夜風が草をざわつかせていく。夜目が利かない太刀諸君は「九十九話目」と小さく呟きを漏らす女の表情を確認することができないでいた。打刀はすまし顔、脇差四振はどこ吹く風、短刀もそれぞれ慕う者の脇に控えている。堀川国広は隣でガタガタ震える相棒に苦笑しつつ、そのすらりと細く長い腕を真上にあげた。
「国広が話してくれるの?」
「はい。他に話したい人がいないのなら」
 青年は海よりも深い青をした双眸で部屋の中を見渡す。誰も彼も黙ったままだった。深呼吸を一つ、二つ。言葉を発そうとした瞬間に和泉守が「まじかよ国広……!」と出鼻を華々しく折ってくれたものだから、堀川は自身の唇に人差し指をくっつけると「しーっ、兼さん」注意した。それから冷や汗をかきながら審神者を見やる。
「主さんに怒られちゃうから、ね」
 いやあ、まあ、アレが本当に主さんだったらいいんだけど。

第九十九話目 堀川国広「ゲシュタルト崩壊」

 うちの本丸にも姿見の大きな鏡があるでしょう。そう、そうです。燭台切さんがよく身だしなみを整えるために見ているあれ。ある日あの鏡を見ている時に思い出したんです、主さんが前に貸してくれた本を。主さんが生まれるもっと前の時代の戦争中に、ある国が行った実験。鏡に映った自分を見ながら「お前は誰だ」という簡単なもの。ははは……兼さんそう怯えないでよ、お化け類の話ではないから。え? 元々怖がってないって? うんじゃあ続けるよ。とにかくそれを続けていると奇妙な感覚というか、不安な気持ちに陥るんだってさ。そうすることにより変化していく精神の観察記録をしていったそうです。なかなか興味深いでしょう。実験によると十日経過したころに異変がみられたそうで、判断力が鈍ったり物事が正確に把握できなくなったり。三月経った頃には自我が崩壊して自分が誰だかわからなくなり、狂ってしまうんです。そんな簡単な事で……そう思いますよね。僕も勿論そう考えたんです、だから試してみようという気分になってしまった。新撰組のみんなが寝静まったのを確認してから、閉めきった暗い部屋で……ああ、雰囲気が出るかなって、そんな思い付き。姿見に映る自分に向って「お前は誰だ」って早速言い始めてみたんですよ。妙に気分が高揚していたのを覚えています、だのにすぐに気分が悪くなって、吐き気を催しました。暫くはその体調不良に耐えてやっていたんですけど、二十分も経たないうちにいよいよ立っていられなくなってその晩の実験は断念しました。
 翌日、翌々日……一週間二週間経った頃僕は自分の身体の異変に気づいたんです。長らく第一部隊を任されていたでしょう、その時妙に怪我をしてくる時期、ありませんでしたか。そう、その頃です。歩いていても座っていても、戦っていても休んでいても後頭部がじんじんして意識がぼんやりするんです。アハハ……すみません、長谷部さん。そんなに怒らないで下さいよ。一ヶ月過ぎた時に、思わず内番で畑仕事が一緒だった加州くんに聞いちゃったんです「僕の名前って、堀川国広だったよね?」なんて。今にも泣きそうな声だったらしい。何故最初気分が悪くなったところでやめなかったのかって聞かれると、鏡の中の自分に話しかけていると不思議にだんだんと気持ち良くなっていったから。自己陶酔しているわけじゃないですよ。かっこよくて強いのは兼さんですから。うん、まあ、とにかく自分が自分じゃなくなっていく感覚っていうんですかね、それが心地よかったわけです。それを端折って説明すると、加州くんは顔面の筋肉を引きつらせながら「もうやめときなよ」って注意してくれました。
 それからは意図的にやるなんて馬鹿なことはなくなったんですけど……どうしても朝身だしなみを整えたりする時には、鏡を見るじゃないですか。姿見じゃなくても、あの洗面台の三面鏡とか。時折止められなくって口をついて出ちゃうんですよね「お前は誰だ」。そう、ずらーっと並ぶ僕たちに向かって。ところで……聞きたいことがひとつだけあるんです。
「僕ってぼくだよね?」
 ……ははは、うん、大丈夫だよ。嘘、うそだって。大丈夫、大丈夫……わかってるよ。

(出典:洒落怖「ゲシュタルト崩壊」より)

mae tugi 9 / 10
aeka