もしもし世界

チュンチュン、と雀の鳴く音が部屋の中まで聞こえてきた。こんもりと山のように盛り上がった布団がごそり、と動いたと思えば、またすぐに静かな空間に逆戻り。それから十分後――置き型時計から爆音が鳴り響き、ようやく布団に潜り込んでいた者はのっそりと起き上がった。

「ん、んー…っ……」

だが、起き上がっただけ。爆音を止めて数秒ぼーっとしたかと思えば、まだ温もりが残っている布団へと倒れ、心地好さそうな寝息が聞こえてきた。
スヌーズ機能のない時計はもう鳴らない。次に起きたときはすでに午後に差し迫っている時刻になろうことは、間違い無いのである。

「また君は今日も…!」
「あっはー、ごめんなさい!」

呆れたように目元に手を当てた三番隊副隊長、吉良イヅルは、笑いながらも深々と頭を下げる自身の部下を見下げた。真っ白い髪がさらりと揺れ、小さな背が頭を下げたことによって更に小さく見える――そんな彼女、縹樹真白は寝坊の常習犯だった。
護廷十三隊三番隊平隊員。それが、彼女の肩書きであった。

「君が時間通りに来てくれる日はいつになったらやってくるのかな…」
「うぅん…起きようとは思ってるんですけどねぇ」
「目覚まししてる?」
「それ聞くの何回目ですか? ちゃんと爆音にしてありますよ。だけど…壊れてるのか、鳴ってるのが聴こえないんですよねー」

あんなにけたたましくなっているにも関わらず、「聴こえない」などと平然と言ってのけた真白。しかしこれは本心から言っているから、余計タチが悪い。熟睡中は何の音も聴こえないのは、彼女の特技であり、又悪いところでもあった。おかげで寝坊したのは通算何度目か――否、むしろ時間通りに来た試しなどあっただろうか。
吉良は一つ溜め息を吐くと、仕事をするように促した。規則に厳しい護廷の中で寝坊一つとっても説教一時間コースは確実なのだが、真白の場合は違う。

「よいしょっと…さて、やりますか」

袖をまくり、適度に墨をつけた筆を持つ。午前中だけで書類は山を作っている。その山の一番上から順番に一枚ずつ片付けていくとあら不思議。あんなにあった書類の山は、瞬く間に無くなっていっていくではないか。
――縹樹真白。護廷十三隊三番隊平隊員という肩書きを持つ彼女は、仕事のスピードが他の誰よりも圧倒的に速いのだ。それは書類さばきに限った話ではない。虚討伐でも、彼女は随一の速さを誇っていた。

「…本当、どうして縹樹君みたいな人が平隊員なんだろう…」

上官である吉良は、今やすっかり集中しきってこちらなど見向きもしない真白を見て、呟いた。
真白は吉良が三番隊副隊長になる前から、三番隊の平隊員に所属していた。つまり、この護廷十三隊で働いている年数――死神歴は、圧倒的に真白の方が長い。にも関わらず、彼女が出世をして席官入りしたことは一度もなかった。

「あ、戸隠とがくしさん、おはようございます。これ見てもらえますか?」
「ん、おはよ。っと……おっけー。相変わらず仕事早いなぁ」
「それだけが取り柄ですから」

ヘラっと笑うと、真白はお礼を言って立ち上がる。時刻は午後をまわり、昼食時間も既に過ぎてしまった。

「どこ行く気ー?」
「お散歩でーす」
「はーい行ってらっしゃ……え、さんぽ? ちょちょ! ちょっと待って! 縹樹!」
「じゃあ行ってきまーす」

戸隠は慌てて真白を呼び止めるが、もう彼女は戸を開けて出て行った後。唖然として書類が山のように積み重なっているであろう彼女のデスクを見てみれば、そこには処理済みの書類が山を作っていた。
真白が出勤してきてわずか二時間。本来なら午前という時間をかけて終わらせる仕事を、たったの二時間で終わらせた彼女に、戸隠は溜め息を吐いた。

「…誰が持って行くんだよ、これ」

毎度のことながら、真白は仕事を終わらせるのは早いが、それを各隊に持っていくことはあまりない。
分かりきっていたことだが、それでもあの量を周り切るのは時間がかかる。ヒク、と口角を引きつらせた戸隠は、がくりと項垂れた。

――花が舞う。綺麗な紅色の花が。名前は知らない。だけど、目に焼き付いて離れない花だった。

「ふぁ、ぁぁ…ねーむいな…」

屋根の上で陽の光を浴び、とろりと瞼が重くなる。あれだけ寝たのにまだ寝るかと、吉良が見たら言いそうだ。

「眠いん?」

突然降ってきた男の声に真白は驚かなかった。手の甲で目をこすり、「ねむたいですねぇ」と答える。すると頭に優しく手が触れ、そのままゆるゆると撫でられる。それを甘受して目を閉じたら、男はククッと喉の奥で笑った。

「あんだけ寝といてまだ寝るんか?」
「あんだけでもこんだけでも、眠たいものは眠たいんです」
「百年前はそないなことなかったやん」
「……そうでしたっけ」

相変わらず、意地の悪い男だ。真白は閉じていた目を開けて、未だ自分の頭を撫で続ける男を見上げた。陽の光に照らされた銀髪はこれでもかというほど輝いていて、目は狐のように細い。

「…あなたこそ、早く戻らなくていいんですか? 市丸隊長」
「そない固いこと言わんとってーな」
「吉良副隊長が過労とストレスで胃薬飲んでましたよ」
「イヅルはそんくらいがちょうどえェねん」
「鬼上司」

ケラケラと笑う男――護廷十三隊三番隊隊長、市丸ギンの台詞に、真白は心底吉良に同情した。こんな男の下で働く羽目になって、本当に可哀想だと。そしてかつての自分にも同じように同情する。

「…わたし、なんであのとき頷いちゃったんでしょうかねぇ…」
「ボクの側におりたかったんやろ?」
「どうせなら、」
「どーせなら、あのままあそこにおりたかった?」
「…………」

やっぱり、意地が悪い。
真白の沈黙が痛かったのか、「ごめんって。機嫌なおして?」と優しい声色で言われてしまえば、ふつふつと沸いてきた怒りも治ってしまう。それがわかっていて、この男はたまにああいうことを言うのだから、本当にタチが悪かった。

「てか、真白やってサボってるやん」
「名前で呼ぶのやめてもらっていいですか? それと、サボってません。お散歩という名の休憩です」
「えェやん、減るもんじゃなしに。昔はお互い名前で呼び合ってたやんか」
「昔は昔、今は今です。立場もまったく違うということを理解した方がいいですよ」

なぜ今日に限って、この男はこんなにも昔のことを話に上げてくるのか。真白にしてみればいい迷惑だった。市丸が昔のことを一つ話すたびに、紅色の花弁がふっと目に映る。そこには無いはずなのに、どうしてか真白の目にはいつまでも消えないでいた。

「その様子やと、まだ見えるみたいやねぇ」
「…なんの話かわからないですねぇ」
「ウソ。わかってるくせに」

クスクスと笑う彼の手は、絶えることなく真白の頭を撫で続ける。それが存外心地よくて、真白の意識は今にも深い底に沈みそうになった。

「安心して寝ぇ。ここに紅い花はないから」
「…ん………」

閉じた瞼の上から、手のひらが乗る。市丸の手だ。それはひんやりと冷たくて、自分の手より一回りもふた回りも大きかった。
そんな冷たい手とは裏腹に温かみのある声に促されれば、真白がそれを断る術などない。今にも沈みそうだった意識を、完全に手放したのだった。