20
先の出来事より一週間経過したその頃、私はイルミより自宅謹慎監視処分指示を受けていた。勝手な行動を取るなということと、せめてイルミの傍にいない間は自宅に篭っていろということだ。監視役は従者たち。彼ら同士、さほど信用してないが、目的利害は一致しているためなんとなしに連携することとなった形だ。……とここまで仰々しく話したが、まあ結局は形は変わらない。少々監視が厳しくなったということだ。
しかし奴は思わぬ形で奇襲してきた。時分は、麗らかな陽気の時刻午後。
「それでボクは言ったわけさ。もしボクがキルアをターゲットにしたらどうするの、って」
「…………。」
「そしたら彼なんて言ったと思う?そしたらヒソカが俺のターゲットだって言ったんだ。ゾクゾクしちゃうよねぇ」
「…………。」
「それでさ、じゃあキルアじゃなくて他の兄弟だったら?てまた聞いたら今度は何て言ったと思う?」
「…………。」
「そしたら、それならまあできれば二男から頼む、ってさ。ホントひどいお兄ちゃんもいたもんだよね。弟なのにあまり好きじゃないのかな」
「…………。」
「ところで二男はどんなタイプ?イルミに似てる?彼、あまり答えてくれなくてさ。知ってるんだろ?」
「…………そんなことより何なのこの状況」
「言ったろ、今度お茶でもしようって。何かおかしいかい?」
おかしい。
目の前にはラフな格好の見目麗しい青年の変態。お茶を囲んでアフタヌーンティーを共にしている。私はこのヒソカとかいう男を胡散臭い目で見た。先の出来事はついぞ一週間程前、確かにヒソカは去り際に「今度お茶でもしよう」と言って去ったがまさかこんな短いスパンで再訪してくるとは思わなかった。この空間、違和感しかない。
「お嬢……この人なんなんですかい。敵ですか」
「……どうかなあ。敵か味方かそれとも変態か」
「何のんきなこと言ってるんです」
しかもここは自宅だ。ルーイが訝しんでヒソカという客人かどうかもわからない男を遠目に眺める。ヒソカは、わざわざ私ん家に普通にピンポンして訪ねてきた。あんまり自然に「イヴ、お茶をしに来たよ」とアポイントメントでも取っていたかのように上がり込むものだから私もついぞと許してしまった。イルミがヒソカを威嚇をしたのに彼はまったく聞いてなどいなかった。しかしヒソカのことだ、軽く軟禁された私に、きっと何か情報をもたらすはずだ。それを得たい。ここは自宅だし最低限の警備もいる。ヒソカが暴走して緊急事態になったら父も最悪呼び寄せられる。それにルードヴィッヒが駐在してくれているし陣地内だから、まだ状況としては優勢かわからない。ヒソカにはそんなもの意味が無い事は無いと信じたいところだ。
「自己紹介がまだだったね。ボクはヒソカ。イヴとイルミの友達さ」
「え、友達?ちょ、」
「君の名前はなんて言うのかな」
友達か?と思ったが私の疑問符はヒソカに掻き消された。
「…………ルードヴィッヒ=デルフェンディア。ブレア総統付きの、イヴお嬢の下僕で護衛で従者で武官ですけど」
「君もなかなか美味しそうだ。彼女の護衛は大変だろ。彼女は意外と突飛だし、単独行動するし、何せイルミがくっついて来るんだからね」
「…………そう、そうなんですよ。お嬢ったらこの間も夜中出歩いて。イルミの旦那もそりゃもうカンカンで大騒ぎですよ」
「イルミも下の人間を何とも思わないし、本当に暴君のようだよね。せめてイヴは普通であって欲しいのに彼女のことだ、そうもいかないことばかりだろ?」
「ええ、ええそうなんです。反対しても暗殺現場に立ち入ったり、ぶっ倒れたりしてイロイロと心配させるし。常識はずれなんです。世のため人のためだか何だか知りませんが、昔はもっとむちゃくちゃだったんですから」
「大変だねぇ、ルードヴィッヒ君。同情するよ」
「ぜひルーイと呼んでください、ヒソカさん。こんなに話のわかる方は周りにいないです。俺、感動」
「………………。」
何この状況。目の前で変態と下僕が私の悪口で盛り上がっている。
確かにルーイの周りには父にしろカミーユにしろイルミにしろ、彼の苦労を分かち合う人物はいないかもしれない……。これまでの苦労の涙を隠すように鼻をすするルーイ。おい、騙されんな。このヒソカこそ、この間の一件の張本人だぞ。
「……あの。盛り上がっているところ悪いんだけど。何も用ないんならお茶飲んで帰ってね、ヒソカ」
「冷たいなあ。君には人の心が無いの?友人がせっかく遊びに来たのにお茶一杯で帰れって言うの?」
ええ……、なんで変態殺人鬼に人の心が無いなんて責められなくちゃならないんだ?
「ヒソカがウチに来たなんて知られたら私またイルミに怒られる……」
「イルミの旦那とヒソカさんは仲良くないんですかい?」
「仲悪、」
「いや仲は良いんだけど今はちょっと喧嘩していてね」
「…………良くはないでしょ、絶対」
ヒソカが怖いのでボソリとしか反論出来ないのだが、小声でとにかく抗う。そしたらヒソカは「ねえ」と嗜めるように揺さぶりをかけてきた。
「イヴ、ボク知ってるんだよ?あの夜のコト」
「み、見て……」
「そりゃねえ。見てたってあの時も言ったじゃない。イルミ、きっと知らないんだろ?怒るんじゃないのかな。良いのかな〜言っちゃっても」
あの夜、アーネンエルベで、ノアイユとの事。どこで見ていたか知らないが、それをイルミに報告されるのは非常に困る。折角、イルミの追求を退いて、今の所は隠し通しているというのに。
「知ってるって、なんですかい?」
「ななななんでもないよルーイ。大したことない。ねえヒソカ、ほら、お茶のお代わりは?ゆっくりしていってねっ!」
「おや、ありがとう。そう言ってくれるならお言葉に甘えてようかな」
クソ、厄介な来訪者が来たものだ。
ヒソカはティーカップを手に持ち、嫋やかにその薄い唇に寄せる。所作は雅なことこの上ない。目を伏せながら茶の味を楽しむ姿。染色でもしているのかわからないが、午後の陽射しが赤毛を照らし、透き通る。髪は遺伝的に細いのかもしれない。ひとつの傷もない白い手指。モデルのような身長に、隠しきれない服の下の筋肉。この間遭った時は真夜中でしっかりとは顔が見えなかったが、ヒソカという男は美しい人だった。鋭い瞳だが、それに笑みを付け足されると甘い印象になる。高い鼻、バランスの良い顎、全てのパーツが調和して綺麗だ。イルミもルーイもカミーユも皆眉目秀明だが、ヒソカはまた異なったタイプの美青年。つい、ヒソカの顔を眺めてしまう。顔だけは好きだ。私の視線に何か感じる所でもあったのか「ん?」とヒソカは私を伺った。まさかヒソカの顔に見蕩れていたとは口が裂けても言えず「何でもない」と答えると、「そう?」とまたお茶を味わう彼。変態じゃなかったら素敵な青年なのに。神は残酷だ。
「それでイヴ?あの後どうしたの?」
「あの後ね……」
きっと、ヒソカが去ったあの夜の後の出来事を彼は聞いている。
大変だった。何がと言うと、イルミの尋問だ。執拗に詳細を聞かれた。
そして決まってしまったのだ。
そもそもの発端、この物語のテーマの行先を。
✱
「それで?」
仁王立ちの恋人。正座させられる私。
自宅に帰り、とりあえず埃だらけで服も汚れていたため入浴をさせてくれた後に、イルミは先程までの甘い雰囲気はどこぞの様子でまた苛立ち始めた。
「それで、とは……」
「忘れた訳ないよね。後で聞くって言ったろ。何してたか言いなよ」
「だから、その、飲み歩こうとしてただけだって、本当に」
嘘は突き通すと真実となると誰かが言っていた。勿論デマカセだがこれを一本通しで推すしかない。そんな嘘を突き通して絶対口を割らない私の様子に、「チッ」とイルミは舌打ちをして、そしてなぜか鋲を手に持った。チラつかせてくる。
「な、なにそれは」
「本当の事言わないとコレ刺す」
「ええー絶対痛いやつじゃん……」
「嫌なら言えば」
「だから飲みたかったけど私酒癖悪いからルーイとかを同行させるのはやめとこうと思って一人で行っちゃっただけ、以上!」
夜会の時に確か見た。それを頭に刺されるとどういう訳か意思に背いてイルミの指示の通りとなってしまう、つまり自白をさせられるのだろう。強制的な操作系の、きっとそれがイルミの念能力の一つ。しかし私を好きだと言った舌の根も乾かぬうちに、凶器とも言えるそれをホントに刺すとは思えないが。だがイルミならどうだろうか、本当にやりそうだから怖いが。
「えい」
「え、痛っ!」
刺した。ちょこっとだけだが、私の太ももに軽くその鋭利な先端を本当に刺した。刺されたところを見ると血こそ出ていないが、鋭いものはやはり痛いに決まっている。
「これから嘘をつくたびにこうやって刺してくから」
「地味に痛い!」
「本当に俺優しいよね。手加減するのが難しいくらい優しくしてるよ」
「ええー恋人にこんな事する?」
「だって言わないし。飲み歩いてたなんて、絶対に本当じゃないよね。不透明だね、それで納得なんて出来る?俺というものがありながら俺に言えない密会でもしてたわけ?また浮気?」
イルミの疑心はほぼ命中していたようなものだが、やはりまだ言えないと思った。自分自身まだ認められていないのに、それを告げる事は苦しい。ましてや、当のイルミに。
「浮気じゃないよ」
「でもイヴ前科あるから」
「違うのに勝手に前科にしないでくれる。てゆーか前科ならイルミなんですけど。さっきのこと忘れたなんて言わせないから。不貞行為!浮気者!」
「さてね。何の事かわからないな」
「こ、こいつ……!」
すっとぼけマスターイルミはそっぽを向いて完全に悪びれもせず知らん顔をした。
「不貞じゃないし浮気でもないし。その定義を思い返せば?俺はただ金で女を買った、それだけ」
……確かに。不貞とは法律用語であり、夫婦の禊をまもらず、配偶者としての貞操義務の不履行を意味し、民法離婚事由として規定されている。浮気とは、心が浮つくこと、陽気で派手好みな性格、男女間特に夫婦間の愛情が浮つくこと、夫婦であるかまたは恋人がいるにもかかわらず、他の異性に愛情が移ることを示す。私たちは夫婦ではないしイルミは先の女性を愛したわけではないので、確かにそのどちらでもない。いや、そんな揚げ足取りにそうだなあ、と呑気に納得できるようなことでもないんだが。とにかく納得がならない。
「なんで私だけ、こんな責められて怒られる……」
「生き死にに関わることだから。前に言ったろ、お前が死ぬのは絶対に許さないって」
「そりゃ、言ってたけど……」
「だからお前に関わる不穏分子は潰す。そのためには、お前がどこで、誰と、何をしていたか。それを俺に言う必要がある」
「ごもっともらしいけど……」
「わかったなら言いなよ。イヴ、お前のために俺はここまでしてるんだよ?それがわからない?話すだけでいいというのに、どうしてそうしないのかな」
なんだかこの押し付けがましい偽善的にも感じる圧迫感、まるでキルアに対するそれのようだ。こうなるとイルミは私が口を割るまできっと気が済まないだろう。
「じゃあ、その針でもっと私を傷付ければいいよ」
だから、同情を煽って、情けを乞う。今はそれしかできない。ピク、とイルミは苛立ちを見せ始めた。彼が私を痛め付けることは難しい。それを私は知っていて、私はそう言うのだ。
「お願い、信用して。勝手に出歩いて反省してる。私も、すごく怖かった。でも心配してるような事は無いよ。どうしてもそれでもだめなら、本当のことを言ってないって許せないなら。その針で私を傷付けてもいいから、」
許せないなら、傷を頂戴。それに耐えて、信頼を得られるならば。
「今は信じて、私の言うこと」
そう、今はまだ言えないから信じて欲しい。私のしている隠れた行動を黙認して欲しい。正座をしながらイルミを見つめた。彼は、懇願する私を眺めていた。そして凝ったのか首を回して、……ため息を吐いた。
「はーあ。俺、仕事やめよっかな」
「えええぇーっ!?」
イルミの突然のニート宣言に私は思わず声をあげた。
「仕方ないよね。イヴ言うこと聞かないし。お前を監視するにはいくつか方法はあるけど、俺が仕事ある限り絶対守りきれるとは言えないし」
「る、ルーイやカミーユがいるし……」
「それがこの結果だろ。それにお前勝手に単独行動するみたいだし?」
「ぐう」
「やっぱり仕事やめてイヴを直接管理下に置くしかないよね。それなら悪い虫を寄せ付けることもないし」
「……い、イルミの仕事を必要としてくれる人達が待ってるのにいいの!?シルバさんもキキョウさんもお兄ちゃんのイルミが辞めちゃったらすっごく悲しむよ!」
イルミの仕事を必要としてくれる人達って何なんだ、と思いながらも熱弁を振るう。それは困る。つまりイルミは、下僕たちや私さえ信用ならないから、仕事を辞めて直接的に私を束縛しようかどうか悩んでいるのだ。それはたまったもんじゃない。毎日四六時中イルミに監視されるなんて息が詰まって窒息死でもするんじゃないだろうか。とにかく私はそれだけは避けてもらうべく弟達を利用して猛反対の姿勢を示した。
「ミルキやキルアやカルトも、お兄ちゃんの働く背中を尊敬して目標にして育つんだよきっと!まだ育ち盛りで多感な時期なんだから!特にキルアは悲しむんじゃないかなあ!?」
「それなんだよなー」
「仕事辞めちゃったニート同然のお兄ちゃんの言うことを聞いてくれるかな!?それにまだ修行も途中でしょ!?立派な後継者に育てるんだからそんなのだめだと思うけど!?」
「やっぱり?」
「それにほら私も立場無くなっちゃうよ、あの小娘のせいでイルミが暗殺業を廃業したーって家中で陰口言われちゃう、そしたらきっと結婚なんて大反対されちゃうから!」
「あ。そっか。そうだね」
ポン、とイルミは思い付いたとばかりに手を叩いた。
「結婚しちゃえばいいんだ」
「えっ」
「そしたらイヴはゾルディック家の管理下になるよね。俺が仕事中もまあ安心だし。外部からの侵入もないし、イヴが勝手に出て行けることもないし。万事解決」
「ちょ、それは待て」
確かにイルミにとっては一石二鳥の妙案中の妙案かもしれないが、それってどうなんだ。それはそれで本末転倒のような。外部からの侵入もなければ私が勝手に出ていけやしない、ってそれ軽く軟禁じゃないのか。
「嫌なの?俺のこと好きなんでしょ?」
「好き、だけど……」
「ならいいじゃん」
「ま、まだ恋人として日が浅いし、結婚は早いんじゃないかなー……」
「また言ってる。じゃあいつなら良いわけ?」
「ええ……そ、そんなの、ぱっぱと決められるもんじゃ……」
「お前を待ってたら埒が明かない。俺が決めるから。そうだなー」
傍若無人自分勝手自己判断を発揮するイルミ。顎に手を当て、何かを思案する。そしてピン、と人差し指を立てた。
「イヴの二十五歳の誕生日。その日に結婚しよ」
それは春だ。今からだと半年ほど先。桜の咲き乱れる季節。
ずき、と震わせるほどの頭痛が鳴り始めた。きっと頭の中のあの女だ。喜びか悲しみか私をわからないが叫んでいるのを感じる。それを無視しつつ私はイルミだけを見た。
「なんで、その日に」
「昔約束をした時、二十五歳になったらしようって決めたから」
その約束の内容は私の記憶にはない。けれど、過去の私とイルミはどういう理由かわからないが二十五歳で結婚をと決めたらしい。
「もっと、別の日でも良いんじゃ。だってその日は、」
「母親の命日だろ、わかってるよ」
そう、命日。私が生を受けた瞬間に死んだ母の、弔いの日。結婚には適さない、そう思うのは誰しもだろう。しかしイルミは続けて言った。
「けど約束を果たすならその日だ。あと半年もあるんだからお前もそれだけの期間があれば覚悟を決められるだろ。はい決まり」
「でも……」
「結婚するの、俺とは嫌?」
嫌な訳ない。だってついさっき、理解したんだから。認めたんだから。イルミ=ゾルディックは、世界で一人の特別な男性なんだと。
「好きだよ、イルミの事」
「そ。俺もだよ。ならいいよね」
「でも、聞いて。まだ……まだ、あなたに言ってない事があるの」
頭痛に……耐えられない。頭が割れる。気を失いそうだ。あの女の声が、夢の中でないのに幻聴のように耳の近くで聞こえる。より彼女との距離が近くなった、そういうことかもしれない。
(言いなさい)
(イルが好きなのは貴女じゃなくて、私だと)
(約束したのは私よ)
あの女が頭の中でヒステリックに暴れ回るのを感じる。言ってしまおうか。私も楽になる。隠し事をする苦しみも、この頭痛も消えてなくなる。なぜ私は隠す?だってそれが真実かもしれないじゃないか。イルミの愛の行先が私でないかもしれない、彼の愛が空虚なものになってしまわないように、彼を好きなら、彼を思ってこその真実の告白を。
「イヴ?」
「私は、……」
「うん」
膝を折り、目線を合わせて、真摯に私を見つめる黒い瞳。大好きな猫目。かわいい。好きだ。優しいイルミが。変わらない人。昔から真剣に話を聞いてくれる時は、そうやって真偽をたしかめながら自ら腰を折って私の目を見る。そのしぐさも、何もかもを私は知っている。ねえ、イルミのその綺麗な黒い長髪が好きで、私もくすんだ茶髪だけど伸ばしてるのよ。イルミの目が好きでその黒い瞳が羨ましいと思うの。無表情で自分を出さないけど、あなたをわかってるのは私だけだと、私も私を信じたい。
「イヴ?」
ーー譲りたくない。たとえ彼が好きなのは、本当は私でなくとも。
「……ごめん。やっぱり、また言うから。今は忘れて」
そして誤魔化して笑った。彼は不思議そうな表情をした。
覚悟を決めた。私は私と戦う。聞け、宣戦布告だ。イルミがほしいから。譲りたくないから。一緒にいたいから。彼の紅茶を飲みたいから。笑っていたいから。喧嘩もしたいから。時間を共有したいから。一緒に歳をとりたいから。好きだから。
イルミは、暫くの沈黙の後に言った。
「それはもしかして記憶に関すること?」
イルミの指摘に、イヴは驚きの表情を隠せなかった。
「気付いてないとでも?イヴ」
イヴは救いを求めているが、それに耐えている。隠しているようだけど、その根源の何かはイヴのお前の中で渦巻いている。欠落した記憶。脳の障害。増えるアルコール。何かを隠す。時折見せる別人のような表情。倒れた時俺の名を呼んだ時の違和感。少し不穏な周囲の動き。それを明確には指摘できないけれど、原因であり根源はイヴだ。彼女の中の何かだと、俺の勘が示す。
「少しずつ、何かがお前の中で崩れて変化している。その何かというのはお前にしかわからない。でもそれをまだ俺に言うつもりは無い……」
イルミは射抜くように私を見た。
「違う?」
ほぼ正解に近かった。わかっているんだ。ただ核心は得られていない。それはそうだ、私だって核はわからない。しかしイルミは、自分の事でないのに把握し、私と同じラインに立っている。そうだ、ほぼ正解だ、当たっている、とは言えない。しかしイルミから、一つの例え話の彼なりの答えを聞き出したくなった。私とあの女の逆転が、もし成されたらという例え話を。
「…………イルミは、私が私でなくなったら、どうする?」
「どういうこと?」
「ジレンマの、例え話だよ」
論理のジレンマ。論理学では『A または B である』『A ならば C である』『B ならば C である』という仮定から、『C である』という結論を導くことをジレンマと呼ぶ。
「私の見た目だけど、実質的には私じゃない。本質は同じ物だけど、少し違う。例えるなら、白湯で淹れた紅茶と、ミルクで作った紅茶。同じものだけど違うもの。けれど私の外見は変わらない。前にイルミは言ってくれたよね。操り人形でもいい、喋らなくなっていい、動かなくなっても、顔が爛れても、肥満になっても、残酷な性格になっても……私を好きだって。でも、身体は同じでも精神が本来の私とは違う、そういうものになったら。……イルミは、どうする?」
この頭の中の女が私を乗っ取る、そんな日が仮に来たとしたら。私の見た目であるが、私ではない誰か。そしたらイルミはどうするのだろうか。それでも好きでいるのか、それとも好きじゃなくなるのか?無関心になるのか、もしかして、更にその誰かを愛してしまうのか?
イルミはぽつんと、一言返答した。
「わからない」
そして続けて言う。
「殺すかもしれない。だってお前じゃないから。けど、それでも傍に置くかもしれない。お前を好きだから」
シンプルな、殺すか生かすかの二択だった。しかしどちらかはわからない。イルミからの返答はそれだった。
「全然、矛盾してる答えだよ」
「矛盾してちゃ悪い?じゃあイヴはどうするの」
「え……」
「俺の見た目で中身はヒソカ。そういうのあり?」
「え、うーん……」
「悩むだろ?だからそれの答えは『答えなんて無い』が正解だ。極論であり倫理でもある、だからジレンマなんだ。二つの相容れない前提を差し迫られたその時にしか俺の答えは生まれない。その時になったらでないとわからない」
そして彼は、頭痛鳴り止まぬ私の頭を、くしゃりと撫でる。
「お前が好きだから共に居たい。しかし本質的にはお前ではない。そうしたら殺すかどうか。それは俺のイヴ=ブレアへの愛情が成立している限り解決されない」
ーー素直に嬉しかった。愛が障害となる限り選べない。つまりそういうことだ。まるでドラマチックな台詞だ。
イルミの頬に手を伸ばす。つまらない愚問をぶつけてしまった。答えがないからこそ、ジレンマだ。究極の選択。しかしイルミの中ではその道筋が示されている。好きだから選べない、そう言ってくれるなら、私は。私に出来ることは一つだけ。
「じゃあその時は、イルミが決めて」
『私』を殺すか、生かすか。あなたに委ねる、それだけ。
「なにそれ。例え話だろ」
「そう、でも、意思表示だよ。殺されても生かされても恨まない。イルミが決めるならどうなっても受け入れるって決めた」
「俺が決めていいわけ。イヴ自身の事だろ。人一倍怖がりのくせに」
「いいよ。だってイルミ、私のことを好きだから悩んでくれるんでしょう?それなら私は、好きな人が悩んで悩んで悩んだ結果に、生きるか死ぬか決めて貰えるなら、きっと受け入れられる」
イヴは笑った。暗い雲を吹き飛ばすような、神秘の風のように。
「ーーだって、そんな幸せなことある?」
それはこれまでに見たことのないほど綺麗な微笑みだった。
「……ご都合主義。それに他力本願で自分勝手すぎない、それ」
「ごめん。でもそれが私にとっての正解だから」
「俺の気持ちはどうなるわけ」
「そんなの知らないよ。イルミはこれまでも私の意志を無視してお付き合いだの結婚だの決めてきたじゃない。これからもそれは変わらないだけ」
「何、俺を傍若無人な暴君みたいに」
「…………まあ実際そうなんだけど。とにかく、」
常識破りで身勝手な女だ。だがそれこそを愛おしいと思わずにいられない。
「私の生殺与奪権、イルミにあげたから」
だからイヴ=ブレアがいい。何者も敵わないお前が。
「そう。お前が俺に与えるなら、貰うよ」
お前の最期を決めるのは俺。殺すのは俺。イヴ=ブレアの死因は病でも事故でもない。俺によってもたらされる死だ。だがそれは、俺たち二人が一緒になって、共に暮らして、子を作って、育てあげて、そして老いてからだ。人生を全うしてから、それから考えよう。幸せな俺とお前だけの最期を。
イヴはそれを聞いて満足したのか、途端に、何かに耐え難い表情を浮かべた。
「なんだか、……もう眠いから、寝るね」
「イヴ?」
「大丈夫、眠いだけ……」
頭痛は最高潮に達した。私は眠いふりをして、正座による痺れさえかまわず、ベッドへと潜り込んだ。そして毛布の中でようやく彼の前では隠していた顰め面をする。迫り来るあの女の暗闇を感じた。
「仕方ないな、ほんと」
イルミがベッドの上に乗り、とん、とん、と眠りを誘うように背中を叩いた。それは愛おしい振動だったが、襲う暗闇を招く一因であることが残念でならない。そして、眠りとともに、ブラックボックスに私は閉じ込められた。
✱
(イルは私のだと言ったでしょう)
(どうして貴女が彼を奪うの)
(許せない)
うるさいな。取ったもん勝ちよ。譲らないって決めたから。
(彼を好きになったのは私が先)
(彼が好きなのは私)
(黙っているつもり?)
いずれ言う。今じゃない。
(そうやって逃げ続けて彼を奪うつもり?)
(結婚の約束を取り消しなさい)
(そうでなければ殺す)
取り消さない。やってみなさいよ。私を殺したら自分もどうなるかわからないくせに。
(そうね。ならば戦争よ)
(閉じ込めてやる)
(この暗闇に、永遠に、生涯ずっと)
(私は貴女になって、貴女は私になる)
(代わるのよ)
(見ていなさい、いずれ後悔させる)
(私から彼を、イルを奪おうとするならどうなるか)
それでも最後に選ぶのはイルミよ。聞いてたでしょ。その時がもし来たら気に入られるといいわね。どうか知らないけど。
(私を選ぶに決まっている)
(その時は来る)
その尊大な自信が自らを傷付けることにならないといい。
(黙りなさい!)
(イヴ)
(これまでは許していた)
(それでも『私』だからと)
(けれど、情けはここまで)
(貴女と彼を返してもらう)
(本気よ)
そう。じゃあ戦いましょう。『私』と、彼を掛けて。
(姉妹喧嘩の始まりよ)
✱
そして目が覚めた時にはすでにイルミは居なかった。けれど長い時間彼は私の傍にいたのだと、ルーイが教えてくれた。それはあの暗闇の箱の中で感じていた。彼が私の背をゆるやかに叩く振動、それが確かに長い時間支配していたということ。きっとイルミは時間の際まで確かに隣にいた。けれどきっと仕事に戻ってしまったのだろう、でも彼の温もりが残っていて胸がわずかに甘く苦しい。
ブラックボックスの内容はさておいて、ヒソカに粗筋を語った。ルーイは複雑そうな表情で、それを傍でただ聞いていた。私の配偶者がイルミになるということは、イルミもルーイの主人になるということだ。純粋に嫌なんだと思う。ヒソカは頬杖をついて一連を聞いていた。その表情は、別段何かを思案するでもなく、ただ流れを穏やかに耳に入れる、ただの青年がそこにいた。そして、口を開いた。
「なんだ、そう。じゃあ来年ということ?」
「まあ、そうだね。イルミが強引に決めたことだけど、私もそれでいいかなって納得したから。こういうのは勢いが大事って言うし」
「キミのような素敵な女性、イルミには勿体ないなあ。ねえ、ボクなんてどうだい?ボク、悪くないだろ?」
「顔は好みだけど人間性に難ありだからなあ、ヒソカ」
「イルミも大概だと思うけど」
「まあ確かにね」
イヴはおかしそうに笑った。ヒソカも微笑んだ。
「まあひとまず、おめでとう、といったところかな」
「ありがとう、ヒソカ」
彼女はそうして満面に微笑んだ後に、睫毛を伏せ、そして彼の愛を思い返すようにイヴは無言になった。その物思いにふける高貴な姿に、ヒソカは思わず口を噤んだ。
そしてあの夜を思い出した。美しかった。絶対に死ぬと思っていた。イルミの反応を楽しみにさえしていた。だから今では逆に殺さなくて良かったと安堵さえしている。憎しみに滾る暗殺者の女を、冷静かつ圧倒的なその知性で凌駕した。女を撃ったその傍で、銃口を向け続けたその姿。北極星の輝きが燃え、その啓示は彼女だけに注がれていた。
昼の今は穏やかな愛の姿。悪戯に笑う笑みがどこか恋しい。
「……まあ、なんていうか?誰かさんの横槍のおかげなのかな。憎しみを煽って殺し合いを仕向けた結果がこんなことになってほんと申し訳ない限りだけど」
「キミもなかなかいい性格してるよね」
「ヒソカに言われたくないなあー」
「さて、惚気を聞くのはもうお腹いっぱいだ。聞きたかった話も聞けたことだし、ボクはこれでお暇するよ」
「あ、そう?ぜひとも帰ってほしいよかった、残念だなー」
「ひどいな。心の声全部出てるけど」
「さあさあ、早く帰った帰った」
ヒソカが立ち上がると同時に、ルーイも席を立った。
「んでは、俺が下まで見送ります」
「あ、いいよ、ルーイ。私が彼を見送る」
「しかし、」
「友達を見送るのは友達でないとね」
「……そうですかい」
イヴはルーイを控え、どうしてか玄関までヒソカを連れ立った。その廊下。彼女は無言だった。茶髪が日差しに差されて透き通り、金髪のブロンドのようにも見えた。その髪をうざったそうに右手で除ける。その薬指に光る指輪が、冷たく光った。
「ヒソカ」
そして、イヴは突然立ち止まった。否、突然というには、ヒソカは彼女のその行動の理由をなんとなくわかってはいたから、驚きなどしない。彼女は……先程までおちゃらけていたとは思えない冷酷な表情をヒソカへ向けた。選定を行おうとしていた。
「あなたは誰の味方?」
「どういうことかな」
「知ってるんでしょう、ーー私の正体」
最後に聞いておかなければならない。ヒソカはさっき……『知っている』と言った。それはつまり、ヒソカはノアイユと繋がっている可能性。奴から私の正体・情報を得ている可能性が高い。というか、だから試したのだろう。ノアイユはともかく、このヒソカという男の立ち位置を確認しておかなければならない。
「どちらの味方か教えなさい。……私か、それとも彼女か」
ヒソカはその瞳に何を思い浮かべるでもなく、ただその疑問を耳に享受している様子だった。そして返答は意外にもすぐ返ってきた。きっと、その場では考えてはいなかった。しかしもうずっと前から決まっていたのだ。あの夜から。北極星の導きは、イヴだけにではなくヒソカにも齎されていたのだろう。
「……キミだよ。イヴ=ブレア。今ボクが話している目の前の女性。高潔な百合の血の通う、キミの味方だ」
その返答にしばし沈黙していたが、イヴは大きくため息をついて安心したのか反面した笑顔を向けた。
「よかった。敵だったらどうしようかと思ってた。好きなあなたの顔が敵になるのは嫌だったから安心した」
「おや、ボクの顔が好みなのかい」
「うん、まあ。でも、それ以前にとても悲しいじゃない」
「どうして?」
「ーー友達、なんでしょ?」
ヒソカは、その言葉に目を見張った。そしてニヤリと笑い、「そうだね、友達だ」と返答した。
「ホントに思ってる?」
「思ってる思ってる」
「胡散臭いなあ」
「どっちがだよ」
「そっちでしょ」
軽口を叩いた。まるで真の友達のように。
「味方で友達なら裏切らないでよね。嘘つきなんだから」
「どうかな。ボクは奇術師だからね」
「あ、そうなの?知らなかった」
「ごらん」
ヒソカは、何も無い手のひらを私に見せた。一回だけ瞬時に反転させ、そして返すと、その手にはトランプカードが既にあった。
「おーすごい、奇術師っぽい」
「あげる。受け取って」
「あ、ありがとう」
その白い手からトランプを受け取ってまじまじと見つめた。種も仕掛けも無いようだったが、そのカードには一言、ヒソカからのメッセージが書かれていた。
ーー"Et tu, Brute?"
そのメッセージに、私は思わず閉口した。
「友達で味方のボクからの助言さ。これで信用してくれるかな?それとも、余計なお世話だった?」
「……ううん。まさか、ヒソカがこれを伝えてくれるとは思わなかったから。なんだか逆に感動。ヒソカにも人の心があるんだなぁ」
「ボクの事なんだと思ってるんだい」
「あはは、友達でしょ、怒らないでよ」
「ソレ、知ってるんだろうとは思ってたけど。キミも食えない女だねぇ」
「ヒソカ。どうもありがとう。わざわざ教えてくれて」
「いいさ。キミを気に入ったからする事だ」
ヒソカは私の髪を撫でた。そして玄関まで向かうと「またね。次はデートでもしよう」と最後にヒソカは片手を挙げて街並みへと紛れて去っていった。
その後ろ姿を見届け、私は様々なことについて思案した。
友達が増えた。けどイルミに言ったら、怒るんだろうなあ、と思った。きっとあの子とはお友達はやめなさい、なんて言われるんだろう。
けれど、少なくとも味方だと言葉を聞き出した。信用しろとも。それがいつまで有効か、いつ彼の気まぐれで変わるかわからないが、信じよう。根拠は無い。ただ蜘蛛の糸は、友達という関係性を裏付けたこのトランプカードだけなのだから。
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イヴの元を去った後。裏道を歩くヒソカに、白い青年が話し掛けた。
「ーーもう彼女に手を出したりしないということかな。ヒソカ」
「やあ、キミか」
ヒソカは立ち止まる。
「人聞きが悪いなァ。ボクはただ試しただけだよ」
「君に彼女の情報を渡したのは、彼女を君の玩具にするためじゃないんだけれど。君はイルミ=ゾルディックへの布石だ」
「わかっているよ。ーーでも気が変わった。ボクは彼女の友達だからね。イルミとは闘いたいけれど、今はやめた」
「何故?」
「彼女がイルミと結婚。素敵なことじゃないか、もちろんボクは祝福しよう。そして幸福の絶頂の時にイルミを殺す。そしたら彼女の憎しみと関心はボクだけのものだ。イルミに抱かれたその身体は今度はボクの手によって喘ぐ。未亡人というのも悪くないと思ってね」
「それはそれは、悪趣味だね」
白い青年は、侮蔑的な声色で応えた。
「彼女は覚悟を決めたようだよ。そして全てわかっていた。答え合わせをしてもいいんじゃない?けど、ボクは今の彼女に付くことにするけどね」
「そう。残念だよ」
「キミはそれでも彼女の敵でいるのかい?」
「敵じゃないさ。僕は姉妹喧嘩を諌めて欲しいだけだよ。二人が殺し合って、彼女が彼女で亡くなる前にね」
「姉妹、ね。果たして一方は定義として人間と言えるのかな」
「定義は人それぞれさ。病に倒れ意思も持たないただの生ける肉塊となったとしても、それを人間だと大事に介護する者もいるだろ?」
「キミはどちらでもないんだね」
「そう。どちらでもあってどちらでもないんだ。けれどヒソカ、僕とは異なる立ち位置になるなら、仕方ないね。友達の定義とは怪しいものだけれどね」
「定義とは人それぞれ、だろ?」
「そうだね。彼女が認めるならそれで合っているんだろう」
二人は、これで我々の関係性は終わりだ、と背を向けた。縁は切れた。
「次会う時はどういう形かな?」
「さあ。ただ言えることは、君は彼女の味方であり、僕も彼女の味方ということさ。ただ、君と僕が同志である事は無いみたいだけれどね」
論理のジレンマ。論理学では『A または B である』『A ならば C である』『B ならば C である』という仮定から、『C である』という結論を導くことをジレンマと呼ぶ。しかしそれを成立させるのは難しい。
「それは残念だ」
「また気が変わったなら言ってくれ、奇術師さん。その時は同志である事を祈るよ。それじゃ、さよならだ」
「さよなら」
鬱蒼とした暗い裏道を、そうして白い青年は踵を返して去っていった。
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