いでひょいっと指先を下から上に向ければ、コップの中の水は重力に逆らうように天井へ立ち昇る。そのまま指先をくるくると回せば小さな渦潮の完成だ。

「うん、魔術の方は問題なしっと」

むしろ得意な“水”の方でミスをしてしまったらバキバキに心が折れるだろう。

「さーて、勉強するかあ……」

積み重なる問題集に遠い目をしながら、葵は勉強道具を机の上に広げた。





「いらっしゃい、王様」
「うむ。勉学は進んだか?」
「あと数学だけ!」
「苦手な算術を後回しにするなと散々言ったであろうが」
「………王様!」
「ハァ…この我に教師の真似事をさせるとは…。どれ、見せてみよ」
「ふふ、お願いします! その間にわたし、ホットミルクの準備してきますね。今日は蜂蜜どうします?」
「勉学は頭を使う」
「はーい入れときますね」

なんだかんだ言って、勉強を見てくれるあの人の優しさが大好きだった。神父の所からわたしの家に来てくれることはあまり多くはなかったけれど、それでもこうして足を運んでくれること自体わたしにとっては嬉しかった。
『正義の味方になりたい』と、つい最近魔術師になったクラスメイトと戦ったと聞いたときは、驚きすぎて声も出なかったものだ。けれど向こうはわたしが魔術師なことすら知らないから、あまり首を突っ込めなかったのだけれど。

王様は彼のことを気に入らないらしく、わたしが彼の話をするだけで機嫌を悪くするものだから、あまり王様の前で彼の名前を出したことはない。それに王様は、今回の聖杯戦争にあまりわたしを関わらせたくないみたいだから。

「お待たせしました、蜂蜜入りのホットミルクです。あっつあつなので気をつけてくださいね」
「それくらい分かっておるわ。時に葵よ、この落書きは何だ?」
「らく、が………っなんで歴史の教科書なんて開いてるんですか! 数学はどこに!?」
「我はこの落書きは何だと聞いている。よもや暇つぶしに歴史上の人物に髪やら髭やらを描き足しているのではあるまいな?」
「分かってて聞いてるじゃないですか! 怒るなら素直に怒ってください!」
「何故貴様が怒るのだ。それに我は怒っているのではない、純粋に疑問を抱いているだけだ」
「余計達が悪い……! とにかく歴史はもういいから、数学しましょうよ!」

奪うように歴史の教科書を彼の手から取り上げ、数学の教科書を押し付ける。するとくつくつと喉奥で笑う声が聞こえてきたものだから、下からキッと睨みあげた。

「何で笑ってるんですか……」
「いいや? ただそう慌てる姿も見れんからな、良いものを見た」
「そうやってすぐ人を揶揄う……」
「そういう気分なのだ、赦せ」

柔らかく細まる深緋色の瞳に、ついわたしも許してしまう。

けれどわたしは知っている。その瞳が冷酷に、残酷に他人を見つめ、容赦なく命を屠ることを。躊躇いなくわたしの友人を傷つけることを。簡単に命を見捨てることを。
それでも、わたしを映す真っ赤なそれは決してわたしを傷つけることはなく、むしろ真綿に包んで周囲の全てから守ってくれていることも、わたしは知っているから。

「王様」
「何だ」
「……ギル」
「だから何だ」
「ふふ、…呼んでみただけです」
「それほどに余裕があるのならば、この問いは自力で解けるな?」
「え、いや、待ってください、それ何かの応用問題じゃ…」
「我がホットミルクを飲み終わるまでに解き終えておけ」
「おっ…鬼ぃ!」

目を伏せてマグカップに口付ける王様が、あまりにも綺麗に微笑むものだから。わたしはそれ以上何も言えなくてそっと問題に目を落とした。






「――ん……あれ……あいざわさん…?」
「鍵空いてたぞ。しかもこんなところで寝こけるな、風邪引くぞ」
「ふぁ、ぁ……すみません。鍵も閉め忘れてました。今日はどうしたんです?」
「どこまで終わったか見にきた。お前が溜めてた数学はどこまで進んだ?」
「二つ前に持ってきてくれた物は終わりました!」
「……………二つ前?」

長い前髪に隠された目がギラリと光る。葵は慌てて「こっこれもあと少しで終わります!」と付け加え、今し方枕にしていた問題集を見せた。途中式まで書いて寝落ちてしまったらしいが、それでもページ数で言えば半分以上は進んでいる。相澤はそれを認めると「英語は?」と次の科目を訊ねた。

「英語はもう終わってます」
「早いな…数学もそのペースでいってほしいんだがな」
「……つ、次来られる時までには終わらせます……」
「期待しておく。…と、悪い、仕事だ」
「いえ、いつも見に来ていただいてありがとうございます」

どうやらスマホに緊急の連絡が入ったらしく、慌てた様子で立ち上がって玄関へ向かった相澤を見送る。「鍵はちゃんと閉めろ、飯も食え。それとあんな所でもう寝るなよ」と言いたいことをサラッと言うと、葵の返事も聞かぬまま家から飛び出して行った。どうやらプロヒーローというのは中々に多忙の身らしい。

「……なんか、胸がぞわぞわする」

でさえこんなにも頻繁に足を運ぶことは無かったせいか、なんだか胸がくすぐったい気がしたが、すぐに気のせいだと思い直してリビングへ戻った。