「にははっ! 冷たいよ!」
パシャン、と魚が跳ねて軽く水しぶきが飛ぶ。冷たい水をかけられたシアンは、笑いながら一人で魚を捕まえようと奮闘していた。
「おーら、もう寝る時間だぞ」
「もーちょっと!」
「ダメだダメだ! ガキは寝る時間ですー」
「えええ! まだおさかなつかまえれてない!」
「捕まりたくねェっつってんぞ」
「…ほんと?」
「おォ。おら、わかったらとっとと寝ろ」
「……はーい」
ギャバンの口車に乗せられたことに気づかず、シアンはしょぼんと肩を落として寝床にもぐる。その腹をギャバンは優しく、一定のリズムでぽん、ぽん、と叩いた。
これは三年間続いている習慣だ。シアンが寝つくまでギャバンはこうしている。
「……シアン」
「んー……なーに…?」
「……おれは、立派に父親やれてるか?」
それは、ギャバンがずっと聞きたかったことだった。ヘリオスとディオネから預かって、三年。もう今年で四年目だ。
頼まれて始めた父親役。最初はそれはもう戸惑った。なにせ自分は海賊上がりで、恋人もいなければもちろん子どもだっていなかった。そんな男がいきなり子育てなど無理だと、ギャバンは自分でも思っていた。なのに――…。
「うんっ! ギャバンはほんとのぱぱみたいだよ!」
満面の笑みで、認めてくれる子がいる。それだけでギャバンは救われた。
まだシアンは、ヘリオスとディオネのことをかけらほども思い出していない。だけど、ギャバンはシアンに最初から「おれは、お前の本当の父親じゃない」と説明していた。
「……そう、か…」
いきなりそんなことを言われても困るだろうに、シアンはすんなりとそれを受け止めた。もしかすると内では葛藤していたのかもしれない。子どもながらにこの子は感情を隠すのが上手かった。
それからだ。シアンが泣き虫になったのは。ギャバンとの間にあった壁がなくなったことで、シアンはより一層彼に甘えるようになり、泣き虫癖がついてしまったのだ。
「シアン」
「もー……なぁに?」
寝ろって言ったのはギャバンなのに、と言いながら眠そうに目をこする。少し冷たい風が二人の間に吹き込み、シアンはくしゅんっ、とくしゃみをした。
ギャバンは薄手のタオルケットをシアンにふわっとかぶせ、愛しそうに頬を指でなぞる。
「いつか、思い出してやれ。父親のこと、母親のこと」
「ギャバン……?」
「お前は、たくさんの人に愛されてる。それだけは何があっても忘れるなよ」
ギャバンが泣きそうに見えたのは、気のせいなのか。シアンは今にも閉じそうな瞼を必死にあけてギャバンの顔を見つめたが、彼は変わらず目を細めている。
その柔らかい眼差しを一身に受けながら、今度こそシアンは眠りについた。
「……あー…、もっと、ずっと一緒にいたかったな……」
震える声が紡ぐ、後悔の言葉。
「……ちくしょ…」
静かな夜に、ひっそりと泣き声が響く。
ぽたり、と頬を伝って流れ落ちたそれは、ギャバンの気持ちを如実に表していた。
・
・
四日後。シャンクスは一人で島に上陸した。ベックマンは、何かあったときのためにすぐに船を出せるように待機している。
「お、早ェな」
「っス。……本当に、今日…?」
「あァ、確かだ」
主語がない会話に、シアンはひとり首をかしげる。しかしそれを問いかけるわけでもなく、シアンはただ花を眺めた。
この四日間の中で、ギャバンはシャンクスに事の全容を話した。それが真実だということは、彼の目を見ればわかる。シャンクスは「ウソだ」と言いたかったが、その言葉をぐっと飲み込んでギャバンの頼みを受け入れた。
「これを渡しておく」
「刀?」
「シアンの刀だ」
「はァ!? あんなちっせェガキに!?」
「ヘリオスが打った刀だ。名前は
ガチャン、とシャンクスの手に無理やり持たされた一振りの刀。鞘には桜桃を象徴する花の彫り込みがされていた。
「っ……、やっぱりギャバンさんも一緒に――」
「それはダメだ。言っただろ、おれはもう十分生きた。子育てだって体験できた。……もう、これ以上ねェくらいの幸せモンだよ、おれァ」
「あいつが悲しんだらどうするんスか!!」
怒気のこもった台詞に、ギャバンが困ったように笑ったときだった。二人の間に潜り込むようにして、シアンが割って入ってきた。
両手を広げ、ギャバンを守るようにシャンクスを睨みつけた。
「ギャバンをいじめないで!」
小さな背中。なのに、ギャバンにはとても大きく見えた。たまらず嬉しくなり、ギャバンは後ろからシアンをぎゅーっと抱きしめる。
あんなに小さかったのに、もうこんなに大きくなった。他の誰でもない、おれが、ここまで育てたんだ。
泣きそうになるのをグッとこらえ、ギャバンはシアンの名前を呼んだ。
「シアン」
「?」
「――ありがとな」
くるり、と振り返り、シアンはギャバンを見上げる。こちらを見下げるその顔は、くしゃりと笑っていた。
「シャンクス」
「……わーったよ」
呼ばれただけなのにそれが合図と知っているシャンクスは、自分に背を向けている少女を後ろから抱き上げ、しっかりとした足取りで船へと向かう。突然抱き上げられたシアンは戸惑い、シャンクスの腕の中で暴れる。
「や、だっ! はなして! っ、ギャバン!」
じわりと浮かぶ涙をそのままに、シアンはギャバンに手を伸ばす。小さな手が一生懸命自分を求めて伸ばされている光景に、ギャバンは思わず足を一歩踏み出した。しかし、二歩目は意識的に止めた。中途半端に上がった腕に、舌打ちする。
「ギャバン! なんでっ…、もうシアンのこと…きらいになっちゃったの…?」
「ッ………っ…」
ちがうと、大きな声で言いたい。嫌いになったことなど一度もないと。
「なんでェ……!」
涙に濡れる声が、こだまする。だんだんと遠のく二人の距離は、さらに大きくなる。
「ひとりにしないでよ!」
より一層大きく響いた言葉に、ギャバンは反射的に口を開いた。
「シアン!!」
もう米粒のように小さくなってしまった、娘に。
「お前はひとりじゃねェ!!」
最期の言葉を。
「おれは、お前をずっと愛してる!!」
血のつながりなどなくとも、ともに過ごした時間は決して消えはしない。
「お前は、おれの自慢の娘だ!!」
だから誇れ。
胸を張って、前に進め。
そしていつか、思い出せ。
「ぎゃ、ば……」
目を見開いたシアン。もうすっかり見えなくなってしまったギャバンの言葉に、今度は静かに涙を流した。
もう、一緒にいられない。幼いながらもそう理解したシアンは、〈レッドフォース号〉に乗り込み島が見えなくなるまで、嗚咽を堪えるように泣いた。
――その数刻後、島が業火に焼かれて焼け野原になったことは、すぐに号外として世に知らされたのだった。
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