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『夢を見たの』



いつの間にやら目を覚ました彼女は一言、そう呟いた。その透き通るような青眼が、ぼんやりと天井を見つめる様に、なぜか少しだけ不安を覚えた。彼女が、儚い虚空に溶けていってしまいそうな気がした。しかし、それだけは言わまいと口を噤んだ。口に出したら、本当にそうなってしまうような気がしたからだ。


『何の夢だ?』
『とても幸せな夢』
『今以上にか』


そう言うと、彼女はようやくこちらを見て美しく笑った。彼女のブロンドに指を通すと、まるで躾の良い猫のように顔を擦り寄せる。頬を吊り上げると現れる小さなえくぼを撫でると、それにさえおかしそうに笑った。



初めは彼女を、貴族生まれの気に食わない女だと思っていた。
軍の勅令といえ、どうして私がこんな女の護衛をしなければならないのかとも。王家直系の最後の血族、塔の上のお姫様。美しく生まれつき、お高い籠の中で何不自由なく暮らしてきた、苦労知らずだと怪訝にさえ思って。

しかし、いつからだろうか。

彼女を目で追いかけるようになったのは。彼女の声を待ちわびるようになったのは。彼女に振り回される内に、いつしか明日を心待ちに生きるようになったのは。軍の犬であることを喜び、戦場を駆け巡り、沢山の命を奪ってきた私が、いつしかもう国を守るという体裁を盾に命を奪いたくないとさえ思うようになったのは。

そして、いつからだろうか。

そんな彼女を、一生をかけて護衛したいと思うようになったのは。




『でも、どうしてかしらね。悲しくて堪らない気持ちになるの。お腹の子は順調に育っているのに、それでも生まれてこないような気がして』



彼女はそう言って、膨らんだ腹をその細い指で丁寧にさすった。
その細い体に宿った、小さな命。彼女の命を脅かす、愛おしい存在。受胎告知を受けた時、危険な出産になると宣告された。しかしそれでも、授かりたいと願ってしまった。愛の証なんて陳腐な例え。けど、今ではその意味がよくわかる。この子は、私と彼女が共に生きた証明なのだと。母体が危険に曝される出産の場合、子を諦めるという選択を通常は医師より勧められる。それは例に漏れず、私達もそうであった。しかし、この子が彼女の命を蝕むという事を解っていても、私は願ってしまった。どうか産まれてきてほしい、と。その代わりに彼女が死ぬ事になるかもしれないのだと、何度も何度も考えても、諦めることができなかった。

私と君の、可愛い娘を。



『……何も心配しないでいい。元気に生まれてくるさ。医者は女の子だと言っていた。きっと君にそっくりの、金の髪で、青い瞳の子だ』
『私にそっくりだと苦労するかもしれないわよ?』
『確かに苦労はしたな。出会った時の君は本当にお転婆だった。身体が弱いのに黙って街へ出かけては体調を崩すし、夜会で酒を煽っては二日三日は酔いで寝込むなんてこともしていたし』
『……そうだったかしら』
『こうして都合の悪い事は知らん顔もするしね』



そうしていたずらに笑う君の顔。何度見たことだろうか。

思い返せば、色んなことがあった。君と出会ったのは反王室派のデモが絶えなかった頃だ。そして革命が起きて、パドキアは王権分立し、共和国となった。そして君は自由となったが、それと共に私は護衛の任を解かれる事になった。シルバとの婚約の話を聞いた時、ようやく君をどう思っているのか自覚した。この焦がされるような心臓の痛みが、恋なのだと。



『私に似てもいいの?頑固者でお酒好きになっちゃうかも』
『いいさ』


君に想いを告げた時、嫌がられるかと思ったんだ。だって私は、君に嫌われても仕方の無いほど、辛辣な男であったから。これまで泣かせもしたし、怒らせもした。愛を告げると、案の定とでも言うべきか、君は驚きそして涙を見せた。優しく断るのならいっそ嫌いだと言い切ってくれていいと言ったが、君は首を振って否定した。恐る恐る、君の涙を拭くと、今度は君は笑った。泣きながら嬉しそうに笑う君のことが、よくわからなくて。理解できなくて。けど、とても綺麗で。



『頑固でもいい。喧嘩をしそうな時は、私が折れればいいだろう。いくら体調を崩してもいい。何度だって看病する。黙ってどこかへ行ってしまうのは、少し心配だけどね。大人になるまで少し長いけど、お酒を共に嗜むことができたならどれだけ嬉しいだろう。初めての夜会、デビュタントの礼装はきっと綺麗だ』


大切なものが増えるというのは、正直、足枷だ。負担だ。お荷物だ。邪魔だ。厄介だし、疎ましい。けどそれでも元気に産まれてきてほしいと、健やかに育って欲しいと、願わずにはいられない。そういう意味で、愛を思い知った。


『私は……、どうか、あなたに似てほしい』


愛している。だからこそ、足枷なのだ。負担だ。お荷物だ。邪魔だ。厄介だし、疎ましい。だから守るしかない。この責任は、愛するものが増える幸福に代えられない。だからこそ、愛する者に似てほしいと思う。


『出会った時のあなたは本当に無愛想で怖かったわ。ニコリともしないし、繕うのが下手で冗談も言わない。いつも眉間にシワを寄せて、“余計な事は慎んでください”ってそれしか言わない。まるで機械みたいに。視線も合わないし、余所余所しいし、私が意にそぐわない事をするとしかめっ面をするの』


あの頃は、あなたがそばに居ることが苦痛で仕方なかった。
こんなにも怖い人がいるなんて、とつくづく思った。歳も近いのに、口を真一文字に結んで、これまでの人生で楽しかったことなんて何一つ無かった、みたいな顔をしているの。きっと覚えてもいないくらい人も多く手に掛けているし、それを当たり前みたいに思っている。私の知らない世界を経験している。

シルバは幼馴染みで、私のことを理解してくれていた。親切であったのは間違いなく彼の方で、それは甘ったるいほど。ゾルディック家とフルールドリス家の古からの絆。その上に成り立つ関係性とはいえ、私はそれに安寧を得ていたし、それが当たり前だとも思っていた。基礎教養のこと以外は世の中も何もわからない私を、あなたは鬱陶しく思っているのがわかった。だから、シルバの後ろにくっついてはあなたを厄介払いしていた。それでもあなたは仕事だからと、護衛として傍を離れようとはしなかった。私に構わないでと、強くあなたを拒否したら、“私こそ、任務でなければ付き従う事も無い”と冷たく怒った。きっとあなたは、私を嫌いだった。


そして、あの満月の夜。侍従も付けずに黙って家を抜け出した私は、間抜けにも過激的な反王室派閥に拉致された。乱暴をされて、もう陽の目を見ることもなく、薄暗い掃き溜めのようなあの場所で死ぬのだと思った。

けれどあなたは、大嫌いなはずの私を、傷を負ってでも助けに来てくれた。

そして身の上を考えず黙って独りで出歩いた私に、馬鹿だと怒鳴った。あなたが怖くて仕方なかったのに、どうしてか、私を罵倒するその言葉に、泣きたいくらいの安堵を感じて。私を嫌いなはずなのにどうして助けに来てくれたのか聞くと、“護衛が任務ですから”と、いつもの仏頂面。そして、“無事でよかった”と、あなたは少し微笑んだ。それがあなたの笑みを初めて見た時。



『だから、全部本当の事だってわかるの』


心に思っている事が、あなたの感じる全て。不器用なほど、それがわかる。


『偽りばかりで、全部取り繕って、煙に巻いたような貴族の世界は、息苦しくて仕方なかった。けど、あなたは嘘が本当に下手だったから全部本当だってわかったの。お世辞が言えないのは、嘘が言えないから。嫌なことは嫌だと顔に出るの。あなたが怖かったけど、嘘じゃないってわかるから』


だから、あなたを怒らせたらあなたがどんな顔で怒るか知りたくなった。あなたを悲しませたらどんな顔で悲しむか知りたくなった。あなたを楽しませたらどんな顔で楽しむか知りたくなった。あなたを喜ばせたらあなたがどんな顔をするか知りたくなった。全部期待通りの反応ではなかった。あなたは何度も何度も、嫌な顔をして、怪訝な顔をして、しかめっ面をしていた。その眉間の皺が増えてしまったのは私のせいかもしれない。全然喜んでくれないし、楽しんでもくれないから、ちょっと心が折れそうになったこともあるのよ。この人は何をしたらまた笑ってくれるのか、って。でも、そんな素直なあなたといて、私は、どうだったかしら。あなたに何度も怒られたし、泣かされた事もある。けどその分嬉しかったこともあるし、何より楽しかったの。何かあるたびに一喜一憂する、そんな日常が。

こんな毎日がずっと続いたらいいのに、といつしかそれは恋心に変わった。
それにようやく気付いたのは、シルバにあの蒼い石の婚約指輪を渡された時だった。



『だからあなたに似て欲しい。それに、私に似てしまったら体の弱い子になってしまいそうだもの。私、ゾルディック家に嫁がなくてきっと正解ね。あのお家はお世継ぎが大事だもの』
『……シルバなら、産むなと言ったかもしれない』
『え?』
『少し後悔しているんだ。危険だと医者に言われたのに、それでも授かりたいと言ったのは、私だ』


そう。間違いとは思わないが、正しくなかった、かもしれない。

心臓の弱い彼女。強心薬さえ欠かせない。子を身籠ることさえも身体には負担だ。その上、産むなんて。シルバ=ゾルディックなら、身篭った彼女に何と言っただろうか考えてしまうんだ。きっと、産むのは止せと言うだろう。武が悪い相手とは闘わない、そう考える奴だ。死を予見できるのに、それをわかっていて望むなんて。

彼女は、その細い指で、今度は私の手を撫でた。まるで、子供をあやすように。



『私は、産んでほしいって言ってくれて、すごくすごく、嬉しかった』
『だが、』
『二人で望んだのに、後悔なんてする必要ないでしょう?』


予後も悪く、子どもは望めるかわからないと言われていた。だから諦めていた。一人の女として、それは少し悲しいこと。この寂しい世界で、たった一人。危ないのだからやめなさいと、自分の子さえ望めないのだろうと思っていた。そして身体を少しずつ弱らせて、いずれ痩せ細って死んでいくのだと。

だから、私を望んでくれて嬉しかった。
子を授かったことを喜んでくれて、嬉しかった。
出産に賛同してくれて嬉しかった。

ーーーだから、私が死んでも、きっと大丈夫。



『シルバとキキョウの赤ちゃんももう少しで産まれるはずだから、そしたら同級生ね。男の子みたいよ。仲の良い幼馴染みになれるかしら』
『……なんでよりによって男なんだ。間違いがあっては困るし仲良くならなくてもいいだろう。そもそもゾルディック家と関わらせるのは好ましく無いし、それにシルバの倅だぞ。奴に似て性格絶対悪くなるに決まってる。いじめられるかもしれない。ああ、やっぱり駄目だ、仲良くなるな』
『まったく、もうそんなことを心配しているの?』
『父としての務めは娘を悪い虫から守ることだと書いてあったが』
『……あなたがどんな父親になるか少し不安だったけど、やっぱり不安かも』
『何故だ』


心外そうに、眉を吊り上げて、しかめっ面を隠さないあなた。どうして不安なんて言うのだろう、と不思議そうに。そんな表情をするものだから、私はつい笑ってしまった。それを聞いていたのか、お腹の子が、少し動いた。『今、動いたのか?』と彼の手がお腹に添えられた。ぽこん、とお腹を蹴る音。


『……何に代えても守るよ』
『でも、あなたはパドキアも守らなければいけないでしょう』
『国もこの子も守る。そして君のことも』


ほら、やはり嘘が無いの。真摯に私を見つめる、琥珀色の瞳。しかめっ面は変わらないけど、その瞳は本当に思っている事しか映し出さない。だから、あなたが父親になるのは不安だけれど、心配は必要ないみたい。だって、守ってくれるのだと、嘘がないとわかるから。


ーーーけど、私はだめみたい。


私の心臓が悲鳴をあげている。それがわかる。この出産に耐えられる程の力はもう無い。命と引き換えの出産になるとわかるのは、私だけ。ああ、死ぬんだ、と。走馬灯が、少しずつ緩徐に早まるような感覚。このことはあなたにも誰にも言っていない、私だけの秘密。次の春には、私はもう死んでいるだろう。守ってくれると言ってくれて嬉しいけど、それだけはいずれ嘘になってしまうのが、悲しい。

それでも。
どうか、どうか。
神さま、私の命と引き替えに、願ってもいいでしょうか。



『約束して。エドワード』
『ああ、ユリ。約束するよ』



このパドキアを。
そしてエドワードと、この子達を。
どうか、私の代わりに、お守りください。













欠けた満月だけが異様に輝き、何故か星々は闇に紛れて見えなかった。暗雲に隠れてしまっているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。目を研ぎ澄ませるが、闇の向こう側。何万光年も離れた先で、きっと揺蕩っている。灰白色の大理石は、月の光を澾かに照らす。その冷たい石の感触が、嫌に忘れられない。指先にこびりつく、埃と砂の感触。それを握りしめると、手の内が微かに汚れた。月明かりに照る、白亜のバルコニー。この夜闇の中であってもお互いの表情が浮かぶほど、鮮明にその姿を浮かばせる。


「ーーーノアイユ……」


彼は名をそう言う。どこから来たのか、知る者はいない。
長く白い、天の川を彷彿とさせるようなアッシュブロンドの髪。透明性のある白い肌の奥には、薄く色付く血管さえ見える。伏せる睫毛さえ白く、そしてその瞳さえ虹彩を白に彩る。唯一、黒色だけが瞳孔の奥に潜む。それがまた、異彩を放っていた。白妙に似た三つ巴が気障たらしいが、一言に、美しい容貌の青年。

その瞳が、私を一途にも見つめていた。ピン、と張り詰めた緊張の糸を手繰るのは、まずノアイユの一声。


「はじめまして、と言った方がいいかな。イルミ=ゾルディック君」


柔和な声。この死線の張る状況で、彼の優男善とした振る舞いは、どうにもそぐわないように感じられた。静寂がその場を支配している。


「といっても、前に一度お会いしているんだけれどね」


鼻につくような軽口で、ノアイユはその柔和な声を響かせた。声もうら若く、年頃は同じだろうと推察できる。イルミは思考を逡巡させた。このように、髪も瞳も肌も白い風貌の男ならば印象を残す筈だが、該当する記憶は無い。しかし、この声は耳にした事があった。


「思い出したかな?」


お愛想だが少し馴れ馴れしい、この軟派な喋り方。イヴは彼をノアイユと呼んだ。その名前に心当たりがある。そう、偽名でなければ、イヴが検査入院をした時の担当医。


「……まさかあの時の医者とはね」
「ご名答。あの時は変装していたからね。覚えていてくれて嬉しいよ」
「生憎だけどすぐ忘れるよ。お前はここで死ぬから」


そして、死線の糸がきりきりとこの場を張り詰める。それを放つのはイルミだ。


「……さて。それはどうかな?」


しかし、やはりノアイユは、柔らかな表情であった。緊張や膠着、そして一切の気も張ってなどはいない。余裕さえあり、それは絶対の自信の上に成立しているような口振りであった。それがイルミの癇に障った。自分をゾルディック家の人間と知りながら、飄々と目の前に立つその出で立ちさえ小憎たらしい。

「すぐ理解るよ」

その時は一瞬だろうけど。
イルミは言い放ち、一歩足を踏み出した。そして鋲を刹那に手に持つ。彼の黒髪が風でたなびくより先に、その手を動かした。その次の一歩には、あの白い男は死んでいる予定だった。





「ーーーイルミっ!!」



しかし、イルミの腕を思い切り強く引く手により、放たれた鋲は的外れな大理石の上に深く刺さった。ノアイユはそれを予測していたかのように、回避や防御行動さえもせず、ポケットに手を差し入れたまま凛然と立ったままであった。


「イヴ?」


ノアイユの死を阻んだのは、イヴの手。眉をひそめて思わず振り返ると、イヴは必死の形相をその髪の隙間から覗かせていた。顔色が、白く浮かばない。イルミを止めるその細い手さえも、白く冷たく感じた。絞り出すかのように、イヴは声を出した。


「……あの人を殺すのは駄目」
「イヴ。奴は敵だ」
「…………。」
「何故止めるのか理由を言いなよ」
「それは、…………。」


イルミの腕を掴み、あの男を殺すなと懇願をするイヴ。理由さえ言わないが、彼女の強い引き止めにイルミは眉をひそめて腕を下ろした。そんな遣り取りを、ノアイユは漫然とした様子で見ていた。口元に薄らと笑みさえ浮かべて。それが余計にイルミを苛立たせた。


「そう。理由は言えない。そうだよね、イヴ?君の口からはとてもね」
「……。」
「どうして?素直に言ってしまったほうがいいだろう」
「……。」
「何故なのか当ててあげようか」


ノアイユは、突如として表情を豹変させた。達観した様子で余裕振った笑みを浮かべた彼は、眉を不愉快そうに歪めて憎たらしげにイルミを睨んだ。


「彼の存在。そして彼との約束の所為だ。そうだろう、イヴ」


柔和な美青年は、嫉妬にその顔を醜く歪める。その様相の変わりざまにイヴは口を噤んだ。ノアイユは暫く無言でいたが、また口元を釣り上げて微笑みを取り戻す。ノアイユ。彼もまた感情の見えない人間だ。いつもは微笑んでそれを誤魔化している。けれど今のように、真に感情を狂わされた時にそれが露出する。イルミとは真逆の、その白い姿。けれど二人は少し似ている。

ノアイユは前に私を好きだと言った。しかし、それは何故なのかを知らない。「どうして、」私に執着をするの。そう疑問が口から溢れそうになったが、それ以上続けるのはやめた。あの、アーネンエルベでの夜が脳裏に過ぎったから。しかしそれはとても嫌な思い出だ。イルミにも知られたくなどない夜。どうして一瞬でも許してしまったのだろう。酒の勢いさえ無く、あの男の唇を一時でも受け入れてしまったこと。

イルミは意に介さず、口を開いた。


「約束を何故お前が知ってる?」
「僕にも内通者がいてね」
「内通者?」
「彼女はその存在に気付いていたがずっと黙っていた。ね、イヴ?」


ノアイユは見透かしたように微笑み、そして、イヴを見た。

わかっていたことだ。あの人が、察するよりずっと以前からノアイユと内通していた。その事に目を瞑っていたのは、私だ。確証を得たのは、病院でノアイユに接触された時。私があの人から検査の結果を聞いた時、あの人はノアイユと顔を合わせていないのにも関わらずノアイユが男性だと知っていた。その時にようやく確証を得た。


「ああ、ちょうど噂の彼が今来たみたいだ」


ノアイユは、視線を出入口の扉の方へ移して、そう誰かに相槌を求めた。そしてそれに呼応するかのように、不気味な程にゆっくりと、扉が開く。




「カミー、ユ……」



現れたのはカミーユ・ハンバート=ハンバート。七三分けの短髪に分厚い眼鏡、顰めっ面。軍服はきっちり首襟のボタンまで閉めている。きりりとした姿勢がその神経質な性格の表れ。


「ノアイユ。話は済んだか」
「これからさ。急いては事を仕損じる、だよ。君は性急な男だね、カミーユ」
「貴様は悠長過ぎるのだ」


そして旧知の知り合いのように二人は会話を交わす。
カミーユのその眼鏡は、満月に照らされ反射して怪しく輝いた。別段いつもと変わりなく振舞っているように見えた。ーーーしかし、その軍服に飛散した、幾らかの血痕。カミーユの手には、何かが握られている。暗闇に目を凝らして見ると、それは誰かの腕。そしてカミーユはその何かを引き摺るように、部屋に入り、それを放るように投げた。


「る、」


それはルードヴィッヒだった。
衣服は多く鮮血に染まり、床に丸く血溜まりが広がる。彼の金髪が、べとべとに自身の血で染まっている。両腕は妙な角度で折れ曲り、全身は虚脱したように力無い。血だけが赤く、肌は青白い。顔は伺えなかった。まるで無残な亡骸のようにも見える。意識は無いようだ。

このブレア家を護っているのはルードヴィッヒの念能力。しかしノアイユの侵入、そして血塗れのカミーユ。それがどういう意味か、察するに余りある事だった。カミーユはイヴの目の前へ立ち姿勢を正すが、彼は真っ向に立った。まるで、ノアイユ側の人間だとでもいうかのように。


「カミー、ユ……それ、その血、は、」
「ああ、これですか。お見苦しく申し訳ありません」
「……ルーイは、まさか、」
「ああ。死んではいませんよ。少々折檻しただけです」
「嘘、嘘でしょう」
「まさか。嘘を申し上げるなど」
「どうして」
「もはや邪魔になったので」
「何故そんな事を。仲間なのに」
「同盟関係ですよ」
「同盟?」
「目的は一致していましたが、その道が違えてしまった」
「目的?」
「貴女です」


イヴはそれに閉口した。



「ルードヴィッヒは私の方針に賛同を示さなかった。だから手を掛けました」



そしてカミーユは、イヴの御前に居直るように、眼鏡をかけ直す。そして、それがどうかしましたか、と言いたげな表情さえして首を傾げた。その様子にイヴは悔みの表情を浮かべ、思わず再び「なんで、」と呟きを漏らした。


「ご存知でしたでしょう、お嬢様。私がこの男と繋がりがある事を」
「あなたは……ずっと私の味方だったじゃない」
「それは今も何一つ変わりありません」
「なら、……」
「私は貴女を失いたくないのです」
「それなら、……」
「イヴ=ブレア、貴女を愛しているから」
「カミーユ……!」
「だから過程はどうあれ、そうする必要があった」


そうじゃない。そんなことを聞きたいのではない。聞きたい事は一つだけ、何故カミーユ・ハンバート=ハンバート。如才無いあなたが、どうして私を裏切っているのだということ。


「ーーー答えて」
「お嬢様?」


私は卓上から銃を手に取り、そのまま銃口をカミーユに向けた。冷たい鉄とプラスチックの手触り。『ハンドガン、オートマチック、グロック社製、グロック26。全長160mm、口径19mm、装弾数19、パラベラム弾』。ルードヴィッヒから自分を守るようにと渡された、彼の愛銃。


「嗚呼……なりません、お嬢様」
「何故こんなことを。答えなさい。それ以外の答えならば撃ちます。本気だから」


カミーユは眼鏡を掛け直し、ため息を吐いた。私の求める答えは一言だけだ。それがどんなくだらない理由でもいい。ただ私は、カミーユに応えてもらいたかった。
カミーユは眼鏡をかけ直し、ため息を吐いた。



「お嬢様。危ないですから、それを置いてください」



しかし、カミーユから出た答えは、私への応えではなかった。まるで子どもに言い聞かせるかのように、甘ったるいあやし。その態度に沸騰するような怒りと、そして、何を言っても無駄なのだという絶望が靄となって立ち昇るようだった。声が震える。



「答えて、カミーユ!」
「お嬢様」
「早く返事をして」
「お嬢様」
「宥めようとしないで」
「お嬢様」
「一言でいい、なんだっていいから、」
「お嬢様」
「答えてよ……」



一歩、また一歩と、カミーユはこちらへ踏み進んで来る。そして終には、拳銃は彼の胸に接触した。このまま応えないのならば言葉の通りに私は撃てばいい。応えないのならば、カミーユの応えはそうなのだから。しかし、グロック26を握る手が、震えるのがわかった。それはきっとカミーユもわかっていた。だからこそ彼は次に舐め腐った一言を言った。




「出来る訳ありませんよ」



カミーユは笑っていた。それはいつもの様に、私にしか向けない笑顔ともいえた。しかし暗闇の影が彼の笑みの無気味さを助長させる。


「お嬢様、貴女が私を撃つなんて出来る訳がないのですよ」


さらに彼は自分で胸元から喉元に拳銃の照準を改めた。グロック26を愛おしそうに彼が撫でた。


「だって貴女は私を愛している」
「……ふざけてるの」
「とんでもない。事実でしょう」
「だからって撃てないと?」
「ええ」
「試してみましょうか」
「どうぞ」


威勢を放ってトリガーに指を掛ける。頭に血が駆け巡る。ルーイを手に掛けた。あんなに優しい子を。許せない。どうして。このまま激情に任せてトリガーを引けばいい。
でも。もし死んでしまったら。
脳裏を駆け巡るのは、カミーユとの思い出。出来事。それがフラッシュバックされるように記憶を穿つ。


(カミーユを殺すの?)
(家族に近しい人。兄のようだった)
(でももう殺しちゃうのね)


頭痛と共に過ぎったのは、もう一人の私の声。そう。色々な事があった。楽しいことも、悲しいことも。カミーユは親切だった。私に20年もの間仕えてくれた。けど、もしこの引き金を引いたら。その先を思うと、体が震え、指は固まってしまったかのように力無くトリガーに掛かったままであった。やはり、それは出来なかった。顔を、思わず伏せる。

カミーユはそれを察してか、グロック26から手を離した。



「お嬢様。貴女が死を与えると言うならば、私はそれさえも受け入れましょう。しかし貴女にそれは少々難しい」
「ーーーそれならイヴの代わりに俺が殺すよ」


いつの間にかカミーユの喉元に添えられた、長く細い針。言わずもがな、それを差し出すのはイルミだった。イヴはカミーユに銃口を、そして鋲先を向けるはイルミ。
死の切っ先をカミーユに向けるイルミに、イヴは息を飲んだ。


「聞いていなかったのか、ゾルディック。結論としてお嬢様は私の死を望んではいない。その薄汚い手を降ろせ」
「イヴがそう言った?20年飼った忠実なペットを殺すのは気が引ける、ただそれだけの事だと思うけど?」
「彼女は私を愛している。だから殺せない」
「イヴがその感情を抱くのは俺だけだよ。下僕のお前じゃない」
「では、証明しよう。彼女がこの銃口を向けたままならば、私を殺せばいい」
「……随分な自信だね。カミーユ」


暫く。そのまま沈黙を守って、その場は膠着した。私が銃口を向けたままならば、カミーユはイルミが殺す。銃口を降ろせば、殺されない。短く、永遠の時間のように思えたのは、何故だろうか。

カミーユの軍服に飛散した血痕を、血の滾るような脳味噌でただ考えた。死んではいないとカミーユは言ったが、ルーイのその滲み出た血液の量からして、恐らく致死的な状態。


カミーユにどんな理由があったとして、例えそれが唯一私の為だとして。それでも、こんなことまで。どうしてやってしまえるのだ。ルーイは仲間だったはずだ。カミーユ先輩と慕っていたじゃないか。それにまだ少年だ。折檻だと。未来のある美しい彼を、どうしてこんな姿にまで傷付けられる。私の為なら何でも出来るとでも言いたいのか。せめて、『こうするしかなかった』とか、善を語る悪役めいた台詞くらい、嘘でも言ってほしかった。そんな笑って言うことじゃ無いだろう。どうしてそれでも微笑むことが出来る?

許すことが出来ない。でも、私は殺すことが出来ない。イルミ。このまま銃口を向け続ければ。イルミが、カミーユを殺してくれる。このまま手を降ろさなければ。カミーユが、ルーイを。イルミが、カミーユを。




(イルミに殺してもらうの?)



また、脳裏で囁きが聞こえた。


「……イヴ?」


暫くしてイヴは、黙りこくったまま、力無く、その銃口を静かに降ろした。イルミは、イヴのその意思の表れとも言える行動に、目を絞らせるように細めた。カミーユは、やはりそれもわかっていたとばかりに僅かに唇を吊り上げる。イルミが彼女に声を掛けるも、顔を上げようとはしなかった。ただ、その真っ青な横顔から覗く白い唇だけが僅かに動いたのが見える。何と言ったのだろうか、声には出ていないのにどうしてか分かる気がした。”ごめん“、と。

どうしてイヴが銃口を降ろすのか、イルミには解らなかった。カミーユはノアイユと密通していたし、ルードヴィッヒを手に掛けた。利害関係は判然としないが、状況判断としてカミーユはユダだ。キリストはユダの裏切りを知っていたが制裁は下さなかった。しかしイヴは神でも何でもない。人間だ。殺したいと憎むなら手を下せばいい。彼女が出来ないのならばそうする。でも、銃口を降ろしたという事は。『彼女は私を愛している。だから殺せない』。先ほどのカミーユの一言が、苛立ちとなって押し寄せる。

彼女は、身内には甘いとは思っていたが。
まさか、それでもこの下僕の一人を想うのか、イヴ。



「ーーー仲良くしようじゃないか。僕たちは潰し合うような関係じゃないよ」


その場を諌めるかのように、ノアイユの一声が再び緊張の糸を緩めた。イルミは、苛立ちを当たるようにノアイユを睨む。


「……その先の発言に注意するんだね。お前達を殺すかどうか迷っているくらいに俺は苛立ってる。講釈たれるのは得策とは言えないと思うけど?」
「それは怖い……でもゾルディック、君は僕に協力をした方がいいんじゃないのかな」
「どういう意味」
「君には僕は殺せないよ。何故なら今の通り、イヴがそうさせないだろうから。僕は彼女にとって救いとも言える立ち位置にある」
「……何?」
「もう少し説明しようか。彼女の真実も含めてね。……否、違う。彼女“達”と言うべきか」
「彼女、達?」
「そう」
「ゾルディック。君も気付いたんだろう?彼女の中にいるもう一人の存在の可能性に」


近日の彼女の変化。その中に燻る、彼女への違和感。その中に潜む、もう一人の存在についての可能性。
イルミはそれに沈黙で答えた。ノアイユは、腕組みをして、事態を少し難しく思うように眉を顰める。



「……恐らく君は彼女を二重人格のようなものだと思っている。それは言い得てもいるが、その本質はまるで別物だ」
「別物?」
「そう。別なんだよ。“彼女達”は」



解離性多重人格障害は、元々一つだった精神が分裂し、傷や役割を分け合って主人格と協調を取る。精神の統合によって、割れた鏡が合わさるように一つに戻ることができる。

しかしそれがそもそも独立したものならば?
別々の二人、それが一つの体の中に押し込まれているとしたら?

僕たちがこれまで手を拱いていたのは何故か。ずっとずっと、静観していたのは何故か。そして、彼女が25歳を迎える手前。何故今となって、僕たちが動くのか。



もう、どうしようもないんだ。
本当は、心も体も別であった筈の二人。
二人は、やはり二人。



「彼女は二人であって、二人ではない。そして一人であって、一人ではない……」



二人だからこそ、今の彼女が存在するのだろうか。
別であったら、イヴ=ブレアはどちらだっただろうか。

彼が愛したのは、本当は誰なのだろうか。今のように、二人がごちゃまぜになった存在か、それとも彼女か、それとももう一人か。もしかしたらこの真実を知って、どちらにも興味を無くすかもしれない。それならまだ苦しくない。もっと苦しいのは、もう一人の存在に執着をしてしまうかもしれないこと。もう一人を、愛してしまうかもしれないこと。それは今の“彼女”にとって耐えがたい事。オールソールズデイの約束でさえ揺らいでいる。彼が愛した女は自分によく似た別人だなんて。だから黙っていた。できる事なら、ずっとそうしていたかった。

ずっと二人でいるのだと思っていた。だが、本当は、ずっと“三人”だった。



ノアイユの声は、静かな闇夜に溶けていくかのようだった。淡々としていて、涼やかで、凛としている。だからこそその一言が、まるで伸し掛かる鉄のように重く肩に纏わりつき、頭を棍棒で叩かれたかのように感じられた。







「ーーーイヴ=ブレアは双胎妊娠により出生した双子の姉妹だ」




彼女“達”は、双子。

どちらかがイヴで、もう一人は名の無い姉妹。


それが真実。
イヴの正体。
本来の、姿。




「……双子?有り得ない」


イルミは、ノアイユの告白にただ眉を顰め、否定した。そんな筈はない。それならば、記録があるはず。知らない筈がない。それに、双子というならば、もう一人は一体どこに居る?実体もなければ、それは根も葉もない出鱈目だ。

イルミがイヴを窺うと、彼女は、ただ無言であった。否定もしなければ肯定もしない。けれど、まるで生気のない人形のように、だらんと肩を下げていた。それが嫌な予感を助長させた。



「イヴには出生記録もある。絶対的に単体児だ。双子じゃない」
「そうだね、ゾルディック。それが真実だ。しかしまた、誤りでもある。前提が間違っているんだよ。そのことに周囲も君も気付かなかった」
「…………。」
「だって事実、そう見えたのだから。先入観というものかもしれない。一つに見えて二つであるなんて誰も想像しないだろう?」



ノアイユは胸元から一枚の画像写真を取り出した。それをイルミに投げる。



「それはイヴ=ブレアの頭部を撮した画像だ」



……それは一言に尽くすならば、頭蓋内部でぐちゃぐちゃに押し込まれた脳を撮影した三次元レンダリング画像であった。
しかし詳細に解析すると、一つの頭の中に二つの脳がぎゅうぎゅうに詰め込まれている状態だということが分かる。二つの脳の内の、大部分を占める一つの脳は、おそらく今現在のイヴのもの。しかし、その大脳から中脳にかけてもう一つ小さな何かが押し込まれたように切迫して存在している。またそれも脳であった。歪な形をしていて凡そ通常の状態とは言えない。二つの脳は複雑に絡み合っていて、互いに独立した組織は乏しい。



「それがもう一人の“彼女”だよ」



ノアイユはあっさりと、この絡み合った小さな脳を、もう一人だと言った。


「それはイヴ自身も知らなかった存在。潜んでいた、という言い方は正しくない。何故ならずっとそばにいた、それが当たり前だったから。二人は実体と影。当て嵌めるならその関係性が一番正しい表現だ」


影は絶対にある。しかし影がある事に気付くというのは、変な話だと思わないか。何故ならそれらは生まれた瞬間から在るものだから。自身が成長するとともに影も比例して成長する。比例しない両者などこの世に存在しない。


「彼女のDNA検査もさせてもらった。ゲノム配列に至るまで全て。その結果、二種類のヒトの遺伝情報を持っていた。そのことから♯1♯=♯2♯は恐らく二卵性双胎児であったことが裏付けられる。この意味がわかるかい?」


体は一つ。しかし、遺伝情報は二つ。
それらが示す意味は、“本当は二人”という事。


「そう、“彼女達“は双胎児として産まれなかった姉妹。別個の生を得られなかった双胎児。一人だけど、二人の人間……」



それは、矛盾するようでいて、有り得ないようでいて、事実此処に在る現象。








「バニシング・ツインーーーそれがイヴ=ブレアの正体だ」






【バニシング・ツイン (Vanishing Twins)】。
双胎妊娠が判明した後、ごく早期の段階で一方が流産となり結果として単胎妊娠の形になることをバニシング・ツインという。胚(胎児)が母体に吸収されあたかも子宮内から消失(バニシング)したように見えるため、この名称がついている。この現象は全体の双胎妊娠の10〜15%の確率で派生する。また、本来ならば二卵性双生児になるはずだった二つの受精卵が融合して一つの受精卵となることもある。多くの場合は受精卵が成長せずに出産まで至らないが、二つの胚が融合することによって、一個体が二種類の遺伝情報を持つキメラとして生まれることもある。特に異性双生児として生まれるはずだった胚が融合した場合、雌雄同体や半陰陽が生まれる可能性も生じる。


「バニシング・ツインはそう珍しい現象ではない。ある研究者はわかっていないだけで多くの単体児にもこの現象が起きていると説を唱える者もいる。勿論、ゾルディック、君にもその可能性がある。……しかし彼女達のように、胎内で一方に吸収された後に出生、そして吸収され消えたはずの一方が意思を持ちながら一個体の中で成長し続ける症例は世界的にもひどく珍しい」


バニシング・ツインによる症例はいくつか報告されている。
読解、聴解力が非常に低下していることから、医師の診察を受けたところ脳腫瘍と診断を受けた26歳女性の報告がある。脳外科医により開頭手術が行われそれは摘出された。しかし腫瘍だと思われていたものの正体は骨、髪、歯等の組織。病理検査が行われ、女性はバニシング・ツインであった事が証明された。双胎妊娠後バニシング現象が起きた胚芽や胎児は母体の中で自然に吸収されてしまうことが多いが、出生した児の中に留まり、成長を続ける事が確認された事例である。また別の症例にて、新生児が体の内部に、胎児を2体宿して誕生した事例もある。生後3週目になってから体内の胎児の摘出手術が行われたが、へその緒、手足、皮膚、胸郭と骨、腸、脳の組織が確認されるなど、かなりの大きさに育っていたという。


「イヴ=ブレアの場合、吸収されたもう一人は脳内に留まり、胚芽は脳組織のみを形成した。これは奇跡的とも言える分化だ。おそらくバニシング現象により脳以外の他組織を形成する胚細胞は失われた。そして出生後から今日に至るまで一方は隠れるように隅に居着いて共生してきた。彼女がどうして人並外れた記憶能力を持つのか、その理由を考えたことはあるかい?それは恐らく、一人で二つ分の脳を共有しているからだと考えられる」



ノアイユの語り部に、イヴもカミーユも何一つ口を示さない。カミーユは血濡れの姿でただイヴを見つめ、イヴはずっと下に俯向き沈黙していた。イルミだけが否定をした。



「何、それ。有り得ない」
「事実だよ。その画像が信じられないのなら、ゾルディック、君自身も彼女を調べてみればいいさ。有り得ないなんてことは、この世界には有り得ない。……さて、ここで何故僕が彼女に干渉するのかわかるかい?」


ノアイユは、その病的なまでに白い指で、自身の頭を抑えるように撫でた。その姿が、堪えがたい頭痛に瀕する時のイヴの姿と、少し重なった気がした。



「……僕もかつて、本当は二人の筈だった。でも一つで産まれた。前は頭の中で喧嘩ばかりしていたけど、今は大人になって仲良しになった。一つに融け合った。消えたもう一人が、僕の中にもいたんだ」



そうだ。頭の中のもう一人は言っていた。ノアイユもまた、仲間なのだと。

ーーー頭の中。本当は二人。一つに産まれた。喧嘩ばかりしていた。今は大人になって仲良くなった。しかし一つに融け合った。消えたもう一人。

それはいくつかのヒントであり、明確な答え。





「僕も、彼女と同じ……バニシング・ツインの一人だ」



ノアイユ。白い青年。これまでは、監視の目を掻い潜り接触をしてきた危い男だと思っていた
。とらどころのない、柔和な表情。敵なのか味方なのか、危険なのかそうでないのか、まったく想像ができない。同類。仲間。イヴと同じ、バニシング・ツインだという青年。そういう括りでは、彼は仲間の一人だとも思えた。世界的に稀少な症例が、ここに二人。それは流星が衝突し合うかのように、限りなく可能性の低い事。
だが、それだけでは納得のいかない節も点在する。



「それだけ?」
「どういう意味かな、ゾルディック」
「ノアイユ、お前が彼女と同じバニシング・ツインであったとしても、それがイヴに干渉する理由にはならない。利益的とは思えないね」
「問題のすり替えとでも言いたいのかな」
「そこまでして執着する理由だ。何故彼女に近付く?」
「彼女とは”同類“だ。そう否定的にならなくてもいいだろう?お互いにしか分かり合えない苦悩がある、それを唯一の理解者として寄り添ってあげたいと思うのはそう不自然なことではないとは思わないか」
「…………。」
「……と、言いたいところだが、実はそれだけでもない。いずれにしてもこうなるとは思っていたけれどね」
「他の目的は」
「君には関係のない事だ、ゾルディック。それは僕の命題に関わる事、それを果たしているというだけさ。ねえ、イヴ?」




イヴは思わず、顔を上げてノアイユを窺った。



「わからない?」
「え……」
「もしや、忘れてしまってなんかないよね。あの満月の夜の事を」
「……。」
「君は許して受け入れたじゃないか、アーネンエルベで」
「……ち、違う」
「知らぬ振りなんて悲しいな。君は一時でも僕に安寧を得ただろう」
「黙って!」



何の躊躇いさえなく、あの夜を匂わすノアイユに、イヴは声を荒げた。

満月の夜の事?受け入れた?アーネンエルベ?
一体、何の事だ。イヴとノアイユの間に、一体何が。

二人のその微かな蜜。イルミは、内心に苛立ちを募らせた。まただ。またこうして、ムカつきが募る。何故俺の知らないところで、俺の知らないイヴを知る他人がいる。どうして俺以外にそれを共有している男がいる。支配が及ばない彼女にも、腹立たしくて仕方ない。


ノアイユはやがて小さく肩をすくめて、それ以上余計な事はもう何も言うまいと微笑んだ。



「イヴは言ってほしくないみたいだ。これ以上は黙るよ。怖い人もいるしね。とはいえ、その通りだよ。彼女に関わる事は利益的ではない。彼女はバニシング・ツインである以前に、王貴族の末裔だ。彼女の血の価値を目当てに寄り移ろう者は多くいる」
「イヴには王位請求権があるからね」
「その通り。パドキアの王政復古。その為ならば彼女を目的に戦争だって起きるだろう。イヴ=ブレアに潜む影は思った以上に数多で、複雑だから」
「その連中がお前の差し金ってこと?」
「それは肯定でもあり、否定でもある。けど、少し惜しいね」
「……惜しい?」
「ヒソカから聞いただろう?『Et tu, Brute』、と」



ーーー『ブルータスよ、お前もか』。
紀元前44年3月15日、ローマ末期の独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルが議場で刺殺された今際の際に、腹心の1人であったマルクス・ユニウス・ブルータスに向かって叫んだとされる発言だ。しかし、自身の暗殺に関しては他にも、ブルータスの従兄弟であるデキムス・ユニウス・ブルータス・アルビヌス、そしてかつての敵であったガイウス・カッシウス・ロンギヌスら閥族派もその場に居合わせ、カエサルは暗殺された。カエサルの遺体には23の刺し傷、そして2つ目の傷が深く心臓まで達していたと記述がある。


イヴは、そこでハッと気付いた。

『ブルータスよ、お前“も”か』。



「カミーユだけじゃ、ない……?」
「その通り」



ーーーギィ。バタン。

時を合わせたかのように、再び部屋の扉が開き、そして静かに閉じる音がした。カツ、カツ、とこちらへ向かい来る足音。それは、イヴにとって幾度となく耳にしてきた足音。小さい頃、眠りの中にその足音が近付いてくるだけで嬉しかった。だって眠ったふりをして待っていれば、キスをくれるから。いつも仕事で、時間の無いあの人を独占出来る、その時間。それが嬉しかった。

しかし今は、その一音一音が、たまらなく恐ろしい。
見たくなかった。知りたくなかった。そうであってほしくなかった。


「イヴ」


影から現れたその姿は、唯一の私の肉親。
白髪混じりだが整った短髪。その髪色は私と同じ茶色。その優しい眼差しは琥珀色に透いており、ただそれだけが底知れない不安を与える。オリーブ色の、最高位の軍服。勲章。



「我が娘」



重なる影は、深まって闇となる。そしてそれは混沌となり、周囲の全てを取り巻く。それは例外なく、この人物もそうだった。






「父、様……」




パドキア共和国軍司機関総統。
そして、私の実父。

エドワード=ブレアが、闇の中から現れた。