雨の泣き声

自室から出て、すぐに逆戻りしたくなった。戸を開ければ外はザーザーと雨が降っていて、なぜか心までもがどんよりと暗くなってくる。陽も見えないため、今がだいたいどのくらいの時間なのかも分からない。

「昼…は超えてないといいなぁ」

願望をぽつりと呟くが、それは激しい雨音ですぐに消えた。少しの間自室の前で突っ立っていた真白は、やがて覚悟したように歩き始めた。音もなく歩く姿は、とても平隊員のそれじゃないが、見ているものはいない。三番隊に近づくにつれて、彼女は少しずつ足音と霊圧を出し始めた。

「おはようございまーす」
「おはよう、縹樹」

入ってすぐに真白を出迎えたのは、三番隊三席の戸隠だった。その手には人がやっと持てるくらいの書類の束がある。きょと、と目を瞬かせた真白は戸隠に無理やりそれを押し付けられ、ついつい受け取ってしまった。ズン、と両腕にのしかかる重量が半端じゃない。

「と、戸隠さん? これは…」
「今日こそは行ってもらうから、書類配達」
「え? い、いやいや、私自分の仕事が…」
「それも、縹樹の仕事」

昨日戸隠に押しつけたことを覚えている真白は、ぐっと言葉に詰まった。なんとか逃れる言い訳を考えるが、それらはすべて戸隠のにっこり笑顔で霧散した。
書類を持つ手に力を込め、諦めたようにがくりと肩を落とした。

「行ってきまーす……」
「はい、行ってらっしゃい」

戸隠の爽やかな声に見送られ、真白は渋々書類配達の旅に出かけるのだった。
平隊員には重要書類のお届けなんて任されることはまずないため、副隊長に手渡しするのが常だ。一番隊から回り、順調に配達は進む。雨音が耳にこびりつくが、それを表情に出すことはない。

「失礼します。三番隊平隊員縹樹真白です。書類を届けに参りました」
「はーい! 入って!」

可愛らしい声が入室を許可する。真白は一瞬躊躇ったが、やがてソッと足を踏み入れた。数人が仕事をしているのを眺めながら声の主を探すと、「ごめんごめん!」とパタパタと慌ててこちらへとやって来た。

「わ、縹樹さん! 久しぶりだね!」
「お久しぶりです、雛森副隊長」

出迎えてくれたのは護廷十三隊五番隊副隊長、雛森桃。副官章を付けた彼女は、急いだせいか少し顔を赤らめて真白の来訪を喜んだ。

「縹樹さんが書類を届けに来てくれるなんて珍しいね」
「三席に無理やり……」
「あはは、そっかそっか! じゃあ預かるね…うん、確かにうちの書類です」
「それでは、私はこれで」
「え!? せ、せっかくだし…お茶でも飲んで行かない?」
「いや、まだ残ってますから」

引き留めてくれた雛森には申し訳ないが、真白は一刻も早く五番隊から出たかった。この空間にはいたくなかったのだ。――無意識に、姿を探してしまうから。

「そっかぁ、残念…。また甘味処行こうね」
「はい、ぜひ!」

甘いものが大好きな真白は、雛森からのお誘いに嬉しそうに頷いた。本来なら副隊長と平隊員とでは雲泥の差があるのだが、何せ真白の死神歴はうんと長い。それこそ雛森よりも長いのだ。いくら万年平隊員の真白でも“古株”なわけで。同じ平隊員でも“新人”と“古株”とでは意味が違ってくる。…もちろん、『まったく出世できない出来損ない』と陰で言われていても、だ。

「それでは、失礼しました」
「はーい! また来てね!」

笑顔で手を振る雛森に、真白は軽く頭を下げてようやく五番隊から離れることができた。やっと遠のく隊舎にホッと安心して、少しだけ足を止めて目を閉じる。壁に肩を預けた彼女の額には、うっすらと汗が滲んでいた。

「…だから書類配達これは嫌いなんだよなぁ…」

誰に言うでもなくひとりごちると、真白は再び歩き始めた。もう一息、と書類を抱える腕に力を入れ、雨のせいで広がる髪の毛を紐で纏めれば良かったと、今更ながらに思いながら。

「失礼します、三番隊平隊員の縹樹真白です。書類を届けに来ました」
「おー、入っていいぞ」
「失礼します」

六番隊隊舎は、静かな空気で満ちていた。流石は四大貴族である朽木白哉隊長を務める隊。
真白は六番隊の書類を確認して、副隊長である阿散井に話しかけた。

「すみません、朽木隊長はいらっしゃいますか?」
「隊長宛か?」
「はい」
「なら、隊主室にいるはずだ」
「ありがとうございます!」

深く頭を下げると、束ねていない白い髪がパラパラと重力のせいで下に流れ落ちる。阿散井はほんの少しドキッとしたが、すぐに頭をブンブン振って「ほら、はやく行け」と真白を隊主室に追いやった。
六番隊に入るとき同様、トントン、とノックをして名前を告げると「入れ」と入室を許可する声が聞こえてきた。真白は短く深呼吸すると、「失礼します」と一言添えてから戸を開けた。

「こちらが書類です。すぐに確認をお願い致します」
「……あぁ、確かに預かる」
「では、失礼致しました」
「待て」

ピンと糸のような、張り詰めた空気が流れる。さっさとここから出ようと思っていた真白は、内心文句たらたらなのを隠すように「なんでしょう?」と問いかけた。

「これを持っていけ」
「これ…って…」

渡されたのは小さな包み。きゅっと閉じられているところをゆっくりと開けて中を見てみれば、そこには色とりどりの金平糖が姿を現した。どことなくキラキラと輝いて見えるそれに真白の目も同じように輝き、喜びで顔が綻ぶ。しかし、ここには白哉もいる。ハッとなって顔を引き締めたがもう遅い。ばっちりと白哉は見ていた。

「こ、これは、な、なんでしょうか…」
「わからぬか? 金平糖だ」
「(知ってるよ!! 私が聞いてるのは『なんで私に』って意味だよ!!)は、はぁ…」

これ以上尋ねても同じことの繰り返しだと、真白は気の抜けた返事で誤魔化した。

「毎年、贈っていただろう」
「あ……」

そうか、今日だ。
彼らがいなくなって、百一年目。百一年前の今日、彼らは真白を残していなくなった。
その次の年から、白哉は毎年金平糖を彼女に贈っていたのだ。

「…もう、百一年ですよ…」
「兄の敬語も、百一年目だ」
「あはは、すっかり板についちゃいましたねぇ」

カラカラと笑う真白をジッと見つめていた白哉だが、すぐにまた書類に目を落とした。そんな彼の優しさに真白は、金平糖を大事に懐にしまってぺこりと頭を下げた。
分かりづらい優しさが、ほんの少しでも彼の妹に届けばいいのに。――なんて思ってみたところで、彼がそれを望まないのだから、どうすることもできない。

「では、ありがたくいただきますねぇ」
「あぁ、体調には気をつけよ」
「ふふっ、ご心配ありがとうございます」

柔らかく笑んだそれは、彼女の本当のものだった。毎年金平糖を贈ると、彼女は作っていない、自然体で笑う。それが見たくて、白哉は毎年忘れずに贈っているのだ。
タン、と戸が閉まり、また静寂が戻る。しかし中の空気は柔らかいものに変わっていたのだった。その後も順調に進み、ようやく十番隊へとやって来た。

「失礼します、三番隊平隊員の縹樹真白です。書類を届けに参りました」

はやく昼寝がしたい願望からか、どことなく口早になってしまっているのは否めないが、もう真白は疲れていた。何回も何回も同じ台詞を口にしていれば、疲れもしらずうちに溜まってくる。だからいつも戸隠に押し付けているのにと、真白は十番隊隊舎に入りながらぶつくさと心の中で文句を呟いた。

「あれ、日番谷隊長」
「あぁ…お前か。珍しいな」
「あははー……」
「ハァ……サボりもほどほどにしろよ。うちの松本もだがな……」

眉間の皺をほぐすようにグリグリと揉んだ日番谷は、「ん」と手を差し出した。すぐにその意図を汲み取った真白は、枚数を確認してその上に書類を置く。結構な量にも関わらず平気な顔をしている日番谷に、流石隊長だ、とうんうん頷いた。

「それでは、失礼致します」
「また松本を見たら、仕事をしろと言っておいてくれ」
「はい」

だいぶお疲れ気味の日番谷に最後まで苦笑した真白は、今度からはもう少し仕事をしようと思ったが、朝の寝坊だけは治らないだろうなと肩を落とした。寝坊したくてしてるわけではない。起きられない原因を知っているだけに、遣る瀬無い。

「ん、んー…あー、肩凝った」

軽くなってきた書類を片手で持ち、もう片方の肩をぐりんぐりんと回す。こんなことでほぐれるわけがないのだが、気休めにはなるだろう。
その後、十三番隊まできっちり回りきった真白は、そのまま三番隊には戻らずにある場所へと赴いた。
――パシャン、と雨を蹴る音が小さく鳴る。ぐっしょりと髪が濡れて死覇装も絞れるくらい雨が染み込んでしまった。だが、真白は目的地に着いてからもその雨を凌ごうとは思わなかった。たとえどれだけ濡れてしまっても。

「……百一年、経ったよ」

ザァザァ。真白の呟きを掻き消すように、雨は激しさを増す。
一面野原のそこに花は咲いていないはずなのに、真白の目には紅い紅い花が舞っては落ち、舞っては落ちを繰り返している。それは嫌になるくらい、ずっと真白の視界を埋め尽くしていた。

「あかんで、真白」

後ろから声が聞こえたと思ったら、強引に腕を引かれて大きな手が真白の目を覆う。雨に長時間打たれたせいでひんやりと冷え切った体は、彼の手の冷たささえ分からなくさせた。

「…市丸、隊長……」
「せっかく忘れとったと思ったのに…なして思い出したん?」
「…金平糖を、いただいて…」
「金平糖…? あァ、白哉君かいな。あん人も余計なことしよる…」

昨日会ったとき、真白はすっかりこの日を忘れていた。だから市丸は安心してこの日を過ごせると思ったのに、まさか白哉が思い出させるような真似をするとは予想外だった。いや、少し考えれば分かっていたことだ。彼は毎年真白に金平糖を贈っている。どうして自分は、それが今年もあると思わなかったのだろうか。

「風邪、引いてまうで」
「…馬鹿は風邪を引かないらしいので」
「それちゃうで。馬鹿は風邪を引かへんのとちごて、風邪を引いとることすら分からへんねん」

そんな意味だったのか。真白は内心納得しながらも、動こうとはしなかった。
ザァザァ、ザァザァ。空が、雨が、泣いている。

「……ほんま、泣かへんねんから」
「…代わりに、雨が、泣いてくれてるので」
「敬語も似合ってへんかったんに、…すっかり似合うようになってもたなァ」
「敬語に似合う似合わないはないですよ。私は平隊員なんですから、ほとんどの人には使わなければならないんです」
「(…名前も、呼んでくれんくなった)」

市丸は一瞬だけ笑みを消し、またニィ、と口を釣り上げた。こんな感情、あるだけ無駄だ。心の奥底に眠るそれをひた隠しするように、彼は笑顔の仮面をべったりと貼り付けた。

「ほな、一緒に帰ろか」
「…はぁい」
「なんや、えらい素直やなァ」
「日番谷隊長を久しぶりに見たら、吉良副隊長のこと思い出したので。そろそろ真面目に仕事をしようかと」
「日番谷君? あァ、書類回り行ったんか。また珍しいことしよったなァ」
「珍しいって……まぁ、戸隠さんに…むりやり……」

ごにょごにょと言い訳がましく言葉を紡ぐ姿は、もう悲しげではなくて。肩の力が少し抜けた市丸は、真白の肩を抱くと瞬歩で隊舎まで戻る。中に入るとおサボり組の二人が揃ってずぶ濡れで帰って来たことに驚くとともに、慌てて戸隠がタオルを持ってきた。

「どっ、どうしたんですか!?」
「雨遊びしとってん。一人じゃ寂しかったから、縹樹チャンも一緒になァ」
「雨に打たれるだけの遊びですよ! 今度戸隠さんも一緒にどうです?」
「遠慮しておく……っほら! はやく拭いて! 市丸隊長は早く吉良副隊長の所へ行ってください!」
「えー、もうちょっとくらいえェやん! ボクかてのんびりしたいわぁ」
「今までのんびりしてたのは何処の誰ですか?」
「そりゃあボク…………イヅル…」
「仕事は溜まりに溜まってますよ! 早くこちらへ!」
「イタタタッ! イヅル! 首! 首!!」

「縹樹チャン! 助けて!」と手を伸ばして叫ぶ市丸に頭を下げるだけにとどめた真白は、わしゃわしゃと無造作に頭を拭いてふぅ、と息を吐いた。ぶるっと震える身体を無視して、今度は一度隊舎の外に出てぎゅーっと死覇装を捻る。ぼたぼたと水滴が落ちていき、皺を伸ばして水分がなくなったことを確認して、また中に戻った。
すると、またもや戸隠がにっこり笑顔で待ち構えていたではないか。なんだか今朝(正確にはお昼を過ぎていた)を思い出す光景に、周りの者は固唾を飲んで見守る。真白も今度はどんな仕事を押し付けられるのかと思いながら「戸隠さん……?」と、彼を伺うように愛想笑いを浮かべた。

「縹樹、今日はもう帰れ」
「………は?」
「吉良副隊長から許可は頂いてる。そんなびしょ濡れじゃあ風邪も引くだろ。今日は帰ってしっかり温まって、明日は時間通りに出勤しな」
「…え、いや、え?」
「んじゃ、お疲れさん」
「縹樹ー! お疲れー!」
「書類回り助かったよ! お疲れさま!」

三番隊から次々と「お疲れ」の挨拶が真白に当てられる。当の本人は放心状態で、戸が閉まったことにすら気づかなかった。

「……なんなんだ、いったい…」

まぁ、帰っていいならいっかと、楽観的に考えた真白は「くしゅんっ」とくしゃみをしながら自室に向かう。相変わらず外は大雨で、真白の心も同じような天気だった。

「…しょうがないじゃん。外が雨なんだもん」

唐突にそう言うと、腰に下げてる斬魄刀がカタリ、と動いたような気がしたが、誰かがそれを見ているわけもなく。
自室に着いた彼女がお風呂に入った後、真っ暗な部屋の中でカリリッと金平糖を食べていることなんて、知っている人などごく僅かだった。