18




迫り来る鋲。死んだ、と感じた瞬間だった。


同時に、私の腕が強く引っ張られ、何かにやや乱暴に抱えられる。そして先程まで佇んでいた場所がすでに遠くにあると気付くのに、このフリーズした脳ではいくらか時間がかかった。キン、と金属の落ちる音。女が投げたものはこれまた鋭利な鋲のようなものだった。どこかで見た物のように思えたが、そんなことは今はどうでもいい。女は余力を振り絞って、私へ隠していた最後の武器を投げたのだとようやく理解した。そしてそれは私が何かに引かれたために、当たらなかったためコンクリートへ空虚にも落ちた。

「こ、の……」と、女は私ではなくもう一人の誰かを信じられないように睨みつけた。私の暗殺を邪魔した誰かを。しかし彼女はそれだけ呟いて、目を開いたまま事切れた。その致命傷は私の銃弾ではなく、いつの間にか彼女の胸に深く突き刺さっていたトランプ。



「危なかったね」


その誰かの声は、頭上から降り注ぐ。


「怪我はない?」


赤毛の男性。美男子だ。狐のような目、しかし切れ長で見蕩れるほど整っている。イルミと同じか、それ以上に背の高い人のようだ。イルミのしなやかな筋肉とは違って、この人のはまた異質な固く厚いそれのように感じた。彼の腕の中に抱えられながらぼんやりとその温もりを感じ取っていた。


「……あなた、誰……?」
「君のお父様の部下だよ。勅令で助けに来たんだ。君が突然姿を消したことに気付いてね」
「父の?」
「そう。間に合ったみたいでよかった」
「……助けてくれてありがとう。でも嘘でしょう」


あの厳粛かつ厳格かつ厳正な父が、長い付き合いであっても容易く信頼など他人に寄せたりなんかしないあのエドワード=ブレア総統が、私が見知らぬ人間を私に関わる任務に着かせたりなど絶対にしないだろう。きっと例外はない。私の勘がまたもや告げた。この男は、危うい人間だと。息を吐くように嘘をつく。


「…………あなたは、誰なの……?」


もう一度、尋ねた。名前なんてものを聞いているんじゃない。どういう目的で、何の為に、どうしてここに居るのか、何者なのか。そういう意味をこめて。






男は、目を拡げて驚いた様子を見せたが、そうしてすぐに目を狐のように細めた。ニタ、と唇を釣り上げて微笑む。取り繕った仮面を脱いだのだ。そして男性にしては鼻につくような甲高い声で言った。


「ただの女かと思ってたけど、そうじゃないんだね」


ただの女。いやそれで合ってる、と訂正するのも疲れてただ無言でいた。私の沈黙をどう捉えたか知らないが、男は続けて言う。


「あの彼の大事なお人形さんって噂を聞いてね。どんなものかたまたま様子を見に来たんだ。そして君を見つけた」
「彼……?」
「お友達なんだ。ボクのことは彼から聞いてないみたいだけど」


もしかして……、イルミのことか。確かに彼の交友関係はあまり耳にしたことが無い。彼は話さないから。彼が話さないという事は、それは私にとって有益な情報ではなく、関係を持たずに知らない方が良いという事。つまり、このイケメンはそういう人物という事だ。お友達なんて体のいい関係を名乗っているが、それを前提に話を進めてはきっと駄目だ。この状況。常識から逸脱した人間であることは忘れてはならない。でも私は常識を押し付けてこのイケメンと対向せねばきっと流される。

私はこの男の腕の中から降り、正面に立った。


「そう。イルミがお世話になってます」
「イヤイヤ、これはご丁寧に。持ちつ持たれつだよ、彼とは良い友人関係でいたいね。ボクの名前はヒソカ」
「イヴ=ブレア。ただの女です」
「おや、そう言ったこと怒ってるの?」
「ううん、本当のことだから……むしろ訂正のつもり」


イケメンはまたニタリと笑った。変な笑みだ。こうでなかったら見目麗しい赤毛の青年なのに。


「それで、どうして私を助けたの」
「君が綺麗だから」
「……褒めてくれて嬉しいけど、それがどうして助けに繋がるの」
「美しいものを守ってはダメなのかな?」
「矛盾してる。私が『ただの女』だと助けなかったんでしょう。顔の善し悪しで美しいを語るならその前提はおかしい」
「君につまらない嘘は通じなさそうだね」


やっぱ嘘だったのか。この状況で、イケメンの浮ついたセリフに心踊らされるほど愚かじゃない。今私の神経は尖ってる。心許してはならない。


「一つの命題を見極めてたんだ。イルミが隠すほどの女性。それがただのつまらない女だったらそいつに殺されるもボクが殺すも良しかなって思ったんだけど」
「どうしてあなたみたいな人が私なんかを殺して満足できるの」
「ボク、是非イルミと本気で手合わせしたいんだよね。それなら君を殺して憎しみを煽るのが最も本気を出せるだろ?」
「あー……なるほど……」


つまり、戦闘の世界というわけか。なるほどとは言ったが理解は出来ない。私とは本質の違う、別の世界からきた闇の住人ということだ。イルミの友人を騙るわけだ。


「でも美しいと思ったのはホントさ。暗殺者に抗う君は百合より美しかった。純粋な力量の差。本来の殺し合いなら勝てないのは明らかだった。でも君は凌駕した。あのまま死ぬのは惜しいと思ったんだ」
「……そう、それはどうも」
「信じてないねぇ」
「助けてくれたのはお礼する。でも、だからといって私はあなたに殺される可能性があるってことは無くならない」


そいつに殺されるもボクが殺すも良し、さっきそう言った。つまり私の命は今ヒソカの手中にある。助けたイコール絶対殺さない、そういう訳ではないだろう。ヒソカは目を細めて言った。


「それもわかっちゃいるんだね」
「殺すの?」


私を。

そしたら、どうすればいい。この状況を打開できる策は。この男はただのさっきの暗殺者の女のような力量じゃないと感じた。先程爆発に巻き込まれる前に何かに引っ張られたのは、おそらくこの男の念能力とかいうものだ。そしてイルミの本気を引き出してまで戦いを楽しもうとしている、このヒソカとかいう男から、どうやって逃れられる?

そんな私の思考の逡巡を察したのか、ヒソカは私に手を伸ばす。やばい殺すのか、と思ったが、彼はただ私の顎を持ち上げて瞳を合わせた。



「そんなコトしないさ」
「ほんとに?」
「そうでなければ助けた道理が通じないだろ?君なんて弱い人間、殺されても殺してもボクはどっちだっていいんだ。けどどちらもしない。弱いけど、君を気に入ったから」
「……ほんとに?」


この男の気持ち面の嘘だけはどうしても見抜けるものではなさそうだった。ほんとに?そう聞いて反応を確かめるしか私には出来ない。
ヒソカはくつくつと笑って、私の二度繰り返した問いに答えた。


「ほんとさ。小賢しいだけかと思ったけど、案外可愛らしいんだね」


小賢しいって言われた……。これは地味に傷付いた。


「イルミが囲うのもわかる気がするよ」
「囲うって。まるで愛人みたいに」
「じゃあ、君とイルミの関係性はナニ?そういう関係じゃないの?」
「そういう関係?」
「男と女。セックスの関係だよ」
「せっ……ち、違う、そんなことしてないし」
「なんだ。じゃあナニしてるの?思いもよらない性癖が彼にあったとしてもボク寛容だから理解はあるつもりだよ」
「何、って」


特に何も。イルミの性癖なんてもの見たこともなければ意識したことも無い。最近は恋人という関係に発展して、き、キスなんかは、するようにはなったが。


「ただの恋人、だと、思うけど」
「イヴもしかして処女?」


……これは爆弾だ。二十過ぎてこれまで男性経験無し。手を繋ぐのもキスもイルミが初めてだ。ちょっと引け目を感じているからヒソカのこれはとてつもない爆弾だ。


「処女じゃありません」
「嘘がヘタだね」
「嘘じゃありません」
「じゃあ処女あげたのは誰でいつなの?」
「大学の時同級生のエリック=ファントム君とお付き合いした時のそれです」
「じゃあイルミにそのこと告げ口しちゃおうかな」
「ちょっ、待て、嘘だから嘘!」


エリックは小学から大学までずっと同じ学校だった実在の人物でパッと頭に思い浮かんだからつい口に出してしまっただけで、人畜無害な良い青年だ。イルミは前に、過去でも私にそういう男がいたとしたら殺すって言っていた。もしこんな嘘がイルミに伝わってエリックが殺されでもしたらたまったもんじゃない。



「なんだ、嘘なんじゃないか。嘘は良くないな」
「ええ……」


ヒソカには言われたくないっつの。さっきから嘘を仕掛けてきてるのはそっちなのに。


「イルミとシたこと無いんだね」
「だったら、何?」
「彼が可哀想だなと思って。きっとガマンしてるんじゃない?」
「そんなの関係ないでしょ、ヒソカに」
「アドバイスさ。イルミはきっと上手いと思うケド?」
「何へんなこと想像してんの気色悪い」
「処女捨てるなら早い方がいいって言うよ。せっかく助言してるのに」
「……さっきから何なの、処女だのなんだのとうるさいな。乙女のプライバシーを侵害して。レディに失礼なんじゃない?デリカシーって知ってる?知らないんなら今すぐググって。変な探り入れてきて、もしかしてそういうこと知って興奮する変態なの?せっかくイケメンなのに親が泣くわ」



ただでさえ神経が昂っているのに、ヒソカとかいうこの男はさらに私を焚き付けるような事ばかり言う。念能力を使うヒソカからは逃げられない。どうせ殺されるなら命乞いなんかしてやるものか。文句の一つや二つ言ったほうがずっと後悔しないだろう。

ヒソカは逆上するかと思ったが、顔をその綺麗な手で覆うように抑え、くつくつと抑えきれない笑みを示した。



「イイねぇ、イヴ、ただの女じゃないんだね。本当に百合のように気高く無垢なんだねぇ。それをボクが穢して壊すと思うとたまらない……」
「は?」


ピッ。と、何かが私の喉元に向けられた。トランプだ。わずかに、私の皮膚に接触している。それを認識したすぐ後に、暖かい汁が皮膚を伝ったのがわかった。そして少しのヒリついた痛み。


「勿体ないと思ったけど、ここで滾る君を予定通りに殺すのもやっぱりイイ。……ああ、どうしよう」


ヒソカは完全に目がイッちゃっていた。さっきまでのイケメンが白目を向きそうなほど眼振し、何かにやたら興奮している。ただわかったのはこのトランプはヒソカの凶器であり、彼は今私を本当に手に掛けようとさえ出来るということ。

まずい。煽りすぎた。こんなことならもう少し控えめに過ごすべきだった。若干の後悔がよぎるが、もう遅い。短い人生だった。ここでゲームオーバー。暗殺者の女に殺されかけたかと思いきや、今度は変態に終に殺されるのが私の最後だったということ。もう間に合わないだろう。ごめん、イルミ、さいごまで迷惑かけて。大好きな友であり幼なじみであり恋人。やっぱり最期に想うのはイルミだった。でも、ああ、よかった、そう想えて。


目を閉じれば、なぜかイルミの綺麗な黒髪の流れるあのしなやかな背中が脳裏に思い浮かんだ。それだけで満足だった。


「イヴ」


ついでにイルミの幻聴まで聞こえてきた。なんて幸せな最期……、


「ちょっと。バカイヴ」
「え」


目を開けたらそこにはイルミの背中があった。思い浮かんだものが目の前にいつの間にか現れた不思議な感覚につい夢かまぼろしかと思ったが、私を罵るその声が現実を知らせたのだった。

イルミだ。

私が目を閉じていた間に起きた、瞬間の出来事だったようだ。凶器を宛てがわれた私の前に立ちはだかり、ヒソカのトランプを攻撃しながら跳ね飛ばす。ヒソカは避けるため俊敏にも後方へ飛んだ。イルミは庇い立つようにヒソカと対峙していた。


「イルミ……?」
「何してんのこんな所であの変態と」
「間に合っ、た、の?」
「俺が間に合わせたんだよ。お前がへんな連絡を寄越すから」


イラついてるのか律儀にも訂正するイルミ。そう、私がイルミを呼んだのだ。ケータイ通信機器はカミーユやルーイに追跡されている恐れがあったから今夜は持ち歩く訳には行かなかった。だが無線機ならば、通信機は通信波の影響上細工できない。だから、この間イルミから預かったゾルディック家専用無線機。イルミへの直通電話。

『イルミ、助けて、七不思議の、あの場所にいるから、……』

暗殺者の女に追い回されている時だ。イルミが間に合うかどうかわからなかったが、助けを求めて彼に掛けた。七不思議のあの場所といえば思い出を共有したイルミならきっとわかるだろう。結果、イルミは来てくれた。私を助けに。




「本当に、イルミ?」
「呼んだくせに何その疑り」
「ご、めん」
「俺が遠い地にいたらどうするつもりだった訳」
「うん」
「偶然近くに居たけどさ、死ぬかもしれないってわかってる?」
「うん」
「わかってないよね。何とかなるって思ってたのなら本当イラつく」
「ごめん、でも、……来てくれた」


ぎゅ、と彼の背の服を握る。こんな時だがイルミの匂いがした。安心と安堵が湧いて、私の目から涙が一粒二粒落ちた。イルミがこちらを見てなくてよかった。


「……後で説教だから」


イルミはそれだけ言うと、ヒソカへ向かう。ヒソカは正気になったのか妙な興奮は収まっていたようであった。


「何でここにいるわけヒソカ」
「噂を聞きつけてね。イルミの新しい女ってやつがどんなものか興味本位で見に来たんだ。彼女イイじゃないか。いいモノ見せてもらったよ」
「どっからそんな噂、……」


イルミは屋上の端で事切れた女を視線だけで見遣った。ヒソカはそれにニヤリと笑う。


「ヤだなァ、そんなものいくらでも出処はあるだろ?心当たりあるんじゃない?君も彼女もマイナーだけど有名人だし、この世界は狭い」
「ヒソカの趣味には付き合いきれないね。イヴに手を出すならお前を殺す。まだ利用価値はあるかと殺さないでおいたけど、話が変わったからね」
「イイねえ……決めちゃおうか、今、ここで」



ヒソカの趣味ーー『ボク、是非イルミと本気で手合わせしたいんだよね。それなら君を殺して憎しみを煽るのが最も本気を出せるだろ?』さっきそう彼は言った。ターゲットの大事なモノを殺して、憎しみを募らせて、昂らせてから闘いに持ち込んで本気で殺す。
新しい女。心当たり。世界は、狭い。
ヒソカに殺されて信じられないような表情をした彼女。
イルミの視線。

そうか。そういう事だ。



「ーーー……その暗殺者を仕向けたのはヒソカだったのね」
「イヴ?」


戦闘態勢に入った二人の闘牙のバランスが崩れたのが雰囲気でわかった。イルミの背に隠れて黙っていた私にヒソカは虚をつかれたようであったが、さらにその笑みを深くし、肯定も否定もしないようだった。

「さあ、どうかな」

そうヒソカは言ったがあの嘘吐きの言うことだ、確信は虚偽に包まれた。ヒソカは親切にもそれをお喋りしてくれるようではないみたいだ。


「やっぱり、気に入ったよ、イヴ」
「それならもうよしてよ、こんなこと」
「うん、やめとくよ。君を殺すのはやめた」
「そうじゃなくて。いや殺されるのもイヤだけど。復讐の連鎖の先の行き着くところなんて無でしょう」
「それでも興奮を味わわせてくれるなら一時だってボクはいいんだ」
「なんなのこの変態」
「おや、お口が悪いんだねえ、お姫様は」
「誰が姫だ」


ヒソカはまたくつくつと笑うと、転じてトランプを仕舞った。


「今夜はここでやめとくよ、イルミ。イヴが悲しむからね」


イルミは訝しんでヒソカを見つめていたが警戒を解く様子はなかった。


「ま、目的は達成出来なかったけど。また新しい玩具を見つけた。思った以上に可愛らしいお姫様のお人形さんをね」
「次にイヴに近づいたからその時は本当に殺すから」
「是非、と言いたいとこだけど、ボクはもうお姫様を手に掛けるつもりはないさ。それは安心して」
「どうだか。ごたくはいいから用事済んだならさっさと消えれば?」
「冷たいなあ、トモダチに対して」
「誰が友達だ」


やっぱり友達じゃないのか。そりゃそうか、正反対のタイプだから気は合わないだろうし。ヒソカは私に手を振って言った。


「イヴ。楽しいデートだった。今度またお茶でもしよう」


それだけ言って、ヒソカは夜の闇に溶けて行った。






ヒソカの気配が完全になくなったことを確認したのか、イルミはため息をつくと、私へと振り返った。


「何、してたんだよ、これまで」


イルミさんはキレていらっしゃった。完全に苛立ってる。終始を全て洗いざらい話せと、きっとそういう意味で言っている。


「……飲み歩いてたの。そしたら付け狙われてたみたいで」
「一人で?」
「うん」
「従者も付けずに?」
「うん」
「それがどれだけ愚かな行為かわかってたの?口酸っぱくして俺言ってるよね、一人で出歩くな、自覚を持てって。イヴ=ブレア」
「ごめん」
「それと下手な嘘はやめろ。今お前からアルコールの匂いなんて一切していない」
「…………。」
「何か隠してるだろ、イヴ」


やはり、イルミは気付いていた。ただ一人で夜道を歩くなんて行為を私は意味もなくしない。こうして付け狙われる直前、何をしていたのか。


「隠してない」


私は言わない。イルミに助けて貰って恩義を感じている。秘密にすることに罪悪感さえある。だがまだ言いたくない。白い青年ーーノアイユとのこと。私の正体をひけらかすことに繋がるその秘密を。



「答えなよ。何処で、誰と、何してたのか。言ってごらん」
「だから、一人でいただけだよ」
「…………イヴ。出来るならお前を拷問してでも自白させてやりたいくらい俺は怒ってるんだけど」
「…………イルミこそ。後ろめたいこと、隠してるくせに」
「へえ。責任転嫁するつもり?」
「心当たりあるんでしょう。……そこの、私を殺そうとした、女の人」


もう亡くなった暗殺者の女性。名前なんてもう知る由無いだろう。無名の彼女。私と同じ長さ程のある茶の髪色の女。


「イルミ、その人と、何かあったくせに」


言ってはいけない、指摘してはいけないこともある、そういうもののことを暗黙の了解という。しかし私はそれを言わずにはいられなかった。たぶん、私も彼女に嫉妬したからだ。彼女と同じように。


「何かって?」
「……ほらごまかしてる。絶対なんかあった」
「だとしても過去のことで今の状況には関係無い」
「関係なくない」
「何、愚かな今のお前に俺を責める権利があるわけ?」
「どうかしら。でもイルミも少し責任があるんじゃないの?」
「…………。」
「最初はよくわからなかった。身の程知らずの自分を恨め、あの人を取り返せる、って意味のわからない事を彼女は言ってた。仕事以前に、個人的に私を殺したがってた。父の仕事やこの境遇なのだから、過去に人知れず恨みを買うってよくあることかもって思った。でも違った」



一呼吸おいて、私はイルミを睨んだ。侮蔑するように。


「その人、イルミのこと、最期に呼んでたのよ」


不貞。私の脳裏に思い浮かんだのはその一言。


「イルミの……身体の関係のあった女の人、なんでしょ」




きっとこういう事だ。

死んだ彼女とイルミは何か関係があった。お付き合い、では無いだろう。前にイルミは恋人は私が初めてだと言っていた。それが嘘でなければ、イルミと彼女の、男女の……肉体関係だと思う。でもそれは最近何かしらの影響で絶たれた。たぶん私のせいだ。私とイルミが恋人の関係に進展したから、イルミは彼女を無情にも切ったのだ。そして彼女は私を憎むようになる。『身の程知らず』とは嫉妬心から来る言葉だった。そしてヒソカが彼女に近付いた。私に関する情報提供をして殺すよう仕向けた。『あの人を取り戻せる』とは、彼女が私を殺せばイルミを取り返せる、そう考えた言葉だ。ヒソカは私が逆転するとは思わなかったと思う。憎しみを煽れば最も本気で戦える、それを叶えるために。彼女は私を殺して、イルミは彼女を殺して、そして根源のヒソカと本気で殺し合う。でもまだだ。イルミを殺したらゾルディック家面々がヒソカを狙う。そして私の父も、きっと私の復讐のためにヒソカを絶対的に倒しに行くだろう。
そしてヒソカの目論見の通りに憎しみの連鎖が叶う。ヒソカはそれを望んでいた。

しかし目論見の通りにはならずイレギュラーが発生した。私が勝ってしまった。そしてヒソカは言葉の端はしにヒントを漏らした。きっとわざとだ。微妙なニュアンスのそれは、私に一連の流れを確信させたのだ。









「そうだよ」


そしてイルミは無情にもそれを易々と認めた。


「そういう事に疎いイヴにしてはよく気付いたよね」


ああ、聞きたくなかった。心臓が張り裂けそうなほど痛く苦しい。聞かなきゃよかったのに。私の馬鹿。


「まあこんなことならそいつ、殺しておけば良かったかな。殺し屋には弱い女だったから下僕付きのイヴを手に掛ける実力なんて無いって高を括ったのが間違いだった。ヒソカも絡んでくるとは思わなかったし」


そして下衆のような事を彼は続けて言う。


「俺が嫌?」


対峙するイルミが私の肩に遠慮なく触れた。嫌いか、好きか。嫌いだったらこんなに苦しくはないのだ。


「でも俺は好きだよ」


そして愛の科白。肩に触れる手が、つう、と滑らかに私の首を辿る。


「だからこそあの女をお前の代わりにしてた」


彼女は……私と似通った特徴。顔こそ似てないが、同じ茶の髪色、長さ。背格好。年齢もきっと同じくらい。


「それがそんなに悪いこと?」


悪いなんて否定する権利なんて無い。最低だとは思うけど、むしろ嬉しいとさえ心が感じた。


「別に今すぐセックスさせろなんて言わないよ」


それは、前にも言っていた。彼は私を待つつもりだと思っていたから、私も高を括っていたのだ。


「けど俺が我慢してるって、知らない振りは酷いんじゃない」


怖くて。関係性の変わるその行為が。彼を受け入れるという、自分の弱みや落とし穴をわざわざ増やすような気がして。


「それをわかっていながら俺を責められるの?」


責められない。わかっていた。申し訳なささえ感じてた。


「俺を責めるなら、イヴも責任を果たす必要があるんじゃないの?」



ヒソカに傷つけられた首の傷にイルミが触れて、私は思わずその痛みに身体が揺れた。イルミは私に近付き、屈んで、その傷を舐め始めた。まるで吸血鬼だ。けれど私は避けようとは思わなかった。


「イル、ミっ……」


その首を這う舌の感覚に耐えられず声をあげると、イルミは堰を切ったように傷のない部分へと顔を動かした。首筋、耳、頬、額。そして器用にもその間彼の手は私の服を破り、私は下着だけの姿に晒される。また首を舐め、鎖骨、そして胸へと吸い付く。私がその刺激にたえられず避けるように後ずさると、それが気に食わなかったのかイルミはそのまま地面に私を押し倒した。

硬い地面。星空。上にいるのは無表情にも少し余裕のなさそうな彼。

イルミと視線を交わした。

彼は私の反応を伺っている。私が怯えていないか、惑っていないか、拒んでいないか。こんな出来事の後で怒っているかと思っていたのに、彼は私だけにやはり優しかった。


責任。


もしかしたら、今がその時なのかもしれない。イルミの不貞を責めるなら、私にもそれなりの責任を負う必要がある。彼の言い分は最もだと思った。恋人。その行為。


「イヴ」
「イルミ」


拒否はしない。今までごめんなさい。責任をとるから。目を合わせて彼の名前を呼ぶ。イルミは少しだけ意外そうな顔をしていたが、私の意志を確認した後にまたその手を動かした。熱に浮かされたその真っ黒な瞳は私だけしか見ていない。

足に触れた。そして開かせるように撫でてくる。足と足のその間に割り込むように、イルミが腰を密着させてきた。恥ずかしくてどうしようもなくて反射的に閉じてしまおうとしたが、彼の手がそれを阻む。伸し掛るように、イルミは無順にキスを始めた。長い髪が私の身体に絡みついてくすぐったい。成す術もなく、私はただ受け入れるしかできない。


目に入った薬指の指輪。


ーー性行為を、今、イルミとするのか。イルミは私を好きだ。私も、……たぶんイルミを好きでいると思う。私と彼は恋人だし、惹かれ合う男女がこういう行為に至るのに疑問なんてない。むしろ当然の結果だ。求められて嬉しいとも思うし、きっと望んでいた末路でもある。場所こそ屋外の吹きさらしの埃まみれの中で最悪だがそんなものは結果論だ、じゃあ何処ならいいんだって問われても明確に希望なんてない。イルミの体温が嬉しい。優しさもある。きっと愛も。初めてがイルミでいいと私もちゃんと思ってる。

でも何故なのだろうか。

こんなにも悲しいのは、どうして……?




「ひっ、うっ、……」


涙が止まらない。嬉しいはずなのに悲しい。自分がよくわからない。矛盾だ。こんな顔を見られたくなくて、私は両手ですべて顔を覆った。イルミの手が止まったのを感じた。きっと受け入れようとしてるのに泣きじゃくる私を訳の分からない女だと思っただろう。かっこわるい。惨めな気持ちさえある。でもどうしたらいいのかわからない。ただ、泣くしか。


「うー……」
「はあ……もういいよ、イヴ」


イルミはため息を盛大に吐いた。そりゃそうだ、今からだという時に相手が萎えるほど泣くんだから。


「よしよし。ごめんごめん」


イルミは私を抱き起こして腕の中に閉じ込めた。ぽんぽん、と背中を優しく一定に叩いてくれる。まるで赤ん坊をあやすように。もう無理をするなと言っているような彼の手に、私はさらに嗚咽が増した。


「悪かったって。覚悟が決まってないのに、しようとして」


覚悟。そう、私に足りないものは覚悟だ。イルミはわかっていた。だからこそ嬉しいのに悲しい。私は初体験を前に尻込みする女子高生か、と突っ込みたくなったが事実その通りだった。


「ごめん……」
「謝られると俺は俺で情けなくなるからやめてくれる」
「でもごめん……」
「あーはいはいわかったから」
「でも、イルミも、謝って」
「は?何で俺も謝んの」
「私が初めてなのに、イルミはそうじゃないなんて、なんか、……許せないから」


イルミはきょっとーんとして、私のブサイクな泣き顔を見つめた。


「それ、嫉妬?」


そうだ、嫉妬だ。嫌だった。どうしてさっさとそんな経験をしてるんだ。いくら私に似せた女だと言え、それは私じゃない。私の知らないイルミをどうして私以外の女が先に知っている?おかしいだろう。だから覚悟もないのに、イルミが欲しくなったのだ。


「ふーん。なんだ、嫌だったんだ」
「な、なんで……」
「前はなんとも思ってなかった癖に」
「だ、だめなの、嫌って思っちゃ」
「嬉しいよ。イヴ。俺の事好きなんでしょ」


悪魔の問いのようだ。知っているくせに確認をする意地悪さはやはりイルミらしい。


「……うん」


しかし、それに素直に頷いた。認めた。イルミは特別なのだと私の中の心がようやく定めた。ルーイやカミーユとは違う、ただ一人の男性。心だけでなく身体さえ許すことが出来るのは世界でこの人だけだと。


「あー、イヴの事、ほんと殺しそう」
「なんで!?もうやだよ……もう絶対、こんな思いしたくない。怖かったんだから。殺されたくない」
「イヴが悪いんでしょ。言っとくけど、何処で何してたかの尋問はまた後でするから」
「ええ……なんで後でなの」
「今はキスしたいから」


そしてイルミは私の唇を半分無理に貪り始めた。まるでセックス出来ない代わりだとばかりにそれは長々と続いた。私は顔を赤らめながら答えることも出来ずただいつまでも慣れないそれを受け続けるしか出来なかったが、ただまた少し変化したこの関係性に胸が高鳴りを感じながらも心地よく思ったのだった。


「やっぱり下手くそだね 」
「う、うるさい」
「もう恥ずかしがるのやめなよ。上手くならないよ」
「いいしそんなのうるさいな」


これまでと同じように、軽口を叩きながら。