23



何故、あの男は私を選んだのだろうか。
多くの利点があった上での人選であったと思う。しかし最大の理由として、恐らくだが、あの男と私は本質的な部分で似通った点があったのをきっと見抜かれていた。計算高く、確信犯であり、執念深く、情熱があり、そして嫉妬深い。ただ一点、私とあの男とで異なる点があった。私にはその対象が居なかったという事だ。
あの日までは。




その日、パドキア共和国軍部総統執務室へと招へい命令を受けた。通されたその部屋にてまず目に入ったのはパドキア国旗。垂れ下がる鮮やかな幕の下に一人、男が座っていた。男が纏う服は最高位を示す徽章とオリーブ色の軍服。僅かに白髪の入り交じった茶髪は整えられ、眉間の皺は寄り、頬杖をついた手で隠された口元は真一文字に結ばれている。少し歳の過ぎたように見えるが、恐らく年齢は30歳代後半といったところだろうか。その国旗を司る地位に座する年齢にしては、若すぎる。

形式的な挨拶をしようと私は口を開いたが、男はそれを手を挙げて制した。


『堅苦しい挨拶も自己紹介も不要だ。私は貴様を知りここに呼び立てた、そして貴様も私を知っていることだろう。さて、率直に要件を言おう。貴様を調べさせて貰った。優秀な医生のようだな。貴様を見込んで話をする』


その男は無礼にも形式の挨拶さえなく、会釈さえしなかった。何者も信用しないその鋭い瞳を私に向ける。その褒め言葉の割には合わず、愛想も無く男は話を続けた。


『契約をしないか』
『契約、ですか』
『そうだ』


男は突然にも、賭けをするかのように私に話を持ちかけた。『そこから外を覗き見なさい』と、男の言う通りに視線を移す。


『少女が居るだろう。彼女の名はイヴ=ブレア、齢五歳となる。彼女が、貴様の契約の対象だ』


男はその格調高い窓枠から美しく整備された箱庭を指し示した。そこには一人木陰で眠る女児が居た。一見普通の少女だ。琥珀色の髪。ワンピース。まるで塔の上の眠り姫。地球を抱くように芝に頬を撫で付け安らかな顔を絶やさず穏やかに眠る。私はその姿に目を見張った。ずっと探していた少女が、このような場所に匿われていた。イヴ=ブレア、とその名を呟く。その苗字に、私は同姓のその男を伺った。男は別段それについては問題のないように振舞っている。

男はいくつかの資料を乱雑に机に放ち、見ろ、と一言指示した。封に入れられた厚い資料を手に取りそれを数枚捲って見る。一枚の画像が目に止まった。それはCTの造影検査により撮影された脳の三次元レンダリングとスライス画像。頭部の小ささから幼子のもののようだった。おそらくあの少女のだろう。

画像は、およそ想像に及ばない頭の中のその異常を明らかに示していた。脳腫瘍や血腫であるならば、これほどの大きさでは生きている事さえ難しい。しかし造影の画素値の濃淡から読み取れるように、これはそういうものの異物ではない。異物ではないのに、そこにあるはずのない何かがある。脳の中にある、もう一つの……。


『これは……』


私の反応を、男は何も言わずにただ眺め、そして続きを言った。


『それを見ての通り彼女は脳科学・脳外科的に世界にまたと無い症例だ。研究対象として彼女を貴様に提供しよう。貴様はその研究成果を世間に公にすれば、違いなく富と名声を得る事が出来るだろう。代わりに、その成果と延命手段を模索し私へ提供しろ。イヴには時間が余りあるように見えるが、それがいつ無くなるかわからない』


世界的にも二つと無い症例。見た事も聞いた事も無い。まるで闇の中に糸を探すかのようだ。そして男は、頬杖の手を崩す事などせず、やってくれと頭を下げるでも無かった。あまつさえ、さあどうする、と手の平を差し出す。選ぶのはこちらだ。選択権は私にある。だのに、優位であるのは何故か男の方であった。まるで、選ばせてやるのだと、男はそう言っているようにも思えた。


『契約を。そして忠誠を。全てを彼女に誓え』


私に差し出された萬年筆はまるで喉元に突き付けられた刃物のようだ。
私への利益は薄い。男が求める対象の延命手段、これを得るにはおそらく長年の時間がかかることだろう。男の鋭い視線がより英敏に感じられた。まるで獲物を狙う蛇のようだ。きっと契約をここで断れば、私はこの男によってここで殺されるか物理的な口止めを強いられることだろう。知ってこそすれ協力が無いものならば、情報の漏洩に繋がるからだ。


だが。
私は既に、答えを決めていた。男に恐怖したという訳では無い。一目で心を奪われた。美しい百合のようであるのに、その混沌を内に秘めている。初めて会った時から、あの少女に、私は……。


私は目の前に拡がる暗く底の無い沼に浸かる事を自ら選んだ。私は男から萬年筆を手に取り、紙にインクを滲ませた。重いペンだった。だがそれは本当に重かったのか、そうでなかったのかは、今ではわからない。


kamyu・hunbert=hunbert


黒いインクは緩やかに、確実に私のその名を描いた。



『宜しい』


男は、ここで初めて笑みを見せた。しかし、それはいやらしい笑みであった。まるで彼女に囚われた私の心を察したかのように、惹かれる相手に触れたいという気持ちを嘲るようだ。その笑みに私は眉を寄せると、男はいやはや、と手を振って応えた。


『彼女を見るその瞳に色があることを責めてなどいないよ。イヴは幼いながらも美しい。彼女に流れる百合の血脈には妖しさがある。だからこそ、彼女との契約の縁を持つにあたって、それらしい理性を持つ貴様を選んだのだ』


私を買ってやったとでも言いたいようだ。しかし男には誤解がある。私は一目惚れなどでなく、彼女とこれより以前に一度、会ったことがある。それを男はまるで知らないようだ。けれどそれでいい。私のあの美しい百合の思い出は誰にも触られてはならない。


『外部にも勿論だが、彼女にも一切の情報を伏せろ。研究の為ならば必要な費用も出す。必要ならば軍の人材も動かす。彼女の命の灯火のために死人が出ようとも構わない』


それは国庫の横領や私的職権乱用を意味していた。そして他者の死さえも厭わないと、彼女の為ならば自分の立場を揺るがしかねない私益行為もすると、男は言う。


『立場をお考えですか。その地位に立つ為に苦労なされたのでは?』
『貴様は勘違いしているようだ。私はこの椅子に執着などしていない。今はこの椅子があの子の為に必要だから座り続けているだけだ。必要無くなったら誰にでも譲ってやるさ。例え売国奴にでも』
『……あなた、狂ってるんですか。このことをもし幼い彼女が知ったら悲しむのではないのですか。私的にも公的にも、彼女はあなたを正義と信じているでしょう。彼女にとってあなたはかけがえの無い腹心でしょう』
『ああ。狂っているよ』


男は軍服の詰襟を少し解いた。そして、少女を眺めて言った。その眼差しに、ここで初めて美しい男の横顔を見た。


『愛していて愛おしくて狂っている。だからこそこうする必要がある。国を売ってでもあの子を失いたくないから』


一人の男親の表情を覗かせる。先程までの人間らしさのない冷徹な仮面の顔が、滾る愛にその氷を溶かされていた。


『話は仕舞いだ。イヴの元に行きなさい。貴様の契約は始まった』


さあ行け、と男は扉を指さした。
ヴィンツェンツォ・カムッチーニ作『カエサルの死』の絵が総統執務室の彼の頭上に飾られていた。憐れにもブルータスへ手を伸ばすカエサルの手は青白く見えた。契約書と資料を手にし、執務室を出る。そして、この国のトップは頭がおかしい、と誰にでもなく呟いた。


中庭に向かうと、私の足音でその美しく揃った睫毛が瞬くように開いた。そして私を捉え、微笑む。幼い顔のなかに潜む艶めかしさがその桃色の唇に照る。そして彼女は言った。


『はじめまして。こんにちは、ミスター』


しかし、“彼女“は、私を知らなかった。









深夜。
街が寝静まり、しずけさと夜が一切の支配を取り仕切っている。ルーイも駐在室に戻り、部屋は私一人。一人きりの呼吸の音と、枕に押し付けると響く自身の鼓動が、頭の中を支配していた。あの日から私は夜を休めずにいる。一人きりで眠ると、ブラックボックスが私を覆い尽くそうとするからだ。まるで足元を這いつくばって舌舐めずりをするように、じりじりと、じりじりと、あの女は私の全てを乗っ取ろうと目を覚ましているのがわかる。影のようだ。足元から決して離れず、つかず、同じように動く癖に、光の屈曲のためにすこし歪な形をしている。とても似ている。
だから、誰かがいる時……例えばルーイや他の武官が傍についている時でないと眠りを得る事が出来ない。私を全て乗っ取るには向こうもそれなりに大きな力が必要なのか、私が気を許した時でないとその闇を行使しようとしないのがわかった。けれど、私が彼女の特徴について得たわずかな情報としてはこれだけだ。あとは何も知らない。

形のないもう一人。私の影。彼女の闇。

夜が怖いと思うようになった。いつ、私が私でなくなるのか。あの強い闇に手を引かれ、一切の光を失った時、自分の頭の中に閉じ込められた時。皆は、私が私でないと気付いてくれるのだろうか。それとも、何も変わりなくあの女がイヴ=ブレアとして生き、日常が過ぎていくのだろうか。

父様の私だけへの寵愛も。
ルーイの私だけへの忠愛も。
ヒソカの私だけへの友愛も。
イルミの私だけへの深愛も。

すべて、あの女に取られてしまうのだろうか。
私が閉じ込められた後のこの世界は、何も変わらずに過ぎ去るのだろうか……。



「……考えたくない……」


ベッドから起き上がり、ベランダテラスへと出た。秋も近付くこの夜なべ、少し肌寒い。ちかちかと輝く星空と、雲の隙間から覗く月の光。雲霧が、月光から反射される虹の輪郭を丸く鮮やかに形取る。満月ではない夜だけれど、月が地球に近付くこの季節はやはり特別な輝きを放っている。

だから寂しい。物悲しさを助長させる。

右手の薬指を撫でた。そこにあるのは青く光る指輪。イルミから貰ったひとつの愛のかたち、その象徴。寂しさを埋めて欲しい時に考えるのは、やはり彼だ。あの淡々とした声の中に、抑圧された感情が秘めていることを知っているのは私だけだ。彼の写真ならばたくさんある。けれど、こういう物悲しい時は、声を聞きたい。



「……イルミ……」
「何」
「えっ」


その声に驚いて視線を向けると、テラスの隅に彼が立っていた。いつもの立ち姿。腕がすとんと降りた肩。束ねた髪。感情の見えない瞳。夜闇から現れた彼に吃驚して思わず大声を出しそうになったが、なんとか堪え、思わず後退りした。


「ど、どうして……こわ……」
「恋人がどこから現れようと嬉しいものでしょ。喜びなよ」
「ふ、不法侵入?」
「そんなの今更だろ。ねえ、どうして今俺の事呼んだの」
「……そ、空耳じゃない?」
「苦しい言い訳はよしなよ」


イルミはつかつかと歩み寄って来たかと思うと、私に触れるでもなく腕組みをした。そして尊大な態度を醸す。


「俺の事考えてたくせに。俺に会いたかったと正直に言えば?」
「そ、そんなこと」
「言わないのならこのまま帰るけど」
「う…………」
「……あっそ。じゃあ帰るよ俺」
「ちょ、ま、待って、イルミ……」
「何?俺帰りたいんだけど」


なんでここで恋人に対してそんな偉そうで冷たいんだ、と突っ込みたくなったが、ここではイルミが優位だった。事実、会えたらいいのにと、望んでいた。

普通に帰ろうと踵を返すイルミの服の裾をつまんで、なんとかその足を引き止める。まるでドラマに出てくるような、男に縋る女の有名なワンシーンだ。どうしてそんなことをしようと思ったのかわからないが、彼にどうしてもここにいて欲しかった。でも、とても弱々しい力で引き止めたにも関わらず、イルミは呼応するように歩みを止めた。


「…………い、イルミに会いたかった。だから帰らないで」
「どうして?」
「寂しかったから」
「寂しいのなら他の奴で埋め合わせればいいんじゃないの」
「そんなの意味ないよ」
「なんで」
「なんで、って……」
「あともう一言足りない」
「もう一言?」
「わかるだろ」


それは彼も望んでいたことだ。もう一押しの一言できっとイルミはここに留まる。


「イルミがいい。他の人じゃ駄目」
「……まあ、いいか」


及第点だ、と言いたげに「仕方ないな」と、イルミは組んでいた腕を解き、私の顔に手を添えた。そして首元を撫で、肩に指を滑らせ、飲み込むように私を抱き締める。抱擁を受け入れながらこの手先がイルミらしい、と思った。自分に取り込むように、相手を影に包み込む所作。そして白い肌にともる体温がしっとりと伝わる。

じんわりと伝わる体温が、夜闇に灯った蝋燭のように、私にあたたかさを与える。イルミは闇の人間だ。けれどその闇の中に、私だけに向けられる情がある。闇の中にもちらつくただ一直の執着。それが私を惹き付ける。


「それで」
「うん」


くっ付き合いながら、彼は話を続ける。


「俺が仕事を終えてわざわざここまで来た理由だけど」
「あ、うん」
「連絡があった」
「え……誰から?」
「ヒソカから」


その声色にイルミが怒っているのを感じる。私はまさかイルミとヒソカが連絡を取り合っているなんて思っていなかった。不覚だ。彼は私からゆっくり離れると、無表情にも物凄い形相で、私の両頬をつまんだ。


「いたたたた」
「ヒソカとまた会ったんだってね?イヴ」
「は、はい……」
「なんで」
「なんでと言われましても……いたたた、いたい」
「あの一件でヒソカが危うい男だとわからないほどお前は俗ボケしてるの?あいつは理由もなく人を殺す男なんだけど」
「でも意外にも紳士だったし、割とまともだったし、そういうイルミも仕事に関係なく人殺しするじゃん……いたたほんとに痛いですイルミさん」
「ふーん。俺とあいつを一緒にするわけ?」
「そういうのじゃないよ。でも、私とは友達だから信用してってヒソカ言ってた……いたい!ほんとにほっぺたちぎれる!」
「つまらないことを言うこの口が悪い。何、友達って……たまにイヴがわからなくなるよ。愚かなんだか稚拙なんだか、それとも底が知れないのか」


イルミは私の頬から手を離した。けれど許したわけではなさそうだ。というより更に怒りポイントが上がった。無表情は変わらずだがその白い額に青筋も浮かび上がりそうな憤怒に、私は身を縮こませた。彼の念が刺すように私に圧を掛ける。


「あいつは何をお前に言ったの」


イルミは腕を組み、その白い指先は苛立ちを表すかのようにタップをし始めた。
何故ヒソカをこの家に通したのか、何を話したのかをイルミは尋問したいのだと思う。ヒソカはわざわざ私へ接触したことをイルミに連絡をした。しかしイルミが私へこのように内容を詰問するということは、ヒソカは大筋のみで詳細を話してはいないという事だ。つまり、イルミはまだ私の隠し事の全てを知ったという事ではないと意味している、と思う。
「ヒソカの考えていることはよく分からないけど、」と私はもうこれ以上抓られることのないようにひりひりと痛む頬を両手で守り、答えた。


「身の回りに注意しろって、警告を」
「それだけ?」
「うん」
「また嘘だ」
「嘘なんかじゃ、」
「唯一重要なところを言ってないだろ。全てを明かしていないという意味では嘘をついているよ、お前は」


正解だ。
どうしてかはわからないが、ヒソカは私の正体を知っていた。そのことをヒソカはおそらく明かしてはいないものの、イルミにその内容を匂わせたのだろう。私の中のもう一人について。ヒソカは協力こそするが、情報を撹乱し漁夫の利を得ようとする、そういう人間だとわずかな関わりの中で理解した。


「……嘘は、ついてないよ。ヒソカの言うことをイルミがそんなに深く聞き入れるとは思わなかった」
「ヒソカに信用なんかはしてないよ。けれどお前が隠し事をしているのは分かる。そしてお前がそれに触れて欲しくないということもね」
「なら、」
「イヴ。そんなことはどうでもいいんだよ。どうでもね」
「どうでもいい?」
「俺に隠している事がある。けどそれを言おうとはしない。まあそれについてはいいよ」
「えっ、いいの」
「人間誰しも隠し事はあるさ。でも、俺には隠したって無駄だよ。俺はイヴをずっと見ていたんだから」
「…………。」
「けど、俺以外にそれを共有している男がいるのは納得ならない」


イヴが産まれてから。お前が余所見をしている時も、知らぬ振りをしている時も、ようやく俺を見た時も。二十年余りの時間、ずっとお前を見ていた。

イルミは、頬を抑える私の手を引っ張った。粗雑な扱いがイルミの怒りを示している。右手を掴む力が強い。


「お前は俺の婚約者。その指輪が証明だ。お前の気持ちなんてどうだっていい。その善し悪し関係なく、イヴは俺のなのだから。お前もそう認めた。そうだよね」
「……そう、だよ」
「だからこれまでは堪えてきた。けどこれ以上は我慢できない。…………だってさ、なんでヒソカが俺の知らないお前の一部を知っているの?」
「イルミ、」
「イヴが俺の全てであるように、俺はイヴの全てじゃないの?」



真っ暗い瞳が、私を飲み込もうと必死になっているように見えた。
違う。あなたが私を全てと言ってくれるように、私もあなたが全てだ。けれどだからこそ沈黙をする。黙っていたい。今の私を形成しているものは私だけでは無いという事。もしかしたらイルミが愛しているイヴ=ブレアという人格は、私では無いかもしれないということ。打ち明けたらいいと、嘘はならないと、わかってる。もしかしたら受け入れてくれるかもしれないと淡い希望さえ持ってる。けど、イルミは言った。私が私でない場合、生かすか殺すかわからないと。それは彼にとっての私の全てを、私自身が奪うかもしれないということだ。そんなことのために、この二十年、彼は私の傍に居てくれたのでは無い。
でも、どちらが本物なのか、今の私にはわからないのだ。



「…………ごめん……イルミ……」


私は、か細い声で、謝るしかなかった。
……彼が私に深く関わろうとする度に、ブラックボックスの闇が差し迫り、あの女が喚く。今も頭の中で劈くようだ。私と彼の世界になるためには、お互いが全てだと言うには、私の影が深過ぎる。

イルミは、苛立つ声こそ抑制されたが、私の腕を掴む腕を離しはしなかった。


「……イヴは肝心な事は何も言わないよね。責めても攻めても。それでも言わせようとしたならお前は謝るんだよ。これまではそれで目を瞑ってた。けどもうそろそろ許せない」


それなら、許さなくていいのに。許さず、そのまま私を嫌いになってしまえばいい。そしたらブラックボックスに全てを委ねてしまえるのに。あなたがいるから、あなたは私の全てだから、諦め切れない。だからあなたの存在が怖い。


「俺はその指輪だけじゃ支配が足りない」


支配とは、きっと一切のことだ。
イルミの瞳の奥を覗いた。その真の意味を、私はよくわかっていなかったのだとここで思った。


「……足りないなら、どうすればいいの。全部全部、知られたくないことも明かしてイルミは足りるの?」
「わかってるよ、それでもお前を求める俺の負けだってこと。でもさ、信じろという割にイヴは俺を信じていないよね。それが一番腹立たしいんだよ」


イヴの言葉と心が伴ってないからこそ支配が足りないと思ってしまう。支配して制圧して蹂躙してお前を求める必要が無くなるくらい貪って、安心を得たいと感じる。これは異質な感情じゃない。俺に信頼を示そうとしないイヴが悪い。


「イルミ……」


それを否定しきれない様子で、イヴは琥珀色の瞳を伏せた。

信じて欲しいという分には、俺を信じてなんかいないイヴ。
知られたくない事を無理に明かそうとしてもイヴは余計に口を噤むだけ。けれど、人に求める分、自分は差し出さないというのは許せない。理不尽だし不公平だし、何より不満足だ。


それなら、差し出させよう。

イヴ=ブレア、そのブルータスの存在の正体。



「当ててみようか」
「……当てる、って……」
「イヴ、お前の隠し事。お前がそうしてまで潜める何かを」



イルミは私の手を離し、より近くに接近した。彼の漆黒の髪が触れるほどに近くに。けれど触れたりせず、そのだらけた髪の中に真っ白な顔が私をただ見下ろした。私は触れさえしない彼の腕の中。けれど支配下で、私の全身を観察している。

イルミは……私の隠していることにたどり着こうとしている。





やめて。


「おかしいと感じ始めたのは……お前に突発的な頭痛が増えてからだ。発作もね。故実けのように思われるが、俺達の関係が進み始めた頃合いから決まってそれが起きたことに少し違和感を感じてた」


やめて。


「そして、それを皮切りにお前を付け狙う者が複数現れた。タイミングにしては重なり過ぎている。しかしお前は下手な嘘を吐いてその黒幕と俺を衝突させまいと何故か庇っている……その裏に潜む何かを隠すかのようにね」


やめて。


「そもそも、何故イヴは記憶能力が高いのかそれを考えた事がなかった。人間には一定数そういう類稀な能力を持って産まれる者がいる。イヴもその一人だと思い込んでいた。けれど何故そうなのか、疑問に思ったことは無かった。けれどそれこそが俺の盲点でもあった」


やめて。


「そして、そんなお前が約束を忘れていたこと。当時6歳といえ、記憶能力の高いお前がオールソールズデイのあの日だけ穴が空いたかのように記憶が無い。初めは忘れていただけかと思っていた。けどそんなこと起きるはずが無いんだ。なら、無くなった記憶はどこにある?」


やめて。


「そしてヒソカは”Et tu, Brute?"……この言葉の意味を考えろ、と言った。おそらくヒソカは、イヴが俺から隠している刺客と内通していた。この言葉は腹心からの裏切りを示す有名な格言。腹心とは、深く信頼する相手、心の奥底、それらを意味する。お前の場合、ブルータスとは一体誰か……」


やめて。


「勿論これらは憶測に過ぎないし、我ながらそんなことは有り得るのかとさえ思うよ。けれどお前の中で起こっている変化を当て嵌めるのならば、この答えが最も正解に近いと推論した」


やめて。


「……ねえ、イヴ……」


やめて。


「いるんだろう?」


やめて。言わないで。


「お前の中には、」
「やめて!!!」



私はこれまで出したことの無い声量で、彼のその続きの言葉を拒絶した。イルミは僅かに目を見開いた。月明かりのバルコニーで、私の声は闇に溶け込むように響き渡る。

沈黙がこれほど長く永く感じたことはきっとない。その続きを拒むことは、認めることと同義だ。けれど……イルミにその全てを言って欲しくない。イルミ=ゾルディックが幼心より愛したのは誰なのか、なんて、酷なことは。


「イヴ、俺は……」


イルミの声に私は肩を震わせた。イルミがこの時、何よりも怖かった。そして彼は、何か続きを言おうとしたところで、やはり口を噤んだ。

そしてその時、バルコニーの出入口より声が響いた。







「ーーー痴話喧嘩は収まったかな」


その男は、白いカーテンの向こうに立つ。そして、この場にはそぐわない優雅な所作でその青年は夜風に揺れるカーテンを左手で避けた。


「そろそろ、眠れない日々が続いて辛いんじゃないかと様子を見に来た。心配してたんだよ、イヴ……」


そして左手はそのままポケットに指をかける。まるで立ち姿さえ雅で美しささえあった。


「アーネンエルベでの逢瀬以来だね」


腰ほどまであるアッシュブロンドの髪。白い肌、白い睫毛、白い瞳。整った容姿。白のカジュアルスーツを纏った、まるでモルフォ蝶のようなーー。



「どうして、ここに、」
「貴女に逢いたかったからだよ。理由なんて必要かな。それに、言っただろう?イヴが覚悟を決め、答えを認めた時、また逢いに行くと。まさか、ゾルディックの彼も正解に辿り着くとは思っていなかったけれどね」



イルミとは反対の、何もかも白い青年。



「答え合わせをしよう。今夜がその日だ」



ノアイユが、柔らかな笑みでそこに立っていた。