16



「ああ、イヴ、体は大丈夫かい?倒れたと聞いた時は心が凍りつきそうだった。今はその氷も溶け切ったよ、お前の元気な顔を見れたのだから。さあおいで、熱い抱擁をしよう」
「父様、ただいま」


道中ルーイからの延々の説教に暮れながらイヴは自宅に帰宅した。総統執務室に通され、そこに居たのは実父エドワード=ブレア。まずはエドワードからの感極まった抱擁を拒む理由もないのでイヴは受けた。ぐりぐりと顔をくっ付けてくるエドワードの薄ら髭の感触に少し引け目を感じたがそのまま好きなようにさせた。唯一の肉親、ただ一人の娘。その病の可能性に肝を冷やすのは人類どの親も気持ちは一緒だろう。心配させて悪かったな、とイヴは思った。


「検査の結果はどうだったんだい」
「……うん、カミーユは問題ないって、健康体って言ってた」
「ああ、きっとそうだろうね。そう言うに決まっている。私の命以上の我が子の体に何か悪い異常でも見つかろうものなら、私はきっとカミーユ=ハンバートを殺す」
「何で!?」
「ハンバートは専従医師だ。お前の健康を預かり守ることこそ仕事。それを出来ない上でのうのうと生き続けることは苦痛だろうから、私がいっそ絶ってやるのが親切というものだ」
「それにしても私の健康の重要性が重いんですけど。……というか、カミーユを解雇って……」
「ああ、解雇した」


爽やかな笑顔で、解雇したけどそれが何か?とでも言い出そうな父に恐ろしさを感じる。


「お前の一大事に傍にいないのならいらないだろう?」
「……何も解雇まで。本当に辞めてしまいそうだったのよ」
「イヴ、お前は情け深く優しいね。周りに注意をしなさいと言っただろう。悪い芽は早く摘む必要がある。ハンバートが直接的に害を為したのではないが、責任を負う必要があるのは道理だ」
「でも許したいの。傍に居て欲しいから」
「イヴが許したいのならば私はそれに従う。ただ共に長い年月を過ごした情に流されてしまってはならない」
「……でもカミーユもやっぱり特別な人だから」


そう、特別。私の幼少の頃より付き従ってくれていた、お兄さん。兄であり家族であり従者。幼少の頃は肩上りをさせてくれた。小学の頃は父の代わりに授業参観に来てくれた。中学の頃は進路相談に乗ってくれた。高校の頃は文化祭に来てくれた。大学の頃は研究の手伝いさえしてくれた。愚痴も聞いてくれたし沢山送迎してくれたし嬉しいことや楽しいことを共有した。ずっとずっとお世話になったのだ。血の繋がりこそ無いものの、その信頼や、共にすごした年月が、私のカミーユをつなぎ止めたいと思う気持ちを増長させる。


「ああ、分かったよ、分かった。そんな顔をするな。妬いてしまうだろう。カミーユ=ハンバートは今後お前に処遇を任せる。ハンバートを手荒に扱って悪かった」


私がどんな顔をしていたか知らないが、カミーユを理不尽に解雇したことを父は少し悪いと感じたようだ。「ううん、ありがとう」と告げると、父は少し複雑そうに私の髪を撫でた。


「ただ忘れるな。お前の弱点は味方だ。情けや優しさを履き違えてはならないよ」


父の眉間に寄った皺。私と同じ茶色の瞳。切れ長の目。少しの無精髭に似合わない最高位の軍服。私の頬に添える父の手に、私も右手を添えた。この厳つい父の心配がどういうものを示しているのかこの時はわかっていなかった。








「その指輪は……」


ぎくっ。鳴り響くならこの効果音だ。そうだ、父親にはしっかりと報告していない。ルーイやカミーユから何かしら連絡されているかと思ったがこの反応ではその線は薄そうだ。穴が開きそうなほど私の右手を見ている。


「それは、シルバから渡されたのかな」
「う、いえ、シルバさんじゃなくて」
「シルバじゃなくて?」
「いや、その……、イルミから……」
「何。シルバの倅からだと?」
「えっと、その、交際の証として……お付き合いをまずは始めようと……」


おそるおそるそっとイルミとの交際の事実を告げた。当初あれだけイルミとの結婚を大反対していた父。指輪をただただ凝視して固まっている。どんな反応が返ってくるかわからないが、ただ次の三つであることは何となく想像できた。怒るか、哀しむか、それとも狂うか。さあどれだ。


反して、父は緩やかに笑った。


「ああ、そういう事になったのか。粋なことをするじゃないか、シルバめ。懐かしい、変わらずユリの瞳のように輝いている」


本当に意外にも父は穏やかにそれだけの反応であった。例えるならばノスタルジックだ。古い思い出の品を久々に邂逅し懐かしい思いに馳せている、そんな表情。


「だ、大反対すると思ったのに……」
「暗殺家の殺人者の鉄仮面のあの野郎にお前を渡すのは嫌だとも。お前にはあんな奴よりもっと素晴らしい男がいるに違いないがこの父を超える男は他人類にはいないから、仕方なく交際には目を瞑ってやるだけだ」


父は溜め息をついた。難色を示している、そんな気持ちもあり、本当はめちゃくちゃ嫌らしい。しかし続けて言った。


「だが、お前が自分で決めたのならいい。その指輪を付けることを、イルミの想いを受け入れると、お前が自分で選択したのなら。そうなんだろう?親は子の想いを汲んでやりたいと考えるものだ。たとえ気に食わない男と付き合うと決めたとしても」


蒼い石が光った。何故か母の霊がそばにいるような感覚を覚えた。そうだ、と背中を後押しするような支援の温もりが背後にあるような。


「その指輪はやはり、その尊い血の流れるお前の指でこそ輝く」


尊い血。百合の貴族の末裔であることを言っているのか、それともユリ=ブレアの遺された子であることを言っているのか、自身の唯一の血縁者であることを言っているのか。


「ユリの生き写しのようだ。イヴ。愛する娘。ずっと綺麗な子だったが、久方振りに顔を合わせるとより美しくなったと解る。それがどうしてか少し別人のようでなぜだか哀しい」



そしてエドワードは、最後にイヴの頬へキスをした。

父との会話を終え、自室に戻り、月光に照る母の肖像を眺める。金のブロンドに、蒼い瞳、愛嬌のある笑顔。とても似ても似つかない。私は父に似た。私は母のように美しくはない。しかし父もシルバさんも生き写しとまで似ていると言った。どこが似ているのか、きっと当人以外にしかわからないだろう。





出かける支度をする。出向く先は決まっていた。夜の街。
いつもは怖くなんてないのに、どこかネオンが妖しく見えた。
これより私は独断で行動する。だから連絡手段ーー通信機器は置いていく。ルーイやカミーユ、父にも、そしてイルミにも知られたくない。


私は美しくなんてない。きっと美しかったら、この後ろめたい気持ちを隠してこれから夜の街にこそこそと出掛けたりなんてしないだろう。きっと美しかったら、私を真に心配してくれる人達に相談するべきだ。でも言えない。まだ自分の正体を知るのに恐ろしさがあるから。恋人に気づかれたくないから。頭の中にどんなに醜い生き物を飼っているのか、美しかったらそんなもの無い。


行かなければならない。あの男に会いに。今宵は満月だから。











昼間はカフェ、夜間はバー。旧い店だが手入れが行き届いており、昔ながらの調度品が並べられている。ステンドクラス。鈴蘭型のランプシェード。小ぶりなシャンデリア。趣味の良い赤絨毯が一層雰囲気を醸し出す。手に馴染む本皮のソファ席には誰もおらず、口を噤んだ老齢のマスターは黙々とグラスを磨く。バーカウンターにはクリスタルの花瓶に一輪の百合が生けられている。ーーアーネンエルベ、まさにこの店の名前だ。

暖色に包まれた温かな店内に、その男は座っていた。腰ほどまである白髪のようなアッシュブロンド。白い肌、白い睫毛、白い瞳。顔立ちは美しい。目立つ白の三つ巴を見に纏い、その立ち姿はまさに白百合のようだ。そして透き通るようなグラスに、ロックのウォッカ。酒は強い訳ではないが、どうしてもこれを飲まずにはいられなかった。なぜなら、今夜は彼女が尋ねてくるからだ。

ちゃりん、とベルが小さく鳴った。

その幸運の貴音に、白い青年は思わずその口端に笑みを浮かべた。そしてそちらへ顔を向ける。案の定、そこには彼女が怪訝な表情で立っていた。



「来るとは思わなかった。光栄だな」
「……白々しい。来るとわかっていた癖に。先生?」
「実の所、僕は医者なんかじゃないんだ」
「今のは皮肉よ。医師であろうとなかろうとどうだっていい」
「まさか皮肉を言いにここまで来たの?」
「ここへ来たのは私の意思、でもそれはあなたが呼んだからでしょう、ノアイユ……といったかしら」
「ーーそう。ずっとずっと、貴女を真隣に見つめながら酒を酌み交わしたいと思っていた。本当に嬉しいよ。イヴ=ブレアさん?」



現れたのはイヴ=ブレアだった。まずは敵意をノアイユに示すが、この白い青年はさほど気にもとめてない様子があった。それどころか絶え間ない微笑みを返してくる。不愉快だ、とイヴは純粋に思った。



「僕のメッセージをわかってくれてたんだね」
「……ただの帳尻合わせでしょう」



イヴはただふらりとこの店を尋ねた訳では無い。この男の言葉合わせをただ覚えていた。アーネンエルベ。満月。それを暗に指定したのはノアイユだ。


『でも、是非このようなつまらない場でなく、もっと時間を気にする必要のない空間で御一緒したいな。例えば、アーネンエルベの老舗でね』
ーー夜会でのファーストコンタクトの時。パドキア独立記念日祝賀会のバーの一端で酒を煽る私と初めて会話した際に、この店を示した。

『僕も貴女みたいな方とお近付きになれたらな。貴女を眺めながら飲むお酒はきっと美味しいんでしょうね、次の満月の夜は空いてますか?』
ーーそしてニヴェアリリアム病院にて検査のため医師の振りをして私に接触した時。ただのロマンチックな軟派のように聞こえた文言だが、日時をこの満月の夜と指定した。



すべての接触はこの夜のため。

ただし誰にも気付かれないように、密やかにそれは私へと伝達された。



この男の言葉の通りにこの日ここへ来るのは癪に障る以外の何者でもなかった。しかし、ここへ来なければならない問題がある。あの私の頭の中のブラックボックス。そこに潜むあの女を知るのは、私とこの男とおそらくあと一人しかいない。だがこのノアイユという男がわざわざイルミ=ゾルディックの目を出し抜いてこちらに触れてきたのは、それはつまり、イルミとは純粋な力量の差があるということ。しかしそれは、私がイルミに隠れてこの男に頼るほか無いと解っていた、という自信の表れでもある。

だからこそだ。手の平の上にいる、その感覚に腹が立って堪らない。



「まずは座りなよ。そんな怖い顔を。綺麗なのに台無しだよ」
「黙りなさい」


一喝する。おお怖い、とノアイユは肩を竦めた。私の気を逆撫でるような態度にさえ見えてきた。男の隣に座る。足の浮いた丸椅子が心もとない。


「ねえ、イヴ、何か飲もう。勿論ご馳走するさ」
「結構よ」
「そんなことを言って強情だね。本当は飲みたいだろう」


イヴはその指摘に表情を険しくさせた。
何故解る?これまでは、ここ最近までは、さほど酒には興味が無かった。嗜む程度だった。だが、最近は堪らないのだ。酒を、アルコールを摂取したいと願うばかりの自分がいる。それをこの男は何故知ったように解っているのだ。


「何故わかるんだ、って顔してるね。僕も貴女と同じだから。否、正確には同じだったと言うべきかな。脳が欲している筈だよ、アルコールを。だから理解はしているつもりだ。溺れるほどに飲みたい、そうだろう?」
「要らない」
「我慢をするより程々に摂るのが良策だ。マスター、ハイボールを彼女に」


ノアイユが命じると、そしてマスターはそっと薄褐色の透き通った美しいスコッチ・ウイスキーを目の前に置いた。『それに手を出せ、飲め』と欲する自分がいたが、私はそれをただただ無視した。この男の言う通りにこれ以上なってたまらない。

そして目の前の一輪の白百合が目に止まる。どうしてこんな時に、こんな場所に、百合が一輪置いてある。それさえも苛立たせる。百合が私にとってどんな花でどんな意味を持つか知っているのは、誰だ。誰が置いたのだ、こんな目の前に、思い出のこの白百合を。


それを睨む一瞬の私の視線に気づいたのか、ノアイユは気遣って言う。


「綺麗な百合だね。まるで貴女だ」
「うるさい」
「冷たいな、心からの賛辞なのに」
「そんなこと今はどうだっていい」


本題だ。単刀直入に聞いた。偽りや嘘は許さない、と侮蔑をこめて。


「ーーーノアイユ。貴方は何者なの」
「お仲間さ。同類と言ってもいい。言ってただろう、君の中の彼女も」


ノアイユはやはり私の頭の中の出来事を何故か知っているようだった。だが私の聞きたいことはそんな抽象的なはっきりとしない事じゃない。どうして私しか知りえない事をわかるのか、知った被っているのか、それを問いたいのだ。


「そんなことを聞いてるんじゃない。貴方の事を説明して」
「僕の事に興味を持ってくれて嬉しいな」
「茶化さないで。聞きたいのは貴方の、」
「僕と貴女の事。そうだろう?僕と貴女の見えない共通点。仲間である証、同類の絆、それを知りたいんじゃないのかな」


イヴは不愉快をその表情に露わにした。


「……私と貴方が仲間ですって?薄っぺらな比喩をしないで」
「本当のことなのに」
「共通点なんて何一つ無いわ」
「仲間だよ、僕たちは。選ばれたんだ。神や運命という不確かなものが事実あると仮定するならば、きっとそういうものに選出されたんだ」
「選民思想も甚だしいわ。人間には上下なんて無い」
「残念ながら人間に上下はあるよ。実際、貴女の身近には彼らがいるじゃないか」


彼ら。ルードヴィッヒ=デルフェンディア。カミーユ=ハンバート。大好きな二人の顔が思い浮かんだ。


「彼らは仲間よ。貴方なんかとは違う。下僕や従者とはただの役割や名称であって人間としての上下関係ではないわ」
「そう?彼らはそう思ってはいないみたいだけど?」
「貴方が何を言っても、人として愛すべき友であり仲間なの」
「お優しいね。その仲間からの裏切りに気付いているくせに」
「………………。」
「ねえ、本当は気付いているんだろう?君の大事で大切な身内であるその仲間が、本当はそうじゃないって、薄々、しかし確信してるんだろう?敵は身内にいるんじゃないか、そう言ったよね、僕は。なのにわかっていてそれをただ見過ごすなんて聖女のようだね。でもーー」
「黙って!!」


その先を言うことは許さなかった。たとえ事実であり私も確信を得ている事であっても。まだ信じていたいのだ。ただそれだけじゃない。彼はきっと大きな目的の為に、そうしているんだということを。仲間なのだ。ずっとそばにいてくれた大事な人。だが、ただそう信じるやれるのは、私しかいかないから……。

ノアイユは生暖かい視線でイヴを見遣った。



「……いずれ忘れるさ。僕も忘れた。仲間も、家族も、友人さえ」
「私は貴方なんかとは違う」
「同じだよ。だって何よりイヴ=ブレアを理解している者が、貴女の頭の中に既に居るからだ。僕もそうだ」
「それって、」
「僕もかつて、本当は二人の筈だった。でも一つで産まれた。前は頭の中で喧嘩ばかりしていたけど、今は大人になって仲良しになった。一つに融け合ったんだ」
「二人?」
「消えたもう一人。そういう事さ」




頭の中。本当は二人。一つに産まれた。喧嘩ばかりしていた。今は大人になって仲良くなった。しかし一つに融け合った。消えたもう一人。


それはいくつかのヒントでありながら、明確な答えだった。



この話はここまでだ、とノアイユはそれ以上口を開くことをやめた。というのもイヴに気遣いを見せたからだ。未だ全てを知るべきでは無い。イヴにはその覚悟が充足していない。独りでここまで足を運んで健気にも戦おうとしている。その獣のような美しさは賞賛すべきだがひたすらに脆弱過ぎる。そうノアイユは感じた。怯えたイヴの瞳。しかしあまりにも可愛らしい。


「自分を知るのが怖い?」


図星だった。しかし私は勿論眉を寄せて首を振った。


「私は私よ」
「そうだね。でも自分に知らない女が住み着いている感覚はどう?」
「怖がって欲しいわけ?」
「いいや違うよ。でも、健気にも強がるイヴも素敵だね」
「おべっかは結構よ」
「本心だよ。閑かに荒々しく、しかし高貴でいて、弱々しい。百合のようだ。とらえどころのなく自由に咲き誇るようでいて、誰かにその百合根を縛られている。僕はそれを救ってあげたいんだ」
「何を言いたいわけ」
「貴女が好きなんだ」


その言葉に思わずノアイユへと振り返ると、ノアイユはただそのモルフォ蝶の羽の様な瞳を真摯に私へ向けていた。その眼にはこれまでの茶化しやおべっか等のおふざけは見当たらず、ただ本心を告げた一人の美しい白い青年の科白のように思えた。しかしそれに応じる余地は無い。


「……お生憎だけど恋人がいるの。諦めて消えて」
「勿論、イルミ=ゾルディックのことは知っているよ。でも本当に彼が好きなの?流されていない?彼は美しいけど強引で、繊細なようで粗野だ。君に無いものをくれる。魅力的だよね。でもそれって、本当に恋なのかな」
「私達のことに口を出さないで」
「彼がずっと、結婚の約束から貴女を二十年もの間待っていたこと。それに罪悪感を感じて今の関係を了承したんじゃないの?」
「違う。私が決めたのよ。そんな訳、」
「それに、結婚の約束のこと。もしかして、薄々勘づいたんじゃないか」
「…………やめて、」
「あの日。六歳の時の、約束の真実」
「やめて」



それは。それは、イヴにとって、一番痛く辛い内容だった。そう。この男の言う通り、少しだけ思っていた考えだ。誰にも気付かれたくはなかった。しかしそれさえもノアイユは揺さぶりをかけた。欲する彼女を得るために。




「イヴ。貴女は約束を忘れたんじゃない」

やめて。その事を言わないで。

「だって貴女は元々約束なんてしていないのだから」

全く記憶に無いなんて少し変だと思っていた。

「つまり、約束をしたのは貴女じゃなくて」

でも違った。そもそも前提が誤っていた。

「貴女の中のもう一人」

頭の中のもう一人の私の存在が、確信に至らせた。




『大好きな人』
『愛する人』
『私の未来の夫』
『イルミ=ゾルディック』



あの女が最後に呟いたその一言。『未来の夫』。それは、もしかして。


「結婚の約束をしたのは貴女じゃなくて、もう一人の彼女だ」


そうなると。イルミが好きなのは。イルミが愛したのは……。


「さて。イルミ=ゾルディックが幼心にも結婚を決めたほど絶対的好意を向けたのは……、本当にイヴ=ブレア、貴女なのかな?」


イルミが求めたのは、私ではなかった。その悲しい可能性。
そして頭痛がした。そう、やっとわかったのね、と私を嘲笑うようなあの女の声が響いたような気がした。









ノアイユはウォッカを煽ると、その空杯を置いた。


「ーーここまでにしよう。強情な誰かさんは酒を交わす気分じゃないみたいだし」



その独り言のような男の提案に、イヴはもはや答える気はなかった。その表情は少しの絶望を覆い隠すような無表情。

悲しい。苦しい。イルミ。私じゃない。愛されていないかもしれない。騙している。言えない。あの女。聞けない。確かめる勇気がない。このままでいたい。でも彼の愛は空虚になる。私は耐えられるのか。罪悪感。一生つづく。
……彼が愛したのは私ではないかもしれないのに、どうして彼からの安寧を受け続けられる?本当にそうならば彼を好きになるだけ、罪と苦しみが増す。彼を、これ以上好きになってはいけないのではないか。

この思考を打ち消すかのように、ノアイユが私の肩に触れた。


「さっきのは僕の本心だ」
「…………何が本心よ」
「貴女を好きだと言った事。どうか考えておいて。ちゃんと言っておくけれど、僕は貴女を理解した上で、貴女を好きになった」
「嘘よ。貴方みたいな人間が人を好きになるなんて、」
「それは貴女にも決められない人としての僕の気持ちだ。僕も人間だからね。イルミ=ゾルディックと僕。イヴ=ブレアを考える気持ちは同じだと思うけれど」
「絶対違う」
「悲しいな。好意の本質は同じなのに僕だけを否定するんだね」
「私を知らない癖に」
「それは年月での経過を言っているの?それなら僕は一目惚れだから」
「胡散臭い」
「イルミ=ゾルディックを好きなの?だから彼以外の好意を許さないんだ」
「……ち、違う」
「イルミ=ゾルディックを愛しているの?」
「愛して、なんか……」
「僕を見て」
「え……」


流れる水のように、イヴの頬に添えられたその白い手を振り払う事さえ出来なかった。顔を背けていたノアイユの方へと、ゆるやかに向かされる。

そして重なる唇。それに気付くのにいくらか時間がかかった。目の前に閉じる白い睫毛。イルミとは違う男のキス。また異なる感触だった。しかしなぜか強い不快感が湧かなかったのは、イヴの絶望をその温もりが埋めようとしたからかもしれない。

少し触れただけで、ノアイユはイヴから離れた。



「何、を……」
「貴女は恋人を好きでもなければ愛してもないと答えた。それなら僕が貴女にキスをするのに理由なんて要るかな?」
「私の許し無しに」
「許したじゃないか。唇を触れたと認識したけど、拒まなかった」
「黙れ。違う。……今のは、」
「嫌なら今からでも僕の顔を引っ叩くと良い。僕は怒ったりしない」


ぐ、と手を握ったが、この男の横っ面を叩く気にはなれなかった。迷い、驚き、混乱、それらが逡巡し、胸がつかえて、抵抗を示す力さえイヴには湧かなかった。その様子のイヴに不敵にノアイユは微笑む。そう、その憎らしい笑み。それこそ今からでも遅くなければ殴りたい。しかし、きっと先程のキスを根本から否定するには、タイムオーバーだ。


「夜は危ない。送り届けようか」
「……私に殺されたくなければ今すぐ消えて」
「物騒だな。でも怒る顔の貴女も美しい」
「黙りなさい!!」
「……少し意地悪しすぎたかな。でも許しは乞わない」


ノアイユはいくらかの金銭を置き、席を立った。しなやかな身のこなしで、アッシュブロンドの長髪が煌びやかに揺れる。


「またね、イヴ。ーーこれからは覚悟を決めておくことだ」



またって、いつだ。結局何もわかっちゃいない。得ていない。貴方の事、私の事、その共通点とかいうものを。あの女を黙らせる方法を。


「貴女は答えを確かめなくともわかっている。ただ認めるのが嫌で怯えているだけだ。答えを認めた時、また貴女に逢いに行くよ」


ちゃりん、とベルが鳴り、扉は閉じられた。
そうして白い青年は去っていった。

残されたのは屈辱と、苦痛と、行き場の無い怒り、そしてハイボール、そして唇を手の甲で拭うイヴ=ブレアだけだった。


どうして。どうして私はこんなにも弱い?
自分の正体が、頭の中のあの女が、仲間の裏切りの可能性が、過去の約束の誤りが、その絶望が、イルミの愛の行先が。認めたらいいのか?だがその先に何がある。絶望や消えた未来。そういうものしか思い浮かばない。だからこそだ。しかし認めるのが強さなのか?

右手の薬指に光る指輪の蒼い石が光った。

こういう時、お母様なら。美しい人、ユリ=ブレアなら、どうしたのだろうか。自分が死ぬと知った上で私を産んだ母。私は、自分の行方がわからないだけでこんなにも足が竦んでいるのに。私はユリになんて似ていない。自信もなければ勇気もない、ただの小娘だ。百合の末裔の血。なにが貴族だ。


「私に百合なんて似合わない」


がた、と席を立つ。

老齢のマスターはこの出来事の最中それでもこちらへ一瞥もせずにグラスを磨いていたが、しかしただ一言、目を据えて私へ言った。


「……百合の一族より離れ、傍観の身に徹しております老人の戯言をどうかお聞きくだされ。ーーイヴ様、百合の末裔ならば高貴でおありなさい」
「……じいや、……でも、私は……」
「ユリ様も生前、気高い血筋とは何か、自らが何者で、何処から来て、何が出来るのか。悩んでおられたが、ユリ様は答えを見出しました」
「答え?」
「その果てに得たのが、貴女様なのです」



マスター、かつて百合の貴族に仕え、母の執事であったじいやは、火の意思の灯る眼でそれだけ告げ、またグラスを磨き始めた。

美しい人の死の答えの先にいるのが、私。なんて可哀想な母。こんな小娘を産むために死んだなんて、きっと天国で呆れていることだろう。がっかりさせてる。自分の正体に怯え、イルミの愛の行方が怖くて、ノアイユの情けを不覚にも受け入れてしまった、こんな自分が子どもだなんて。


でもそれでも生き続けなければならない。
私の人生は続くのだから。


アーネンエルベを出る。外は生暖かな風が吹いていた。寒くもなければ暑くもない。たとえ寒くとも暑くとも、私をそれらから遮るものは無い。

覚悟なんて決まっていない。暗闇の道が、歩く先に続いていた。