「でもまずは、今日しかないご馳走を食べに行かな、い、と――」
強烈な異臭がトイレ内に立ち込め、フィーは咄嗟に鼻を手で覆う。ハーマイオニーも同じ行動を取るのを横目に、嫌な予感がしてゆっくりと振り返った。そこにはトイレに、否――ホグワーツに居るはずのない怪物・トロールが此方を見下していた。
トロールのギョロリとした目がフィーとハーマイオニーを捉える。その意味を考えるよりも先に怪物の持つ棍棒が振り下ろされた。
「ハーマイオニー!」
「えっ………キャアアアーーーッ!」
魔法を使う暇すらなく、フィーは甲高い悲鳴を上げて固まるハーマイオニーに覆い被さった。けれど完全に避けきれず「あ゛、っ――――ッ!」と痛みを押し殺したような声が漏れた。「フィー!?」と自分を心配する声が聞こえた気がしたが、今にも痛みで意識が飛びそうなフィーはそれに応えられず、けれどハーマイオニーの上から退こうとはしなかった。
「(いたい、背中が、焼けるようにっ………)」
肉が抉れているのか、服が擦れただけで相当な痛みが襲ってくる。痛みで気を失いそうになっているのに、痛みで意識を繋ぎ止めているなんて皮肉な話だ。
「フィー、フィーっ……」
「…だいじょうぶ、」
杖ホルダーから杖を取り出し、ハーマイオニーの腕を引っ張って再び迫り来る棍棒を避ける。さっきまで居た個室トイレは粉々に破壊され、水道からは水が噴き出した。鈍い音を立てながら距離を縮めてくるトロールを睨みながら、ハーマイオニーを後ろに庇う。
「だいじょうぶだよ、ハーマイオニー」
「でもっ、こっ…こんな、っひどい怪我を!」
「だぁいじょうぶ。…っ、こんなの、いたくないから」
彼女に言い聞かせるように『だいじょうぶ』と言い続けると、力の入らない手で杖をなんとか握り締めて杖先をトロールに向けた。
「
空中に浮かせていた瓦礫をトロールの頭に落下させる。くらりと目を回した怪物だが、ブルブルと頭を振ると更に怒りを滲ませて棍棒を振り上げてきた。絶体絶命のピンチ、このまま自分の正体がバレるかもしれないと驕っている場合ではない。フィーがそんな覚悟を決めた時だった。
「こっちに引きつけろ!」
幼い少年の声が破壊されたトイレに響く。見ればハリー・ポッターとロン・ウィーズリーが杖を持って此方に駆けつけていた。果敢とも、無謀とも取れる彼らの行動に、感情のままに怒鳴ってしまいそうになるフィーを置いて、ハリーとロンは落ちている蛇口を拾っては投げるという行為を繰り返した。
そんな蝿のような攻撃にだんだん苛立ってきたトロールは、標的をフィーとハーマイオニーからハリーとロンに変更した。大きい図体を振り返らせ、未だ蛇口を投げつけてくる少年二人に狙いを向ける。
「やーい、ウスノロ!」
ロンの精一杯の強がりだということは、すぐに理解できた。彼は投げる物を蛇口から金属パイプに変え、さらに注意を自分達に引きつける。その隙にハーマイオニーを立たせて、壁際に追いやり、彼女の前に立つように背中で隠した。
「あぁ! やっぱりフィー、貴女、ひどい怪我を……!」
「だいじょうぶ。こんなのマダム・ポンフリーにみせたら、すぐに治してくれるよ」
少し舌ったらずになってしまったが、まだ意識はある。握ったままの杖を構え、フィーは完全に自分に背を向けているトロールを見上げた。
「イン
現れたロープがしゅるりとトロールに巻きつき、その巨体を締め付ける。対人間ならばもう窒息していてもおかしくはないのだが、相手は怪物。並大抵の力では敵わない。
そんなトロールの姿に呆然と立ち尽くつロンを見つけ、フィーは噛みつくように怒鳴った。
「ロン! 何をしているの! 蛇口ばかり投げてないで魔法を使いなさい! 君は魔法使いでしょう!」
普段と口調の違うフィーにびくりと怯えるロンだが、その気迫に驚いている暇はない。慌てて杖を手に持って、思いついた呪文を唱えた。
「ウィンガー
突然、トロールの持っていた棍棒がスルッと手から抜け出し、空中に浮く。持ち主は何もなくなった手を見てキョロキョロと周囲を見渡した後、ゆっくりと上を見た。その瞬間、浮いていた棍棒が真っ逆さまに降ってきて鈍い音を立てながら、トロールの頭に命中した。すると怪物は目を回し、ズゥゥン…と低い音と共に倒れた。
「これ、死んだの?」
「いや、ノックアウトされただけだと思う」
「それ以上近づいちゃダメ。下がって、先生を呼ぼう…」
いつの間にかハリーが自分の杖をトロールの鼻に挿していたらしく、彼はゆっくりと杖を抜いていた。何か粘ついたものが付着しているのを横目に(すぐに目をそらした)、先生を呼ぶために立ち上がろうとするフィー。けれど背中の傷を今思い出したらしく、中途半端な体勢になってしまった。
ずっとフィーの後ろにいたハーマイオニーが「すっすぐに医務室に行かなきゃ!」と声を上げたところで、遠くから足音が聞こえてきた。四人で顔を見合わせると、バンッと勢いよくトイレの扉が開いた。
「いったい全体、あなた方はどういうつもりなんですか」
声を震わせたのはマクゴナガルだ。彼女に続いてスネイプとクィリナス・クィレルも入ってくるが、クィレルは倒れたトロールを見ると情けない声を出して腰を抜かしてしまった。
「殺されなかったのは運が良かった。寮にいるべきあなた方が、どうしてここにいるんですか?」
最もな問いに素直に答えられるはずもなく、しかもハリーに至ってはスネイプに睨まれているのだ。その威圧に彼がいつまで耐えられるか――。フィーがどう誤魔化そうかと考えた時だった。
「マクゴナガル先生、聞いて下さい。――三人とも私を探しに来たんです」
「ミス・グレンジャー!」
入学してから問題を起こしたことのなかったハーマイオニーが名乗りをあげるとは思わなかったマクゴナガルは、悲鳴にも似た声で名前を呼んだ。ハーマイオニーはそのままゆっくりと立ち上がり、フィーの背中から出てくる。その手は血のせいで真っ赤に染まっていて、目に見える程に震えていた。
「私がトロールを探しに来たんです。私……私、一人でやっつけられると思いました――あの、本で読んで、トロールについてはいろんなことを知っていたので」
スラスラと嘘をつく友人に、フィーは咄嗟に顔を見上げた。気丈に振る舞ってはいるが、その表情は固い。“規則”を何よりも重んじているハーマイオニーにとって、これはとんでもない行為だった。
彼女の覚悟に水を差すわけにもいかず、フィーは見上げていた顔をゆっくりとうつむかせて目を閉じた。安心したらアドレナリンが切れたのか、背中の傷の痛みが酷い。吐く息も荒く、冷や汗が次から次へと流れ落ちる。
結果的にマクゴナガルは、ハーマイオニー一人の責任とし、彼女から5点を減点した。そしてこの場にいるフィー、ロン、ハリーの三人にはそれぞれ5点を与えたのだった。
「では、私はダンブルドア先生に報告しておきます。帰ってよろし――」
「待ってください!」
やっと話が終わる、と意識が沈みそうになる中ホッとしたのも束の間、ハーマイオニーは去ろうとするマクゴナガルを引き止めた。ハリーやロンも首を傾げてハーマイオニーに声を掛けるが、彼女には聞こえていないのか、突然ぶわりと涙を流した。
「どっどうしたの!?」
「どっか痛いところでもあるのか!?」
慌ててハーマイオニーに駆け寄る二人に、ハーマイオニーは「わ、わたしじゃなくて…!」と崩れ落ちそうになる。
「フィーが、フィーがっ……トロールから私を守って、背中に大怪我を負ってるの! ずっと血が止まらなくて、私、どっどうしたらいいか……!」
ハーマイオニーが言い終わる前に真っ先に動いたのはスネイプだ。彼はフィーからハーマイオニーを強引に引き剥がし、座り込んで俯く彼女に手を伸ばす。
そっと背中に触れてみると、その手はすぐに赤く染まった。ローブも中のシャツも裂け、ぐっしょりと血で濡れている。裂けた布地を刺激を与えないようにめくってみれば、肉が抉れ、爛れていた。
「ああ、ディオネル! どうしてそんな怪我を……!」
「……、だい、じょうぶ……です。…ハァ……みため、ほど…いた、く、ない…ので………」
「我輩が医務室に連れて行きます」
「えぇ、よろしくお願いしますね、セブルス……」
優しくスネイプに抱きかかえられ、フィーは微かに顔を上げる。汗で張り付いた前髪が邪魔だと思うと、スネイプがその大きな手で払ってくれた。おかげでマクゴナガルの顔がよく見える。眉を八の字にして、見るからに青い顔の彼女に向かってにこりと笑った。
トイレから出ると、トロールの臭いが離れていく。スネイプの胸元に顔を埋めれば、いろんな薬が混じった香りがふわりと鼻孔をくすぐり、肩の力が自然と抜ける。彼が患部を触らないように抱き上げてくれたおかげで、今まで以上の痛みは無く、無事に医務室に着いた。
「あら、スネイプ先生。いったいどうしたの――って、フィー?」
「ポンフリー、彼女を頼む。トロールの攻撃をまともに受けたらしい」
「トロール!? どうしてトロールに……って今はそれどころじゃないわね。患部はどこ?」
「背中だ。肉が抉れている……恐らく棍棒か何かだろう」
「凄い血ね……。貴女程の魔女がどうしてって言いたいけれど、先に治療をしましょう。ちょうどハナハッカのエキスがあるわ」
忙しく医務室内を走り回るマダム・ポンフリーをぼんやりと見つめる。するとスネイプが手のひらで目を覆ってきた。
「せぶ…………?」
「眠っておけ。恐らく熱も上がるだろう。……今は、ゆっくり休め」
なんて、優しい声。遠のく意識の中、フィーは縋るように手を伸ばした。
翌日、見事回復したフィーは念の為に一日の入院を余儀なくされた。見舞いに来たハリー、ロン、ハーマイオニーの三人揃った姿を見てすぐに仲直りしたことを察し、深い青色の瞳に優しい光が灯った。
ホグワーツに帰ってきて最初の一年目のハロウィンは、こうして幕を閉じたのだった。
「こんなにハラハラしたハロウィン、ジェームズ達ならもっと楽しんでいたかしら」
きっと、いや絶対にいろんな意味で楽しんでいただろう。容易に想像できる彼らの姿に、フィーは医務室のベッドの上でくすくすと偲ぶように笑った。
――その台詞が音となり、