19




「やあ」「じゃあまた」

彼は私にそれだけしか言わない。そしてその間に情事をする。愛がないのは分かっていた。だって名前も呼ばれた事が無い。



出会いは何だったろうか。ああ、そうだ、確か裏道の情報屋のバーだ。私は仕事を探していた。しがない暗殺業。少し金には困っていた。だからそこに来れば暗殺業を求める客が訪れる。彼もその一人だと最初は思った。ウイスキーをロックで少しずつ煽っていたところに彼は突然訪れた。


「それ、ハイボール?」
「は?」
「酒は強い?」
「……さあ。普通じゃない」
「暇そうだね」
「……だったら何?」


彼は、突然懐から金を出し、カウンターの上に置いた。それに目を見張り、また彼に目配せをする。依頼という事だろうか。しかしこの男はおそらく私より強い。その闇の雰囲気が物語っている。


「足りなかったらまだある」
「……何の依頼を私に?」
「依頼なんて無いよ」
「は?じゃあなによこの金」
「わかるだろ」
「わかるって……」
「もしかしてそういう経験ない?」


依頼じゃなくて、金を積む、経験、女の私に。それは性交渉の関係を示していた。


「私とセックスしたいってわけ」
「嫌ならいいけど」
「……なんで、私なのよ」
「その茶髪」
「は?……髪?」
「それとハイボール。それだけかな」


言っていることの意味がわからないが、動揺もありそれ以上聞く気にはならなかった。改めて男を眺めた。黒く長い髪に、黒い目、感情の起伏のない端正な表情。生理的険悪感はない。金に困っていたということもあり、まあいいか、と私は売女となる事を請け負った。


「あなた、名前は」
「イルミ=ゾルディック」


そして契約は始まった。彼の都合の良いときに予兆もなく呼び出され、そして行為を終えてさっさとどこかへと去る。その関係は一年程続いた。最初わからなかったが彼は有名人だった。イルミ=ゾルディック。私は、彼のような人が、私と性行為をしているということに優越感を感じていた。何より顔の綺麗な男だったし、体も美しかった。しかし心は無かった。

ある時、行為の後、葉巻を咥える彼に聞いた。


「ねえ。あなたならもっといい女買えるんじゃないの。美人で、女らしい体で、テクニックもあるようないい女」
「そんな女抱いても足しにはならない」


それは私の心を踊らせるような一言でもあった。いい女じゃなく私を選んでまで抱く彼の気持ちを、もっと追求したいと思った。


「それって、私がいいってこと?」
「偽物だけどね」
「なに、どういう意味?」
「言ったろ。その髪とハイボール。それだけ、って」


そして彼はもうそれ以上は言わなかった。うざったそうに服を纏うと、「じゃあまた」と一言と金を残してどこかへ消える。ベッドの上の、彼の残した体温を撫でた。端にきらりと光る何かを見つけた。珍しく凶器の鋲を忘れていったらしい。それを手に取り、唇を寄せる。彼から受け取った金は、最初こそ良いように使っていたが、なぜだか最近はそれが疎ましいものにさえ感じていた。私はわかっていた。私の、彼への執着と‍恋とも呼ばれる気持ちの芽生えに。





「もう今日で終わり」


また呼び出された。いつも通りに行為を行うものと思っていた私の気持ちを裏切り、彼はある日突然それだけ言った。


「終わりって、……」
「もういいよ、今までおつかれさま」
「もう会わないってこと?」
「そう」
「なにそれ……勝手すぎない?」
「何が?その都度金は払ってきたけど」
「もうどうだっていいって言うの」
「どういう意味かわからないけど、まあそうだね」


いつもの彼だ。残酷にも。それは変わらなかったが、その一言一言が、私の心臓を鉛のように変えた。息が苦しい。私を選んで、私が良いと思ってセックスしていたんじゃなかったのか。私を女として見ていたのではなかったのか。口約束も無いが、恋人なんて関係に近いとさえ思い込んでいた、私のこの気持ちはどうなる。惨めだ。私へ向けた心は少しもないのか。


「イルミ、」
「もうお前はいらない」


それだけ言って彼は扉を閉じて消えた。残されたのは葉巻とハイボール、そして彼の気に入っていたはずのこの茶髪だけ。そしてもう二度と連絡は無かった。連絡をしても、繋がることは無かった。










それでも彼と出会ったあのバーでハイボールを煽るのを辞めなかったのは、ひとえに私が未練がましい女だったからだ。そしてその別れからひと月程経過した時、あの男がバーに現れた。赤髪に、これまた美しい顔。そしてその男も実力者をそのオーラから醸し出していた。


「確かに少し似ている」


鼻につくような声だった。何に似ているんだ、と聞こうと思ったが酒に酔っていてどうでもよかった。


「……あんたは誰よ?」
「ボクはヒソカ。依頼をしたくてね、君に」
「へえ?あんたも私としたいの?」
「純粋に依頼をしたいんだよ。きっと君も気に入る」
「は?」


男は胸ポケットから一枚の写真を私へ見せた。


「この女性を殺してくれる?」


差し出されたのは盗撮された写真であり、そこに映っていたのは一人の女だった。長い茶髪。色素の薄い茶色の瞳。顔はまあまあ綺麗な女だ。一般的な普通の体型。特記すべきような特徴はあまりない。


「彼女の名前はイヴ=ブレア。パドキア共和国軍事組織総統ブレア総統の娘。母親は旧家の貴族。一般的な普通の女性だよ。忠実な護衛は着いているけどね」
「あっそ。それでなんで私が気に入るわけ?わざわざそんなお姫サマみたいな女を嬲ることが出来て嬉しいだろうってこと?」
「ボクにとっても彼女が死んだ方が楽しみが増えると気付いてね。それに、きっと君がヤリたいだろうと思ってわざわざご指名したんだ」
「何なのよ、何が言いたいの」
「彼女、イヴ=ブレア……少し似ていると思わない?君に」


茶髪が、私のそれととても良く似ていた。色味も、長さも。
ーー『その髪とハイボール、それだけ』『偽物だけどね』。
彼の言った言葉が繋がった。


「……そう。そういうこと」


男は、ニタリと笑って言った。


「やってくれるだろ?」





イヴ=ブレアには常に護衛が付いていた。奴らを相手にするのは苦戦を強いられる可能性があったため、彼女が一人になる機会をずっと伺った。私は護衛と戦いたいんじゃない。私からイルミを奪ったあの女をただ抹殺したいだけだった。

私と反して、陽の当たる世界で生きる女。綺麗な女だが、特別に美しい訳では無い。産まれこそ特殊だが、育ちこそ極平凡で、つまらないことで笑ったり悲しんだり怒ったりしている様子をただ観察し続けた。イルミは……何故こんな普通の女を選ぶ?闇の世界や、仕事の価値観や、殺しのことを共有出来るのは、私の方じゃないか。私の方こそイルミの隣にいる価値があるだろう。そう強く思う気持ちは日に日に増した。イヴ=ブレアが笑ったり悲しんだり怒ったりしている様子を見続ける度に、苛立ちや嫉妬が深く心臓に刻まれるのがわかった。

そしてその夜が来た。






「あの。よろしいですか。道をお聞きしても?」
「あ……はい」


イヴ=ブレアは呆けたような間抜けな顔でご親切にも私へ対応する様子を見せた。


「良かった、この道誰も見当たらなくて」と駆け寄る。ようやく、ようやく殺せる。袖に隠したこの憎しみの一刀で動脈をかき切ればすぐに死ぬだろう。護衛も、誰もこの女を守るものは無い。


「観光で来たんですけど迷っちゃって。ホテルを探してるんです」
「どのホテルを探してるんですか」
「あ、このパドキアホテルってとこなんですけど、これ」


手に持っていたカモフラージュの地図を開き、指を示す。彼女は自ら近寄る。まだだ。焦るな。しっかりその首が私の攻撃の範囲に入ってからだ。確実に、正確に。そう、そうだ、あと一歩、私に近寄れーー。


しかし、何か違和感を感じたのかイヴ=ブレアはあと一歩を直前でやめ、数歩後退りした後に私の表情を観察しはじめた。なんだ、勘のいい女じゃないか。これまで私の尾行に少したりとも気付かなかったくせに、死の直前で理解するとは、不幸だか幸せだか。袖から、凶悪に光り輝く細いベンズナイフを取り出す。


「イヴ=ブレアね」
「……違いますが」
「つまらない嘘はよして。私は貴女を暗殺するよう依頼された」
「暗、殺?」
「貴女はいつも従者連れ。しかし今宵は誰も連れていないようね。恨むなら身の程知らずの自分を恨みなさい」

彼女は信じられないような表情で恐怖を感じたようであった。そう、そうだ。私はその憎らしい負の表情を見たかった。

「ここで死ね」

筋書きはただ逃げ惑うあの女を詰って殺す、ただ頭の中にはそれだけだった。しかしイヴ=ブレアは、予期せず私の方向へと向かって来た。もしかして私と戦うつもりか、と思われたが、後に他の夜道へと逃げていった。

苛立ちが湧く。まるで……大人しそうな鼠を捕まえようとしたら、指先に思い切り噛みついてきたかのようだ。獲物を捕食者が、弱者が強者が、というその摂理に反した行動。


「塔の上のお嬢さん。私から逃げ切れるかしら」


鼠はもちろん、貴女だろう?イヴ=ブレア。










彼女が逃げ込んだのはどこかと思いきや小学校のようだった。なんて馬鹿らしいところに逃げ込んだのか、と鼻を鳴らすとそこにヒソカが暗闇から現れた。


「応戦が必要かい?」
「まさか。あの女を殺すのは私よ。手を出さないで 」
「そう。でも気を付けなよ。恋は盲目というから」
「クソ寒い台詞はよしてよね」
「君は偽物だからね。本物に勝てるかな?」


ギリ、と唇を噛む。偽物なんかじゃない。証明するのだ。あの女を殺せば、彼は私を見てくれる。そうすれば本者になる。

校舎の敷地内へと進み辺りを見回すと、イヴ=ブレアが屋上へと向かおうとしているのか、非常階段の4階部分にいるのが見えた。なんだ、どこへ逃げようとしているのかと思いきや、そんな行き止まりに向かってどうする?


階段を音もなく駆け上がるとそこはやはり屋上で。広い吹きさらしに、今にも屋根の抜けそうな物置、あとは校舎の中へと通じる扉。それだけが全てだった。彼女の姿は何処にも見当たらない。校舎の中へと向かう時間は無かっただろう、扉を開ける音もしなかった。ということはあそこしかない。

屋上にみすぼらしく鎮座する物置。そしてその物陰からあの女の服が見えた。



「イヴ=ブレア。隠れたってムダよ」

居場所はそこしかない。

「そんな事で隠れたつもり?」

最期に考えた策がそんな愚かな子供だましの隠れんぼか。

「無様ね。塔の上のお姫様がこんな最期を迎えるなんてね」

いい気味だ。のうのうと生きていた代償だ。

「この機会をずっと待ってた。大金も入るけど……何よりあの人を取り戻せる」

イルミ、もう少しで私があなたの本物になる。そしたらあなたは私の名前を呼んでくれるでしょう?

「隠れてないで出てきて。貴女の後悔と怯えた顔を見ながら殺したいの」

苦痛の顔を眺めたい。本物を壊す快感。

「ねえったら!!!!!!」

うんともすんとも言わない女に苛立ちが募る。

「仕方ない。それならそれでいい。殺して終わり」


カツ、カツ、と物置に一歩ずつ迫る。物置の中の陰に潜む鼠。捕食者、強者は私だ。そしてオリジナルは私になるのだ。

「さよなら、お姫様」

距離にしてあと半歩程度の距離。確実に仕留める。ベンズナイフを思い切り突き刺し、私は恍惚の表情を浮かべた。
果たした。これでオリジナルになった。偽者なんかじゃない。イルミは私のものだ。戻って来るんだーーー


「……何?」


血が出ない。この感触は人間のそれじゃない。おかしい。
今ナイフを突き立てたコレは、イヴ=ブレアじゃない。イヴ=ブレアの服を被った、これは……古びたマットだ。咄嗟に引き抜こうとするが、ベンズナイフの形状から、その繊維質が深く絡みつき抜けない。何故こんな所にこんな物が。いや、そんな事より、イヴ=ブレアは。一体何処に……。




「……お姫様は、訂正しなさいよね」


しまった、と思った瞬間。後方から振動が私の右肺を貫いた。

ーーダンッ。

銃声が遅れてやってくるようだった。彼女は。どこに。視線だけを必死にぎょろぎょろと回すと、イヴ=ブレアは屋上の柵の外にしがみつき、こちらを銃で構えていた。気付かなかった。その位置にも。銃を携帯していることも。ただの能天気なお姫様じゃ。セオリーが破られた。常識はどこへ行った。型破り。常識を覆す、常識はずれ。こんな筋書き、普通あるか?

そのまま倒れるも、やはり憎しみだけが彼女への情動の根源だった。肺を弾丸が貫通した。苦痛と呼吸苦。しかし這いつくばっても見上げる。


「……心臓じゃなくて肺にあたったのは下手くそだからとか偶然とかじゃなくて私の情けよ。感謝して欲しいくらいね」


こんなの。予定外だ。私は、絶対に強かったはずだ。


「な、ぜ、貴女なんかに、」
「……運が良かっただけ、偶然だっただけかもしれないけど、何より、あなたはお喋りな女だったから。あなたが殺しのためにずっと沈黙を保っていたなら、本当に沈黙するのはきっと私だった」


沈黙するのは私だというのか。


「がは、あ……」


血を吐いて地面の一点を見つめた。急速な死ではない。ただ待つのだ、自分の体温が冷めやるその時をじわじわと。温い自分の血溜まりが、彼の体温を彷彿とさせる。しかしそれは死の穴なのに。



「……許して……」



彼女は、地に膝をつけ私に懇願した。赦しを。そのすすけた姿に、背後の星空に、まとわりつく髪に、拳銃を握り締める震える手に、青っちろい顔色に、どうしてか美しいと感じた。背徳だ。そして純粋さ。人殺しの経験のない女が初めて手を黒く染めて涙をながす、その罪。そして高潔にも彼女は抗い、そして許しを乞う。矛盾しているが何かが私を納得させたような気がした。彼女は平凡にも、神とかそういうモノの何かに、選ばれた人間なのだと。


けれど、それと私の気持ちはなんの関係も無い。


血溜まりの肺から空気が漏れる音が吹きこぼれる。それでも憎い。奪ったこの女が。貴女がいなければイルミは私へ興味を示さなかったかもしれない。それは認めよう。だが貴女がいなければイルミは貴女のものじゃなかっただろう。因縁や故実けだが、嫉妬とはそういうもの。貴女みたいな女だけには、彼には絶対に行って欲しくなかった。ほかの女だったらまだマシだった。一番嫌いなタイプの女に、どうして、なびいてしまうの?



「どうしてよ……、もういいじゃない。どうして私がそんなに憎いの。機会を待ってた、私を殺したかった、って何?身の程知らずって何!?あの人って!?私あなたに昔憎まれるようなコトした!?殺して申し訳ないと思う。でもあなたもそういう仕事ならそうでしょう。恨みっこなしなんて言ったりしないけど、そういうものだってわかってるでしょう。どうしてそんなに私に執着するのよ!?」


彼女が乱れるのを他所に、体温が少しずつ下がるのを感じた。感覚も乏しい。まるで痺れるようで、少しずつ意識的な思考さえ遠のく。


走馬灯が走る。まったく、まったく良い人生じゃなかった。この女とは真逆もいい半生。スラムの底辺の父、売女の母の間にうまれ、学び舎になぞ勿論行かれず、行き着く先はこういう道だった。一匹狼よろしく友なんていない。常に金には困り、かといって愛想もなく情婦には向かない性格だった。そして暗殺業を片手間に始めた。仕事はないかと出向いた先があのバーだ。そこで始まった彼との関係。一方的な性欲の捌け口にされていたが、それでよかった。いつの間にか好きになってしまった。そして殺そうとした恋敵の女に殺される。それが、私のつまらない人生。どこまでも糞溜めの鼠のごとく、独りの闇。


「イ、……ミ」
「え……」


イルミ=ゾルディック。
最後に、あいたかった。声をかけて欲しいとか、触れてほしいとか、そんなことを望みはしない。救われる方法があるならあなたの姿を一目見たい、それだけだ。幾度も見た、扉を出ていく背中。寂しいけど、それだけでよかったのだ。心こそ無いが、確かに彼がここにいるのだと、その事実だけで。


ーーーどうか名前を呼んで欲しかった。あなたのことだから私の名前なんて知らないかもね。でも、それだけしてくれたのなら、偽物なんかじゃなくて、私は本物になれたのよ。



「いま、なんて……」


だから、イヴ=ブレアは連れていくね。それがあなたへの仕返し。


いつかイルミが忘れていった愛しいその凶器を袖から彼女へ正確に投げた。鋲だ。お姫様のその綺麗な眉間に、正確にそれは投げられた。彼女は呆けた様子のまま、それを避けられずにいる。これで偽物も本物もいなくなる。どちらもかなわない。美しい最後じゃないか。世界に取り残されるのは王子様一人、そんな物語、見たことないでしょう?





しかしそれはヒソカによって妨げられた。鋲はすんでのところで避けられ、私の心臓にはトランプが深く刺さった。

「こ、の……」

ああいいものを見せてもらった、とばかりに愉快そうに狐目の男はいやらしく笑みを浮かべる。イヴ=ブレアを殺すように依頼を仕掛けたくせに、私に殺させず生かすだと?その腕には本物の彼女。ジョーカーの絵柄が、瞳の端にチラついた。



息絶える瞬間、北極星の輝きの下の彼女を見た。
私と同じ、長いその茶髪がたおやかに揺れる。
彼女はそれでも私への罪悪を示した瞳を浮かべていた。


ーー殺されそうだったって言うのに、お人好しね。その異常なまでの常識知らずを除けば、どこまでも普通の女なんだから。


闇が覆う。死神の声がした。そうして、私の一生は暗幕と共に終わったのだった。