14





「ほら、イヴ、紅茶」
「……………………………………。」
「早く食べなよ。ゆでたまご好物でしょ」
「……………………………………。」
「はい。パンにジャム塗ってあげたから」
「……………………………………。」
「昨日キスした事怒ってるの?」
「うぐっ。げほっげほっ」


ぼそぼそと食べていたゆでたまごが喉に詰まった。決して動揺したからではない。決して。




朝日差し込む優雅な朝。イルミの揺り起こしで起床するのは通例のことだが、「おはよ」と挨拶をくれる彼の顔を見上げて私は昨晩の出来事を思い起こした。重ねた唇。思わず彼のそれを眺めてしまい、再び赤くなる頬を毛布で隠さずにどうしていられるだろうか。彼から顔を背けて再び布団の中に潜り込んだ。


「ちょっとおはよって言ってるんだけど」
「おやすみ」
「ほら起きる。今日検査入院行くんだから」


それどころではない。こんな昨日の今日のパニック状態で検査入院なんかしても絶対異常が出るに決まってる。脳血流量が半端ないことになってるはず。だからもう今日一日ほっといてくれ。そのまま、じゃあまた今度検査行くことにしよう、そう言ってください。


「はい起きましょー」
「あああぁ……いたっ」


ベッドから両足を引っ張られて引きずり出された。そして床に落ちる。こんな起こし方ってない。昨日はじめてキスした仮にも恋人だぞ私は。


ここまでして起こされては仕方がないのでそそくさと洗面室へ行き顔を洗って着替えを済ます。ふう、と鏡に映る自分を眺めると首に赤い何かがあるのに気が付いた。近付いてよく見る。


「あれ、虫刺されかな。全然気づかな…………あっ」


咄嗟に自分で自分の口を塞いでしまった。これ、イルミの、昨日の、その、アレじゃないか。どどどどどどうすればいいんだこれ!こんな喉仏のすぐ横あたりの位置に!ごしごし擦っても勿論取れない、むしろ余計に赤くなってしまった。ば、絆創膏……は、わかりやすすぎじゃないか。ファンデーション……なんかじゃ完全に消えそうにない。せめてコンシーラー。そして洋服だ。洋服でなんとか見えないようにしなければ。いやなんで私がこんなに焦って対策しなきゃならないんだそもそも!イルミを覗くと彼は優雅にもモーニングティーを堪能しているようだった。なんか許せない。

結論を言うとこの暑くなる六月の陽気に私はタートルネックをチョイスした。クソ暑い。そもそも密着性の高い服は痒くなるので好まないのに。


戻ると、円卓に執事さん達が運んできてくれた朝食が並べられていた。彼の右隣に座る。外を眺められるように椅子はやや窓を向いていた。優雅な朝食、といっても私たちはさほど量を多く食べないためルーチンな食事。品数は多くなく限定されたおかずと、少しのパンと、そして紅茶。食卓の中央に一輪の百合が花瓶に生けられている。

そして冒頭ということだ。紅茶で喉のつかえを押し流し再びいじけながらゆでたまごをつついているとイルミは頬杖をついてこちらを眺めた。


「別に怒ってない」
「じゃあ何。何か言いたいことでもあるの」
「別に何もない」
「絶対あるでしょ」
「別に大丈夫」
「言っとけば。引き摺っても仕方ないし」
「別にいい」
「言え。言わないとまたするよ」
「や、やだよ、もうキスなんて、」
「……何を、って言ってないんだけど。顔また赤いよ」


ハメられた。つい昨日のキスのことを彷彿とさせるニュアンスで彼が言うものだから、また思い出してしまった。そしてそれを指摘された。


「ほらやっぱり昨日の事じゃないか。何をそんなに気にしてるの」
「…………だって。あまりにもイルミが何処吹く風の通常営業だから」


イルミこそ赤面でもして普通の恋人同士のように照れてくれるなら私もここまで恥を感じることもないのに。いやこの鉄仮面が頬を染めるというのも想像できないが。しかし私ばかり恥ずかしがりに恥ずかしがってむしろ浮いている。タートルネックセーターなんか着て誤魔化してる。私ばっかり、ハタチ過ぎてこんな処女のような振る舞いをしているのが気に食わない、それを言いたいのだ。


「なんか、慣れてるみたいだったし」
「慣れてるって何が」
「そ、その……そういうことを」
「そういうことってどういうこと?」
「だー!わ、わかるでしょ!」
「さあ。わかんないな」


こ、この、イルミこのやろう!すっとぼけにも程がある。この話の流れでそういうことというのはそれしかないだろ。つまり、男と女の、その、情事の第一段階のことだ。もうよくわからん。


「私ばっかり、どうしてこんな、恥を知らなくちゃならないの」


顔を真っ赤にしてようやく心の真をぽつりと呟いた。イルミはさっきまですっとぼけていたくせに、今度はぽかーんと口を開けて呆けている。彼の反応を待たずにもう一つ文句を言った。


「それとなんか、……イルミ、気になんかしてないみたいだし」
「ーーー気にしてないとでも、思うの?」


彼が右手に触れてきた。その触れ方がなぜだか、少し、いやらしい。


「し、知らない」


その手に気を取られていっぱいいっぱいになりつい思わぬ返事をした。それにイルミがムッとしたのは言うまでもない。


「聞いといて知らないはないんじゃない」
「う、……あー!知らない知らない!昨日はなんにもなかった!」
「こら逃げるな」
「ぎゃっ」


手を払い除けて逃げようとしたが逆に思い切り手を引っ張られて後ろから抱き竦められた。イルミの手が、私の下腹部を撫でる。それにぞわっと来るものを感じた。そして身体が固まって動けない。髪を掻き分けるようにイルミの鼻が私の首筋を嗅ぐ。そして囁いた。


「俺だって気にしてるんだよ、イヴ。いつもこういう事になると兎みたいに逃げるお前と初めて恋人らしいことが出来たんだし。ただきっとこんな風に誤魔化すだろうと思ってたから触れないようにしてあげてたんだよ、俺の寛大な優しさで。でも何も無かったことにしようとするなら、……わかるよね?」


わからん。何がわかると言うんだ。寛大な優しさって、さっきのアレがか。


「もっかい思い出させてあげるよ」
「へ?」
「昨日の続きとその先の事。しよっか」
「ちょ、や、……イルミ、」


彼の下腹部を撫でる手がさらに私を侵食しようとする。耳たぶを甘噛みするイルミの歯が、舌が、その唇が、抗うのが難しいくらい私を責めようと這う。これはあかん、と私の防衛本能がようやくここで動き出した。


「駄目だってば!!」
「……ちょっと。痛いんだけど」
「……ご、ごめん……いやごめんなさい。申し訳ありません」


思い切り振った手がイルミの顎に当たった。そして思っくそ不機嫌になるイルミにものすごい謝意を示した。殴っちゃったことは申し訳ないが、なんだか私そんな悪くない気がするのに。


「怪我してない?」
「超痛かった。痣になってるかも」
「え。ど、どこらへん当たった?」
「ここ」


彼に振り返り、顔をのぞき込む。イルミは左顎を指し示す。が、特に痣も赤みも何もなってなさそうだ。


「綺麗だよ。何も怪我してない」
「そりゃそうだと思う」


はい?と思ったその次の瞬間。そのままイルミの整った顔が近付き、唇にあの感覚。不意打ちでキスをしてきた。昨晩のあの深く荒いものではなくて、恋人達が朝の挨拶のように交わすバードキス。そう、これは挨拶のキスだ。しかし私はそれでも赤らむ顔を抑えきれずに両手で顔を隠した。


「…………これほんと、先が思いやられる」
「う、うるさい」


イルミは昨晩よりも飽きれた顔だった。しかし新しいものに興味を示すような面白がるような、そんなニュアンスの笑みが伺えた。

紅茶は温く冷めてしまっていた。











そこから飛行船で一時間弱。都市部近郊に位置するその病院に私たちは出向いた。ニヴェアリリアム医療センター、つまるところは病院だが、独自の研究施設が備わっており最新鋭の医療機器を取り揃えた革新的な病院だ。医療施設にはあまり詳しくないがあのカミーユ=ハンバートのリストアップした病院なのだ、間違いはないだろうと思う。

カミーユとは時刻に待ち合わせして落ち合うということになっていた。医師なのだから、検査結果等については彼が解るだろうし、何より彼は私を把握しなければならない。今回私がてんかんを起こしたその原因を、私の病状を。そうでなければまた父に再解雇されると思う。いや今度は懲戒解雇かもしれない。

待ち合わせ場所へ向かうと当然の如くそこにはすでにカミーユ=ハンバートが凛と立っていた。七三分け、厳つい表情、厚い眼鏡。この陽射しの強まる六月のクソ熱い中にも関わらずビシッと黒スーツを身にまとっている。釦も第一まで締められ、ネクタイは苦しそうな印象を与えんばかりにきっちり上まで締まっていた。この真面目で鋭い印象さえなければ女性の絶えない整った顔の男性なのに、と毎度毎度思う。彼は私を見つけると、かつかつと近寄り深々とお辞儀をした。


「カミーユ、ごめん遅れて。暑い中待たせちゃったかな」
「お嬢様。御機嫌よう御座います。本日のご体調はいかがですか?」
「あ、大丈夫……というかカミーユ、あんまり目立つから人目のあるところで『お嬢様』はダメ」
「申し訳ありません。では、イヴ様」
「……うん、あんまりそれも変わらないからなんかもういいや……」


周囲の人がもの珍しそうに私たちを見やる視線が少し恥ずかしい。そして、私に朗らかな笑顔で対応したその表情を真逆のものにし、まるで積年の怨みでもあるかのような視線で隣のイルミを睨んだ。


「貴様。よくもぬけぬけと私の前に現れたものだなイルミ=ゾルディック。出来損ないの弟のおもりはどうした?お山の上の大将よろしく籠っていればいいものの何故おめおめと下山してきた?もしや山の食糧でも尽きて人の集落に物乞いにでも来たのか?猿のように」
「何、朝からウザイな。イヴじゃなくてお前こそ検査なり受診なりしたら?精神科がいいんじゃない?その破綻した性格にようやく病名付けてもらえるんじゃないの、よかったね」
「人の事を言う前にまずは我が振り直せとは貴様のことだ。山篭りで欠落したその人格障害に付ける薬など無いだろうが、せめてものお情けで鎮静剤くらいは貰えるんじゃないのか」
「は?それこそお前じゃない?頭おかしいんじゃないの、朝っぱらから喧嘩売ってきて。よくもまあ医者が務まるよね、血圧上がんないの?降圧薬腹一杯飲んで血圧下がって死んだほうがいいよ」


めっちゃカミーユの煽りがハンパない。それに呼応してイルミも煽り返す。

言い忘れていたが実はこの二人こそ真に仲が悪い。ルードヴィッヒとイルミは年齢も近いしお互いに適当なところは適当な性格だからまずまず気が合うようで喧嘩はさほどみかけない。しかしカミーユとイルミはどうしても相容れないようで顔を合わせる度に罵りあいの喧嘩を始める、というよりカミーユが先に吹っ掛けてイルミもそれにしっかり便乗するのが通例だ。通例なので、毎度毎度のこと。諌めるのが面倒くさい。同じA型なんだから仲良くして欲しいのに。……そういう問題じゃないか。

仲裁なんてせずほっとけばいいんですよ、とルーイが言うので過去に一度彼らの喧嘩をほっといたことがある。そしたら本当に殺し合いを始めたものだからそれ以来イルミとカミーユを二人だけにさせないようにちゃんと喧嘩も止めるように措置をとることとなった。そんな経緯がある。


「……はい、終わり。もういいでしょー」


イルミは私と同じように小さい頃からカミーユを知っているし、カミーユもそれは同様。だからカミーユには大人のお兄さんとして嫌いでもそれなりに振舞って欲しいのが正直なところだが、私の従僕である限り、私に仇なす者はきっともう許せないんだと思う。いやイルミが私の敵ということではないが、幼少からずっと一緒でイルミの欠点をたまにカミーユに愚痴ったりしていたから、彼の欠点を見る悪い目が肥やされてしまったのかもしれない。つまり私も悪い。


「いいえ。この度はよくありません、お嬢様」
「えっ」
「イルミ=ゾルディック貴様、嫌がるお嬢様にこじつけて婚約の関係を迫ったそうだな。憐れに思ったお優しいお嬢様は、お情けでその前段階を仕方なく受け入れたということを忘れるな」
「あ、それか……」


いつもは一回諌めるとカミーユは渋々引っ込むのだが、今回は私とイルミのお付き合いの件が燻っていたためどうにも我慢がならないようだった。



「別に関係なくない?イヴと俺のことなんだし。外野で部外者でしかも下僕に俺達のことを口出す権利あるの?」
「決めるのは彼女だ。しかし貴様が浮ついてお嬢様の更なる害悪とならないよう飛び回りそうな蛾に釘を刺すのが私なりの守護」
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ねって言うよ。往来に気を付けて歩くんだね、カミーユ」
「貴様が恋だと?笑わせるな。その内に分かたれる覚悟をしておけ。幸せな思い出を噛み締めて死ねるように」
「さてね。どっちが先に死ぬか今ここでそれ決めてもいいけど?」
「決めちゃダメだって!もうやめてったら。心臓に悪いよ」


本当に戦闘態勢に入りそうな彼らを再度止めると、その矛先は私に向かってきた。イルミだ。


「イヴがちゃんと言えばいいんじゃない。お金持ちで優しくて格好いい、この三拍子揃ったイルミ=ゾルディックが大好きで付き合うことに決めたんだ、って」
「え”っ」
「そしたらこいつも少しは黙るでしょ。それでもウザイけど」


火の粉が思い切り飛んできたような気分だった。イルミのことを好きは好きだがそこまで言ってない。というか自己評価が高い。というか自分で言うな。


「ほら早く」
「ええ……なにそれ超言いたくない……」
「そうじゃないと昨日のことこいつに報告でもしようか」
「私イヴ=ブレアはイルミ=ゾルディックさんのことが好きで好きでしかたないのでしかたなく付き合う事を決めましたハイ終わり!」


付き合い始めたというだけでこの剣幕なのだから、昨晩のことをカミーユが知りでもしたらリアルにイルミを殺しに掛かりそうだと思った。なので仕方なく宣言しておいた。脅迫で強迫、そして不可抗力とはこのことだ。そして私の宣言を聞いて世界が終わったかのような表情でショックを受けるカミーユ。……これもこれで申し訳なかったが殺し合いが始まるよりマシだ。


「お嬢様……そんな」
「だからカミーユ。イルミと喧嘩も戦うのもだめ。責めるなら私を責めて我慢して」
「貴女を責めるなど出来ない。出来たのなら、せめて楽になるのに」


カミーユは消沈した様子を見せた。「ごめんね、どうか許して」と声を掛けると、すくっと眼鏡を掛け直しその持ち前のポジティブシンキングを発揮した。


「ならばいつか貴女に掛けられた奴のその洗脳を解いて差し上げます」
「ええ〜……次はそうなるのね……」
「さあ参りましょう、お嬢様。もしやその洗脳、此度の検査で解けるやもわかりませんから。善は急げです」
「あ、ハイ……」


先導を切って病院へと足を向けるカミーユ。その後ろを私達は着いていく。
イルミが私に呟いた。


「お前の下僕、本当に言う事聞かないよね」
「うん……ごめん……」


素直に謝っておいた。そして一気に疲れた。ただただ項垂れて歩く私に、カミーユが気付いて声を掛けてきた。


「日差しがお辛いのですか?熱中症では?そういえばお嬢様、本日は何故そのようなタートルネックのお召し物を?」
「えっ!?へ、変かな!?いやほら今日寒いじゃない!?」
「先ほど暑いと仰りませんでしたか」
「い、言ったっけ、そんなこと?あは、あははは……」
「私の空耳でしたね。申し訳ありません」


ピンポイントで気付くところは気付くカミーユに私は冷や汗を流した。イルミは何処吹く風で知らん振りを決め込んでいてくれた。きっともうカミーユの対応が面倒くさいんだと思った。私も面倒くさかった。










手続きをしておいてくれたのだろうカミーユは、そのままエレベーターに乗り、私に割り当てられた部屋まで案内をしてくれた。そこは特別個室だった。清潔で綺麗でこんないい部屋じゃなくていいのにな、と思いながらも荷物を解く。まあ検査入院だから明日には帰るのだし、いいか。


「検査は夕刻16時からです。こちらの検査着をお召しになってください。本日は造影剤を使った脳血流検査と脳波測定をしますので、検査前に点滴を入れます。私はカルテを取り寄せてきますので、しばらく席を外します」
「わかった、ごめんね、色々手間をかけて。ありがとうカミーユ」
「お嬢様、」
「ん?なに?」
「いえ。検査前なので、食事や飲水は多くはとらないでくださいね」
「そうだね、わかった」
「イルミ=ゾルディック、貴様、お嬢様がまた倒れられたりしないようお守りしてさしあげろよ」
「うるさいな。さっさと行けば」
「検査結果は私から説明させて頂きます。では、後ほど」
「うん、またね」


カミーユに笑みで返すと、彼は少し悲しそうな、名残惜しそうな表情で去っていった。また会えるのに。そしてしばらくカミーユの文句を言うイルミの愚痴を聞き、雑談をしながらその時間まで待った。





そして夕刻になる。カミーユの言う通り検査着に着替え、そして看護師がうやうやしく点滴を入れにやってきた。痛いのかな、と思っていたがさほど点滴の針に苦痛を感じることなく終わった。


「ブレアさん、じゃあ検査のお時間なので行きましょうか」
「はい」
「俺も着いていくから」
「イルミも?看護師さんいるから大丈夫なのに」
「何のための付き添いだと思ってるの」
「まあそれもそうだけど……あの、彼もいいですか?」
「まあ、可愛らしいカップルさんね。検査室の中までは先生の許可がないとわからないけど、とりあえず行きましょうか」


親切な看護師さんだ。案内に従って地下の造影室へ向かう。順番に呼ばれるまでお待ちください、との指示に従いぼんやりイルミと待つ。地下では声が反響して聞こえた。そうすると、人の噂話というのがよく通る。


「あら、あんまり見かけない先生。脳神経科の先生かしら」
「なんだか素敵、色白だしイケメンね」
「やだもうアンタ、声掛けてきなさいよ」
「できないわよそんなこと!」


密やかだがきゃっきゃと上がる看護師たちの声。あ、やっぱり病院といえど看護師も色目気だって同職種を見てしまうんだな。そりゃ職場だもん、職場結婚なんてのもあるし期待しちゃうよね。

そんなことを考えながらぼーっと眺めていたら、そのきゃっきゃ言われてる先生が笑みを浮かべてこちらに歩いてきた。どうやら担当医らしい。


「こんにちは、イヴ=ブレアさん」
「あ、こんにちは。ご担当の先生ですか?」
「ノアイユと言います。しばらくですね。どうかリラックスしてください、簡単な検査だから。脳波も測定するので、少し眠くなる薬剤も使いますよ」
「あ、そうなんですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ。さあこちらへ」
「はい。あの先生、この人も一緒に検査の立ち会いはできますか?」
「おや、検査に?あはは、勿論ですよ、どうぞ」


彼氏を連れていることに笑われてしまった。少し恥ずかしい気がしたが、先生は気を利かせて言ってくれた。


「きっと心配なんだね、脳のことだから。検査室には入れないけど、控え室のほうへ。窓があってそこから見えるから。ブレアさんを守るナイト君?」








そして私は検査室へ、イルミはそのすぐ隣の控え室へ通された。ドーム型の医療機器がどかどかと中心にあり、私はその機械に横になるように指示された。
色々と準備を進めながら先生は私に話しかけてきた。


「あの方は彼氏さん?」
「あ、そうですね、まあ一応……」
「羨ましいなあ。僕も貴女みたいな方とお近付きになれたらな。貴女を眺めながら飲むお酒はきっと美味しいんでしょうね、次の満月の夜は空いてますか?」
「意外ですね。先生モテそうなのに。私なんかに軟派ですか?」
「あはは、僕も軟派くらいしますよ。貴女ほど美しい女性ならね」
「口もお上手みたいですね」


どこかで話したような会話だ。イルミのほうを見ると、彼にはこの会話は届いてないようだった。ナンパだのなんだのこんな会話を聞かれていたらきっと不機嫌になるだろうから。

一通りの準備を終えたのか、先生は「じゃあ始めようかな」と私の隣に立った。ディスポーザブル手袋をはめて、いくつかの注射器を並べる。



「それが造影剤ですか?」
「そう、これでこの機械を通して脳の集積回路や血流を見ていくんですよ。じゃあ注射していきますよー」
「へえーなるほどー」
「造影剤は人によってはアレルギーだったり副作用が強く出ることがありますからね。今は気分は悪くありませんか?」
「あ、大丈夫そうです」
「よかった。そしてこれはベゲタミン」




ベゲタミン。
その無色透明の注射器に入った薬の名を医師らしき男は呟いた。それと同時にその薬が私の静脈に注射された。待て。その薬の名を聞いた事がある。それは、ゾルディック家で。確かーー



「抗精神病薬の成分クロルプロマジンと、バルビツール酸系のフェノバルビタール、抗ヒスタミン作用のプロメタジンを含む合剤……所謂鎮静催眠作用のある薬だよ。『飲む拘束衣』とも言われている」
「な、」
「少し眠るだけさ。安心して、危害は加えないよ。それに君の彼氏が見ている」


咄嗟に起き上がろうとしたがそれはならず穏やかな力で制止された。普段の状態ならば起きて叫んで暴れでもするのに、その薬が注射されたために途端に筋力がなくなったかのようだ。そして頭の麻痺が始まる。頭痛が鳴り始める。


なんだ、どういうことだ。どうしてそんな薬を?

『少し眠くなる薬』にしては、その薬の使用はありえない。
現代の医療では使われる事のなくなった禁忌の抗精神薬・催眠鎮静剤だ。



朦朧の意識のなか、その男を見上げた。髪の色は染め粉でも使用しているのか黒かったが、目を凝らすと、そのモルフォ蝶の羽の如く白い色素の瞳。白い睫毛。静脈さえ透き通る白い手。薄く笑う唇に整った顔。

ーーーあの夜会の時の、白い男だ。

変装をしているようで気が付かなかった。なんて失態だ。



「どうし、て、」
「またの再会をと言っただろう?さっき『しばらくぶり』と挨拶したのに気付かないなんて悲しかったな。……ただ調べるだけだ。そして解決したいのさ。君の知らない問題を」
「あなた、敵なの、」
「お仲間だよ。イヴ=ブレア、君のね。だからこそ助けたいと思っている。手荒で申し訳ないけど、君の彼氏が離れないものだから」


日常に潜む危険だ。まさかこんなところで。今肌身で実感している。とてつもない不気味さに全身がぞわっとざわめくが、身体はもう言う事を聞かなかった。



「……イルミ、……」
「ーーそれに、敵というのは意外にも君の内側にいるんじゃないかな。トロイの木馬の話はあまりにも有名だろう?」



薄れゆく意識の中、窓の向こうのイルミを眼球だけで見遣ったが、彼はもちろんこの男と私の関係を知る由もなく、ただ私を見守っている。この状況がまた不気味だった。だがイルミが見守っている限り、きっと私は肉体的な危険に直結することはないだろう。注射されたこの薬剤が本当にただのベゲタミンということを信じるならば。それなら、このノアイユという男の目的は何なんだ。私に近付いて眠らせて、一体どうしようと言う?

ーーー脳の検査?

私の脳が、一体なんだというんだ。



「イヴ、君を一つにするのさ。君が片割れに殺されてしまう前にね」


わからない。もうこの男が何を言っているのか。あの抗いようのない頭痛がやってきた。私を乗っ取ろうとしている。猛威を振るうあの暗闇。怖い。誰か……。


(イヴ)


あの女の声が響いた。そして、私は意識を失った。