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こんな時に、思い返した。





それは、ルードヴィッヒとの病院から自宅へ帰る車中のことだ。


「てゆーか。お嬢、イルミの旦那に病院で他になにかされてないでしょうね。ゾルディック家でも。キスの関係に発展してるなんて聞いてないですぜ。そりゃデートへ行けって推したのはオレですけど」


車中ではルードヴィッヒの説教の連続だった。そろそろ辟易していた私の反応さえルーイは無視してとにかく疑い続けてくる。


「何にもされてないよ……ゾル家では病人扱いだったし、これも一泊二日のただの検査入院だもん……」
「……怪しい」
「怪しくないし」
「てゆーか、なんでニヴェアリリアム病院なんですかね。もっと色々デカくて立派な病院あったでしょ。国立病院とか」
「カミーユがリストアップしてくれた病院の中にあったから」


病院では、ノアイユという男からの接触もあった。しかしこれはルードヴィッヒには言わない事にした。探られると私が困るし、万が一怒りのルーイがノアイユを殺しに行ってしまっては、私の頭の中の女についてどうにか出来なくなる可能性もあったからだ。

「ふーん、カミーユ先輩、ね」

ルーイは鼻を鳴らしてハンドルを回す。何かが引っかかっているような、そんな表情であった。まさかルーイに、何か気付かれただろうか。


「……まあそんなことはどうでも良くて。とにかく気を付ける必要があるんですよお嬢は。ぼーっとしてるんだから、俺がどれだけ普段からアンテナ張ってるか知らないんだから」
「そんなにぼーっとしてないもん……」
「はいコレ」


突然、運転中のルーイから渡された黒い何か。それが挙銃であることに気づいたのはその質感と重量。


「な、なにこれ、突然なになに」
「何って銃です。ハンドガン、オートマチック、グロック社製、グロック26。全長160mm、重量570g、口径19mm、装弾数19、パラべラム弾。ちっちゃくてかわいいでしょ 」
「かわいいっていうか、まあ小さいけど……」
「お嬢ならそれくらいで扱いやすいでしょう。俺の愛銃です」
「どうしてこれを」


突然、これを渡した動機は何なんだ。ルーイは運転を続けながら言った。


「前に……夜会の時に言ったでしょ。『知らない世界から皆に守られてるのは変だ』『塔の上で守られるようなお姫様なんかじゃない』って」


確かに、言った。私は守られるほど高尚でも高貴でも高名な人間でもない。皆の犠牲の上に成り立つ幸福など誰かにくれてやる、そして私はそうでありたくないと思ったのだ。


「そのように本気で思うのならこれを持つべきです。しかし自分の身は自分で守れ、なんてのは言いません。俺が守ります。貴女はブレア総統の娘であり、百合の貴族の末裔であり、ゾルディック家と縁があり、知能の高い人間であり、なにより総じてイヴ=ブレアという女性。でもいつかそんな日が来ます、独りで危険な誰かをどうにかしなくちゃいけない日が。それが来ない事を祈りますが、とにかく護身用に。俺だと思って持っててくださいな」
「ルーイ……」
「操作はカンタンです。それ、セーフティー。そんで引き金を引いてズドン。思った以上に反発があるんで脇を締めて重心をしっかり持ってくださいね」
「……そんな日が、来るのかな。人を撃たなきゃいけない日が」
「来ます。『知らない世界から皆に守られてるのは変だ』と思う限り。その思いを捨てるのなら、そのグロック26は返して下さい。塔の上にずっと居てください。そうしたら俺は貴女を守れるのだから。むしろその方が俺は良いんですけど」
「……でも私は、そんなのやっぱり嫌だよ。幸せのために犠牲なんていらない」
「そうおっしゃると思いましたけどね」


ルードヴィッヒは、ニカッと笑った。彼の跳ねた金髪が夕日に照らされて綺麗だ。私を守りつつ、自分でも守れと言っている。ルーイの愛銃、グロック26。私はそれを撫でた。


「てゆーか、それ、そもそもイルミ対策ですからね。襲われそうになったらそれで奴を撃って殺してくださいね。ちっちゃいから服の中に隠し持てるでしょ」
「ええ〜……そっちメイン?撃つなんて出来ないし、そもそも撃って大人しく殺されてくれるような人じゃないし」
「まあ、そうですけど。でも威嚇にはなりますから。俺、お嬢とイルミの旦那がお付き合いするのはいいんですけど。ホントそれだけは我慢ならないんで」
「それって?」
「婚前の不純異性交遊!ダメ、ゼッタイ」


ルードヴィッヒは、自身の体験も影響しているのか、それだけは本当に止してもらいたいのだろう、とにかくやられる前にやれと言いたいらしい。何を心配しているんだろうか、私はそんなつもり毛頭無いのだから。まあ私がそうでも向こうはどう思ってるか分からないからか……。


「お嬢には、苦しみも悲しみもなく、自由に綺麗に生きていて貰いたいんです。その為に俺が居るんです」
「ちょっと感動するけどなんだかそのセリフ恥ずかしいね」
「…………まーたこの人は……そうやって人の気持ちを踏みにじって。大体ね、貴女がそうやって人の気持ちをわかってないからさっきみたいなコトが起きるんですよ。イルミの旦那こそ男なんだからそりゃ男らしい欲望を持ってるに決まってるんです、でもそれをさせずに逆手に利用するのがイイ女なんです。まずは男の気持ちってのをわからないと駄目。というかわかったなら旦那と二人きりはまずいって分かってくださいよね。あ、こら聞いてるんですか!?」
「き、聞いてます。聞きましたから、もうお腹いっぱいです……」


そうして自宅に到着して車のエンジンを切るまで、ルーイのお説教タイムは留まるところを知らなかった。









ノアイユが去った後、アーネンエルベより帰路を孤独に歩いていた、そんな夜道に突然奇襲は降りかかった。



「あの。よろしいですか。道をお聞きしても?」
「あ……はい」


背後から声を掛けられた。振り返るとそこに居たのは見知らぬ女性。少々、淡々とした物言いの、愛想の薄い印象。タイトなジーンズにブーティを履き、長袖のゆったりとした黒の革ジャンを着ていた。細身だ。私と同じ茶髪で、同じように髪は長かった。一人らしい。

正直、先の出来事の直後で、ご親切にも道案内まで丁寧に対応するつもりはあまりなかった。が、つい振り返ってしまったものを無視するのはどうかというものだ。「良かった、この道誰も見当たらなくて」と彼女は駆け寄ってきた。そりゃそうだろう、ここは路地裏。中心街からは外れている。



「観光で来たんですけど迷っちゃって。ホテルを探してるんです」
「どのホテルを探してるんですか」
「あ、このパドキアホテルってとこなんですけど、これ」



女性は私へ近付き、手にしていた地図を開き、指を示した。どれだろう、と覗き込もうとした直前の瞬間に、私は考えた。否、勘が告げたといってもおかしくない。先のノアイユとの一件で、神経が過敏になっているお陰ともいえた。


ーーおかしいだろう。突然現れた女性。路地裏。この真夜中に。パドキアホテルは私も知っている、しかしチェックイン時間はとうに過ぎている時刻だ。この六月の、やや蒸し暑ささえ感じる気候に、革ジャン。観光だというのに、カバンさえも持っていない。地図だけ。それは、もしかして、私に近く接近するための口実なのでは……。



女性が示す地図を覗き込むのを直前でやめ、そして数歩後退りし思わず彼女から離れる。その顔を、表情を確認した。

きっと彼女は、私が違和感を抱いたのを感じ取った。彼女はせめてもの情けとも言える愛想を振り撒くのをやめ、次の瞬間には、鬼のように冷酷な視線を私に向けていた。……袖から、凶悪に光り輝く細いナイフをいつの間にか構えて。離れておいて大正解だったのだ。きっとマヌケにもあのまま女性の指し示す通りに地図を覗き込んで自ら接近していたら、あのナイフに首をかき切られていただろう。


「イヴ=ブレアね」
「……違いますが」


そう、私は別人。人違いされて少し怪訝に思う表情の演技まで付け足す。そんなことをしてハイそうでしたかじゃあすみませんでした、と去るような相手でもないと分かってはいたが、とりあえず嘘をついておく必要があるのはわかった。無愛想にも彼女は私の名前をただ確認し、そして何かを達成しようと目論むのがわかった。


「つまらない嘘はよして。私は貴女を暗殺するよう依頼された」
「暗、殺?」
「貴女はいつも従者連れ。しかし今宵は誰も連れていないようね。恨むなら身の程知らずの自分を恨みなさい」


身の程知らず。よく理解出来ないが、そういう境遇や生まれを呪えとそういうことだろうか。この二三口でいくつかの情報を漏らした。よく喋る暗殺者だ。私ならばそんなにお喋りして余計な情報を漏らしたりしない。自信があるのか知らないが、あの女性は暗殺者にしては四流もいいところだ。依頼を受け私を付け狙っていたはいいが、従者連れでは私を手に掛ける自信が無い、そういう事をわざわざ言っている。……つまり、私にも逆に好機はあるんじゃないか。

「ここで死ね」

もし。もしこの女性が、依頼者が期待するほどの実力を持っていなかったとしたら。私が何の実力もない一般人だからとタカをくくって仕向けたこの暗殺者が、同様にチープなレベルだとしたら……。

女が隠し持ち私に向けたのは、細く尖った形状のベンズナイフだ。シルバさんのコレクションしていたものによく似ている。毒が鞣されているかは分からないがあのナイフには間違っても触れさえしないようにするのが賢明だ。斬るより刺す方が、おそらくその形状からは向いている。それで私を殺したいらしい。

こうなったらヤケクソだ。やれるだけやるしかない。



ーー私は走り出した。彼女の方へ向かって。



女は突然の私の行動に驚いたようで、録に構えもとらずナイフをみだらに振った。しかしそのベンズナイフは『斬る』という性能に特化されたものではない。実力がなければ暗殺にはそもそも向いていないタイプの形状。振り回したって有効な使い途ではないし、なによりその反応が彼女の全てを物語った。それを確認するためだけに、私はその行動をとったのだ。一般人なりに私は察した。やはりこの女の暗殺者は、さほど力も知恵も技術もない、暗殺者としては弱者だ。

ーーターゲットにされた人間は、まず念頭に逃走を考える。しかし私がそうしなかったのは、まずはこの女の力量をわざわざ確認したかったからだ。そしてそれだけを確認した後、勿論彼女を大きく避け、よく知る夜道をただ全力で走る。


しかし私も彼女より弱い弱者。
殺されないための最善を尽くす必要がある。

私が逃げ回って、この女がもし関係の無い誰かを人質にしようものなら、その結末は悲惨なものになる。他の誰かを救う力は私には無い。誰にも迷惑を掛けることのないよう、二人だけの空間に誘う必要がある。しかしそれは暗殺者に有利なように思えて、本当は私に有利な空間でなければならない。私は逃げ回る鼠。追い詰めるならば箱の隅。そう演出しなければ騙し通せない。


「はあ、はあっ……」
「塔の上のお嬢さん。私から逃げ切れるかしら」


私は少し走っただけで息が切れてしまっているが、女は最低限鍛えてはいるのか余裕のあるようにこちらへ着いてくる。しかし暗殺者の優越があるからか、適度に距離を取りながら追い詰めるのを楽しむように、遊ばせているようだ。先程意味もなく怯まされたことにもやや苛立ちを隠せずにいながら。


人通りのない夜道を模索して、全力で走った先。人が居らず、箱のように閉じられた空間。そして私がその地理や図面をわかっている場所。そしてできれば最も近い場所が良い。体力がないからだ。

私は懐に手を突っ込んだ。どうか間に合って、と祈って。


「イルミ、助けて、七不思議の、あの場所にいるから、……」


私はそれだけ呟いて、その目的の住所へ入り込んだ。
国立パドキア学園小等部棟。私の母校でもあるその建物。セキュリティも甘く、間違えてもこんな夜中に小学校で惑う幼子たちなんていないはず、お家でおねんねしてるだろう。

この建物を選んだのはその最上階ーー屋上があるからだ。南に位置された、外に設置されていた錆びた鉄の古い非常階段を駆け上がる。もう、足が限界だ。でも止まっては殺される。4階分の階段を駆け上がった先にあったものは、屋上への入口。鉄格子。普段より鍵をかけられ南京錠で封鎖されている。行き止まりのように思えるが、私はグロック26を懐から取り出した。ルーイから受け取った挙銃。女がここへたどり着く前にこの鍵を撃ち壊さなければ、発砲音で挙銃を所持していることに気づかれてしまう。逃げ回る鼠が、こんなブツを持っていると知られたら、向こうは強硬策に出るかもしれない。私はあくまでも逃げ回る一般人でありただの女なのだ。演じなければならない。


そして、ルーイの言葉を思い返した。
セーフティーを外す。重心を低く構えて、引き金を引いてズドン。

ダンっ!

初めて銃を使用した。その反発に、手のしびれに、驚きを巡らせたが、その感覚にしげしげとしている時間は無い。やったか、と錠を見る。しかし南京錠には、少しの凹みだけが残るばかりだった。

ダンっ!ダンっ!ダンっ!

何度か、何度か撃つが。思い切り外れた弾もあれば、当たっても凹み程度の傷にしかならなかった。ーーこれは後に確認した事だが、よくテレビゲーム等で、鍵を銃弾で打ち壊すシーンがまま見られるが、あれは事実、余程威力のある銃でなければ不可能であるらしい。世界のどこかで実証済みの間抜けな行為を私はただ無為に行っていたということだ。

どうしよう。

焦燥に駆られる。焦る。一気に汗が吹き出る。
この扉が開かなければ、私は本当に袋の鼠だ。考えた決死の策が無駄になる。ここは4階。周囲に入り込めるような窓なんてない。飛び降りようものならもはや自殺だ。どうしよう、どうすれば、どうやって……。






『ーーこれからは、覚悟を決めておくことだ』

ギリ、と歯軋りをした。どうしてこんな時に、こんな窮地に、あのノアイユの一言を思い出すんだ。どうせ最期に思い返すのなら最愛の人達のことでも考えりゃいいのに。クソ、偉そうに。どうしてこんな時に思い浮かぶ?忌々しい。イルミとは真逆の風貌のあいつ。白いアッシュブロンドの長髪、透き通るほどの白い肌、白い睫毛、白いモルフォ蝶の羽のようなーーー

蝶。

ハッと、思い付いた。どうして考えつかなかったのだろう。
鍵が壊せぬのなら、ーー扉を壊せば良いじゃないか。
鉄格子の付根を見る。そう、蝶番だ。古びている。これなら南京錠なんてものにいくら弾を撃ち込むよりはマシで確実だ。再度構えて、その蝶番へ銃口を向け、引き金を引いた。

ダンっ、ダンっ、ダンっ、ダンっ!

数発打ち込み、驚くほど脆く蝶番は破壊された。そして鉄格子は大きく鉄の音を響かせ、その屋上へのひらけた道を開けた。

「は、……」

そして溜息をつくや否や、下を振り返る。暗殺者の女はきょろきょろとその暗闇の中で周囲を見回し、そして私の姿を捉えた。ニタリ、とむき出した八重歯が不気味にも程がある。そしてこちらへ走った。この位置から銃であの女を撃ってもいいんじゃないか、と考えもしたが、きっと当たらないだろうと思った。この目の前の動かない錠前すら、銃弾は外れるのだから。

やっぱり、銃であっても、成る可くの至近距離で、……仕留めるしかない。



懐かしいその屋上。
小学の頃ここへ訪れたのを最後に、またこの歳でこんな状況で来るとは思わなかった。屋上の光景は驚くほどまったく変わってはいなかった。ダダっ広い吹きさらしに、今にも屋根の抜けそうな物置、あとは校舎の中へと通じる扉のみ。しかし屋内への扉も、厳重に封じられているだろう。暗殺者が私のもとへ今に迫るのに鍵をガチャガチャしてる余裕なんて無い。



私はそこに隠れた。
やはり、これしかない。あの暗殺者を騙して撃つには、私のちんけな力では、これしか。





「イヴ=ブレア。隠れたってムダよ」


私が入り込んだ非常階段入口に、音も立てず既にその女はいた。物陰から視線を遣る。女は変わらず、ただ気味の悪い笑みを絶やさないでいた。


「そんな事で隠れたつもり?」


隠れた私に語りかける。


「無様ね。塔の上のお姫様がこんな最期を迎えるなんてね」


誰がお姫様だ。


「この機会をずっと待ってた。大金も入るけど……何よりあの人を取り戻せる」


ずっと依頼を、私の暗殺を望んでいたということ?……あの人?


「隠れてないで出てきて。貴女の後悔と怯えた顔を見ながら殺したいの」


女は尚も物陰に隠れた私に語りかける。が、私は出ていくつもりなんて勿論無い。バカを言うなというものだ。


「ねえったら!!!!!!」


思わずビク、と身体が震えた。動物というのは本能的に、大きな威嚇の音に怯えるように出来ている。私もその道理に従って、女の狂ったようなとてつもない大声に、恐ろしさと生理的な震えが止まらなかった。ふう、と女はやれやれと溜息をついて言った。


「仕方ない。それならそれでいい。殺して終わり」


カツ、カツ、と物置に女は一歩ずつ迫る。物置の中の陰から、隠れるイヴの着衣が見えていた。女はそれを目指して、恐怖を与えるように、ジワジワと近づく。


ーー怖い。どうしよう。バレていないだろうか。もしかして踵を返してこちらに向かってくるのでは。馬鹿な知恵だと笑われて、こんな所で殺されるのでは。みじめにも、知らない女に、こんな誰もいないところで。死体になって見つかるのはきっとずっと先の事だ。それまでこの吹きさらしの屋上で独りで、弔われもせずに、カラスにでも喰われて腐乱した死体となるのか。嫌だ。こんな事で死にたくない。イルミ。こんな世界でいつも生きていたの。私には何も、何も言わないのに……。






「さよなら、お姫様」

物置の陰に隠れた私の服へ目掛けて、女は手に持っていたそのベンズナイフを思い切り突き刺した。仕留めた、と確実な暗殺を確信した女はルージュに染った唇を引き攣らせた。……が、次の瞬間には目を見開いた。

「……何?」

骨にしては柔らかすぎるし、肉にしては血も出ない。おかしい。そして気付いた。

ーー今ナイフを突き立てたコレは、イヴ=ブレアじゃない。イヴ=ブレアの服を被った、これは……古びたマットだ。咄嗟に引き抜こうとするが、ベンズナイフの形状から、その繊維質が深く絡みつき抜けない。何故こんな所にこんな物が。いや、そんな事より、イヴ=ブレアは。一体何処に……。





「……お姫様は、訂正しなさいよね」


背後。イヴは暗殺者の女の右後方、そして距離にしてその3メートル程の至近距離。その距離に居た。隠れていたのだ。物置の中にではなく、屋上の柵の外。僅かな足掛けにつま先を震わせながら、不注意をしたら今にも落ちそうなこの校舎の断崖絶壁にしがみついていた。僅かな足掛けがあるのを知っていたのは、この学び舎が母校だからだ。過去、小学の頃に、学校の怪談七不思議を調べるためにイルミとこの屋上に侵入したはいいものの一晩取り残されて泣きべそをかいた経験があったからこそ、この屋上の特徴を熟知・記憶していた。まあそれはおいおい語るとしよう。ともかく、隠れるところはその物置以外に無いと見せかけ、マットに私の服を着せ、そして彼女の注意をそちらに向けた。しかし私は断崖絶壁の柵の外に隠れていたという事だ。ーーグロック26を女の方へずっとずっと狙い構えながら。


ーーダンッ。


女は私に撃たれてから、私の位置と方向に気付いたようだったが、そのまま倒れた。命中したのは肺のあたり。

……初めて。初めて、人を撃った感触は、あまり大したものでは無かったと思う。さっきの南京錠よりは、緊張なんて無かっただろう。ただ一発だけで許したのは私の情けだ。死んではいないだろう。

震える足で柵をよじ登り、ようやく地に足をつけた感覚に安堵を覚えた。しかしまだ安心してはならない。銃を構えながら、暗殺者の女に近づいた。女は這いつくばりながら私を憎らしそうに見上げている。肺がつぶれ、おそらくうまく呼吸が出来ていない筈だ。


「……心臓じゃなくて肺にあたったのは下手くそだからとか偶然とかじゃなくて私の情けよ。感謝して欲しいくらいね」
「な、ぜ、貴女なんかに、」
「……運が良かっただけ、偶然だっただけかもしれないけど、」


私が一般人だから、彼女程度の実力の暗殺者を宛てがわれた。念能力とかいうものを彼女が扱っていたら、きっと私は死んでいた。しかし彼女が私を探すために校内を見回していた時に気付いた。この暗殺者は、念能力者ではないと。私は能力者ではないが、その概念というものはわかっているつもりだ。何故なら周りが皆そうだから。


「何より、あなたはお喋りな女だったから。あなたが殺しのためにずっと沈黙を保っていたなら、本当に沈黙するのはきっと私だった」


いくつかの情報を漏らしたのはあなただ。それが敗因だと思う。力量は確実差があった。


「がは、あ……」


女はそれに何も答えず、ただ血を吐いた。大好きなお喋りも、もう苦しいだろう。肺胞がつぶれ、循環に異常をきたし、急激ではなく徐々に弱って死んでいくと思う。私はそれにとどめを差す勇気もなく、かといって立ち去るのも怖く、ただ女が死に瀕するのを眺めるしか出来ない。

急に、雷に打たれたように震えが私をつき動かした。力が抜けたように地面にへたりこんだ。膝を抱え込むも、がたがたと歯さえ揺れる。人を殺そうとしている。私の撃った一発が、一人の女性の、同年齢とさえ思える彼女の命を奪おうとしている。


「……許して……」


おとなしく私が死ねば良かったのかもわからない。きっと暗殺者であろうと彼女にも未来があったのに。たとえ道は違えど、きっと同じだけ生きられた命を奪ったのは私。熱を持つグロック26を握る。ルーイ、昨日の今日で、あなたが言う『そういう日』がこんなにも早く来るなんて思わなかった。でもあなたの言う通りだ。私は守られながらも自分を守らなければならない。こんなにも弱いと自覚したから。

女はあぶくのような呼吸音を響かせ、瀕死の中、それでも私を睨んでいた。憎しみの篭った目線だ。ただの暗殺業の遂行にしては、この女の個人的な執念の感情が強過ぎるのをなんとなく察した。言葉の端はしにそれが滲み出ていた。もうやめてくれ、と彼女に言いたくなった。


「どうしてよ……、もういいじゃない。どうして私がそんなに憎いの。機会を待ってた、私を殺したかった、って何?身の程知らずって何!?あの人って!?私あなたに昔憎まれるようなコトした!?殺して申し訳ないと思う。でもあなたもそういう仕事ならそうでしょう。恨みっこなしなんて言ったりしないけど、そういうものだってわかってるでしょう。どうしてそんなに私に執着するのよ!?」


女は、喀血しながらも言った。


「イ、……ミ」
「え……」


その言葉にならない一言は、彼の名前だ。今、確実にその女は風にも掻き消されるようなか細い声で、イルミと言った。イルミ=ゾルディック。共通の認識を辿るならばそれしかない。彼女の私を見上げる憎しみの視線の中に、別の情愛がちらついたのが見えた。それは女同士にしかわからないような、一つのニュアンスともいえた。愛しい者の名前を呼ぶ時の、特別な声色、眼差し。まさにそれであった。


「いま、なんて……」


虚をつかれ、私の警戒の解かれたその思わぬ一瞬だった。


もう余力はないと思っていた。否、思い込んでいたのは私であったのだが、女は事実最期の力を使って、袖の下に隠していた最後の切り札を瀕死とは考えられないほど、驚くほど速やかに私に正確に投げた。私はそれを目視も出来ず、ぼんやりと何かが私に投げられたという事実を確認するも、何もできないでいた。