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「うええぇ」
「ああ〜もうお嬢汚れますぜ、だから節度ある飲み方をしなくちゃいけないとあれほど。相手がイルミの旦那だからってもう俺が怒られるんだから、お父様に。聞いてます?」
「介抱してくれるんならお説教はなしでお願いします……」



目が覚めて朝日を感じた次の瞬間には強烈な頭痛と宿酔感、おはようございます二日酔い。なんとか手を伸ばし恐らく館内のどこかで私の起床を待っているはずの若者へ連絡するためコールを押すと、秒待たずして彼は『ハイハイ、行きますよっと』と応答した。コンコン、とノックの後にひょっこり顔を出したのはルードヴィッヒ=デルフェンディア。彼は私の母方の親類であるが、今は私の従事として側にいる。これにはいろいろあったのだが今は語る辺はない。そんなことよりこの二日酔いをなんとかして欲しかった。


「ルーイ、水……」
「ハイハイ。昨日はイルミの旦那が送ってくれたんですよ、寝てて覚えてないでしょーけど」
「あー、うん、そうだよね……」
「いつも飲んじゃうとそうなんだから。ダメですよ俺が怒られるんだからお父様に。口添えしといてくださいよルーイ君がガッツリ看病してくれたって、ほんと怖いんだからあの人」
「うえー」
「ゲッ、吐くんですか?ゴミ箱ゴミ箱」


慌てて寄せてきたゴミ箱に口をあててもどうしても吐く気にならず、這いずって洗面室トイレまでなんとか向かった。ああ、便器。いまは便器が一番のおともだち。
便器を抱きしめてると後ろでルーイは主人にたいしてドン引きの顔をしていたが気にしない。ちょっとは背中さするなりしなさいよ、私お姉さんやぞ。イルミは昨晩ちゃんと介抱してくれたぞ。

つらつらと説教をたれる若者を背に、私は馬の耳に念仏だった。昨日は、私どうやって帰宅したんだっけ。バーのトイレで吐いたことは覚えてるけど、その後はどうだったかな。タクシーで帰ったのかな。


なんとか歯磨き洗面をすませ、また這いずってベッドまで戻ると、ルーイはいつの間にか薬の用意をしてくれていた。頭痛薬、肝代謝促進剤、胃薬。病人になったような気分だがありがたく私はそれを服用。


「薬飲んどいてですけど、なんか軽いもの作りやしょうか。もうお昼過ぎですし」
「いや、水だけ、」
「軽いものにしときますから、ね?」
「……うん」


うぉっし、と腕を捲り、ルーイは隅の小キッチンにて小鍋を火にかける。イルミにせよルーイにせよ、作ってもらってばっかだな。

「そういやあ、昨日なんかイベントでもあったんですかい?」
「イベント?」
「イルミの旦那が言ってましたよ、ブレア家の敷居を跨ぐなって言われただのなんだの」
「ああ……一大イベントだったわ……」


え、なになに、超気になりますよ〜と、背中越しに浮き足立った声を上げるルーイ。そんなんじゃないぞ、ほんとに一大イベントだったんだぞ色んな意味で。
子慣れた手つきで具材を煮てあっという間に出来上がったのはタマゴのカキン風スープだった。白湯スープから立ち上る湯気と香りが実に胃に優しそうで、二日酔いにはたまらない。
「お待たせしやした〜」とスープ皿をちゃっかり二つ分。自分のために作りたかったんかい。いやありがたいけど。お行儀悪いけど、ベッドの上でそれを受け取り、さっそく1口すする。うん、おいしい。おいしいよ、とお礼を言うと、ルーイはニカッと笑い自分もスプーンを手繰りはじめた。


「そんでそんで、何があったんすか〜きのう〜」
「そんな楽しいことじゃないよ……やけ酒だったんだもん、昨日は」
「えー?お嬢もブレア総統に怒られちゃったんですかい?」


おそらくルーイの頭の中では、私とイルミが父に怒られてうんたらかんたらみたいな展開が広がっていることだろうが、首を振って否定した。



「結婚することになりそう」
「ぶふぉっ!」


ルーイは思い切り吹き出した。気管にも鼻に入ったようで手繰り寄せたティッシュにしばらくむせこむ。昨日は色んなことがあったなあ、これからも色んなことがありそう、と私は遠い目でただスープを口に機械的に運び、ルーイが調子を取り戻すのを待った。


「な、なんですかそれ」
「あー、なんだかね、遠い昔6歳の頃にイルミと結婚の口約束をしたらしくて。私が。覚えてないんだけど。たまたま結婚するしないの話になっちゃって、それが発覚したというか」
「それ、時効でしょ」
「そう思ったんだけどね。でも彼にとっては進行形で絶賛婚約中の認識だったみたいで。うちまで逃げ帰って父と三人で話したら、まあ父は結婚に否定してくれたからその場しのぎで助かったけど」


でも有言実行有無無しのイルミだもん父様がいくら駄目って言ったってそのうち絶対実行に移すに決まってるよおおお!とスープを涙目でかき込むお嬢。そしてむせた。ルードヴィッヒは複雑な心情だった。


「どうしたらいいかしら。次の一手がわからない」
「あー……イルミの旦那からは、逃げられないんじゃねえですかね。俺もそう思いますぜ」
「……だよねぇ」


ふう、とため息を吐いた。癒すのはこのスープだけだった。







『ルードヴィッヒ、お前もそろそろ身の置き場を考えたら』

ルードヴィッヒは昨晩のことを回想していた。
イルミはイヴを部屋まで運び、そして去り際に、ルードヴィッヒへそんな一言を伝えた。あれはこの意味だった。嫌な予感はしていたが、的中していた。これは牽制であり主張、彼女はイルミが本来の意味で彼の予定通り貰うのだと。お前は彼女のそばに付き従う必要はいずれ無くなるだろうとの宣告。

そんなことを知る由もないイヴは、ただ遠い目で俺の作った温かいスープをその唇に染み込ませていた。




「お嬢は、嫌なんですかい、結婚」
「嫌というか考えに無い」


ああ、嬉しかった。
男に求婚されたからと浮き足立つような女ではない。身も心も誰かに寄る辺はないことに心から安堵した。きっと本当だ。結婚をしたいか、したくないか、論点はそれではなく、彼女のルートに無いのだ。だから突如現れたイルミ=ゾルディックとの婚姻に狼狽えている。


「ーー考えに無いならいいじゃないですか、ずっとフリ続ければ」
「でも、……イルミだからさあ」


イルミだから。その一言はやはりそうだと思った。
イルミ=ゾルディックは俺たちの中でも特別な存在であることを示している。彼女が生まれたときから寄り添う少し特別なたった一人。
出来るだけ彼をそばに置いておきたいが、彼とは添い遂げることはできない、しかし彼は少し特別で、傷付けたくないから、緩やかに無い方向で話を進めよう、そしてその先に別の形で彼を傍らに置こうときっと思っている。残酷な仕打ちを平気でやって退けようとしているのだ。



「イルミの旦那は幼馴染みですもんねぇ」
「まあ、なんたって20年だもの、そこらへんの男ならなんにも思わずお断り一辺倒なのに」
「おー、そりゃ恐い」
「ルーイは?」
「何がですかい」
「ルーイは、私のそばにいてくれる?」


それはあまりにも残酷な問いだ。彼女の言葉の裏には、きっと大きな意味が多く詰まっている。ルードヴィッヒは、婚姻を求めてこなかったこれまでのイルミ=ゾルディックのように、無償で、他の女に現を抜かすことなく、従事し、自分と方向性を違えることなく、自分を守るため、しかし付き纏うのではなく、声をかけた時に返答があるその距離に、そのように自分のそばにいるだろう?そう問いかけている。なんて重い。しかしルードヴィッヒの答えは、


「いますよ。お嬢が『もういい』って言うまでね」
「よかった」


その答えに迷いはなかった。それはルードヴィッヒがイヴに救われたあの日から、貴女と共にあると決めていた。愚問であった。


ああお嬢、いたわしい。俺の最愛の人。イヴ=ブレア。
貴女が俺を救ったあの日から蜘蛛の糸の一筋、光の道、そんな貴女がだれかのものになるなんて。貴女には影がいくつかある。俺が貴女の影として側に付き従ったその前より、影はすでにいくつかあった。俺はわかっていた、そのなかでも最も大きな影は貴女に寄り添っていたが貴女は影に気付いていなかった。影を時折切り離しては世界を跳ぶ。影は切り離されてもふたたび寄り添う。その繰り返しを俺はずっと見ていた。
わかっていないんだろうなとは思っていたが、やはりわかっていなかった。恋い焦がれるこちら側の思いなんて。


「ごちそうさまおいしかった」
「ハイハイ、どーも」
「薬も効いてきたし、もう一眠りしよっかなあ」
「お嬢、少し休むくらいなら良いですけど。今日はご予定あるの忘れてませんですかい?」
「あー、なにかあったっけ」
「今日は晩餐会ですぜ、パドキア建国記念日、要人方とのお食事会。ブレア総統も共に出席なさる予定でしたけど」
「それ私行かなきゃ駄目?娘が行ったって仕方ないじゃんね」
「生憎、ブレア総統は他の軍会議が長引いているので行けません。なんで代行です。出席は絶対ですからね」
「えーーっ」
「お父上のメンツがありますよ。そんで俺が同伴なさるように言われてますんで、お嬢安心してくださいな」
「余計不安……」


はあ嫌だなあ、と再三のため息を吐く彼女から空になったスープの食器を受け取ると、彼女はさっそく布団にしがみついて午睡に入ろうとした。

さて、晩餐会での彼女のコーディネートをどうしようか。イブニングドレス。スタイリストを呼ばなければいけないな、と片付けながらもイヴのことを考えるルードヴィッヒの背中をイヴは眠りにつくまで眺めていた。


そうだ、イルミにお礼のメールしなくちゃ。
うとうとする中、酒で酔いつぶれ失態をおかした私を自宅まで送ってくれたであろう彼に。

『おはよう 昨日はごめんね』

返事はすぐ帰ってきた。

『どういたしまして』

それだけの文面。それを確認し、ケータイを閉じた。
イヴはまた夢の中を進むことにした。








「お嬢、」ゆり起こされると時刻は既に夕刻に届きそうだった。ずるずるとベッドから這いずり出るとすっかり二日酔いは治っていた、体調不良を理由に欠席でもしてやろうか、なんて魂胆は通じそうになかった。現にルードヴィッヒは私の顔色を伺い、「良くなったようでなにより」なんて宣った。


「良くなってない」
「さあーお嬢、湯浴みをなさってくださいよ、その後しっかりスタイリングに取りかかりますから」
「寝てたい」
「お気持ちはわかりますぜ。でもブレア総統が出られないんだから。というかお嬢がこれまで仕方なしに総統代行を度々なさるから、お父上もお嬢に甘えてる節があるんだからお嬢もお嬢です」
「総統副官でいいじゃない」
「お父上は部下をさほど信用されていないのは知ってるでしょ、汚職の疑いがあると」
「そんなもん知ったこっちゃない」
「ハイハイいいからさっさとシャワー浴びてくだせえ。俺が総統に怒られるんだからほんとお願いします」


クソ、怒られればいいんだ眠りを邪魔する輩なぞ。
とは心の中で毒づくがパドキア共和国建国記念祝賀会に、建国を導いた一人である総統も、総統代行もいないんじゃ国の顔に泥を塗るというものだ。というかいくら部下が信用ならないからと普通娘に行かせるか。そんで代行に娘を行かせるからよろしく、はいそうですかと難色を示さない席次管理もどうなってるんだ。こういうところが汚職の榛なんじゃないか。

文句をたれつつシャワーを済ませると、既に化粧道具やら櫛やらを構え手を揉むスタイリストがスタンバっていた。横にはにっこにこのルーイ。ジリジリとにじり寄るスタイリストから後ずさるが後ろはついに壁に追いやられる。


「さあ、この御仁をやっちまってください」


やるって何をだ、殺るってことか?







式典に相応しい上質なドレスを着せられ、文字通り頭の先から爪の先まですべてを整えさせられた。おまけに産毛やらも剃られ爪の甘皮も剥かれ、綺麗になったはずなのに何かを失った気分さえした。

「ああ、この楽しみがあるから俺は毎度無理にでも貴女を代行へお連れするのかも」
「日頃のお返しにいじめて楽しいってことね……」


いつのまにかこれまた上等な燕尾服に服装を変えたルーイは首を振った。


「お綺麗になった貴女が、俺が構ったからと思うとね」
「普段汚くて悪かったな」
「いや普段もお綺麗ですけど今日はもっとお綺麗ってことですぜ」
「豚に真珠って言うのよねこういうの」
「そんなこと言って。まったくへそ曲がりなんだから」


ルーイは呆れ顔で私をつついた。

ブレア総統から預かった招待客リストと式辞です、ルーイは厚めの資料を寄越し、私はそれにパラパラと目を通した。

招待客も主席者もこれまでと大きく変わりないようだ。人物リスト、招待状、目録、式辞、会場図面……。まあまあ分厚い。これ覚えていけってか。あるならはやく出して欲しかった。



来たる時刻を夕闇に呑まれる街。ふん、と鼻を鳴らし、リストをながめながら、その時刻をしばらく待った。