13





今夜は朔月。月のない夜。この時期でもやはり山の上は寒い。

庭園の噴水はその水を循環させることなく、音といえばただ夜風がその庭を支配していた。草陰のどこかで泣く鈴虫たちの寄る辺が心を風流にも落ち着かせる。少し薄着で出てきてしまったので肌寒く感じていたが部屋まで掛物を取りに行く時間も勿体なく感じるような、実に美しい夜闇だった。自分の自宅は都市部にあるためこんなに澄んだ空気も空も星も望めない。ゾルディック家は忌み嫌われることが多いが自然こそ美しくここにあった。

静けさを保ったその噴水の岩場に腰掛けて星を眺める。標高の高いこの霊峰はやはり空気が澄んでおり今日は雲もかかっていない、つまり絶好の星空観測日和。


「イヴ。何してんのこんなところで。冷えないの」
「あ、イルミおかえりー」


仕事からめずらしく早めに帰宅したイルミが闇から訪れた。暗殺の仕事というのは昼も勿論あるだろうが、闇に紛れることの出来る夜に多いのは定石だ。ツカツカと彼がこちらへ歩いてきた。その高身長にお似合いの黒いタイトパンツに少し肌寒そうな緩めの白シャツ、まるでバレリーノのように着こなしが成っている。


「何、風邪ひきたいの」
「今日は月がないからよく見えるだろうと思って」
「何が」
「お星様」


イルミはその手に厚めの掛物を持っていて、そしてそれを私の肩に荒々しく掛けた。荒々しくといってもまるでやんちゃで言うことの聞かない我が子に服を着せてやるような、そんな感じだ。紳士だ。「ありがとう」と礼を言うと「別に」と彼は素直にも返答をした。彼は昔から私が病に晒されるような行動を取ることを好んでおらず、寒空の下で震えているのを注意されるかと思った。昔は転んで怪我をしたり、木に登ろうとしたり、危ないものに触れようとしたりするとよく怒られたことを覚えている。


「やっぱりさすがよく見えるよね、お山の上だもん。綺麗だね」
「星なんて宇宙で恒星が爆発して遠くで光ってるだけだよ。そりゃ綺麗に見えるけどずっと眺めてて飽きない?」


このお山の大将め。ロマンスに浸る私を彼は全否定して宣った。


「ろ、ロマンチックじゃない。ほら、星には一つ一つ名前もあるし伝承もあるんだよ。その国々によって伝承が違うかと思いきや通じてるものもあるから面白いし」
「ふーん。で、どれがどれ?」
「うんと、あれが北極星、旅人の星。北半球で位置が変わらずに一番明るい星だから。その周りが北斗七星、ほら七個の星が続いてるように見えるでしょ。どっかの世紀末列伝でホアタタタタァって北斗神拳見たことない?」
「何がどれだかわかんない」
「説明損じゃん」
「もっとわかりやすいのないの」
「ええ…………」


イルミはまったく星には興味無いようだった。まあ、確かに星初心者には北斗七星なんて寄せ集めの光にしか見えないかもしれない。じゃあ聞くなよって話だ。北極星さえもよくわからないと言われちゃもう後はお月様の説明しか出来ない。しかし今夜は朔月。あとは夏の大三角星座くらいだ。


「じゃあほら、あれ。おっきく開いた三つの光で大三角形。デネブ、アルタイル、ベガ。アルタイルとベガの真ん中に天の川。有名な織姫と彦星の星」


宙を指さす。見上げるだけで首が痛くなるほど広い天の川を一際明るいその星達が交差する。これまで興味無いと豪語していたのにイルミは意外な返答をした。


「あ、それ知ってる。七夕物語。恋愛にかまけた織姫と彦星が引き裂かれるけど一年に一回だけ会えるとかそういう話でしょ」
「そうそう!へえ、イルミもそういう伝承も知ってるんだね。ちょっと意外。星も興味無いんだから伝承も絶対興味無いと思ってた」
「興味無いけど。でも7月7日はキルアの誕生日だからね」
「あ、なるほどね……」


伝承なんて興味無いくせに愛する弟の誕生日のことを調べるイルミを想像したらなんか笑えてきた。キルアへの愛の深さは折り紙付きか。


「でも織姫と彦星は、本当は永遠に会えないんだよ」
「どういうこと?」
「天の川がずっと二人を阻んでるし、実際は二人は15光年離れてて、七夕だからって星が近付くことはない」
「ふーん」
「だから、昔の人は七夕に水を張った桶を用意してあの星たちを映したの」
「なんで?」
「こうやって、水をかき混ぜて……、」


噴水に張られた水に映る織姫と彦星。それを私は指で沿うように撫でた。水面が波紋で揺れて星の光はひとつに溶け合う。


「分かたれた織姫と彦星がせめて地上で再会できるように祈ったんだって」


一生会えないってどういう気持ちなのだろうか。その天川の先に立つ恋人をただ永遠に眺めるだけなんて、そんなこと私には想像できない。しかしその天川の先にいるのがイルミだと想像したら。半身のような存在が居なくなってしまうだなんて我慢できるだろうか。無くした約束は星になった、でも私たちの思い出は溶けていない。



「川挟んで指咥えて見てるなんてどっちも馬鹿なんじゃない」
「…………ええイルミさんならきっとそういう風なことを仰るんじゃないかと思ってました」


ロマンチックのロの字も知らないのか、このゾルディック家の坊ちゃんは。暗殺のしすぎ。ちょっとは仕事控えてロマンス文学でも読んでみたらどうだ。
彼の発言はある意味予想的中であったがちょっとムッとしてイヴはイルミに続けて聞いた。


「じゃあイルミはどうするの、もし彦星だったら」
「そういうのは効率的な手段を選ばないと」
「……織姫と駆け落ちとか?奪って逃げるとか?」
「俺だったら引き裂こうとする神を殺して黙らせるかな。手っ取り早いでしょ」
「まさかの神殺し……」


実際にそんなことになったらイルミはやってのけてしまいそうな気がするから突っ込む気にもならない。宙をずっと見上げていたためにだんだんと首が凝ってきてしまいうーんと、伸びをした。


「あー、空みてると首痛い」
「じゃあほら。こっちきなよ」
「え?」


イルミは私の手をとると使用人たちによって整備された美しい芝野まで歩き、そして彼は寝転んだ。かわいらしく咲き乱れるシロツメクサを臆することなく踏んづけている所がまた彼らしい。「はいここ来て」と寝そべる彼は私にとんとんと左腕を示した。どうやら星を寝転びながら見るために腕枕をしてくれると言いたいようだ。


「……星、見るの?」
「見たくないの?」
「あ、いや、見る見る」


私はおずおずと彼の隣に寝そべり、親切にも貸してくれた左の腕枕にことりと頭を乗せた。自然と彼に身体を向け、見上げる視線になる。彼の腕の動脈の音が耳に届く。


「寝転ぶとまた視点が変わって綺麗だね。イルミ、寒くない?」
「寒い」
「イルミでも寒いことってあるんだ……ほら一緒に毛布使おうよ」
「俺をなんだと思ってるの」


毛布を彼にも寄せると、まるでこたつの温もりに心地よく目を細めるような猫の表情を見せた。まるで今にも喉をゴロゴロと鳴らしそうだ。もしかして本当に猫みたいに喉を鳴らすんじゃないかと、その白い喉に手を触れ、さする。


「何、くすぐったいんだけど」
「さすがにそこまでじゃないか」
「は?」
「いやこっちの話」


拒みこそしないがイルミは眉間に皺を寄せただけだった。毛布の中の二人だけの温もりが夜風を阻む。星空は私達を見下ろし、私達は星空を仰いだ。


「イヴって本当意味わかんないよね」
「えーそうかなー」
「うん。あんまりその気も無いのに人の喉元触らない方がいいよ」
「あ。嫌だった?」
「嫌じゃないから駄目なんだよ。それ俺以外に禁止」


訳が分からん。嫌じゃないのに触ってもらっちゃこまるってどういうことだ。「よくわかんないけどごめん気を付ける」と適当に謝っておいた。


「適当に謝るのやめてくれる」
「ええ〜……あ、流れ星」
「え、どれ」
「ほらあれあれ。もう見えないけど」
「じゃあ無いんじゃん」
「イルミのほうが目ぇ良いんだからイルミ見つけてよ」
「イヴ意外と人使い荒いよね」
「そんなことないよ失礼な、適材適所だよ。ほら流れ星見たんだから早く何かお願いしないと」
「流れ星に願い事?それも伝承?」
「というより迷信の類いかな。その起源説は色々あるけど。カトリックでは流れ星を死者の霊魂として考えてて、流れ星を見かけたならば『安らかに眠れ』と三回祈るんですと。それがお祈り、ひいてはお願い事に変わったのかもね」
「ふーん。死者にとっては迷惑な話だね」
「でもキリスト教では人の魂は神様の元に帰るって解釈だから。流れ星になってお願いを持っていってもらって神様に届く、なーんて可能性もあるよ」
「へえ、じゃあそれならお願い事しとこうかな」
「え、何かお願い事あるの?」
「うん。キルアがずっと俺の手元にいますように。キルアがずっと俺の手元にいますように。キルアがずっと俺の手元にいますように」
「……………………か、叶うといいね……そのお願い」


イルミの闇の願望にドン引きした。どうかこのお願い事が届きませんように。もし届いても神様、この人のお願い事は無視してもらっていいので。


「イヴは?」
「私?うーん……」
「何かないの」
「私はねえ」


特に個人的なお願いは思い当たらない。となると、世界平和だ。


「私の周りのみんなが幸せでありますように、かな」
「なにそれつまんな」


イルミこいつ!私の博愛主義の平和への願いをつまんないだと。



「つまんなくない。これにはイルミの幸せのお願いも入ってるんですけど」
「幸せかどうかは俺が決めるし」
「なんですとーせっかくお願いしといたのに。あ、また流れ星。神様さっきのお願いはイルミの分は取り消してくださいお願いします」
「あ、何お願いしてんの。底意地悪いよ、イヴ」


弟を自己都合で縛り付けようとしてるくせにイルミに言われたくない発言ワースト5にランクインする言葉を言われてしまった。


「くそ、親切心を返せ」
「神とやらに俺の幸福を定められたくないね」
「……まあイルミに幸せとかいう概念がそもそも間違ってた」
「幸せだよ?俺は」
「へー。じゃあ、イルミの幸せってなんなのー」


イヴはイルミにぶっきらぼうに尋ねた。
しばらくの間だった。考えてから、イルミはぽつりと呟いた。


「これなんじゃない」


イヴはきょとんと意味をわかっていない表情をした。それも『これ』の中に入るかもしれない。明確には表すことの出来ない。星空の下、隣にいるこの女が生きていて話していて笑う。俺の黒髪が、彼女の茶髪と交わる。それをながめて実感した、ああ、俺は彼女とこのように在りたいのだ。それぞれ別の人間でありながら絡み合い存在を共有する。矛盾せずそのままでいる。そして永く続く。それは象徴のような光景だ。


「なあに、これって。なんかイルミ、へんな顔してる」


彼女の微笑を見て思った。侵略と支配と、そして自由。自分は彼女をそう管理したいのだと。そして『これ』こそが、イルミ=ゾルディックの感じる『幸福』であり、彼なりのイヴ=ブレアへの愛情。



「ーー俺が渡した指輪をする女が隣にいる。死んでないし生きてる。喋るし笑うし怒ったりもする。俺の目的を果たすためなら、この時間は無意味だし無為だし必要がない。でもこの時間が続けばいいと思う。『これ』がそうなんだと、思うけど?」


そのイルミの瞳から私は目が離せなかった。彼の瞳には無が拡がる。しかしその奥の奥に本当の彼が潜む。その無に拡がる絶対的に消える事の無い微かな瞬き、それは遠くの遠くで爆発を繰り返す恒星だ。まるで星空のようなそれに惹き付けられずにいられなかった。

イルミがイヴの右手を掴んだ。指輪がきっと彼には冷たい。


「イヴは?」
「え」
「どう思うの、俺を」
「イルミ」


星空が近づいてくる。まるで吸い込まれるように、私もその近寄りを受け容れた。その瞳が閉じられた事で私はようやく、彼の唇が私のそれに重なっている事に自覚したが、なぜだかそのままでいるべきだと思った。冷たく、柔らかく、しっとりとした感触。その薄い唇の甘さに、酔いしれてしまったのかもしれない。全身の力が抜けて、それとなく彼に力をすべて預けるまでそう時間はかからなかった。

わずかな時間にも永遠の時間にも思えた。

一度、彼が唇を離した。私は慣れないキスにようやく呼吸を止めていたことに気づき、呼気を吐き切り冷気交じる空気を思い切り吸い込んだ。酸欠の脳が循環を取り戻す。


「っは、……んんっ」


それを狙っていたのかイルミは私が呼吸をしたことを確認するや否や再度私の唇を閉じた。今度は押し付けるようにキスを続ける。強引だ。私の意思なんか聞いちゃいない、一方的な彼の支配。それでも私はどうしてか少しも拒むことができなかったし、拒もうとも思わなかった。私の右手を握る彼の左手が痛いくらいに強まる。

その痛みに、私の止まった時間が動き出した。

くるしい。

左手で彼の胸をたたくと、察したのかイルミは最後に音を立てて私から離れた。赤くなった顔をポーカーフェイスなんかでは隠しきれず、咄嗟に毛布に顔を埋めて悟られないようにしたがそんなものは無意味だろう。


息がかかるほどの距離。イルミが熱情に浮かされたような瞳で言った。



「なんかヤバい」
「え、」
「このままだとイヴのこと殺しちゃいそう」


殺してもらっちゃ困る、と心の中で突っ込みこそしたがうまく言葉に出来そうになく恥ずかしすぎてただただ身体をよじった。それを許さないとばかりにイルミは私に覆い被さり、首筋に顔を埋めた。


「い、いるみ、……ひっ」
「黙って」


今度はその唇が私の頸動脈のマニアックなところに触れる。早鐘のように心臓の叩く音はきっと彼に響いている。それも恥ずかしかったし、もう何もかもが私は生娘のそれであるため悟られることも恥のように思えた。なので黙らざるを得なかった。

彼の歯が頚部にあたる。殺してしまいそうと彼が呟いたためにそのまま齧り取られて出血死でもするんじゃないかと思い、彼の胸元の服を握りしめたが、意外にもちくりと僅かな痛みが走っただけだった。そしてイルミは顔を上げ、脅えた私の顔をじっと観察しはじめる。顔から火がでそうだからそんなまじまじとじっくりと見ないで欲しいが手は彼に封じられている。


「……我慢しとこう」
「え」


我慢するって殺すのをか。そう思った私の表情を察したのかイルミは「馬鹿なのそんな訳ないでしょ」と私の頬を優しく撫でた。


「キス下手くそだね」
「ち、ちがう、」


悪いか下手くそで!こちとら今のが人生の初めてなのだから経験ないことを下手くそと言われてもどうこうすればいいと言うんだ。……とさらに反論したかったがどうにも言葉にならない。声が出ない。
そんな私の心情も知らず、イルミは笑って続きを言った。


「まあ下手くそじゃなかったら本当に殺してたとこだけどね」


あ、なら一生下手くそでいいです。
イヴは赤くなった顔を何度も何度も拭うも、それは時間がいくら経ってもなかなか収まりそうになかった。イルミはそんな私を見て少し飽きれた顔をしつつ「慣れが必要だな」と呟いた。何の慣れだ、何の。無表情のためか知らないがなんでイルミはそんなに慣れてる風なんだ、と心の中で毒づかずにはいられない。




「ほら寒いからもう戻るよ」との彼の一言で、私達は天体観測を切り上げて部屋に戻った。私はずっと下を向いて彼と歩いた。やや気まずくて別部屋に行くことができず、もしかするとこのドラマでよく見たような展開は……と疑念を過ぎった。が、イルミはその後、私に触れてくることはなかった。普通にシャワーをあびて普通に眠前の紅茶を入れて飲んで「ほらもう寝るよ」と普通に床についた。

いつものように同じベッドに横になるが、いつものように一定の距離を保って眠るイルミ。白く照るその首筋がやたら綺麗だ。

よかった、と思った。

恋人となった彼。私がそれを良しとしたのはイルミのこういうところがとても安心できるからかもしれない。私が望まないことを実施しない。それをわかっていて待ってくれる。これまで二十年余りもの間ただ黙って、結婚の約束のことを引き合いに出さなかったのは、待ちぼうけでいてくれたのは、きっとそういう事だ。

触れてこないイルミの手を私から触れる。それに呼応して、イルミも私の手を握った。しかしただそれだけ。私はそのうちに、いつもの眠りに入った。


満天の星空の下で、夜は過ぎ去っていった。