ロイナール・D・シアン


グランドライン後半の海、新世界にある島――“イルレオーネ”。そこでロイナール・D・シアンは生まれた。
その島は常時幻術がかけられており、海軍や海賊は見つけることすら叶わない、特殊な島だった。

「ぱーぱっ!」
「おお! 聞いたかディオネ! いま、いまパパって!」
「聞いてたわよ、ちゃんと。ふふ、よかったわね」
「まーまぁ!」

一語文まで話せるほどに成長したシアンを、父のヘリオスも母のディオネも優しく見守った。
しかし、その幸せも長くは続かなかった。航海に行っていた船が帰還したのだが、その後ろを尾行されていたのだ――海軍に。おそらく船をまるごと透明化できる能力者でもいたのだろう。

「……ヘリオス」
「……ディオネは、シアンと逃げろ」
「…………」
「君の足なら間に合うはずだ」

あー、うー、と目の前にいる蝶々に手を伸ばすシアンの頭を優しく撫でながら、ヘリオスはディオネにそう言った。

「いやよ」

けれどディオネはその話をつっぱねた。目をつり上げ、夫のヘリオスをキッと睨む。

「わたしも行くわ、ヘリオス」
「だめだ。この子を一人にする気か!」
「いいえ! 一人にはしないわ!」
「どうやって!」

騒音が外から家の中まで聞こえてくる。人々の泣き叫ぶ声が、耳に入り込んで頭を揺らした。

「……ギャバンが、まだいるはずよ」
「……まさか、」
「えぇ。……彼に、託しましょう」


ディオネはそう言って、愛しい娘を抱き上げた。シアンは「う?」と目をぱちぱちさせながらディオネを見つめる。
その一つひとつの仕草が愛しくて、愛しくて。ディオネはシアンを潰さないように優しく抱きしめた。

「シアン、シアン…。覚えていなくてもいいわ、でも…私は、ママはずっとずっとシアンのことを愛しているわ」

すり…、とシアンの頬に自分の頬を寄せて、微笑むディオネ。母のぬくもりに包まれたシアンはきゃっきゃと喜びの声をあげた。

「港にミオネルがいるはずだ。あいつとギャバンにシアンを託そう」
「そうね、急ぎましょう」

建物が崩壊する音が、だんだん激しさを増してきた。ヘリオスとディオネはシアンをぎゅっと抱いて港へと駆け出す。
あんなに綺麗だった街並みは、炎に飲み込まれて人々の泣き叫ぶ声で包まれている。――まるで、悪夢のようだった。

「ミオネル! ギャバン!」

港に着くと、すぐに二人を見つけることができた。呼ばれた二人はヘリオスとディオネを見て、びっくりしたように目を見開く。

「ヘリオス! ディオネ! お前らよく無事で……っ、とにかくはやく乗れ! ここから逃げるぞ!」

ギャバンが小船をいつでも出せるように準備しながら、二人に呼びかけた。けれど二人は頷かず、覚悟を決めたようにその場に突っ立った。

「二人とも……まさか…」

そんな二人の様子に、ミオネルは震える手で自分の口元を隠した。

「だめだ! すぐに逃げるんだ!」
「ミオネル」
「まだ海兵たちは来ない! 火の手も回ってきてない! 逃げるチャンスだ!」
「ミオネル…」
「シアンはどうするんだ!? この子を一人に――」
ミオネル!

ヘリオスがミオネルの肩をつかんだ。ハッとなったミオネルは、ヘリオスの顔を見やり、諦めたように項垂れた。

「……どうしてなんだい…。君たちがそうまでする必要はないだろう…!」
「それでも、おれたちの住む島だ。……逃げたくない」
「こんな海賊の私たちを温かく受け入れてくれた、最高の島よ? 私たちだけが背中を向けて逃げるわけにはいかないでしょう」

炎を背に強い覚悟を瞳に宿すヘリオスとディオネに、ミオネルは「はぁ…、」とため息を吐いた。こうなったら止めても無駄だというのは、長い航海で身にしみてる。でなければ〈ヘリオス海賊団〉副船長という肩書きは務まらない。

「……ぼくも残ろう」
「は?」
「ぼくも残ると言っているんだ。異論は認めない」
「あーら、頼もしい味方が増えたわね……と言いたいところだけど、あなたには別の用事があるのよ」
「別の用事?」

なんだ、と言いたげなミオネルの眼前に、シアンが迫った。ディオネがシアンを突き出したのだ。

「あなたには、ギャバンと一緒にこの子を育てて欲しいの。……あなたたちしか頼めないのよ」

大きな目をぱちくりとさせたシアンは、ミオネルを見て「あーう!」と手を伸ばした。ふりふりと目の前にもみじのような小さな手が、自分に伸ばされている。ミオネルは不覚にも決心が揺らぎそうだった。
なにせ、普段頼みごとなんかしないディオネからの頼みだ。こんなの、断れるわけがなかった。――だが、それでも。

「……ぼくは、ここに残る」

だって、もう決断してしまったのだから。

「ミオネル!」
「おまっ…馬鹿か!? 馬鹿なのか!?」
「ヘリオスには言われたくないね…」

ヘリオスに馬鹿と言われ、ミオネルはヒクヒクと口元を引きつらせた。

「さっき君たちが言っただろう、こんな海賊を受け入れてくれた最高の島に、自分たちだけが背を向けて逃げたくない、と。ぼくだって一緒だ。それに、君たちが逃げないなら余計にね」

そう言ってミオネルは、ギャバンを振り返った。側で話を聞いていたギャバンは、どうしようもない三人にため息を吐き、目元に手を当てた。

「……なんでお前らって……いつもそうなんだよ…」
「ごめんなーギャバン」
「心がこもってねェ! ったく……くそ、おれァこんなことをするためにこの島に来たわけじゃねェぞ」

ハァ、とため息を吐いたギャバンは、ふくふくなシアンの頬を節くれだった指先でつついた。

「う、う、」
「……そういうとこ、ほんと船長と似てるぜ。」
「えェ!? ロジャーに!? それは撤回しろギャバン!」
「光栄なことだと思え!」
――港から声が聞こえるぞ!

ぴたり、とその場の人間が動きを止めた。海軍が来るのも時間の問題。その前にはやく、この島から愛娘シアンを逃がさなければ。
ヘリオスはディオネからシアンを受け取り、高い高いとシアンを空に向かって持ち上げた。「うあーうっ!」と喜びの声をあげるシアンに、ヘリオスの目はゆるりと細まる。

「――いつか、この想い出がシアンに必要となる日まで…これは鍵をかけてしまっておこう」
「ヘリオス……?」
「この島での記憶を、封じておくんだ」
「それは……お前らのこともか?」
「……成長していくにつれて、きっと思い出す。この子はおれとディオネの子だぞ? ……だいじょうぶ、シアンなら…必ず…」

島は赤に染まっているのに、空は皮肉にも青空が広がっている。太陽の光をたっぷりと浴びたシアンのコロコロとした笑い声が、ヘリオスたちを優しく包んだ。

「シアン、おれたちロイナールの一族は、少し特殊なんだ」

いきなり語り始めたヘリオス。しかも、内容は一歳児には到底わかりっこないものだ。

「おい、ヘリオス!」
「まずは刀。こんな日にあげるつもりじゃなかったけど、お前にあげよう。もっとも、その時期はギャバンに任せるけどな!」

ヘリオスは片手でシアンを抱き、もう片方の手のひらを開き、「桜桃ゆすらうめ、」と呼びかけた。たちまち光の粒子を伴って、ヘリオスの手のひらには一振りの刀が握られていた。

「ギャバン、時が来たら…これをシアンに渡して欲しい」
「……りょうかい」

突然現れた刀に目を瞬かせたシアンを見て、ヘリオスは悪戯が成功したように笑った。

「あれはおれが打った刀だ! シアンにぴったりのな!」
「う?」
「かーたーな! 呼び寄せれば、あの刀は必ずシアンの手のひらに戻ってくる」

ロイナール一族の話をすれば長くなるから、これはまたいつか、ギャバンに話してもらうとしよう。
心の中で勝手にギャバン頼みにしたヘリオスは、もうひとつ、と口を開いた。

「いつか、“パパ”を思い出せ。――そのとき、お前は本当の力を思い出すから」

それは、暗示だった。

「ぱぁぱ?」
「うん。……勝手なパパでごめんな」

つらそうに顔を歪めたヘリオス。シアンはそんなヘリオスの髪をぎゅっとつかみ、手加減なしに引っ張った。

「いだだだだ!? ちょ、シアンちゃん痛い!」
「きゃはははっ!」
「笑い声も天使かよ……っいだだだだ!!」

シリアスなムードになりかけたのを見事に吹っ飛ばしたシアンは、次いでディオネに手を伸ばした。だっこ、というように伸ばされた手を、ディオネは抵抗なく受け入れる。

「ままっ!」
「あらあら、シアンは甘えん坊ね」
「あーう?」
「……ねェ、シアン。私は…ママは、あなたと共に行くことを選べない母親だったけれど、どうしようもなくあなたを愛しているのよ」

ぽたりと、涙がシアンの頬に落ちた。

「大好きで大好きで……っ、ほんとに、大好きで……! 離れたくない、側にいたい、死にたくない!」

ミオネルは己の耳を疑った。だって、誰よりも勇猛果敢なディオネが「死にたくない」と口にしたのだから。
そんなの、航海していたときにだって聞いたことなかった台詞だ。

「だけど、この島を放って行く勇気も、私にはないの」

次々と涙が溢れる瞳に、そっと何かが触れる。柔らかくて、暖かい、シアンの手のひらだった。ソッとあてられたそれは、涙でどんどん濡れてしまう。それでもシアンは手を当て続けた。

「まぁま……」

やっと、自分たちを「ママ」「パパ」と呼んでくれた。これから先、いろんなことを教えたかった。
それももう、叶うことはない。

「気高くありなさい、シアン。誰にも屈することなく、己を信じて。そして――大事な仲間をつくりなさい。たくさんじゃなくていい、少なくていいの。あなたが信じられる人を、どうか見つけて」

ディオネは流れる涙をそのままに、優しく優しく微笑んだ。我が子に見せる最後の顔は、できるなら笑顔でありたかった。
ディオネに抱き上げられたシアンの額に、ヘリオスが人差し指と中指をあてる。ヘリオスが何かをつぶやくと、指先にまばゆい光が灯り、やがてそれはシアン全体を包む。

「シアン、」
「シアン、」

優しく呼びかけられ、シアンは眩しさに耐えるように薄く目を開いた。

「「愛してる」」

最後に見た二人の表情は、やっぱり笑顔だった。




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