21




「イルミ様。本日はこちらをお召しください」
「うん」


ゴトーから、今日は喪服を与えられた。父親も、母親も、そして使用人達も各々それを身にまとっていた。その時は幼く、あまりその意味を深くは理解していなかったかもしれない。黒とは死者を尊び着る服、そういうものだということを。

ゾルディック家から飛行船で一時間程。パドキアの西端の近郊にそれはあった。俺達はそこへ喪服で向かっていた。母親はミルキをあやしていた。父親は、その時飛行船の中でどんな顔をしていただろうか。いつもの通り、腕を組んで顰め面だったかもしれない。逆光であまり覚えてはいない。けれど少し物思いにふけるところは、きっとあっただろう。


六歳。11月2日。全ての死者のための儀式、万霊節、オールソールズデイ。その日をイヴの母親の追悼の日としていたのは、一つの理由があるからだった。それを知ったのはイヴと同じその日だった。


飛行船から降り立つと、既に幾人かのブレア家の使用人が控えていた。恭しくお辞儀を受け、その中を俺達は進む。見晴らしの美しい丘。潮騒が遠くに聞こえ、海の青と空の青が交差する地平線。その日は冬に近づく秋月。肌寒く、草花も枯れて春に備えを迎える。芝は茶色く、色色の枯葉が林を舞う。そしてその先にあの父子が既に立っていた。

パドキア軍の最高位の軍服。そして総統の徽章がその胸に輝く。少し白髪の交じった茶髪と、整った厳つい表情がこちらに視線を向けた。エドワード=ブレア。彼女の父親。

彼女もまた喪服を着ていた。金と茶の中間色の髪色、透き通った茶の瞳。一方では父親の手を握り、もう一方の手では爪を甘噛みしていた。イヴ=ブレア。六歳の彼女。


イヴはキキョウを見つけるや否や、「ママ!」と駆け寄ってキキョウのスカートに顔を埋めた。そしてまるで本当の母子のようにキキョウは彼女の頭を撫で付ける。腕に抱いていたミルキを執事に預けさえして、キキョウはその美しい顔に微笑みさえ浮かべていたが無言でイヴを抱き上げた。




「エドワード」
「シルバ。暫くぶりだな。いつもイヴがそちらで世話になっている」
「ああ、それはいいんだが。……なんか老けたなお前」
「老けてないそういうお前こそ老けた」
「冗談だ。真に受けるな。糞真面目な性格は変わらないようだな」
「お前こそ私をからかって遊ぶ天邪鬼な性格は変わらないみたいだ」


そして父親達はどちらとも無く握手をした。表情には出さないものの旧友同士、数年振りの再会を喜ぶその父親達の姿。俺はそれを隣でただ眺めていた。


「お前の倅も成長したな」
「ああ。イルミだ。挨拶しろ」


父親に促され、俺は一言「どうも」とだけ挨拶をした。


「…………おい、似てないし愛想無いな。子供は元気よくこんにちはだろ。シルバお前、修行させすぎなんじゃないか。にこりともしない。感情あるのかこいつ」
「感情はまだあるぞ。こいつはゾルディック家の長兄だからな。いつまでも子供ではならない。自覚させ育てている」
「まだイヴと同じ六歳だろ。ゾルディック家の教育方針にとやかく言うつもりは無いがたまには甘やかせてやれ」
「エドワード、お前は甘やかし過ぎだ」
「甘やかして何が悪い。女の子だぞ。男だったら強くなるよう鍛錬でもさせたかもわからないが、生憎美少女だ。だが女でよかった。そしてユリによく似て本当に良かった。天使真っ盛りで目に入れても痛くない」
「ああ、わかったわかった。親バカも相変わらずみたいだな」
「……だが、さすがに今日は天使の笑顔も曇っているが」



エドワードは視線をそちらへ向けた。イヴだ。愚図ってキキョウの胸に顔を押し付けていた。



「すまない、キキョウ。イヴが迷惑かけて。さあおいでイヴ」
「いいの。気にしないでエドワード。いつもは元気いっぱいだから、悲しそうなお顔がまた愛らしいわ。さあイヴちゃん、パパが呼んでるわよ」


エドワードはキキョウからイヴを抱き受けた。彼女の顔を覗き込むように、エドワードは語りかける。イヴはいやいやと顔を振り払った。


「イヴ?さあ、お顔を見せてみなさんにご挨拶しなさい」
「やだ」
「お姫様はご機嫌ナナメのようだね。だがダメだよ。近しい人達だけれど、しっかり挨拶はしなければならない。みんな、お前のお母様の為に集まってくれたのだから」


父のその正論にイヴはしばらく無言でいた。しかししばらくして、もそもそと腕から降り立ち、黒いスカートの裾を握りしめてお辞儀をした。


「みなさん。今日はお母様のために、心から感謝します」


彼女の礼はその場の全ての人々に向けられていた。ゾルディック家の者だけでなく、その執事、使用人、全ての関わりを持つ人々らへ。母のために慰霊に集ったその労力と気持ちに、百合の血を引く少女なりの敬意を示していた。

「いい子だね、イヴ」

エドワードは、幼い娘の稚拙ながらも堂々とした挨拶にすこし誇らしささえ感じていたと思う。そして続けて高らかに言った。

「皆、私からも改めて礼を言う。亡き妻、ユリ=ブレアの為に集まってくれてありがとう。……では行こうか。ユリが待っている」

少し悲しい顔でエドワードは言った。そして再びイヴを手ずから抱き上げた。まるで彼女の中に眠る、死んだ妻の面影を得たいかのように。


俺は、今日は一度もこちらを見てはくれないイヴをただ見つめていた。悲しみを抱えているのはわかった。爪を甘噛みするのは彼女がその胸に抱えるストレスの表れだ。けれどそれをぶつける先は俺であって欲しかった。しかし、きっとそれは俺では駄目なんだろう。俺は幼馴染みの男の子だ。母親の代わりには、今はなれない。









ユリ=ブレア

How l loved your peaceful eyes on me
Rest in peace here the PADOKIA

1967ー1992



その墓碑は一つそこにだけ立っていた。パドキアで最も美しいこの場所の白亜の墓。そこに刻まれた碑銘の意味は、きっと俺が大人になって理解出来ることなのだろう。頭の中で引き算をした。1992−1967=24。当時六歳の俺には、また、その年齢で死んだ儚さもよくわかっていなかった。

「本日この時に皆が集まれし事に感謝をし、彼の者への祈りを捧げます。ユリ=ブレア、旧き名をユリ=フルールドゥリス、その尊き百合の女性の魂は天に御座す我らが父の元にあらんことを」

国教会の神父が祈りの言葉を唱える。皆は、この祈りをどう思っただろうか。俺には信仰さえ無かったが、ただ無言でそれを耳に残した。不愉快ではなかった。なぜなら信仰さえ無いけれど、ユリ=ブレアという既に死んだ人間に、皆が想いを傾けているのが何となくわかったからだ。想いはひとつ、なんて陳腐な形容が今は馬鹿にできない。皆が、その女性の死を思い思いに弔っていた。イヴは、彼女は、どう感じているのだろうか。だって俺とイヴは、その女性に一度たりとも、会ったことが無いから。

横目で、彼女を見遣る。イヴはやはり、父親の膝の上でその腕に抱かれていた。顔は隠れていてよく見えない。




無言と静寂の中では、肌寒さがより強くなったような気がした。


「……お父様。今日は、オールソールズデイよ」


神父の祈りの言葉が一区切り着いたというところで、ぽつりとイヴが呟いた。その静寂の中で彼女のくぐもった声さえよく耳に届いた。

「そうだね。だから皆、お母様のために祈ってくれている」

エドワードはそれに優しく答えた。

「でも。変よ、おかしい」
「何がだい?」
「どうして今日なの?どうしてオールソールズデイに、お母様の為だけに、こんなにもみんなが集まって弔うの?」
「……イヴ……」
「まるで、真の命日のように。今日はお母様の命日じゃない、本当に亡くなった日じゃない、そうでしょう?教えて、お母様の本当の命日はいつなの?」


今思えばその時から彼女の知性は顔を覗かせていた。六歳の少女がその事について疑問に持つには、賢く早すぎたと思う。オールソールズデイとは、すべての死者の弔いの日。一人の故人のために喪服を身に纏い、大勢が参列し、神父の祈りを聞き、献花をするには、あまりにも仰々しい。まるで命日のようにこの日を取り扱う皆に、イヴは疑いを持っていたのだ。

しばらくの沈黙の後に、エドワードは言った。何かを観念するかのように。その透き通った娘の瞳には偽りの通らないこと、そして妻の前ではつまらない嘘は必要ではなかった。誤魔化しなど、優しさでもなければ情けにさえならないと。


「……お母様の亡くなった日は、お前の誕生日なんだ」


その父の言葉に、イヴは大きく目を見開き、息を止めた。


「お母様は、お前を産んですぐに天に行ってしまった。しかしお前の誕生日はお前だけのものだ。悲しみと喜びは分かたれるべきだと思っている。だからお母様の弔辞は万霊節の今日にしているんだ」


エドワードは、イヴと上手く目を合わせられなかった。真実だったからだ。


「繊細なお前の事だから、きっとこの事を知ったら悲しむだろうと思うと、お父様は黙っているより他に無かった」


イヴの命と引き換えに、ユリを失ったのだと、そう告げるようで。





父の独白を耳に入れ、イヴは突如エドワードの腕から飛び出した。そして少女なりの全力で、何かから逃げるように墓碑とは反対の林の方へと駆けていく。

「イヴ!」

エドワードが引き留めようと彼女の名を叫び呼んだが、しかし、彼女を追いかけようとはしなかった。ただ墓前に立ち尽くしていた。きっと娘を追い掛けて捕まえたとしても、どう声を掛ければ、何と上手く弁明をすればいいのかわからなかったのだと思う。エドワードは気真面目な男だったからだ。

「俺が行くよ」

その代わりにイルミはイヴを追い掛けて駆けた。その先立つ行動に、誰も抑止も推進も明示はしなかった。少女の母親が死んだ理由が自らの出生のためであるという事実。そのデリケートな内実のケアに、あの賢い女の子に上手く関われる者はその場には大人の誰でさえもいない。皆、それぞれが愛に対して不器用な人間だったから。





どれだけ駆けただろうか。彼女はどこまで逃げたのだろう。

秋の木漏れ日の中を宛もなく歩く。林は鬱蒼と陰りさえあったが、不思議と恐ろしい印象はなかった。いくつかの木々が不規則に並び立ち、目印も乏しい。子供では迷ってしまうだろう。

しかし泣きじゃくる声が、耳をすませば聞こえてきた。

それはもうしばらく歩いた先にあった。それは珍しくやや大きな百合の木が聳えていた。この辺りで一番大きな木だ。その掘り出た根元に身体を寄せるように、イヴは座り込んでいる。


「イヴ。何してるの」

イルミが声を掛けると、イヴは顔も向けずに言った。

「来ないで。あっち行って」

拒否だ。これはきっと言うことをいつものように素直には受け付けてはくれないだろうな、とイルミは感じた。


「戻ろうよイヴ」
「あとで戻る。ひとりにして」
「ダメだよ、俺と一緒じゃないと。迷ってしまうから」
「じゃあ一緒にいて、イルミ」
「うん、わかった」


イルミは近寄って、同様にしゃがんだ。その震える彼女の背中をさすると、より嗚咽がひどくなった。


「きいてたでしょ」
「何が?」
「お母様のこと」
「うん」
「私のせいなのだって。知らなかった」
「そうだね」


何もかもを否定や是正もせず、イヴの吐露をイルミは聞いた。


「お母様が死んでしまったのは私が産まれたから。どうしてなのって思ってた。イルミにはママがいて、私にはいない。甘えられないの。お父様はとても優しいけれど、いつもお仕事。私もママが欲しかった。でも私のせいで死んじゃった」
「仕方ないよ。だからイヴも祈らなくちゃいけない」
「そんなのできないよ。だって、私のせいで死んじゃったのに、どうしてお母様のあの墓前にいられるというの?」


それだけ言い、またイヴは泣きじゃくった。ここまで逃げるように走ったのは、まさしくその通り母の前から逃げたからのようだった。


「お父様はもしかしたら私を恨んでる。きっと私よりお母様のほうが大事だったはず」
「うん」
「私知ってるの。お父様の懐中時計に、いつもお母様の写真を忍ばせている。いつもお仕事で忙しいのは私のことを本当は避けていて、だからゾルディック家に私を預けたりもしているのよ」
「うん」
「お母様もきっといっぱい生きたかったはず。お父様と一緒に居たかったはず。けれど私のせいでそれは出来なかった。私さえ産まれなければ今も生きてたかもしれない」
「うん」
「あそこにいたら息がつまりそう。みんな言わないけど、私を心の中で責めてるのよきっと。お母様の代わりが私だなんて、って思ってる。私の味方なんていないの」
「そうかもね」
「………………。イルミの馬鹿!すかぽんたん!意地悪!」
「え、何で?」


ここでようやく彼女は俺を見た。よくわからないけれど、少し怒っていた。けれど、泣き腫らした目が兎のように赤くそまっていて、普段は見ない彼女の泣き顔が少し可愛い。


「ちょっとはなぐさめてよ。そんなことないよ、って言ってよ。私のせいじゃないよ、っていい子いい子してよ」
「違うとは言えないよ。だって本当にイヴのせいで死んだんだし」


イルミの容赦ない言葉に、イヴはまたその目に大粒の涙を溜めた。しかしそれを癒すように、その厳しい言葉の反面、しかしイルミはイヴの頭をそれは優しく撫でた。それは未来でも変わらない彼の癖。言葉では救いのない事ばかり言うが、それでも労わろうと彼女を撫でたりして優しく取り扱おうとする。相反した心と行動。イルミの感情は言動に表れる。


「それでも今生きてるのはイヴなんだから」
「そんなの嫌。お母様の代わりに産まれて生きながらえてもうれしくない。私なんて生まれてこなきゃよかったのよ」
「それは違うよ」


イルミはここでようやく否定をした。


「イヴが生まれなきゃ俺が困るんだから」
「どうして?関係ないよイルミには」
「あるよ。俺とイヴは運命の赤い糸で結ばれてるんだから」
「…………イルミ、なに変なこと言ってるの?」
「本で読んだ。配偶者のことを世間ではそう例えるらしい」
「はいぐうしゃ?」
「結婚する相手のことだよ」


そう言って、さらにイヴの顔を覗き込むようにイルミは見つめた。


別に産まれる前から記憶がある訳じゃない。
そう信じている訳でもない。

自分は母親の胎内で息づき、その温かさのなかでしきりに手を伸ばしていた。誰にということはない。ただ早く会いたかった。目を開けたり閉じたりしても暗闇だけが世界の始まりだった。ただ求めていた。生まれた闇の先にあるはずの何かは自分でもよくわかっていなかった。求めるものは何なのか確信はないが、それは、自分の過去だったり、現在だったり、未来であると感じていた。
何かしらの理由で自分が生を受ける前に崩れた予定調和が、自分と、自らの求める先にあるものと結び付いた。運命ーー陳腐な例えだと自分でも思う。ただそれを共通認識の一言で例えるならば、それが最も正解に近い。綻んだ運命の線が自分の生の先で何かに繋がっていると感じていた。
別に産まれる前から記憶がある訳じゃない。
そう信じている訳でもない。

ただその感覚が、自らのなかに確固として存在していた。

以前、このことを父親に話したことがある。
父親は苦々しい顔で微笑し、ただ髪を撫でてくれた。


それがイヴ=ブレアなのだと、幼い自分は感覚的に理解していた。



「俺とイヴは産まれてからずっと一緒だったけど、それは死ぬまでもそうなんだよ」
「どうして?」
「どうしてもこうしてもないし。俺のこと、好きじゃないの」
「イルミは……意地悪で怖いけど、たぶん好き」
「ならいいよね。だから結婚しよ。そしたらウチで暮らせるんだよ。父さんや母さんや執事たちがずっといてくれるし。それで子どもがうまれるんだよ、俺とイヴの」
「ミルキみたいなかわいい赤ちゃん?」
「うん。俺との子ども、ほしいでしょ?」
「うん!」


イヴは、イルミの弟である一歳過ぎた乳児のミルキに首ったけであるのを、イルミは知っていた。赤ん坊を欲しがるのは母親の行動を真似しようとする幼い女性の習性とも言える。それをイルミは少し利用した。
しかし赤ん坊をほしいと瞳を輝かせたにも関わらず、その舌の根も乾かぬうちに、イヴは再び顔を曇らせた。


「でも、そんなのできないよ、イルミ。お母様の命と引き換えに生きてるんだから、それが終わるまではだめ」
「どうして?」
「よくわかんないけど、お母様のぶん生きてからじゃないとダメな気がするの。神さまがそう言ってる」
「それ一生だめってこと?それは困るんだけど」


イヴは悲しい顔で天を仰いだ。神の啓示や、神託でも耳に届いたのだろうか。その感覚はイルミにも少し共通して得ているものがあったから、それを全て否定しようとは思わなかった。子どもでなければわからない、その神の声とやらを。


「あ。じゃあこうしよう」


けれどそれではならないから。彼女と結ばれるのは運命の予定調和。彼女をすでに好きでいた。だからそれを叶えたいと思う。だから、イルミは人差し指を立てて提案した。



「ユリ=ブレアは二十四歳で死んだ。だからそれまでがユリ=ブレアの命。なら、その先の二十五歳からはイヴのもの。だから二十五歳で結婚しよう」



ぽかーんとイヴは口を開けて呆けていた。が、それをイルミが何変な顔してるんだ、とばかりに頭と顎を抑えて閉じさせた。


「はい決まり」
「えーっ」
「道理も理屈も通ってるだろ。何か変?」
「うーん……よくわからない。お父様とお母様もこんな風だったのかな……」
「あ、そっか。結婚をもうしこむにはプロポーズしなきゃ」
「ぷろぽーず?」
「うん。これも本で読んだ」
「…………イルミ、いつもどんな本読んでるの?」


イルミはそれには答えず、顎に手をかけてうーん、としばらく悩んだ。そして突如、懐に隠し持っていたナイフで、百合の木の幹に十字を刻んだ。ブレア家は国教会の信仰だ。また彼女の母親の死の前に誓うため。


「この十字が証明。やめるときもすこやかなるときも、永延の愛を誓うよ。だからイヴ、二十五歳になったら俺と結婚して」


指輪はないけれど、その代わりにイヴの手を取り、薬指を握った。その指は自分のものだと主張するかのように。そしてその誓いはその先の二十年、また生涯にわたって続き、盲信的にまでイルミ=ゾルディックを縛る誓約となるのだった。
イヴは理解が追いつかないのか少しぼんやりした素振りをしていたが、彼のプロポーズに首を静かに縦に振った。


「じゃあこれで婚約者同士だね、俺たち」
「こんにゃくしゃ?」
「婚約者。結婚の約束をしたってこと」
「そうなんだ。……うーん」
「まだ何か変?」
「よくわかんないけど、なにかとんでもない約束しちゃった気がする」
「なにそれ、何言ってるの」


実はその感覚は正しく、二十四歳の未来で混乱を引き起こす原因となったのだが、それはもちろん彼女も彼も知る由はない。


「じゃあイルミは私が好きなの?」
「うん」
「ずっと?」
「そう誓ったでしょ」
「私の味方でいてくれる?」
「喧嘩はするかもしれないけどね」
「お仕事だからって私をほっとかない?」
「なるべく」
「じゃあ、ずっと私のそばにいてくれるの?」
「いるよ」
「お母様みたいに死んじゃったりしない?」
「俺を誰だと思ってるの」
「ーーうれしい」


泣き顔を晴らして、イヴはいつものように笑顔を見せた。その日初めての微笑みにイルミは少年ながら何か湧き立つものを感じた。大好きな彼女が笑ってくれている、そして約束のためにこれから生きていく。


「その代わりに、俺のお嫁さんになってね」


ーーこれからの二十年の対価として彼女が欲しい。それが若干六歳にして既に歪んでいたイルミ=ゾルディックの薬指の約束。





そして、しばらく陽射し差し込む木漏れ日の中、百合の木の根元で座り込み二人は話をした。


「どうしよう、戻ったらお父様たちおこるかな」
「さあね。そんな事ないと思うけど」
「お父様、私におこったことないの。でも今日はおこられるかもしれない。ぶたれるかも」
「親父にもぶたれたことないのに、ってやつ?」
「なんだか頭いたいよ、イルミ」
「泣きすぎたんでしょ、仕方ないな」
「うん……ちょっと眠たい」
「眠っていいよ。ほら、膝貸してあげる。しばらくしたら戻ろう。俺も一緒に怒られてあげるから」
「ありがとう、ごめんね」
「うん」
「イル……」


薄ぼんやり、彼の名を呟くと、イヴは膝の上で寝息を立てはじめた。

当時は幼少だったため、茶髪は金色に近い色合いだった。しかし茶の瞳は変わらない。その性格も多くは変化ない。素直で裏表なく、斬新かつ知的であり、誰に対しても分け隔てない、エドワードの求めたユリの面影のある理想的な少女だった。

イルミは、膝の上で眠るイヴのこめかみを撫でる。寝ているのに、それでも爪を甘噛みする様子はあったが、その癖は大人になると自然にいつからか無くなった。









イヴが起きる様子もなく眠り続けたので、イルミは仕方なくイヴをおんぶし、迷いの林の中をくぐり、墓碑へと帰った。エドワードは戻った二人を見つけるや否や、大きくため息を吐いて、イルミからイヴを抱き上げた。


「二人共、怪我はないようだね。ああ、泣き疲れて寝ているのか。この天使め、心配させて。イルミ、悪かったな」
「イヴ、怒られるって心配してたよ」
「どうして怒ると思うんだ、愚かな天使だな。怒ると思ったのはこちらのほうだ。大事な事を黙っていたのだから」


エドワードは静かにイヴの額にキスをした。眠っているから聞いてはいないのに、悟らせるように耳元で囁いた。


「お母様が死んだのはイヴのせいだなんて思ってはいけないよ。私のせいなんだよ、イヴ。私がお前を身篭ったユリに願ったんだ、愛したその証明が欲しかったから。その代わりにユリが死ぬとわかっていたのに、それでもイヴが欲しかった」


そしてまた額にキスをした。

俺はその父の愛をただ下から見上げていた。なぜだか、遠いと思った。そしてわからないとも。俺なら、もしイヴとの間に子ができたとして、どちらかを選択しなければならないとなった時、イヴとその子、どちらを欲するのだろう。答えは決まっていた。イヴだ。何を迷うというんだ?イヴの命を奪うものなら、彼女と俺の子であっても死ねばいい。

イルミの瞳がより暗闇に近くなった。それがイルミ=ゾルディックとエドワード=ブレアとの大きな違いだった。



自分の頭に誰かが手を乗せた。ぐりぐりと強めに撫で付けるその手は、珍しく実の父親のそれであった。

「父さん?」

それにシルバは何も答えず、すぐに手を離した。褒めているのか、ただの気まぐれか、それとも俺の感情を悟ったのか。父さんならどうだろう。母さんと子ども、どちらを選ぶだろう。そんなの聞かなくともわかりきっていた。だって俺は父さんの子だから。それがシルバ=ゾルディックとエドワード=ブレアの、また大きな違い。


女の子は、父親に似た結婚相手を選択するという。けれど俺は違うみたいだ。そのことにいつ気付くだろう。イヴ、それでもその時はもう遅いよ。だってもう約束したんだから。



「ねえ、父さん」
「何だ」
「俺、イヴと結婚するって約束したから」
「はあ!?」


イルミの宣誓に一際すっ飛んだ大声を出したのはエドワードだった。


「……おいシルバ、お前の倅、何か珍妙な事言ってるんだけど」
「エドワード落ち着け、イヴが起きる」
「イルミ?どういう事なのか教えてくれるかしら」


命令は必ず聞き入れるイルミに、珍しくキキョウが言い聞かすように内訳を言うよう促した。


「…………。まあ色々あって」
「おいシルバの倅、説明が面倒だからと端折るんじゃない」
「イヴが俺を好きっていうから」
「そんな事イヴは一言も私に言ったこと無いぞ。聞き間違いだろ」
「それで二十五歳で結婚しようって約束した」
「全っ然、全容が見えないしそんなの納得出来るか」
「よろしく、お義父さん」
「誰が義父だ。早すぎるだろ。え、六歳だよね?おいどうなってるんだシルバ、前から思ってたけどお前ん家ちょっとおかしいぞ。絶対嫌だ。ゾルディック家に私の天使が嫁入りなんて。シルバ、倅に何とか言え」
「まあぁあ!それじゃあイルミとイヴちゃんはフィアンセだわ!素敵ね、ええ許しましょう、許嫁としてこれからはイヴちゃんを丁重に扱うのよ執事共!」
「いや待てキキョウ早まるな!そんなの私が許すか。だから許嫁なんかじゃない。絶対に許さん。シルバ!お前の嫁と倅をなんとかしろ!」


そこでシルバは笑いを堪えきれず、おかしく笑った。


「まあ、いいじゃねえか」


だからこの父子は嫌いじゃない。面白い。新しい風はこうして吹くのだ。いつまでもこの風が続くといい。まさしく縁という奴だ。ゾルディック家とかつてのフルールドゥリス家。俺とユリの死神によって切れたその縁は、この娘に継がれた。イヴとイルミ。こうして時代は紡がれていく。




「良くないだろ。絶対良くない。どうしてそんな事になるんだ?これもユリの言ってた縁なのか?だからってそんなの無いだろう。六歳で婚約者で義理の息子で義父?早すぎる……」


愛娘を抱きかかえながら、いずれ未来で現実となるその恐ろしい予感にエドワードはブツブツと自問自答を始めた。その情けない旧友の肩をシルバは叩く。


「なあ、エドワード。久しぶりに今日は飲むとしようぜ。二人の門出を祝ってな」
「いや、門出って。私はそんなの祝うつもりないが?」
「さあ、そうと決まればさっさとこの陰気な墓参りを終わらせよう。あいつも、そうしろと言うだろう」


なあ、ユリ?
エドワードはやはりいじめがいがある。知り合った時と変わらない。強いていえば、お前と出会って人間らしくなった。軍の犬であれだけ無愛想だったあの男が、娘を過保護にまでこうして育てている。愛を思い知ったからだ。お前の血はきっとイヴにも受け継がれている。だからイルミを徹底的なまで無感情の暗殺者に仕立て上げようとしてもまあ平気だろうと思うんだ。お前の娘が、俺の息子の傍にいる限り。





最後に献花を終え、そして二人は久しぶりにゾルディック家にて飲み明かした。エドワードは、ゾルディック家に立ち入るのは実に六年振りのことだった。懐かしさはあったが、そんな事より愛娘の未来が心配でならず、酒に酔ってそのことだけを譫言に口にした。シルバはそんなエドワードをからかい倒した。キキョウは二人の晩酌を手伝いながら傍らで微笑えんだ。ユリは写真の中で、百合のように静かに、そんな家族たちを見守っていた。

そして夜が耽ける。

イヴはその日ずっと意識を失ったように眠り続け起きなかったが、その様子をずっとイルミはお付きの者のように眺めていたのだった。