二不思議、少年の日の思い出
「もう、車の中息が詰まりそうだったよ……」
「なんで?」
「いやなんでって……もういいや……」
自宅に到着するや否や、私は倒れ込むようにベッドに横になった。帰宅の車中、イライラが止まらないカミーユと知らん顔決め込むイルミ、その双方に挟まれて耐えた私の気苦労をイルミはよくわかっていないようだった。
「今日からイルミがお泊まりかあ。久しぶりだね。イルミが私ん家に遊びに来るのも多くないし。前に来たのはどれくらい前だったかな」
「イヴん家にはうるさいのが二人もいるからね」
「……なんかすみません」
「別にいいけど」
私がイルミの家に遊びに行くということは多かった。ゾルディック家は至れり尽くせりだし、イルミのパパもママも良くしてくれる。対して私の家は、イルミをどうしてかよく思っていないカミーユや父様の根城。カミーユに至っては先程の剣幕だ、遊びに来てもらっても良い思いはしないだろう。イルミはこの性格だしあまり気にしてないみたいだけど。
「そういえば、イルミが泊まる部屋ないかも。カミーユか誰かに言って用意してもらうから、ちょっと待ってて」
「必要ないよ。ここに寝ればいいし」
「え、ここに?」
「何か駄目?」
駄目というか……私もそこそこいい歳の女の子なんだけどイルミはそれをお忘れでないだろうか。
「お前が俺の家に泊まる時は俺と一緒にぐっすり寝てるだろ」
「う……」
「それがどうしてお前の家に泊まると別なの」
「それは……」
「本当は俺と寝たいくせに。いいから俺と寝ろよ」
「イルミなんか言い方が卑猥」
そりゃ、イルミん家では一緒に雑魚寝してるけども。
これ以上言っても聞かなそうなのでそれについては黙ることとした。お泊まりなんだから一緒に寝るくらい、いいか。心配なのはカミーユがうるさく言いそうだったからだけど。
「そういえば父様、また遅くまで仕事かなあ」
「今日から出張だよ。パドキアの西部で右翼団体が暴れてくれてるはずだから」
「あ、そうなんだ。……って何でイルミが知ってるの」
「俺がイヴの学校に潜伏してブレア家に滞在するとなったら一番うるさいのはお前の父親だからね」
「もしかして……さっきカミーユに許可取ってるって言ったのは嘘?」
「うん」
そうだけど?と平然と嘘をつくような子になってしまったイルミ。
「カミーユがもし父様に連絡したら即バレるんじゃ」
「まあ、バレてもすぐにはこちらに戻ってはこないさ。少し騙されてくれればいい、それで時間稼ぎになるしその間に七不思議とやらを解決できるだろ」
私の父が今日から出張ということを知ったから、昨日の今日でイルミは急に転入なんてしてきたということか。許可を取ってここにいるというハッタリを罷り通すことで確かにカミーユは騙されてしまっている。そしてイルミは、私の父を最低限避けつつ、カミーユを鞣しつつ、ここに滞在するつもりでいるらしい。でも、どうしてイルミは父の出張の事を知っていたんだろう。娘の私でも今まで知らなかったのに。父は、自分や家族の情報が出回るのを徹底して伏せるし、身辺の部下でさえ信頼を置かない人だ。その情報がイルミに密かに伝わっているなんて。
「出張のことは誰から?」
「こっちにも内通者がいてね」
「内通者って、」
「内通といっても、イヴの身辺の護衛のために必要な情報を少し流してくれるだけの、昔からの利害関係者だ」
「それって……カミーユではないよね。誰?」
「それが誰かなんてイヴが生活していく上で知らなくていい事の一つだ。心配しなくていい」
「でも、私だけ何も知らないなんて」
「スリーピングナイト。彼等は誰にも知られずに潜むことでその存在価値を生む。だからイヴは知らなくていい」
Sleeping knights ……眠れる騎士達。それがどういう意味を示し、彼等が何者なのか、私はここでは深く考えなかった。
「……そこまでしてどうして……」
「困ってるって言っただろ」
そう、イヴはあの時、少し困った顔をしていた。イヴ=ブレアは俺に相談事を言わない。彼女は秀でた人間だ。彼女が送る日常や学校等の生活環境内で、勉学ひいては人間関係においても対処が困難であることは無いからだ。
ーーねえ。イルミは幽霊っていると思う?
けど、珍しくぽつりと漏らした、彼女にとっての“困り事“。それはイヴにとって中心の隠された、実体のない混乱を示す。それだけならまだしも、そういう時は決まってイヴがトラブルの渦中にいるサインだ。彼女は惹き寄せる。人も、物も、事も。良いものも、悪いものも。
事実、この学校では不穏な何かが起きている予感がある。生臭い死臭を纏った誰かが、彼女の周りを歩いている。そんな感覚があった。
「うう、でも、イルミが私の学校に通って家にも泊まったなんて知られたら、絶対に父様怒るよ。後が怖い」
「別に悪事を働こうってわけじゃない。少し黙っておくだけだ」
「そうだけど……でも素直に理由を言えば許してくれないかな」
「許されなかったらどうする?そしたら俺は学校を追い出されて七不思議の解決に協力できなくなるけど?」
「……そ、それは困る」
「それに今学校で起きている幽霊だとか何だとかを説明したところで、真面目に取り合ってくれるとは思えない。あの話しぶりだと、カミーユでさえお前の話を深くは聞かなかった。そうだろ?」
「……そ、それもそうです」
「なら、決まりだね」
イルミはそう言うとやや晴れやかな顔をして、ベッドに倒れ込んでうーうー藻掻く私の薬指を取って握った。
「約束は果たすよ」
「え?」
「俺達は約束した仲だからね」
「う、ん……」
イルミの薬指を握る手が暖かく湿り気を帯びていた。イルミの言う約束、それがどの約束を示すものなのか検討がつかなかったが、この状況、悪魔との契約の一端を担ったのかもしれないと密かに思わずにいられなかった。
「とりあえず明日は聞き込み調査するから」
「聞き込み?」
「七不思議の噂、その内容の全貌を読まないと現場を調べようがないだろ」
「う……わ、わかった……」
時間は少ない。カミーユを騙し、父にも黙っているこの状況というのは恐いけれど、イルミの滞在中にやるしかない。
嫌な予感が拭えないこの七不思議を、解決しなくてはならない。
✱
そして次の日、火曜日。
「おはよう、ブレア」
「エリック、おはよう」
教室に着くや否や、一番に挨拶をしてくれたのはクラスメイトのエリック=ファントムだった。
「どうした?なんか疲れてねーか?」
「そうかな。季節の変わり目だからかも」
「大丈夫か?その、あんまし無理すんなよ。俺に出来ることはなんでもするからさ」
「ありがとう。気持ちだけでほんと嬉しい」
頬を掻きながら少し気恥しそうにエリックは私を気遣ってくれた。ありがたい。こんな同級生がいてくれて癒しだ。イルミはそんな会話をする私たちを黙って眺めている。エリックは彼のそんな視線に気付き、同じように挨拶をした。
「ギタラクルも。俺でよければなんでも言ってくれよな。転校二日目で慣れないかもしれないけど、頑張ろうぜ」
「そうだね」
イルミはやはり、その一言で会話を終了させた。やはりそれ以上にエリックに興味が無いのか、そっぽを向いてしまった。協調性が無い。
「…………あー、転校生のイルミ=ギタラクル君。こういう時はちゃんとお礼しなくちゃ」
「どうして?」
「エリックは親切に気遣ってくれてるんだから」
「ふーん。親切ね」
どこか意味深に親切というワードを反芻したイルミは、エリックに一瞥を返すだけだった。その無表情の中に、どこかエリックを鬱陶しそうに思うような気持ちが見え隠れしているような気がした。
「ごめんねエリック。イルミもその、なんというか、転校してきたばかりで疲れが溜まってるみたいで……」
「いいよ、気にしてねーからさ。確かに、ギタラクルも疲れてるよな。逆に俺、馴れ馴れしくて悪いことしたかな」
「そんな事ないよ。……仲良くしてくれてありがとう」
闇の家族ゾルディック家の一員、イルミ。
もし、イルミに友達と呼べる存在が出来るのなら。エリック=ファントムのような快活で明るくて底抜けない彼なら、引き合って釣り合いが取れるんじゃないかと、少し思った。無条件でイルミに関わってくれるような、見返りを求めず衝突してくれるような、そんな人なら。
✱
「おーい席に着けー授業始めんぞー。ほら教科書開けノート開けペンを持て。今日は先週の続き、56ページの二段落目からだな」
国語の授業が始まった。マクレガー先生の叙述をよそに、私は七不思議とイルミのことを考えていた。
イルミがこの転入捜査のミッションを終えるには、きっと七不思議の解決が絶対条件だ。こんなこと言いたくはないけど、イルミは社会性協調性ともに壊滅的な様子なのでボロが出る前に早く事を済ませなければならない。父も出張からいつ帰るかわからない。というか七不思議を解決するために彼は転入してきてくれたはずなのに、こっちの方が大変で目的が逆転しそうだ。どうしたものか。
当のイルミをちらと盗み見ると、授業を真面目に聞いているのかどうかわからないが瞬きもせずただ真正面を向いて微動だにしない。寝ているのだろうか。寝ていてもいいけど瞬きくらいしないと怪しまれるでしょうが!と焦るのは私だけ。もう少し普通らしく振舞って欲しい。
マクレガー先生が板書をする。カンカン、と、チョークが削れていく音。ノートをとる子、内緒話をする子、居眠りをする子。それでも授業は続く。マクレガー先生は学ぶことを強要しないので、授業は穏やかに流れていく。
「ブレア、じゃあ58頁、最初の段落読んでくれ」
「あ、はい」
先生から朗読の指名を受け、私は教科書を持ち席を立った。
「『せめて例の蝶を見たいと、僕は中に入った。そしてすぐに、エーミールが収集をしまっている、2つの大きな箱を手に取った。どちらの箱にも見つからなかったが、やがて、その蝶は展翅板に載っているかもしれないと思いついた。はたしてそこにあった。とび色のビロードの羽を細長い紙切れに張り伸ばされてヤママユガは展翅板に留められていた。僕はその上にかがんで、毛の生えた赤茶色の触角や、優雅で、果てしなく微妙な色をした羽の縁や、下羽の内側の縁にある細い羊毛のような毛などを、残らず間近から眺めた。あいにく、あの有名な斑点だけは見られなかった。細長い紙きれの下になっていたのだ。』」
指定されたその一段落を読み上げる。マクレガー先生はうんと頷き、その解説を始めた。
「クジャクヤママユってのは記述にある通り四つの斑点が特徴のデッカい蛾の事だ。あー、クジャクヤママユは蛾であるが、この物語では蝶と書かれている。ブレア、どうしてかわかるか?」
「原文であるドイツ語には単語で蝶と蛾を区別することがないからです。翻訳の都合上、この二つを分けていません」
それを答えた後に、何故か皆の視線を感じた。……私、何か変なこと言っただろうか。マクレガー先生は頷きながら、咳払いをした。
「……コホン。あー、ブレアは勉強してるな、著者がドイツ人作家だからその背景も汲み取っているってこったな。それじゃあ次、ゾ、あー、ギタラクル。次の段落まで読んでくれー」
「…………。」
ゾ?あ、イルミちょっと今めんどくさそうな顔をした。なんで俺が、と言いそうな顔だ。というか寝てはなかったみたいだ。イルミは意外にも前に習って立ち上がり、教科書を持った。イルミ大丈夫かな。朗読なんてした事ないはず。ちゃんと読めるかな。噛んじゃったりしないかな。文字読めるかな。そもそも声出るかな……。
しかしイルミは、イヴの失礼レベルの心配をよそにその淡白な発声で続きを読んだ。
「……『胸をどきどきさせながら僕は紙きれを取り除けたい誘惑に負けて針を抜いた。すると四つの不思議な大きな斑点が挿し絵のよりはずっと美しく、ずっとすばらしく僕を見つめた。それを見ると、この宝を手に入れたいという逆らいがたい欲望を感じて、僕は生まれて初めて盗みを犯した。僕はピンをそっと引っ張った。蝶はもう乾いていたので、形は崩れなかった。僕はそれを手のひらに乗せて、エーミールの部屋から持ち出した。その時、さしずめ僕は大きな満足感のほか何も感じていなかった』……。」
イルミの朗読は、教室中の隅々に響き渡った。
静寂の中、彼のその抑揚のない淡々とした声が耳に馴染むようで、妙な説得力さえ感じさせた。私も、クラスメイトも、先生までも、時が止まったような感覚を味わった。何故だか詩的で、聞き入ってしまう。隣の席の彼に視線を向けると、朗読を終えたイルミは、無表情にも一人変な顔をしていた。それはそうだと思う。彼の声がこのクラスの何かを支配し、黙らせた。この不思議な感覚を知らないのはきっと当人だけだ。
「……コホン。あー、じゃあ次の所、次の奴読んでくれ」
先生が、咳払いをして続きを次の人に促した。そうしてクラスの時は動きだした。イルミは音も立てず着席し、やはり微動だにせず黒板を再び眺める。しかしイルミを凝視する私の視線に、彼はこちらを見た。
何か変?
そう言いたげなイルミに、私は思った。やはりイルミは特別な少年だ。その生まれや育ちが影響しているのかはわからないけど、普通の男の子じゃないのだと。けれども私はただ首を振って誤魔化した。
やはり特別だ。どこか違う。
イヴは、リーダーに当てられた俺を驚いたように見ていた。けれど、それは俺も内心同じだ。朗読もさる事ながら、当てられた解説を答えた彼女。ドイツ語では蛾と蝶の区別が無いことなど、普通の十二歳は知る由もないだろう。
思い付く幼い頃からの特異な存在。多角的な発想や知識を持っていて、善意的で、公平で、人を惹きつける。そしてその分、混沌も。百合の貴族の末裔。十二歳のイヴ=ブレアはこういう少女。エドワード=ブレアの娘。ここではパドキア学園小等部六年生、学年委員長。
そして、俺の約束の女の子。
✱
昼休みになり、イルミはそれを待っていたかのように私の腕を引っ張り立たせた。
「じゃ、イヴ。行くよ」
「え?」
「昨日言ったろ」
「あ、うん」
「ここだと目立つから別の場所にしよう」
聞き込み調査のことを言っているようだ。
イルミは転校生で今教室で一番に注目されている。クラスメイトから言動を見られているのは本人が一番感じていることだろう。イルミに連れられて向かったのは多目的会議室。いつも私が委員会の雑務で使う教室だ。ここは人もそう来ることは無いし、内緒話に最適だろう。イルミが昨日クラスメイト達から学校の案内を受けたのはまったく役に立たない訳でもないらしかった。
「聞き込みってまずはどこから?」
「そうだな。今回っている噂ってどんな内容だったっけ」
「えっと、私がそれを聞いたのは先週の金曜日。自殺した女の子の幽霊を見た子がいる、ってところから、かな」
そう、この話を持ちかけてきたのはクラスメイトの噂好きの女の子だった。
『隣のクラスの子、見ちゃったんだって』『七不思議の一つ、屋上に立つ女の子の幽霊』『知らないの?今ものすごい噂になってるのよ。他のクラスの子も夜中に学校の近くを通りかかったとき、見ちゃったんだって』『学校の屋上で、悲しい顔で女の子がぽつんと柵の外側に立ってたらしいよ!ずっと昔に屋上から飛び降りて自殺しちゃった子がいたって噂もあるから、きっとその子の幽霊だよ』
あの時あの子から聞いた噂をそのままイルミに伝えると、彼は顎に手を当て、少し考えるふりをした。
「…………。」
「イルミ?」
「イヴ。この学年に、イヴ以外に情報に長けている奴っている?」
「え、そんなの考えたこともないよ」
「その女みたいに噂好きの奴よりは、仲間同士で関わりの多い奴が話を聞くに好ましい。より事実に近いからね」
「そうだなあ……」
情報に長けているというと、誰だろう。
まさか自分の学校内でそんな情報通が誰だとかなんて考えたこともなかったから、イルミのその指摘に少し戸惑った。だってここはイルミがいるような裏の世界ではない。表の世界も、それもただの小学校だ。
噂好きではなく、仲間同士で関わりの多い子。大抵そういう子は、友達が多くて明るくて裏表のない性格だけど。
「……エリック=ファントム」
そう、エリックならどうだろう。
彼は確かに快活であり人気者の男の子だし、友達も多い。七不思議のことも知っていた。きっと何かしらの情報を持ってる可能性がある。その名前を呟くと、イルミは少しむっとしたような雰囲気があったが、その気配はすぐに消えた。
「なら、そいつだね」
「こら。そいつ呼ばわりしないの。ちゃんと名前があるよ」
「わかってるよ」
イルミのおでこを小突くと、彼は少し眉を顰めた。さらさらの黒髪が指にあたって心地よく、私はそのままその手を彼のおかっぱ頭に乗せ、髪を撫でる。イルミはそれを嫌がりはしなかった。
「エリックに話を聞くのはわかったけど、その幽霊を見たっていう他のクラスの子には話を聞かないの?」
「それでもいいけど、恐らく幽霊を見たと主張する奴は複数現れると思うよ。子どもというのは嘘つきだ。実際に見た事は無いのに面白がって噂を広めようとするホラ吹きもいると考えればね」
「そっか。それもそうだね」
「それとも、実際に幽霊を見たと主張する奴の名前でも知ってるの」
「ううん、知らない」
「ならまずはエリック=ファントムから周辺を洗っていくのが妥当だろう。その内に噂の根源に辿り着くはずだ」
「噂の根源……」
それは、屋上に立つ女の子の幽霊。
学校を騒がせる、屋上から飛び降りて自殺してしまった、悲しい少女。噂はどこまでが真実で、どこからが嘘なのか。それを確かめなければ七不思議は消えることは無い。
私たちはまず、エリック=ファントムに話を聞くことにした。
✱
「七不思議?」
「うん、そう。何か知らない?」
「そうだな……」
エリック=ファントムは、教室でクラスの男子とふざけあいながらお喋りをしていた。話があると男子集団からエリックを借りると、「お、ブレアからの呼び出しかよ、エリック」と何故か持て囃されるように彼は私に送り出された。エリックはそんな男子達に「お前ら後で覚えてろよな」と蹴りを入れて、少し気恥しそうに廊下まで来てくれた。
「どうしたんだよ、ブレア、話って」
「ごめんね、突然。あのね、エリックこないだ七不思議の噂について少し喋ってたじゃない?そのことについて詳しく聞きたいんだけど」
「……あー、それをわざわざ聞きに?」
「あ、うん。だめだった?」
「いや……だめじゃないけど。そうじゃないけどさ、ブレア……」
エリックは、なぜか、意気消沈したかのように肩を落とした。どうしたんだろうか。つまらない事を聞かれて時間を取られたからか?それなら悪い事をした、と私は思った。
イルミは後ろで腕を組み、壁にもたれてこちらを伺っている。イルミが私に同伴しているということに少し変な顔をしながら、エリックは答えてくれた。
「俺も周りからその噂を聞いたばかりだから、詳しいことはわからないぜ。本当に最近……確か先週あたりだ」
「あ、そうなんだ。厳密に先週のいつ頃か思い出せない?」
「ちょっと待て。あー、そーだな……先週の木曜日頃、だったかもしれない」
そうなると、私がその噂を耳にした前日だ。噂は、本当に最近の事のようだ。
「それは誰から聞いたの?」
「それこそ複数人さ。思い出せる限りだと、同じクラスのエイミー、アンナ、それにオーレリア。その日にその三人から話を聞いたかな」
「あ、みんな女子?」
「ああ。女の子は噂好きだろ。だからブレアもてっきり知ってるかと思ったけど、ブレアはあまり知らなさそうだったから意外だと思ったんだよな」
やはり噂を回すのは女の子が多いようだ。
エイミー。アンナ。オーレリア。彼女たちはアルファベット順で仲良くなったようで、よく三人でつるんでいる。その名前を念頭に置く事にした。
「他に何か知ってることはない?」
「うーん……あ!そういえばティムは知ってる?」
「ティム=ライアー?3組の?」
「そう。あいつがその幽霊を見たって言ってたかな。話半分に聞いただけだから、深くは知らないし、本当かはわからないけど」
幽霊を見たという目撃者、ティム=ライアー。事前の聞き込みでエリックに聞いてみて当たりだった。ティム、彼にも後で話を聞いておかなくては。
「他に、何か気になるような話はない?何でもいいから教えてくれると嬉しいんだけど」
「他だと、そうだな。その七不思議の噂には関係無いかもしれないけど、いいのか?」
「うん、何でも教えて」
何でもいいから、噂に繋がるような話が聞きたい。
体を乗り出してエリックに迫ると、「えっと……」と彼は頬を少し染めて、目を逸らした。日差しの強い廊下が暑いのだろうか。気温が上がったようには感じなかったけれど。
「本当に噂には関係ないぜ。他のクラスに家出した奴がいるとか、そんなことくらいだよ」
「……そっか。ありがとう。突然ごめんね、エリック」
「あんまり大した事は話してないけど……こんなんで大丈夫か?」
「そんな事ない、すごく助かったよ。また何かあったら話聞いてもいいかな?」
「そりゃ構わないけど、」
「よかった」
エリックから話は聞けた。これを元手に情報を洗っていければ、七不思議の根源が見えるかもしれない。お礼をもう一度言ってそこから立ち去ろうとすると、エリックは私を引き止めた。
「ブレア、あのさ!」
「え?」
「俺も、協力するよ。何か探ってるなら秘密にする。誰にも言わないから。……人数は多い方が、いいだろうし」
「えっと……」
エリックはイルミを見遣った。彼のその視線から、私がイルミと七不思議について調べていることを察したようだ。どうしようか。確かに、エリックは私たちより周囲の情報をさらう能力に長けているようだ。彼に協力をお願いすればもう少し詳しい事が分かるかもしれない。
素直にエリック=ファントムに協力をお願いしようと口を開いたところで、私の手を強く誰かが引いた。
「イヴ。もう行くよ」
手を引いたのは、傍でずっと話を聞いていたはずのイルミだ。
そのままずるずるとその場を離れようと手を強く引っ張るイルミに、私は足を崩してしまい、イルミにもたれかかってしまった。
「え、イルミ。エリック、協力してくれるって、」
「必要ない。俺がいればいいだろ」
「でも、」
「ファントム。悪いけど、猫の手はいらないから」
私の肩を掴む手の力が、顔を顰めてしまうほど強い。イルミの物言わせぬ雰囲気に私もエリックも閉口し、そのまま彼の引き摺られるままにその場を後にした。
イルミの非礼を謝らなければとエリックに振り返ると。彼は、少しだけ悔しそうで、少しだけ寂しそうで、少しだけ怒っている……そんな表情を浮かべていたような気がした。何があっても明るくて親切で嫌な顔一つ浮かべた事のない彼のそんな表情を見るのは、初めてだった。だから私は、彼に何も声をかけられずにその場を後にしてしまった。
✱
「イルミ」
「………………。」
「イルミ」
「………………。」
「イルミってば」
「何」
「何、って。聞きたいのはこっちなんですけど」
あてもないのか、ただただ何処へともなくずんずんと歩き進むイルミに腕を引かれる。私は、何故イルミが突然エリックにあんな事を言ったのかわからなかった。彼が怒るようなことは何も無かったと思う。
「止まって話そうよ」
「…………。」
「ね、イルミ。お願い」
ここまで言うと、彼はようやく足を止めてくれた。4階隅の、音楽室の前。昼休みだからか、人気は少ない。彼はそっぽを向いていて、その顔をこちらに向けてはくれなかった。
「どうしたの、突然」
「…………。」
「何か気に触るようなことでもあった?」
「…………。」
「エリック、きっとびっくりしてたよ」
ここまで言うと、イルミはさらに強く私の腕を握り締めた。その手加減のない力に私は思わず目を瞑った。どうしてかイルミは、苛立っているようだった。
「イヴはあいつと仲良いんだね」
「あいつって、……エリック?」
イルミは無言だった。こういう時の彼の無言は、肯定を意味する。
「仲がいいとか、悪いとか、そんなんじゃないよ。エリックはクラスメイトだし、友達だもの」
「“友達“?」
「うん……だって、そうでしょう」
彼は男の子だけど、クラスメイトで、友達。エリック=ファントムは優秀で快活だし、誰にでも友好的だ。それは私にもそうだ。私も特に彼を嫌いになるような気持ちなど無い。
「……イルミは、私とエリックが友達なのが嫌なの?」
「ただ“友達“なら俺は見過ごすけれど。イヴには“友達“が多いようだしね。ただ気に入らなかったのは、エリック=ファントムがお前にそれ以上の好意を持ってる事だ」
「え?」
「そしてお前も……エリック=ファントムを“友達“以上に注視している。俺にはそう見えたけど?」
それ以上の好意。
友達以上に注視している。
私には、イルミの言うことが少しわからなかった。友達以上なら、親友じゃないのか。それがイルミは嫌なのか。それを考えあぐねてただ黙っていると、イルミはゆっくりと、こちらへ振り返った。
「俺は“友達“というものを知らない。必要がないからね。友達は人間関係を形成する上での馴れ合いの道具……そう思ってる」
イルミは、怖い顔をしていた。
「イヴ。お前の“友達“の定義って何」
無表情だが、その中に隠れて深く深く業を煮やしている。
昔、イルミとゾルディック家で遊んでいる時に、イルミじゃなくてゴトーと結婚したいと私は言ったことがある。イルミはその時も少し怒っていた。そしてイルミのその時の怒りは、今のものに少し似ているような気がした。
友達。
イルミに無くて、私には有る。そのたくさんの中の一つだ。
まるで、言語の異なる人間に愛がどういうものなのかを教えるかのようだ。すごくシンプルなのに、言葉にすると複雑。人類みんなが共通して好意を持った誰かに抱く、想いのかけら。それがどういうものなのか、どういう形をしているのか、どういう意味なのか、深く教えるように責められているみたいだ。
イルミは、それを知らない。けれどいらないと言う。それが少し私は悲しかった。
愛と同じように、人はそれを求めるものなのに。
「……友達は、私を普通の女の子にしてくれるんだよ」
私には、母がいない。私を産んだ時に死んだ。
父は私を愛しているけど、あまり隣にいない。
けれど、恵まれた環境だ。誰よりもそうだと思う。家があって、不自由ではなくて、学校に通えて、私を大切にしてくれる人もいる。
けれどふとした時に、私は普通ではないと感じる。父はパドキア共和国軍総統。死んだ母は貴族の出身。その出児である私は、厳重に護られて生きている。ゾルディック家も普通ではないものの一つだ。彼らが近くに寄り添っている生活。隣にある闇の世界を傍目で伺いつつ、私は普通の表の世界で生きている矛盾。本当は、よくわからない。私が裏と表の世界の狭間で、この均衡の間に立っていること。父様やイルミの口から聞こえる、殺し、暗殺、闘い、……そういう闇の声。それに引っ張られそうになるけれど、私を“普通“に戻してくれるのが、“友達“だ。
イルミには、わからないかもしれない。理解に時間がかかるかもしれない。だってイルミは、ずっと裏の世界にいたのだから。私に友達がいたからこそ表の世界がどういうものかを忘れず、この均衡の狭間に立っていられた。友達がいなかったら、どうなっていたかわからない。
私は、父様やイルミたちのように強くもない、特別な何かもない、至って平凡な十二歳の女の子。ただ護られているだけの、無力な子どもだ。
それを忘れさせないでいてくれるのが、私にとっての友達だ。
「友達は、イヴ=ブレアが一人の人間だって教えてくれる。だからそれ以上に好きだとか、それ以下に嫌いだとかじゃないの」
友達は友達だ。私を“普通“たらしめるみんなと仲良くしたいし、大切にしたい。ただそれだけだ。
すごくシンプルなのに、言葉にすると複雑。
人類みんなが共通して好意を持った誰かに抱く、想いのかけら。
“友達“が出来なくとも、彼の中にそういう概念が生まれるだけでも、それだけでいい。
「必要無いなんて寂しいこと言わないで。“友達“がどういうものなのか知って貰えたら、私はきっと、……もっとイルミを好きになる」
力も上下関係もないこの環境は、愛ゆえに酷な家族の中で社会性を育んだイルミにとってはまったく役に立たないものかもしれない。けれど友達は、きっと彼にこれまでと違う刺激を与える。きっとイルミにこれまでとは違う風を感じさせ、その黒髪の隙間から吹き抜けるささやきが彼の首筋をくすぐるだろう。
そしてきっと、イルミを、普通の男の子にしてくれるのではないかと思うのだ。
私の腕を掴むイルミの手に、私の手のひらを重ねた。イルミの瞳の中の怒りは少し消えたように見えた。少しずつ、腕を掴む力は弱まり、彼はそのまま私の左手を絡めるように繋いだ。
「……わかったよ」
イルミはため息を吐きながら、ぽつりと、理解を示してくれた。
そんなイルミの黒髪のおかっぱ頭がなぜかすごく可愛らしいと感じた私は、彼の髪に手を伸ばして、その毛先を梳くように撫でた。イルミはまるで猫のように私の手癖を落ち着いて受け入れてくれたのだった。
「じゃあまずは、エリックに謝らないとね」
「何で?」
「えっ、わかってくれたんじゃ」
「俺が謝る理由ある?」
「………………あると思うけど……?」
昼休みの終わりに教室へと戻ると、いつものように騒がしいクラスの中で、エリックはこちらを見つけて一番に駆けてきた。
「ブレア!ギタラクル!……あのさ、俺、何かしたなら謝るよ。本当にごめん。だから、ギタラクル……許してくれないか」
何が悪いのかもよくわからないままに謝るエリック。私はそんなエリックと、やはり無表情を突き通すイルミを交互に見た。イルミはなんて答えるのか想像がつかなかった。しばらくの沈黙の後に、イルミはやはり淡白な声で、一言返した
「……別に謝らなくてもいいよ。俺は怒ってないし」
さっきめちゃくちゃ怒ってたくせに、と私は思ったがここでは黙っておくことにした。イルミのその一言によって、エリックの輝かんばかりの笑顔に水を刺すわけにはいかないと思ったからだ。
「よかった!じゃあ俺たち晴れて友達だな」
「は?」
「喧嘩、仲直り、友達。そういう流れだろこれ」
「意味わかんないんだけど」
「細かいことは気にすんなって。ギタラクル、これからもよろしく」
エリックの差し出した手は握手を求めていた。イルミはその手に一瞥をくれたが、同じように手を差し出しはせず、それを無視して自分の席に座った。エリックは不満そうにしていたが、マクレガー先生の登場により次の授業の開始が知らされたために、大人しく席に戻って行った。
次の授業は、道徳だった。
✱
作中引用「少年の日の思い出」著ヘルマン・ヘッセ より