15



それは永遠にも思えるような長い永い暗闇の時間だ。やはり訪れた。ブラックボックスの箱の中。そこに私と誰かは居た。その誰かは女だった。なぜだかわかった。姿や形はない。なぜならその女はそもそもそれらを持たないから。持っているのは私。ーーそう自覚した。それを理解したのが自分でも不思議だった。でもその感覚を確かに今得たのだ。そして囁きが響いた。



(ノアイユ)
(彼は仲間)
(私たちの仲を取り持ってくれた)
(貴女はようやく私を認識した)



これまでよりも強く囁きが濃く聞こえる。これまでは耳元でまたは遠くで、輪郭の持たない取り留めのない霧のような声だったが、今は目の前でそれが喋っている感覚があった。それがまた気持ちが悪かった。女は続ける。



(ノアイユは私達に干渉する)
(その方法を知っていた)
(同じだった)
(私も貴女に干渉できる)

ーーよくわからないことを言うな。私の声で。

(私は貴女)
(貴女は私)
(同一体。それは矛盾しない)
(ただ貴女が主であっただけ)

ーー陳腐な三文ミステリー小説みたいだ。二重人格とでも言いたいのか。

(似て非なる)
(私は独立している)
(貴女も独りだ)
(ただ器が同じだった)

ーー器?

(器とは身体のこと)
(例えるとティーカップに注がれた紅茶)
(器はティーカップ)
(貴女は紅茶)
(私はミルク)

ーー紅茶なんて理論的じゃない。

(二人は一つに混じり合っている)
(お茶そのものの貴女がなければ紅茶とは言えない)
(ミルクの私はおまけ)
(しかしもう混ざりあった。分離できない)
(それが私達)

ーー抽象的ね。はっきりものを言いなさい。

(彼の作る紅茶のようになりたい)
(ミルクを温めて、茶葉をいれ、少しの砂糖とはちみつ)
(主はお茶じゃなくて)
(ミルク)

ーー何が言いたい。

(愚か。わからないのね)
(何も知らないイヴ)
(お茶がティーカップを支配するんじゃない)
(ミルクがティーカップを支配するの)

ーー気持ちが悪い。結論は何だ。

(私は貴女になりたい)



吐き気がした。闇の嵐が箱を揺さぶる。こいつは今、私を文字通り支配しようとしている、そう感じた。許せない、と思った。何の権利があって私をそうしようと思っている。私を支配するのは私だ。あんたじゃない。お利口ぶって喋っているが盗人猛々しい女だ。嫌悪感さえ滾る。



(貴女になりたい。貴女に代わりたい)
(イヴ、代わって)

ーーじゃあ私は何処へ行く?あんたは今まで何処にいた?

(貴女の中)
(ずっと、見ていた)
(貴女を、彼を)
(貴女は何処にも行かない。ただ代わるだけ)
(貴女は私だから)

ーーふざけるな。私は私だ。一緒の人間ではない。

(私は私達よ)

ーー違う。あんたはただ潜んでいただけだ。私の片隅に気付かれないように隠れて陣取っていたんだ。まるでサイレントスパイだ。

(貴女が賢いと誉められるのは)
(私がいるから)
(私は貴女に私を貸していた)
(だから私達だ)

ーーやめろ。馬鹿みたいだ。そんなことはありえない。

(なら確かめればいい)
(ノアイユ)
(彼もまた彼等だった)
(今は一つになったから彼だ)
(彼にまた会いなさい)

ーーノアイユ。あの白い男は敵かもしれない。

(貴女にとっては、そうかもしれない)
(でも私にとっては、救いだ)
(じゃあ、私達にとっては?)
(だから確かめるのよ)
(私を嫌うなら、追い出したいなら、黙らせたいなら)
(きっと力を貸してくれる)
(彼は知ってる)

ーーあんたを黙らせることができる?

(一つになれば二人は干渉し合うことは無い)
(真の意味の融合体)
(私も私になれる)

ーーそれであんたに何が得られる?

(ああ。薬が。切れてきた)
(私を忘れないで)
(私はいつでも見てる)
(ずっとずっと見てるから)

ーー支配しようと目論んでいるのか?

(それもできる)
(貴女は弱いから)
(きっと死んでしまう)
(しかしそしたら私達は私でなくなるかもわからない)
(それは危うい)

ーー今支配しているのは私なのになぜあんたは消えない?

(貴女は支配してない)
(私達は未だ独立しているの)
(目覚めなさい、イヴ)
(そうしたら)
(イルによろしくね)

ーーイル、って。

(大好きな人)
(愛する人)
(私の未来の夫)

ーー何だと?

(イルミ=ゾルディック)












「起きた?」
「…………イルミ」


恋人が傍にいた。
いつの間にか私は瞳を開けていた。一番に目に入ったのは白い清潔そうな天井。私はベッドに横になって掛物を掛けられていた。ここは、さっきのあの検査室ではないようだ。周りを見回すと病室、私の荷物、そしてイルミ=ゾルディックがいた。右手が暖かい。そちらを見ると、彼がその手を私のそれに添えていた。指輪が蒼く優しく光っている。そして外はもう真っ暗闇のようだった。


「またうなされてたよ」
「私が?」
「うん」


そうだろうな、と思った。あんな夢ーー否、夢ではない。現実。ブラックボックス。頭の中の事実の出来事。納得できるはずがない。でも、私は認識してしまった。私の脳に潜むあの女の存在を。それはリアリティのない空虚な出来事そのものだったが、本当にあった真実だと理解した。

死人のような顔色のイヴをイルミは不安に思った。顔色が白く体調のすぐれないのはわかったが、そうではなくて、ーーまるで少しの別人のような。同じ人間であってそうではない誰かのように感じたからだ。この一抹の不安は、直感は何だ。検査の直前から彼女から片時も目を離さず傍にいたというのに、いつの間にか他人に代えられてしまったかのような、狐につままれたかのような感覚さえあった。


「ねえ。大丈夫?検査は問題なく終わったみたいだけど」
「……大丈夫。平気」
「また紅茶でもいれようか」


イヴは嫌な顔をして不快感を表した。
……紅茶。また、紅茶か。そんなものはもう腹一杯だ。見たくもない。頼むから、何も意識をさせないでくれ。ーーあの女がまた来る。紅茶の香りに引き寄せられて訪れてしまうかもしれない。怖いんだ。得体の知れない自分に気持ち悪さを感じてしまうのが、それを知るのが。


「……いい、いらない。悪いけど、一人にして欲しい」


しかし。イルミはじっと私を眺めて、手を離した。そしてすたすたと小キッチンへ向かうと、 私の拒否など聞き入れず、問答無用で作り始めた。それは今私が一番見たくもない、その紅茶だ。


「ちょっと、イルミ?」
「何?」
「なに、って……」


小鍋にミルクを温めて、沸騰する前に茶葉を入れ、ほんの少しの砂糖とはちみつ。まるで呪いか何かのようだ。私もそれを好きだが、……あの女がそうなりたいと示した紅茶を、彼が今作っている。勘弁してくれよ。そう思った。ティーカップにそれを注ぐ。匂いは一級品であり、甘い香りが部屋を支配した。けれど私は吐き気さえ感じた。またあのブラックボックスに引きずり込まれそうで。

イルミはそれをベッド脇まで持ち寄り、私に差し出した。目の前に突き出された紅茶。自分自身。あの女。私はそれから目を背けた。


「はい飲んで」
「……本当にそんな気分じゃないの」
「いいから」
「イルミ、」
「飲め」
「……わ、わかったから……」


恐る恐る受け取り、その褐色のお茶を眺めた。飲みたくない。もしかして、イルミは私の正体を知っているんじゃないのか?だからこんなことをして私の嫌がる顔を見て悦んでいるんじゃ?この紅茶を出してあの女が出てくるように仕向けているんじゃないのか?そしてあのブラックボックスに私を閉じ込める日をいつかいつかと待っているんじゃ?

全部すべて、これまでのこと、彼は嘘をついていたんじゃないのか?幼馴染みの思い出も、私への愛の科白も。偽っていたんじゃ……。


「ーー大丈夫だから。飲みなよ」


その紅茶を疑って見る私を言い聞かせるように、イルミは私の頭を撫でた。彼を見ると目が合った。彼の瞳には変わらずにただ星宙が拡がる。普段あまりにもそこにあるのが当たり前で気付かない。昨日、私を求めたその瞳が変わらずに見つめている。


「毒なんか入ってないけど?」


イルミはムッとして言った。それは今の私には的はずれな心配だった。むしろ毒さえ入っていれば今ならば幸せに死ねた。私が脅えているのはイルミじゃない。自分自身とあの女だ。だから、彼のその一言で、私は、イルミの何を疑うのだと考え直した。きっと彼は知らない。私の正体を。だからこその優しさ。検査を終えてなぜか不機嫌で、どこか脅えた、恋人のイヴ=ブレアという女を労わろうと、ただ紅茶を作って寄越した。ただ心配で。その証明に、彼は私の右手を握っていてくれたじゃないか。指輪が熱を持つほどに。ただそれだけをどうして私は拒む?



今度は、恐る恐る、紅茶を口につけた。
それは魔法のような紅茶だった。
ほんのわずかに甘い、いつもの味わい。どろどろに纏ったこの気味の悪い黒いものを浄化するかのように、それは溶けて行った。


「……おいしい」
「馬鹿だな、当たり前でしょ」


当たり前。
その一言にどうしてか救われた気がして、何故だか涙が一筋流れた。


「え。泣いてんの?」
「イルミ」
「俺何かしたっけ」
「違う、違うの」
「泣くなよ。訳がわからないだろ」
「うん……ごめん」
「はいじゃあ泣き止んで」


これもまた、イルミのいつも通りの傲慢さだ。恋人が泣いているというのにその涙を受け止めることはせず、泣き止めとただ命令する。しかしその指は私の目尻を優しく拭う。相反している。彼らしい。だから好きだ。でも私の涙はしばらく止みそうになかった。私は彼にすがり付いた。涙も鼻水も何もかもを彼の服に押し付けるように。服の向こうの体温を求めるように。


「ごめん……でも、もう少し、このままでいさせて」
「仕方ないな」


これは私の涙か、それとも暗闇のあの女の涙か。真偽はどうかわからなかった。しかし一つ言えるのは、ただ紅茶があまりにも美味しく懐かしくて、イルミが傍にいてくれたことに安心しきってしまったからだと思った。

彼の腕にすがり付いて泣き明かし、いつの間にか世が更けていくのを感じながらまた私は眠りについた。











「検査結果に特に異常はありませんでした」


ーーーそう言うと思った。
どこか心の外で他人事のようにカミーユ=ハンバートを見遣った。彼の表情はその分厚い眼鏡に覆われてよく伺えない。

検査のその翌日に、カミーユはカンファレンス室にて脳の断面画像や脳波計を示しながら詳細に説明を追った。イルミも勿論同席し、静かにカミーユの説明を聞いた。

カミーユは、あの日倒れたのは一概に原因を言えないが、迷走神経反射による一時的な失神か、はたまた心臓不整脈による脳虚血発作かもしれないということを説明してくれた。脳自体にダメージや異常はなく問題のないこと。定期的な検査通院は必要かもしれないが、治療にあたる必要はない健康体であること。

その説明を耳にしながら、そうじゃないのに、と心の中で皮肉った。自分の中で原因と正解を理解したから。きっとイルミはカミーユの説明で少しは納得したかも知れない。だからこれで一件落着だ。

ーーでも違う。頭の中の女が囁く限り、この問題は永遠に続く。

白い男、ノアイユという奴。医師の振りをして私に近付いたあの得体の知れない男。やはりというべきか、検査の後からどこかへ消えた。どの看護師に尋ねてもその行方を知る者はおらず、『この病院は医師も多く出入りの多い場所だから』と答えた。ベゲタミンは大脳質を一部覚醒させたまま催眠鎮静を促す作用がある。それを利用しあの巨大な機械で私の頭の中を確認した。そして直接的に、私の脳にいるあの女に干渉した。そのお陰で私はあの女を認識する羽目になった。認めざるを得なくなった。あの女はノアイユを仲間と言った。あの女を何とかしたいならばもう一度会えとも。あの女の言葉通りに奴と再会を果たすのは安易かもしれないがこの状況を解決するにはその必要がある。だからこそノアイユにされたことを、ノアイユという敵か味方かもわからない奴がいることは、イルミや従者らには黙る事にした。確かめるまでは、ノアイユが彼らに殺されてもらっては困る。


「ーーお嬢様?大丈夫ですか。何かご体調にお変わりが?」
「何でもない」


どこか厳しく、そして上の空のような顔をするイヴへカミーユは声を掛けたが、返答はすぐに戻ってきた。


「何がご質問はございますか」
「いや……ああ、そうだ、一つある」


カミーユ=ハンバートならば知っているだろうと、頭の直感が示した。


「ねえ。ノアイユって先生は。検査の担当医だったの。検査を終えてから姿を見かけていないんだけど、どこに行ったか知らない?」
「ノアイユ、ですか?申し訳ありません、私は検査中は別場にいたのでその男を存じ上げませんが……必要ならば医局に問い合わせさせ調べましょうか。もしかしたら院内か出先にいるかもわかりませんから。それにしても、何故?」
「……そう。なら忘れて」


ならばいい。きっとノアイユはあそこに現れる。
訝しんだ表情をするカミーユに気にするなと手を振ると、カミーユは眼鏡をかけ直しながら「ならばよろしいのですが」と妙に納得をしない様子だった。


「では説明は以上です。これにて検査入院は終わりですので、自宅へ戻りましょうか、お嬢様。私は事務手続きや記録作業があるので自宅まではお送り出来ないのですが、ルードヴィッヒを呼んでいます。お父上がご心配されて待っておられるので本日は直ぐ帰宅なさいませ、イヴ様」


カミーユは眼鏡を光らせてそう言った。







私達は病室へと戻り荷物を纏めることにした。たかが1泊2日であったのにやたらと長い1日に感じたのはきっと私だけだ。ああ、ゾルディック家でお世話になったのに挨拶もせずに家に帰らされるなら一言必要だったな、と思いながら衣服を纏める。私への愛のために生きる父が家で心配しながら待ち構えていると想像すると少し憂鬱に感じるものがあったが、電話一つの報告のみでこの間は済ませてしまったためやはり帰らなくてはとイヴは考えた。

イルミは窓のそばで腕を組みながらイヴの後ろ姿を眺める。そしてぽつりと言った。


「ねえ」
「んー?」
「あの医者が気になるの?」


ノアイユの事か、とイヴは片付けをする手を止めずに思った。突然何か気になったのか彼はピンポイントであの男について尋ねてきた。勘づいてしまったのか。だが今はまだイルミは知るべきでは無い。ノアイユの事も、私自身の事も。なので否定することにした。


「違うよ、どうしてもお礼がしたかっただけ」
「ふーん。気になるんだ」
「そんなことない」
「気にしてるでしょ。俺ほどじゃないけどイケメンだったしね」


なんだかイルミは尋問のようにつついてくる。俺ほどじゃないけど、って自己評価が高いことは突っ込まないでおいた。


「そう、だったかもしれないけど、でも違うよ」
「へえ。そう思ってるんだ」
「いやあの医者をイケメンなんて思ってないしそうじゃなくてね、」
「素直に認めればいいのに」
「……どうしちゃったの、そんなつっかかってきて」
「別に。良かったね、随分楽しそうに話してたし」


楽しそうになんかしてない。ブラックボックスの中での出来事が頭を過ぎる。イルミからすれば私はただ眠っていただけかもしれないが、その脳裏で私がどれだけ文字通り苦悩したか知らない。ノアイユが接触してきた時のあの恐怖、頭の中のあの女のヒステリー。話さないのは私の都合だが、全部全部知らない癖にそんな言い方をされるとたまらない。


「……なんなの、本当に。イライラする。私イルミと今ケンカなんてしたくないよ」
「こっちだってイラついてるんだけど」
「なんでよ。あの医者にはお礼をしたかっただけと言ったでしょ、それ以上なんてないよ。楽しそうに見えたのなら絶対にそれはお愛想だし、イルミの目がおかしいって。こじつけが過ぎる」
「どうだか。イヴが身内以外を気にするなんてこれまで無かったんだからそう感じるのは当たり前じゃない?いいからさっさと謝ったら」
「やだ。謝んない。謝るイコール認める事だから、絶対にやだ」
「じゃあ認めなくていいから謝っておけば。それくらいの情状酌量の余地はあるからそれで許してあげるけど」
「絶対絶対絶対やだ謝らない!なんなの謝れ謝れって、そんなことで絶対納得なんてしないくせに物分かりのいいフリして」
「お前はひどく駆け引きを知らないね。こういう時は謝っておけば後で燻ることは無いんだよ。強情だな」
「私は強情かもしれないけどイルミこそひどいよ、身に覚えがないのに一方的過ぎる。なんなの、ヤキモチでも妬いたってわけ?」
「悪い?」
「え」


窓から、一陣の風が穏やかに吹き込んだ。この場にそぐわない暖かい風に、同時に香るイルミの匂いに、言葉が出てこなくなった。


「妬いちゃ悪い?」


イルミはそっぽ向いて鼻を鳴らした。ため息もついた。
ヤキモチ?あのイルミ=ゾルディックさんが嫉妬?


「……や、ヤキモチなの?」
「そうだけど」
「イルミでも妬いたりするんだ……」
「あのさ。前から思ってたけど。イヴ、俺の事人間じゃないって思ってない?」
「そ、そんなこと、な、ないよ?」
「絶対思ってる。俺だって人間だし恋もすれば妬きもするよ」
「でもそんな、妬く程の事じゃないのに、本当に」
「俺はお前を心配してるんだよ」
「心配はそりゃ、ありがたいけど。付き添いも嬉しかったし」
「そうじゃないよ馬鹿」


馬鹿って言われた。なんでわかんないのかな、と呟きながら彼はこちらへ向いた。


「全部心配なんだよ、全部。まあイヴの体も大事さ。でもそうじゃない、イヴに関わろうとする全ての物、人、男。心配なんだ。嫌なんだよ本当はね。下僕も、父親も、あの医者だってそう。お前を心配で心配で閉じ込めてでも置きたいけどそうしないのは俺の寛容な部分だ。弟を縛っているのに、どうしてお前を縛らないのか不思議に思わない?」


侵略と支配と、そして自由。彼女は人を惹きつける。だから本当は縛りたいし囲いたいし独占したい。しかし自由に過ごさせなければ、きっと笑顔を見せなくなる。そして心が俺から離れる。それは苦しい。だから譲歩している。それをこいつはまったく理解していない、だからイラつく。


「忘れるな。俺は我慢してるんだってことを」
「はあ……」


ぽかんとした顔でイヴは答えた。わかっているのかいないのか。またイラついた。


「わかったなら少しは俺の気持ちでも汲んでそっちからキスの一つでもしたらどうなの」
「キ、ええ…………それはちょっと」
「何、出来ないってワケ?人の事付き合わせといて世話させといて、検査の後から泣くし喚くし浮ついてるし」
「な、喚いてはないし浮ついてもないし。そりゃありがたかったけど」
「あ。浮ついてるんだから罰を与えなくちゃ」
「え”っ」
「確か……俺以外の嫁にはなれない身体にしなくちゃいけない、だったよね」


ジリジリと近寄ってくるイルミ。その表情に少し危機感を抱く。


「ま、待て待て待てこら浮ついてないのに何で!」
「じゃあ気持ちを俺に示しなよ」
「気持ち、って」
「キス。お詫びとお礼。安いもんでしょ」


確かにゾルディック家の御長男に護衛に着いてもらったという意味では金銭ではないしとってもお安いかもしれないが、こんな覚悟を要するならば金銭の方がマシとさえ感じる……。


「さっさとしなよ。キスか、俺以外の嫁にはなれない身体か、どっちがいいのかな。俺は後者でも全然いいんだけど」
「わ、わかったよ……」


直立不動で待つイルミ。要求するならば少しは気を使って目でも閉じろ。こっちがそういうことは苦手だとわかっているくせに無理を言ってからかっている。

仕方ない、腹を括る。

まずは、背の高い彼の肩に手を置いた。なんでこんな身長馬鹿でかいんだ。「ちょっと届かないよ」と抗議すると、彼は首を傾げて、屈んだ。よしこれで届く。あとは勢いだ、とばかりにイルミの白くて綺麗な顔をぐいっと引っ張り、頬に荒々しく口付けをした。キスはキスだ。条件なんて無かった、ミッション達成だ。……それでも私は顔が赤らむのを止められはしなかったが。


「………………。」
「あ、あの。無反応だと困るんですが。本当に恥ずかしいんですが」
「……まあ、いいか」
「最大限努力したのに何その反応」
「褒めてるんだよ」
「嘘つき、絶対不満そうだった」
「そう、不満。だから今度は俺が不満を晴らすから」
「わっ、ちょっと、」


言うや否や、イルミはがしっと私の腕を掴んだ。そしてそのまま彼の腕の中にすっぽりと包み込まれ、抵抗の出来ないよう力を込められた。思わずイルミを見上げてしまったが最後、彼の綺麗な顔が私を見下げる。そして間髪入れずに唇にキスをされた。

「んーっ」

抗議の声を上げようとするが、うまく唇で押さえられてそれは叶わない。イルミの肩を叩くがそれも押さえつけられて幸をなさない。またもや完全に彼の支配下のキスだ。

しばらく、彼の気の済むまで長い口付けは続いた。ようやく解放された時には私は力が抜けて、彼に撓垂れ掛かる。
紅潮するイヴの頬に、最後にイルミは唇を寄せた。


「は、ちょ、いるみ」
「よしよし」
「な、にそれ……」
「一歩前進」


痛いくらいに身体を抱きしめられる。骨が折れそうだ。恥ずかしさはあったが、彼の温もりと支配が心地よくて結局拒めずにいるのは私の悪い所。キスこそ苦手だが、こうして抱擁で愛情を示してもらえるのは嬉しい。これだけでいいのに、と思いながらイルミの腕の中で彼の匂いを嗅ぎつつ目を閉じた。



















「…………………………あのぉ、もうそろそろいいですかね。イチャイチャしないで貰えません?俺登場しにくいんですけど」



飽きれた顔で私達を見下げたルードヴィッヒが腕を組んでそこに居た。私は目をカッ開きあらん限りの力を振り絞ってイルミを突き放した。


「るっ!!るる、ルーイ、いつから……」
「ケンカしてたあたりから?」


それはつまり、ほぼ最初から居たことになる。だったら止めてくれよ。というか、イルミわかってたろ絶対。イルミを睨むと彼は目を逸らして知らんぷりを決め込まれた。


「じゃあ迎え来たから俺行くね。また近い内に行く。しばらく仕事重なってるから間空くけど恋人なんだから連絡してよね」
「えっ、待っ」
「じゃまた」


イルミは用事は済んだとばかりにさっさと行ってしまった。こういう時空気を読まずに行動するのがイルミだ。ちょっとはフォローして欲しかった。


「………………。」
「………………。」


残るは私とルードヴィッヒの沈黙のみ。いたたまれないとは、まさにこの事だろう。可愛がっていたペットの猫が町角で他の猫に盛りをついているところを偶然目撃してしまったかのような、そんな見下す視線でルーイは私に言った。


「……迎えに来させられて、犬も食わないケンカ見せられて、イッチャイチャイッチャイチャしてるのを見せつけられた俺、本当に可哀想」
「そ……そうだよねごめん……」


返す言葉も無かった。
帰りの車中、ルーイにねちねちと健全なお付き合いとは何かを語られた。過去に前科のあるルーイにそんなことお説教されたく無かったが、辱めがある以上何も反論の余地なくただただ苦痛の自宅までのドライブをすることとなった。イルミめ、やるだけやって逃げて。今度会った時はルーイに怒られた分だけ責めてやりたい。


「ちょっとお嬢!聞いてます?!」
「あ、はい……聞いてますとも」
「これ聞いてねえな。いいですか、最初からつまるところ言いますけどね、オトコってのは狼なんです。あの旦那も俺もカミーユ先輩もそうなんです。いっつも全然俺たちに気を許して警戒してなくて大丈夫かなーとか思ってましたけど今回でわかりましたぜ。貴女全然わかってないんですよオトコってのを。いや俺たち下僕は信用して貰っていいんですけどね、あの旦那は油断してたらとっ捕まって食われちまいますよボーっとしてると!ほらまたボーっとしてる!!」
「聞いてる、聞いてるから、ルーイ、ごめんて……」
「いや信用しませんよそんなの。だからですね健全なお付き合いってのはお互いの信頼あってこそであってです。近代のパドキアは急速に男女の不純異性交遊が進んでます。それはSNSの発展に人類の足並みが揃っておらず時代の流れに乗っているようで流されている若者たちがその背景にいるんです。お嬢もまさかその一人だなんて俺は耐えられません。お嬢がもしも、もしも結婚前にイルミの旦那と関係を持っちまったら。俺は下僕の責任を負ってハラキリせねばなりません」
「責任重い……というかそんなことはならないもん……」
「黙らっしゃい!言い訳ガタガタ言うのは許しませんから!!」
「ひいっ、ご、ごめん……」


ルードヴィッヒのお説教は到着まで止まらなかった。年下から、しかも従者からお説教されるなんて。こうして私の従者からの信頼は失われていくのだな、と過ぎ去る景色を眺めながらスワルダニシティへと車は走っていった。