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「おはようございまーす、お嬢〜。昨日のことカミーユ先輩から聞きましたぜ、タイヘンでしたね〜。まーた昨晩もヤケ酒したんでしょ、ダメですよぉ、本当にアル中なんだから…………えっ?」
「あ。お、おはよ、ルーイ」


イヴを起こすため訪問してきたルードヴィッヒは文字通り固まった。その視線の先はここにはいないなずのイルミと、そしてイヴの右手の見慣れない指輪。穴があきそうなほど一点集中したルードヴィッヒの視線にイヴはたじろいだ。


「えっ、え?ええっと、え、えええ、なに、お嬢、何ですかい、それは」
「な、何のこと?」
「すっとぼけないで!ちょっと、それですよそれ、その、えーと指輪!なにそれ、しかも薬指に!」
「これは、その、お、お洒落だよ」
「アクセサリーにも光り物にも興味ないくせに!ていうか薬指に指輪する意味わかってるくせに!まさか!はあああああ!?」
「ルーイ、落ち着いて」


ルーイは私の右手を乱暴に取り、薬指を引きちぎりそうな勢いで、そこにある指輪を睨むように凝視した。こ、怖い。


「ブルーダイヤじゃないですか。クソ高いですぜこれ。しかもデカいし。まさか、まさかね……お洒落ですよね!たまたま薬指にしてたのは間違えちゃったんですよね。ヤダなあ、お嬢、中指か小指か知らないけど他の指に付けたかったのに薬指にしちゃうなんて抜けた一面もあるんですね〜!」
「いや、その。薬指であってる」
「っなんで!!じゃあこうだ、きっとお嬢、ご自分の貯金をはたいてご購入されたんですね!そんな無理されなくても欲しかったなら俺達下僕がご用意したのに!いじらしい方だお嬢、だから違いますよね、まさか贈られたものじゃありませんよね!ねっ!」
「いや、その。イルミから、貰いました」
「あああああああああ!!」


綺麗な金髪なのにハゲそうなほど頭を掻きむしるルーイ。
なんだか申し訳なくなってきたところで、ルーイをガン無視決め込んで週刊紙を読んでいたイルミがようやく溜め息を吐き口を開いた。


「ルードヴィッヒ、五月蝿い」
「旦那……アンタ、一体お嬢にどんな脅迫をした」
「脅迫?心外だな。イヴが選んだんだよ、俺を。それをとやかく言う資格が下僕のお前にあるの?ルードヴィッヒ」
「お嬢がアンタにほだされたと?」
「イヴ、ちゃんと言っておけば。お洒落なんて言って誤魔化すと、俺も怒るよ」


イルミは余裕こそあるものの私が指輪をお洒落と称してしまったことに多少の苛立ちがあるようだった。対してルーイは青筋を浮かべてイルミに掴みかかりそうなほど睨みを利かせている。無用な闘いはあってはならない、ましてや私のせいで争うなんて。ちゃんと説明はしなければと確かに思った。


「ルーイ、怒るならイルミじゃなくて私に。まずはその、お、お付き合いを、することにしたの。その先はわからないけど、でも私が決めた」
「きょ、脅迫されたんじゃ?もしくは何か、人質に取られてるとか?金持ちが金に物言わせて生娘を買うみたいな、お嬢を買収したとか?」


イルミに対してどんな偏見持ってるんだ。
違うよ、と首を振ると、ルーイは「はあああ〜……」と大きな溜め息を吐いて床に伏せった。これまでイルミとの進展を嫌だ嫌だと言っていたのに、一転心変わりした私に、落胆させてしまった。ルーイから恨み辛みでもあるかと、彼に駆け寄り謝ろうとすると、伏せったルーイからは別の言葉が出てきた。


「それなら良かった。お嬢。貴女が決めたのならいいんです」
「怒らないの?」
「怒る?何故?」


顔を上げたルーイの青い瞳には、どうして俺が怒るんだ、ときょとんとした疑問が浮かんでいた。


「まあね、そりゃあ俺のお嬢が、気に食わない誰かさんのカノジョだなんて嫌ですけど」
「相談もせずにごめん」
「俺はお嬢の意志に遵うまで。貴女がそう決めたのなら、それがすべてですから。誰にも障らせないと誓いますよ」
「……なら、ルーイ、どうか見守ってて。私がそうあれるように」


ルードヴィッヒ=デルフェンディアという、一人の青年であり従事であり武官であり下僕の、彼の忠誠。私はなんだか感動してこの仔犬のような彼を抱き締めた。「ああ、お嬢」と、ルーイも抱擁を受け入れ、同様に私の背中に腕を回す。私の我儘を許してくれる彼が、とても尊く感じた。


ルードヴィッヒがそんなイヴを抱いた肩越しにニヤリと笑いイルミに挑発をしていたことを、彼女は知る由もなかった。



「…………ちょっと。イヴ、早くそんなハイエナみたいな奴から離れなよ」


苛立つイルミがそんな私とルーイを引き離した。


「イルミ、ハイエナってなんて酷い。私とルーイが純粋な主従関係の愛と忠誠を分かち合っているっていうのに」
「純粋?そうかな。そいつイヴに舌舐めずりしてたけど?」
「はあ?まったくもう、何言ってるのほんと。ルーイはそんなことしません。ねー?ルーイ」
「そうですよ。ねー?お嬢〜」
「ほんと腹立つんだけどこいつら」








一通りを終えたところで、ルーイは改めて一連のことを聞いてくれた。イルミの歪んだ愛の科白の内容はまあ置いといて、まずはお付き合いからしてみるということ。どうしても受け取ってしまった指輪は母の遺品であること。嫌になったらいつでも別れることが可能であること。まあそれには少々の代償があるかもしれないということはまた黙っておいた。

ルーイは頬杖をつきながら、目を白黒させ、「なるほどねぇ、そうなっちゃいましたか」と眉を寄せながらも納得したようであった。イルミも傍で雑誌を読みながら耳を立てて聞いていたと思うが、特に私のルーイへの説明に間違ったことも無いので彼は特に何か言うこともなく黙っていた。


「まあ、なので、とりあえず生暖かい目で見守っていただければ」
「よろしいと思いますけどね俺は」
「そ、そうかな?色んな人に怒られそうで私怖いんだけど」
「若い二人の恋路を邪魔する奴はこのルーイが成敗してやります、任せてくださいよ」
「さすがルーイ。じゃあお願い、父を成敗して」
「あっ、それは無理」


あっさり断られた。無理かよ。
ルーイはぶるりと体を震わせた。まあ父はルーイの師だから、その真の恐ろしさを知っている。勝てる気はしないんだろうし、一生頭が上がらないのだろう。


「ブレア総統にはなんてご説明を?」
「あー……」


考えてないよね、そんなの。世間的に父親に彼氏ができましたーってどのタイミングで言うんだろうか。できた直後?暫く経ってから?それとももっともっと経過してから?なんにせよ、私も父が怖くて仕方ない。


「じゃあ俺が今エドワードさんに言おうか」
「いやいやいやいや……それは……」


イルミが挙手したが、父のあの剣幕が想像できた。朝っぱらからそれは疲れる。すごいストレス。とんでもない。何を言うイルミ。


「カミーユ先輩もなんだか怒りそーだなー」
「カミーユも?……確かに、昨日のこともあるし」


まあ怒るのも無理はない、私を庇ってくれてたんだから。そう言うとルーイは「まあそれもそうかもですけど、」と付け足した。


「……誰よりも長い間ずっとずっと浮気もせずに幼女のころからのお嬢を見て守って従って寄り添ってたのはあの人ですから。まあブレア総統も父親としてそうですけど。でもカミーユ先輩は父親とか兄貴とかそういう目線でお嬢を見てたんじゃないと思うんですよね。……まあ勘ですけど」


うーん?よくわからないが、カミーユは事実、父でも兄でもないんだからそれも当たり前な気はするけど。そうじゃない目線ってなんだ。


「そういえば今日はカミーユはお休み?昨日は私が晩酌に付き合わせちゃって部屋まで送ってくれて。それから報告書を書かなきゃって行っちゃったけど」
「え?昨日はカミーユ先輩、執務室に戻ってきてないですぜ」
「そうなの?じゃあ、昨日は疲れて帰っちゃったのかな」
「……あの几帳面なカミーユ先輩が報告書に手を付けずにそのまま帰るなんて、あるんですかね」


あるんじゃないか?スーパー几帳面A型仕事人間のカミーユ=ハンバートといえど、彼も人間なんだし、気分もあるだろう。「まあそういうこともあるよ」とフォローをするが、ルーイは剣呑な表情で「そっすよね」と曖昧に返事をした。


私は伸びをして一息ついた。


「うーん。というか報告も何も、実感が全然ないもんだね、恋人ができたって」
「そういやお嬢ってイルミの旦那を除いて今までに付き合ったこととかあるんですかい?」
「…………………………………………ないけど、なにか?」
「うわっ、干物女」


ルーイこいつ!言うに事欠いて干物女だと、それは私への禁句だ!
小中高大特定の男性というものが出来たことない女にとってはそれは絶対的禁句。いや、私はべつに、だからといってそれを気にしたことはないけど?彼氏ができてイチャつく周囲の子たちを羨ましいなんて思ったことはないけど?べつにね!


「そんなのいたら殺してたよ」
「……干物女でよかった」


イルミが雑誌を読みながらぽつんと呟いた。私は心底、ああ彼氏なんて出来たことなくてよかった、それで私の青春は正解だったのだと、安堵したのだった。


「お。じゃあ、イルミの旦那が初カレってことですかい?」
「……まあ……そうなります」
「そうなると気になるのは。イルミの旦那は?カノジョとか」
「そんなのある訳ないでしょ」
「まあゾッコンだったんですもんね、お嬢に。そりゃあ彼女なんてものはいらないでしょうね。彼女なんてのはね。そうじゃないのは、どうだったのか知りませんけど」


やたら含みをもつような言い方をするルーイに、なぜかイルミが殺気立った。


「ルードヴィッヒ。今すぐ黙らないと、本当に殺すよ」
「怖いなあ。ただ聞いただけなのになんで怒ってるんですかね、お嬢?」
「そうだよイルミ、喧嘩は駄目」
「お前達ってほんと、俺を怒らせる天才だよね」


大きく溜め息を吐き、イルミは殺気をひっこめた。まったくもう、仲良くして欲しいのに、イルミは怒りっぽい。



「それにしても、イルミも彼女いたことないだなんて知らなかったなあ。なんかひと安心したような。親近感湧いた〜」
「なんで親近感湧くの」
「え〜だって、彼女とっかえひっかえしてるって思ってたから」


「当たらずも遠からず」と呟いたルーイに、イルミが鋲を投げた。あっぶね!とギリギリで避けたルーイ。なんだ、当たらずも遠からずって、どういう意味だろう。

でも意外だ。イルミにはこんなに色気があるから、私に黙って色々してると思ってた。そう思うとすこしこそばゆくなる。


「初カレ初カノですかあ……」


その私の一言に、イルミは少し反応した。じっとこちらを見ている。


「え?なに?」
「……いや。別に何でもないし」


そんな二人を、ルードヴィッヒはにやついて見ていた。そして提案した。


「実感がないなら作るしかないでしょ。どうせ暇なら、デートでも行ったらどうですかい?初カレ初カノ初デート。うわ、初々しい」
「デートかあ、それもありかもね」
「行きたいの?」
「うん。行ってみたい。イルミは?」


イルミに笑いかけると彼は顔を背け、「仕方ないな」と呟いた。これはオッケーの返事のようだ。さっそくルーイに髪の支度やデートっぽい服のチョイスをしてもらい、出掛ける準備をした。それっぽく出来上がった私に、ルーイは「綺麗ですよ」と無邪気に褒めてくれた。ルーイこそ元々お貴族で美的感覚に優れてセンスがいいから、私をうまくここまで仕立て上げてくれるのだと本当に思った。



「じゃあ、行ってくるね、お留守番お願いね」
「はいよ〜」


扉を出ようとする私達へ、ルーイはそうだ言い忘れてた、と最後に声を掛けた。


「あ、そうだ。初カノと初カレ、つまり処女と童貞のはずなんだから手ぇ出しちゃ駄目ですぜ、イルミの旦那。なにせ初カノなんだから、まさかね、童貞でしょ?ちゃんと段階踏んで行かなくちゃ」


そんなデートの今後が気まずくなるような爆弾発言をするルーイを、イルミはこれまでの憂さを晴らすように最後に一発殴った。「いってえ」と涙目になりながらも、見送るルーイはひらひらと私達へ手を振った。









自宅を出てしばらく歩く。私たちは今まさに初デートなるものを開始したばかり。春から夏に生まれ変わるこの時分、軽装で出掛けられるのは嬉しいし、これが初デートというのもなんとなく浮き足立つようなものがあった。経験したことの無いものは緊張さえするがそわそわする。
イルミの後ろ姿を見つめる。突然初デートになってしまって彼は承諾したが、ここまで来て迷惑では無いだろうか、なんて気持ちが私に生まれた。その表情を窺い知るには彼は背が高すぎる。もっと高めのヒールでも履いてくれば良かった、それなら彼に見合うようにもなったかもしれない。
そんなことを考えていると、イルミは突如立ち止まり私に尋ねた。


「行きたいとこある?」


ルーイの失礼にイルミはまだ怒っているかなと思ったが、彼は意外にも通常モードだった。


「そりゃーもちろん、……」


ないかも。
初デート行きたい!と言ったはいいもののパッと頭に思い浮かぶものは映画、ドライブ、食事、水族館、美術館エトセトラエトセトラ。でも意外にもそのすべてを、イルミとこうして付き合うことになった以前にすでに彼と網羅していることに気が付いた。ここらへんが幼馴染みクオリティ。初デートって何だ、何なんだ。何が特別なのかわからないが何かが特別だと思って希望したのに、何も考え付かない私は言葉に詰まった。そんな私を察してかイルミは言った。


「じゃあ行こ」
「イルミ、行きたいところ、あるの?」
「まあね」
「え、どこどこ?」
「行けばわかるよ」
「へえ、イルミが行きたいって珍しい」
「イヴはどう思うかわからないけど」


着いてからのお楽しみってやつですか。そういえばイルミが行きたいところって今まで無かったかもしれない。これまでは私が彼を引っ張り回して遊びに付き合ってもらってたことが多かった。


「そうだ。はい」
「ん」

差し出された手。ああ手を繋ぐんですねハイハイ、と私はいつもの通りに彼の手に自分の左手を重ねた。私がヒールをこうしてたまに履くと転ぶので、別段、手を繋ぐ行為はさほど私達にとって重大なことでなく通常のことであった。しかし、今日は違かった。イルミはいつもの通りに私の手を握ったが、そのまま一本一本の指を絡めて、最後に爪を撫でた。
こ、恋人繋ぎ!?と動揺を隠せない私に彼は気付いている。


「初デートなんでしょ?」


流し目で私を見遣る。そして再び歩き出した彼に、すこし変化したこの関係を実感した私は何も言えずただ着いていくだけだった。







イルミはゾルディック家専用の飛行船を呼び付け、私たちはそれに乗船した。電話一本で駆けつけます、なんて謳い文句もいいところだ。着席するや否や、恭しく執事に伺われた。

「何かご用意するものはございますか」
「水でいい。イヴは?何かいる?」
「アル、……」
「何?」
「な、なんでもない。私もお水ください」

アルコールで何かありますか、と、そう口に出すところだった。デートだというのに、彼は先にお水を頼んだというのに、こんな昼間からというのに。自分でも信じられなかった。私は本当にアル中か何かか。

執事は速やかに美しいグラスに入ったミネラルウォーターを持ち寄り、コースターと共に目の前に置いた。戸惑いを打ち消すように私はそのグラスに口を付け、飲み込むことにした。

空に飛び立った船の中で、私達は揺蕩う雲のその動きをただ眺め、時に一言二言会話をしながら行き先へと向かった。









「おいで。イヴ」


イルミは私を導くように手を出す。私は無言でその手を握った。そしてその目的地に降り立った。

パドキアの西端の近郊にそれはあった。私はこの場所をよく知っている。そして毎年幾度も来た。見晴らしの美しい丘。潮騒が遠くに聞こえ、海の青と空の青が交差する地平線。この時期は花々が咲き新緑の美しい季節だ。北大西洋に位置するこの場所は寒冷地であるが、太陽に近い地であるからかすでに暖かかった。

天の国のように綺麗な場所だが、私はいつもここに来ると黙り込んでしまう。少し物悲しく、寂しく感じる。ほら、あの百合の群の中心だ。見えてきた。白い墓碑。ここはあの人が眠る場所だから。





ユリ=ブレア

How l loved your peaceful eyes on me
Rest in peace here the PADOKIA

1967ー1992




それは墓だ。私の母その人が眠る。私を産んで死んだ女性。父エドワードの妻。この指輪のかつての持ち主。



「しばらく俺も親父も来れてなかったから」
「私も、今年はまだ来れてなかったの」
「それをイヴに渡すからにはここに来なければならないと思った。初デートが弔いで悪いけど」
「そんなことないよ」


何故だか逆によかったとさえ思った。
私は母に少しの罪悪感を抱いて生きてきた。私が産まれなければ父は最愛の人を永遠に喪うことはなかった、今、別の未来があの人にあったのではないかと思うと。父は絶対的にこの考えを否定するだろうが、張本人の私は一生この業を背負わなければならない。私の誕生の引き替えに、人が死んだということを。
六歳の時に母の死の事実を知ったあの日から、私はこのような少しの罪の意識をこの場所に来る度に抱えていた。しかしそれはこの場所に来たくなかったということでは無い。一言で言うなら、ただ味方が欲しかった。この人の死の代わりに生を受けた私をただただ尊重し認めてくれる、そんな味方が。

「それなら良かった」

今の私には、それがイルミ=ゾルディックだ。


「お母様……」


指輪を継承しました。あなたからシルバさんへ、シルバさんからイルミへ、イルミから私へと。

イルミはいつのまにか執事に用意させていたのか、白い百合の花束を墓碑の前に供えた。ブレア家の代々の墓は別の場所に所有地があるが、父はこの人だけここへ墓を作らせた。陽光の差す中、百合に囲まれ眠る。二人の思い出の地でもあるようだ。そういう話を、父からあまり深くは聞いたことは無いけれども。

母がいたら、こういう虚しさを味わうことは無かったのだろうか。


「ねえ、イルミ。お母さんがいるってどんな感じ?」
「さあ。よくわからないけどありがたいとは思ってるよ」
「え、イルミからそんな言葉が聞けるなんて驚き」
「俺を何だと思ってるの。一族のために、俺を産んで弟達を産んで、俺に家族をもたらした。まあ、感謝してるよ」
「大家族だよね。ドキュメンタリーいっぱい作れそう。タイトルは『ゾルディックさん家大家族物語、〜キルアくん家出する〜』とか」


他にも『ミルキくん引きこもり生活』とか『カルトくんお兄ちゃんを追いかけて三千里』とかラインナップは豊富だ。話題だけは事尽きることはないだろう。


「私もゾルディック家がよかったな」
「人殺ししたいの?」
「ちがう、一人っ子だから大家族とか兄弟が羨ましいんですー」
「兄弟は無理かもしれないけど、これからつくればいいじゃん」
「え?」
「子ども」


私はその言葉につい息が詰まってしまった。彼はそれを見抜いた。


「イヴは怖がりだよね。こういう話になると怯える」
「怖くないけど、」
「罪悪感があるんだろ」


そうだ、当たってる。彼はわかっている。私が母に罪を感じていること。


「元々心臓が弱かったから出産の時に脳出血を引き起こすリスクは高かった。それでも望んでイヴを産んだ。それで死んだ。それだけのことだよ。母親の死因にどうして卑屈になるの」
「……私が皆から母を奪ってしまったようで、なんだか申し訳なく思うのは道理でしょう」
「イヴ。俺は良かったと思うよ、これで。例えイヴかユリさんのどちらかが死ななければならない選択をしろって言われたら、俺は迷わずにユリさんに死ねって言うよ」
「それは辛辣すぎない!?」
「お前の父親もきっとそう選択する」
「……そう、かなあ」
「六歳のあの日から自分を責めて、本当にばかだな」


そんなことを父に選択させるのは残酷すぎる。だけど神さまはその試練を父に与えた。父はその時は選べなかったが、母が自らそう選んで死んだ。今、父は、どちらの選択をするのだろうか。六歳の母の七回忌、その時から私の負い目は始まった。馬鹿なのかもしれないけど、これは永延の負い目だ。


イルミは、墓碑からこちらへ視線を移し、じっと見つめる。


「……約束。まだ思い出さない?」
「へ?いや……特には」
「実は墓参りは今日の目的じゃない」
「そうなの?」
「着いてきて」


イルミは左手を取りずんずんと歩き始めた。私は母の墓碑を後目に彼にただ歩みを揃えながら着いていく。






それは木漏れ日の中をしばらく歩いた先にあった。母の墓碑からいくらか離れただろうか。目印がなされていなければこの林の中では少し迷う不安さえあるような、その奥だ。いくらかの木々が不規則に立ち並ぶ中、それは珍しく大きな百合の木が聳えていた。今の時期は桃色の花が実を着けるように高い葉の中でその存在を示している。

少し懐かしい感覚を脳の片隅に過ぎるものがあった。ここへ来たことがあるのかもしれない。私たちはその根元まで歩みを進める。


「約束した場所だよ」


イルミがその木を撫で、「これ」と何かを指差した。彼の身長の肩ほどの高さ。それは木の幹を刻んで描かれた十字だ。


「昔はもっと低い位置にあったかな」


そう呟いた。刻まれた十字はとても古いもののように思えた。彼の言う通り、木が成長するにつれその十字も背を伸ばしたようだ。


「六歳の俺とお前が、ここで約束した証だけど、それでも思い出さない?」
「……ごめん」


思い出そうとするが、少し頭痛がした。記憶はない。ふるふると頭を振ると、彼は少し悲しい顔をしたような気がした。そんな表情をさせたくなかった。嘘でも吐いて、思い出した振りをすればよかっただろうか。しかし彼には私の嘘は通じない。


「イヴ。どうして、忘れてしまったの」


彼から目を背けたがそれは許されないようで、私の頬に手を添えて視線を引き戻した。その黒い瞳に吸い込まれそうになる。憂いと、もどかしさと、燻る熱情。彼の目にそれらが浮かび上がり私を呼び寄せる。イルミはそのまま私の頬に唇を寄せたが、私はそれを受け入れる資格などないような気がして顔を背けた。


(忘れてない)


頭痛が一層強くなる。誰かが私の頭の中で絶叫したような気がした。まるで超音波だ。不愉快で極まりない。割れるように頭が痛い。途端に眉間に皺を寄せた私にイルミは気が付いた。


「イヴ?どうしたの?」
「頭が、……しぬほど痛い」


今思えばその形容は言い得て妙であり、それは事実に近かった。
耐えようがないほどの痛み、誰かが私の頭を後ろからバットで何度も何度も殴り掛かっているようだ。目がチカチカする。貧血のように視界が暗黒に包まれ、私はいつの間にか座り込み、そしてのたうち回って意識を失った。


「『イル』」


誰かが私を乗っ取った気がした。そして私の口から、なぜかその一言が漏れ出た。







(本当は私だったのに)

何が、どういうことだ。

(私が彼を好きだったのに)
ならそう言えば良かっただろう。

(なら代わりなさい)

かわる?

(私が貴女に、貴女は私に)

交代ということか?

(もう少しで、私がイヴ=ブレアになる)


………あなたが、私になる……?