3


別に産まれる前から記憶がある訳じゃない。
そう信じている訳でもない。
自分は母親の胎内で息づき、その温かさのなかでしきりに手を伸ばしていた。誰にということはない。ただ早く会いたかった。目を開けたり閉じたりしても暗闇だけが世界の始まりだった。ただ求めていた。生まれた闇の先にあるはずの何かは自分でもよくわかっていなかった。求めるものは何なのか確信はないが、それは、自分の過去だったり、現在だったり、未来であると感じていた。
何かしらの理由で自分が生を受ける前に崩れた予定調和が、自分と、自らの求める先にあるものと結び付いた。運命ーー陳腐な例えだと自分でも思う。ただそれを共通認識の一言で例えるならば、それが最も正解に近い。綻んだ運命の線が自分の生の先で何かに繋がっていると感じていた。
別に産まれる前から記憶がある訳じゃない。
そう信じている訳でもない。

ただその感覚が、自らのなかに確固として存在していた。

以前、このことを父親に話したことがある。
父親は苦々しい顔で微笑し、ただ髪を撫でてくれた。









話を遮ったのはエドワードの通信PHSだった。けたたましく鳴った電話を不機嫌に取り、2・3言返事をし、電話を切ったのちにエドワードは席を立つ。こんなときにまったく、とぼやく父へどこへ向かうのか尋ねると「仕事だよ。今晩は帰れないな」と額にキスをされた。


「父様気を付けていってらっしゃい」
「いってくるよイヴ」
「いってらっしゃーい」
「いやお前はさっさと帰れよ!」

イルミに言い捨て、エドワードは出ていった。
が、そんなもの聞く耳持たずが彼だ。


「・・・・・・そういうことだからイルミ、じゃあまた今度、」
「え?せっかく来てもらったんだしお茶の1杯でもどうかって?じゃあごちそうになろうかな」
「いや言ってないし」


むしろその真逆で帰ってもらいたい、とは言葉には出せなかった。父が急用で去ってしまった今、私の身を保証してくれるものは今この場にはない。大口を叩けない私の立場の弱さを知ってか彼はフルに持ち前の強引さを発揮した。


「あ。お茶もいいけど、イヴ、まずは着替えてきたら。スカート汚れたままだし」
「スカート・・・・・・!」


つい言葉に詰まってしまった。先刻の、イルミとのあの出来事を脳内で思い出し、またもや頭のなかで混乱がはじまった。
だからそれが一番触れてほしくないトコなのに!

ほら着替えに行くよ、と私の家なのにずんずんと私の手を取り先導を歩き始めるイルミに引きずられる。私の自室に着くと迷いなくクローゼットを開け、彼は服を漁りはじめた。これと、これと、と彼好みの服を一式出す様子を慌てて止める。彼が次に手に掛けた引き出しは私の下着コーナーだ。


「ちょ、レディのクロークをそんな粗雑に!そこ下着だから開けちゃだめ!」
「ついでだから着替えて晩御飯でも食べいこう」
「わ、わかったから!そこ開けちゃだめってば!」
「お嫁さんになるんだからいいでしょ」
「私結婚するなんてまだ言ってないし!!・・・・・・ハッ」


言ってしまってからイルミの雰囲気が威圧的になったのを感じ、制止した彼から離れようと後ずさったが、腕を掴まれ、狭いクロークの壁に押し付けられる。


「イルミ、」
「もう1回言ってみなよ。結婚を、なんだって?」
「腕、痛い」
「早く言ったら」
「その、結婚は・・・・・・・・・・・・まだ早い、かなー、なんて」


イルミの黒い雰囲気にこれ以上拒否を示そうものなら捻り上げられそうな様子に、つい折れてしまった。
まだ早い。そう期間延長を申し述べることでイルミは寸前キレそうなところを軟化し、やや眉を潜めるまでに機嫌回復。


「まだ?」
「そ、そうそう。だってほら、父も納得してないし」
「まあ、そうだけど。じゃあ納得させられたら結婚できるね」
「そ、そりゃあね!な、納得してくれたらね!」


父よできたら一生納得しないでくれ、とめちゃめちゃ願いつつ考え込むイルミの反応を伺う。顎に手を掛け考える彼は、何故父が結婚を許さなかったのか、どうしたら許可をもらえるのか、頭のなかを過っているところだろう。父があそこまで結婚を徹底して許可しなかったのは、まあ、父の立場上ゾルディック家に娘を出すのは世間体が最悪だからか。
『本来、こういうモノではないだろう』
あの言葉の真意はよく汲み取れなかったが、とにかく父の許可のない限りはイルミも強引な手段をとることはそうあるまい。彼は私の言うことはそう聞いてくれないが父には一目置いているところがあるはずだから。


「まあ許してくれなくても結婚はするけどね」


あ、やっぱりそうですよね、イルミ坊っちゃんの言うことは絶対ですもんね。
うちの父の威厳ないじゃん、と最後の砦が破れ去ったのを絶望的な気持ちでいるところに、まあでも、とイルミは付け足した。


「婚約してるし。俺が急がせてるみたいで余裕ないみたいだから、納得してくれるまで待ってもいいかな」
「あ、うん、そう、そうだよね!」
「イヴがへんなこと言い出したときはびっくりしたよ。覚えてないだなんてさ。まあでも思い出してくれたみたいだし、その気になったみたいでよかったよかった」
「あ、あはは・・・・・・」


いや今でも思い出せてはないけど、とは口が裂けても言えん。
どうやらイルミのなかで約束を忘れてしまうというのは大変ありえないことらしい。そして婚約状態は有効継続らしい。

結局は膠着状態のままか、とため息を吐くと、突如イルミは私の腕を握ったまま、するりと私の腰へ手を回しさらに体を寄せてきた。
そして何を思ったか私の洋服を器用にも脱がせ始める。


「あのちょっと、イルミさん」
「なに?」
「なにっていうか、近い!というか何脱がせてんの!?」
「婚約者の着替えしなくちゃいけないからさ」
「いや自分でできるし!」
「なに恥ずかしがってるの。着せあいっこよくやったじゃない」
「昔の話だからそれ!ちょっと、やめやめ!」


本格的に下着まで彼の手が伸びたところで、強く彼の手を叩くと、ひどいな、とイルミはおどけた様子で私を解放した。ひどいのはどっちだ。昔と今では年齢も状況も違う。いまやたとえ幼馴染みのイルミ相手でも身の危険を強く感じてしょうがないんだから勘弁してほしかった。






正直、1日が果てに長く感じられたので自室で篭って休みたい気持ちがあったが、イルミに引きずられるようにスワルダニシティーの繁華街をイヴは歩いていた。カジュアルな礼装に着替え、また彼も同様な洋装。

「あそこでいいよね」

と、彼からの有無のない問いに、うん、とただ頷く。
繁華街を歩む彼をうしろから眺めながら、私はただぼんやり手を引かれるのみだ。彼の長い綺麗な黒髪が時折私の腕に触れる。イルミは、思わず世の女性も残らずうっとりするような美麗な風貌である。共に歩いていると、彼を遠巻きに眺望するいくつかの視線と、金魚の糞のように付随する私を「あれが同伴か」と品定めする視線が交わりあう。
そりゃあもちろんわかっている。彼は優雅にたゆたう上等な錦鯉で私は池の隅に浮いている鯉の餌の残骸みたいなもんだ。これは格差だが人間とはそういうものとわかっている。
これまでの付き合いで、イルミの女性の知り合いは別に私だけということはないことを知っている。いつだかは同業の令嬢や、懇意にしている取引先の女社長、やり手の女スパイだの、やや経歴は暗いもののいずれも妙齢で美しい女性は周囲にいた。別に結婚して子供を、ということならばその女性たちでも良い、というかむしろ願ったりだろう。きっと良い遺伝子で、未来のゾルディック家の繁栄が約束されるというものだ。
でも。それでも、私を指名して迷わないというのは。

ちらりとイルミを見やる私の視線に彼は気づいている。

このひとに、こんなにも強い恋の情愛があるというのか。まったく想像もしたことはなかった。普段なにも悟らせず、彼の読むものといえば暗殺の指令書と世の流れを綴った週刊雑誌、恋のこの字も知っているのか謎だったというのに。
それとも恋とは別の感情なんだろうか。たとえば、彼の弟のように、偏執で固執した固定観念が彼をそうさせているように、私もその執念の延長線上にいる人間なのか。でも私は彼の血縁でなければ利益もさして生まない、ただの隣人、そう、やはり幼馴染みだ。彼の弟とは質も格も血も違う。ブレア家とゾルディック家が結び付いても、得られるものは縁だけで、その先のアウトプットはどうだろうか。それとも私の知らないその先に大きな利があるとしたら、この結婚は。・・・・・・。



向かった先は、行きつけのアーネンエルベだ。昼はカフェテリア、夜はバーを営んでいる。私もイルミも新しいもの好きではない。古いもの、同じもの、いつものものを好む私たちにはこの店は居心地良い外食先のひとつである。クラシックな音楽、古びた格調のある椅子に浅傷のついた光沢のあるテーブル、四季の花が飾られ、陽光が差し込むでも陰鬱でもなく、暖色の燈籠が店内を照らす。マスターはいつもの通りにのんびりとグラスを拭いては時折のオーダーに応え、いつもの味を提供している。私たちの席は角のボックス席、出入り口からはやや死角にあり、人目の多くない隅である。
店に入ると、鈴が鳴った。
マスターは私たちに視線をあてたが、いつもの通りに軽く会釈し、「奥空いていますよ」とだけ言って作業へ戻る。
奥のいつもの席へ座り、さっそくメニューを広げた。


「うーん、今日は軽いものにしとこうかなあ・・・・・・」
「太っちゃったしね」
「そうそう太っちゃったし、ってうるさいわ」
「俺ハイボールにしようかな」
「あ、飲むの?」
「だめなの?」
「いやいや。うっひょーそれなら私もちょっと晩酌にあずかろうかな」
「ほどほどにね。お酒弱いんだから」


酒が弱くて飲まずして人生やっていけるかってんだ。
こんな日は飲むに限るし、考えたって仕方ない、晩酌に付き合ってくれる人がいるんだから飲んどかないと損だ損。
運ばれてきたハイボール2つをかち合わせ、私たちは宵を楽しみはじめた。白い喉を鳴らしながら結露滴るグラスを傾けるイルミに乗じ、私も喉に酒を通した。
イルミ、ハイボール似合うなあ。
綺麗な男を前に飲む酒はやっぱりうまかった。


「おかわり!!マスターもう一杯!」
「もう晩酌もくそもないよね。イヴと飲むといつもこうなるし」
「こうなればやけだ!みんな知らん顔しちゃって!知らん顔しちゃって!!私蚊帳のそと!!」
「そんな勢いよく飲んだらまた服汚すよ」
「知ったことかーい!だいたいみーんななーんで教えてくれないのかなああ!もし知ってたらこうなんないようにするのにいい!!」
「こうなんないようにって何が?」
「・・・・・・あ、まずいきもちわるいかも、うっ、」
「今日はピッチ早いなー」


酔いのやみのなか、発端からこれまでの文句をつらつら述べているとイルミが突っ掛かってきたのでまずいと思いトイレに駆け込むことにした。しかし胃におさめたはずのお酒がシャバの空気を吸いたいとせり上がってきたのは本当なのでこれはまずいとよろけながら歩く。

「しかたないな。ほら介抱してあげるから」

ここ女子トイレですけど、とつっこみできる余裕は今の私にはない。イルミも付いてきてくれ、トイレの個室を占拠すると、優しく背中をさするあたたかい手が上下し、それにあてられるかのように胃の中のものを戻す。
無理して飲むのやめなよ、ととがめつつも手は優しい。いや私だってこんな飲み方いやだよ、でも今日は仕方ないでしょう、幼馴染みが突然婚約者になって結婚せまってくるんだからちょっとやけになってもさ。言い訳は心のなかでつらつら出てくるが口から出てくるのはキャパシティを超えたお酒。
幼馴染みであろうと美人さんなイルミにこんなはしたない姿を見られるのはそりゃ勘弁被りたいが、いまやただありがたいのみだった。

一通りイヴが吐き終わったのを見届け、イルミは「さあ帰るよ」と荷物をまとめ会計を済ませた。マスターは酔いつぶれた彼女を苦笑いで見送った。そりゃそうだ、ゆったりした雰囲気のバーでここまで酔い潰れる客もそういない。

吐ききったがまだ酒が残っているようで、彼女の顔は唇まで真っ白だった。帰路をふらつき歩くイヴをイルミは支えていたが、段差に引っ掛かってついにヒールが脱げ、膝が地面に着きそうになる。イルミはため息をつき、イヴを横抱きにした。
イヴはいつもならば、繁華街の真ん中で抱えられるなんて強く抵抗するはずだが、体を強張らせることもなく全身をイルミに預けている。それは酒のせいか、体調不良のせいか、安心感からか、彼女もよくわからなかった。


「いいよ、イルミ、あるけるよ」
「歩けてないから。俺以外とこんな飲んだら怒るからね。隙だらけだし何されても文句言えないよ」
「私はイルミとちがうし、業者じゃないし、いっぱんじんだし」
「そこらの一般人とは違うでしょ、俺の婚約者なんだから自覚持ってよね」
「うーんむにゃむにゃ」
「こら寝るな」


月の光だけが彼らを見ていた。
美しい宵闇を照らされた道は二人だけの世界で、この世界を壊すものは今はだれもいなかった。二人で一つの影。それだけが今のすべてであった。





ブレア家に着き、門を潜る。どこかで機械音が聞こえる、おそらくイヴを待つセキュリティ装置が彼女を捉えた。
自動で扉が開くと、そこで待っていたのは一人の男だった。跳ねた金髪、青い瞳、腕を組みふんぞり返った様子を示している、イヴに従事する自称下僕、ルードヴィッヒ=デルフェンディア。


「や、ルーイ」
「や、じゃないですよ。困りますぜイルミの旦那、お嬢をこんな遅くまで連れ回して、こんな飲ませるなんて」
「勝手に飲んでたのはイヴだけど」
「そうかもしれやせんけどね、下僕兼目附役兼監視役兼保護者なんですよ俺、こういうときブレア総統から怒られるの俺なんですよ」
「いや知らないし」
「ブレア総統めっちゃ怖いんですよ、あとで旦那からも口添えしといてくださいよぉ」
「いや無理、俺も今日ブレア家の敷居跨ぐなって言われたところだし」
「え、なにがあったんですか今日。何のイベント?」
「さあね。部屋までこいつ連れていくから」


あとはよろしく、と去り際に告げるが、ルーイは彼女の父親から下るであろうその後の怒りの鉄槌を想像し頭をかかえていた。ルーイを無視し、彼女の自室へ向かう。




月夜の照らすベッドの上へ彼女を降ろすと、イヴは思いきり伸びをしてベッドにしがみつき、また眠りを微睡みはじめた。すこしだけ、起きてほしかった。白い頬を撫でるが彼女は眉を歪ませるだけで夢の世界から戻ってはきてくれないようだった。


「んー」
「本当、人の気も知らないで」


白い頬を撫でるが飽きたらないが、明日の仕事が控えている。今日は帰ろう。そう、次来たときは・・・・・・。

イルミは思い出したかのように彼女の左手をとり、その薬指に触れるだけのキスをした。その光景はまるでおとぎばなし、忠誠を誓う騎士の情景を思わせた。


婚約者の寝顔を暫くながめ、イルミはその部屋を後にした。