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解き終えた問題集が机の端に積み上がり、葵は達成感いっぱいで両腕を天井に伸ばしてグンと伸びをした。ポキポキと鳴る骨の音が心地良い。

「そろそろ相澤さん来ちゃうかな…。お茶の準備だけしておこうっと」

部屋から出てリビングに行き、茶葉と急須を用意する。お湯が沸騰するのを待っていると、ピンポンと室内に軽快な音が鳴った。一応ドアモニターを見ると、これまでに何度も会ったボサボサの頭や無精髭を生やした男――相澤が立っていた。
電気ケトルをそのままにして、玄関まで迎えにいく。「はーい」返事をしながら鍵を開けると、モニターに映っていた男が自分を見下ろした。

「おはよう」
「おはようございます、相澤さん。どうぞ」
「ありがとな」

スリッパを用意したと同時に、電気ケトルがカチッと音を立てた。お湯が沸騰したようだ。相澤をそこに置いてさっさとリビングに戻り、茶葉を入れた急須にお湯を注いで30秒程寝かせると、湯呑みに注いでいく。その頃には相澤もリビングにやってきて、慣れたように椅子に座っていた。

「はい、どうぞ」
「ありがとな。……うん、うまい」
「それ、茶葉変えてみたんですけど…どうでした?」
「ほうじ茶だろ? 美味いよ」
「へへ、よかった」

照れたようにはにかむ葵を、相澤は柔らかい眼差しを向けた。長い年月を経て今のように敬語も少しくだけてきて、やっと心の距離が縮まったように思えた。

「あっ、そうだ! ちょっと待っててくださいね」
「?」

相澤の返事も待たずにリビングから出て行く。深縹色の髪がするりと消えていくのを見送りながら、ふと近くに置いてあったカレンダーが目に入った。何も予定が書き込まれていないが、3日後の日付だけ赤く囲われている。相澤にはそれが何の日かすぐに分かり、ふ、と口元を緩めてもう一度茶を煽った。

「お待たせしました!」
「何だ……って、問題集か。終わったのか?」
「うん、今朝!」

自信満々に頷いた葵を横目に、相澤はパラパラと問題集に目を通す。採点は雄英に持ち帰って行うが、パッと見ただけでも正解の数が多い。

「何とか間に合ったんだな」
「い、いやぁ………あはははは」

本来なら前回の訪問で提出するはずだったのだが、その日では間に合わず結局今日になったことに罪悪感はあるらしい。眉をハの字にして笑う葵に「まぁ、よく頑張ったよ」と一言褒め、茶を飲み干した。

「“個性”の調子は?」
「変わりなく、です」

スッと手のひらをかざすと、そこを中心に水が集まり、たぷんと水の塊が宙に浮きながら揺れる。そのまま人差し指をくるくると回すと、水の塊は小さな渦を巻いてその場にとどまった。

「大気中の水を集める速度も早くなって、変化の種類も増えました」
「そうか…。問題はなさそうだな」
「……わたし、やっていけるでしょうか」

不意に、葵が不安そうな声色で問う。その様子に相澤は無理もないと思いながら、ガシガシと頭を掻いて口を開いた。

「何でそう思う?」
「だって。……学校なんて行ったこともないし、…友達も、できるか分からない」

学校に通うことは、所詮叶わない夢だった。だからこそ、いざその状況になってみればとてつもなく大きな不安が彼女を襲い、足を竦ませる。
ギュッと握られた手に、男は自分より低い位置にある頭にポンと己の手を置いて、そのままゆるゆると撫でてやる。きょとんとしたような表情を見せた少女の緋い瞳を覗き込み、「それは当たり前だ」と語りかけた。

「学校に行けなかったことは俺達大人のせいで、お前のせいじゃない」
「あっ相澤さんのせいじゃないよ! こうなったのは運命で――」
「自分のそれを、運命なんかで片付けるな」

相澤にしては強い口調だった。戸惑いながら彼の瞳を見つめ返す少女は、まるで訳がわからないとでも言いたげだ。

「学校に通うことは義務でもあり、葵に与えられた権利だ。お前はそれを不条理にも奪われたんだよ」
「それは、そうだけど……」
「堂々とした顔で雄英に来い。それに…友達もできるか分からんとか言っていたが、お前が通う学校はどこだ?」
「どこって雄英高校…です」
「何を育成する所だ?」
「もう! さっきから馬鹿にしてるんですか! ヒーローです……って、」

そこまで言わせて、相澤はニヤリと笑った。

「そうだ、ヒーロー科だ。ヒーローを目指す奴らしか居ないのに、友達が出来るかどうかの心配なんてするだけ無駄だ」
「ど、どうして分かるの……?」
「――ヒーロー科は、お人好しの集まりだ」

最後にくしゃりと頭を撫でると、相澤は立ち上がって湯呑みをシンクへ持っていき、それと急須を洗う。「別に洗わなくてもいいっていつも言ってるのに…」「人として最低の礼儀だ」そんな会話をしていると洗い物も終わり、そろそろ帰ろうと鞄に受け取った問題集を入れる。ずっしりと重たくなったそれを肩にかけると、「邪魔したな」と声をかけた。帰る合図だ。

「今日もありがとうございました」
「一応立ち位置としては保護者の役割も兼ねてるんだ。礼を言われるようなことじゃあない」
「それでも、こうして来てくれてわたしは嬉しいです」

緋い瞳を細める少女に笑みを返す。

「それじゃあ、次会う時は雄英だな」
「はいっ!」
「遅刻するなよ」
「相澤さんこそ、朝食をゼリーで済ませないで下さいね」
「…善処するよ」
「ほんとかなあ」

疑わしい眼差しを背中で受けながら、相澤は手を振って玄関の扉を閉めた。
静かになったそこで、葵はスリッパを片付けてリビングに戻り、すっかり冷めてしまった茶をごくりと飲む。ほうじ茶もなかなかに美味しいと思いながら、空っぽになった湯呑みをシンクに置いて自室に行き、机の上を見る。積み重なっていた問題集は無くなり、代わりに高校の教科書類が存在を放っていた。

「…ふふ、教科書だ」

貰ってから何度も読み返したせいで少し折り目がついてしまっているが、まあいいだろう。開きっぱなしのクローゼットには、可愛らしいブレザータイプの制服が綺麗にハンガーに掛けられていた。

「わたしの、制服」

これを着た姿を見せたら、彼は何て言ってくれただろうか。いろんな言葉が頭に浮かぶが、きっと、恐らく、絶対にこう言うだろう。

――ほう、見れぬ姿ではないな。

それが彼なりの『似合う』と同じ意味だと知っているから、少女は嬉しそうに笑うのだ。


貴方の声が私を形成する



3日後――赤丸で囲んでいた当日――。
腰まで伸びた深縹色の髪を靡かせ、スカートをふわりと揺らし、ブレザーを着こなす。この日の為に買っておいた靴を履いて、少女は家から飛び出した。

「行ってきます!」

迷いなく進む先は――雄英高校。
今日は待ちに待った入学式だ。