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ああ、もう嫌だ。
そんな私の気持ちを他所にイルミは私の手を引いてずんずんと何においても高級なお店が乱立するギンザまで来てしまった。これ、リアルで買う流れなんじゃないの?というかいつしか情報雑誌で見たが、婚約指輪をもらうイコール婚姻の成立だと書いてあった気がする。そもそも結婚に指輪を用いるようになったのは諸説あるが古代エジプト時代まで遡る、円というのは永遠の象徴として象形文字に用いられつまり永遠の愛を証明したのだという。つまり、何千年も前の古い慣習が今に至る現代まで受け継がれ、今ここに結婚が嫌で仕方ない不幸な女を縛りつけようと時を超えているという訳だ。


「イヴ、ここなんてどう?」
「え、うん……いいんじゃない」


ジュエリー店の前で立ち止まり私に一応伺いを立ててくれるイルミ。それにやる気なくテキトーに返す私。「じゃあここにしよう」と店に入る。


「いらっしゃいませ、お客様、本日はどのような御用向きで?」
「婚約指輪欲しいんだけど」
「まあ、おめでとうございます!素敵なカップルさんですね、当店をお選び頂きありがとうございます、こちらへどうぞ」


あ、そう、カップルに見えるのか。付き合ってもないのに。
愛想の上手な店員に連れられて奥に通される。その時チラと目にした婚約指輪でもない適当な指輪のお値段を見てしまった。金1,200,000ジェニー也。あれ、もしかしてこのお店すごくお値段設定高いところじゃない!?焦ってイルミの袖を引いた。


「げ、い、イルミ。ちょっと高すぎない」
「そう?むしろもう少し高いところがいいと思ったけど」


良いものつけてもらいたいし、とイルミは付け足した。そうだった、イルミはお坊ちゃんだった……しかも稼いでおられるしお家は山一個だから指輪なんてお安い買い物なのかも。

でも、一般的には、ものすごく高い。店員はカタログを手に次々とサンプルの指輪を持ち寄るがそのすべてがウン百万台がベース。私も貴族と言えど落ちぶれのそれであり感覚は完全に一般人だから、雑誌で見たような指輪のお値段の3-4倍の価格設定にビビってしまった。

これなんてどう、あれなんてどう、と色々と指輪の説明を受けるが頭痛がして軽いパニックになりそうだ。イルミは私が指輪を選ぶんだし、と思っているのかさほど説明は聞いちゃいない。もうこの場は店員の仕切りの土壇場だった。


「それで。どう?」
「どう、と言われましても……」


婚約も結婚もいやなので指輪いりません、とは絶対に言えない雰囲気だ。店員も一通り説明を終えてあとは彼女さんどれになさいますか、と返事を待っている。

正直、どの指輪もハイソでとっても素敵だが、今の私には輝かしくは見えなかった。それでも選ばなくちゃいけないのか。適当にどれかに目を瞑りながら指差して選べばハイこれで決定、とイルミはお金を払うだろう。そしてその指輪は私の薬指に嵌ることになる。でもそれには、高すぎるし、重すぎる。やっぱり、正直に言おう、指輪はいらないと。


「イルミ。やっぱり指輪は、」
「指輪は、何」
「あ、その、指輪は……」
「何」
「指輪…………を選ぶ前に、ちょっと、お手洗、行ってきたいかな〜」


お前まさか指輪いらねえって言うんじゃねえだろうな、とイルミの威圧を感じやっぱりどうしても要りませんとは口が裂けても言えなかった。とりあえずトイレに逃げた。


「はあ、……どうしよう」


鏡を見て、私の顔はどうなっているだろうか、とみつめた。彼の黒髪の美しさに憧れ、私もこの少々痛みのある茶髪をここまで伸ばした。母譲りの色素の薄い茶色の瞳。別に私の顔は可愛いだとか綺麗だとかはない。この一時間でちょっと隈ができた気さえする。ストレスで。イルミは私と本当に婚約なり結婚なり、永遠を過ごしたいと思っているのか。戦えないし念もできない、こんな平凡な女だ。約束とやらに縛られているのは彼だ。それはキルアへの寵愛を見ていればわかる、彼はそうだと思ったらずっとずっとそうならなければ、みたいな意外と固執に囚われるタイプだから。粘着テープみたいなタイプだから。

どうやってこの場を切り抜けようか、婚約指輪を強いられていると父に連絡して泣きつくか、と考え込んだところ。

その時、トイレの突き当たりの壁に窓があるのに気づいた。よじ登って行けば人一人通れなくもないし、幸いにもこの店舗は一階。


そうよ、逃げちゃえ。と頭の中で悪魔が囁いた。


「よっと、」


埃っぽくて汚いが窓の冊子に手を掛けてよじ登り、窓に体を突っ込んだ。うんいける。早く逃げなければいい加減遅いと気付かれてしまう。イルミの後の逆鱗が恐ろしかったが、今は私にはこれしかない。逃げて、この場を凌ぐ。


「あわわわ、」


思った以上に、窓と裏路地の地面まで高さがあり飛び降りるのに躊躇の気持ちが生まれた時、そこに見慣れた顔を見つけた。七三分けで、眼鏡をかけ、端正な顔なのに几帳面そうな鋭い目付きがたまに傷の男性。


「カミーユ!どうして、」
「しっ。お嬢様、こちらへ手をどうぞ、足を滑らせないように」


そこにはカミーユ=ハンバートがいた。ルードヴィッヒと同じ従事であり駐在武官であり執事であり、私の小さな頃から仕えてくれている。医者でもあり私の専任医師を務めている彼は、ここしばらく他国に派遣任務に向かっていたはずだった。

私の彼に手を伸ばし飛び降りると、しっかりと受け止めてくれた。そのまま子供の頃からの癖から彼の首に手を回して抱きついた。私はこのカミーユ=ハンバートに絶大な信頼を置いている、なにせ子供の頃から私を面倒見てくれた兄のような存在だからだ。


「カミーユ、いつ戻ったの?どうしてここが?」
「ルードヴィッヒの馬鹿から話を聞きました。任務を放棄し駆けつけ先程パドキアに帰国し、場所は発信機……コホン、神の導きです」
「えっ、任務、大丈夫なの?」
「貴女が気にされるような事はありません、さあ、奴に見つかる前に行きましょう」
「どこへ?」
「木は森に隠せと言いますから。それに、お腹がすいたでしょう」


確かに、お腹が減っていることに意識して初めて気がついた。私をよくわかっている。カミーユはそのままアーネンエルベへと私を連れていった。まあ自宅に帰っても鬼のイルミがまた来そうだし、人混みに紛れるのが今は一番的策かもしれない。

アーネンエルベはぎりぎりランチタイムで、私たちはいつもの奥の席に座った。ふう、と一息ついたところで、ピローンと鳴ったケータイに気づく。見ると、やはりイルミからで、何度もメールと着信があったことを表示していた。この後が怖くてブルっと震えた私を見てか、カミーユが手を差し出してきた。ケータイに。


「お貸しください」
「へ?うん……」
「よいしょっと」


私はケータイを渡す。そのまま流れのようにカミーユは板チョコか何かを割るように、私のケータイを折った。つまりぶっ壊した。


「ええええっ、ちょ、ケータイ!」
「イルミ=ゾルディックには、このカミーユが貴女を急遽攫った、そしてこのように連絡手段を絶ったと言っておきましょう。それならば貴女にキツく当たることは今後ないですから。ケータイのデータは別にバックアップしてあるので後で新しいものをお渡ししますね」
「それは……、」


そう上手く言ってくれるなら、助かるけども。きっと私の意思で逃げようとしたと知ったらイルミは私を責めるから。でもそしたらイルミはカミーユに怒るんじゃないの?


「私が奴を好かないのは、奴も理解しているでしょうから。まあ、私を殺すようなことは奴もしませんよ、その時はお嬢様がイルミ=ゾルディックを許さないでしょう?」
「まあ、そうだけども」
「あんなでも貴女に嫌われたくないんですよ、奴は。その行動が裏目に出ているとは思っていないでしょうが」


私に嫌われたくない……そうなのか?嘘だろうそれは。嫌われたくてやってるようなものにさえ思えてきてるのに、こっちは。

カミーユは、さあ何か召し上がってください、とメニューを向けた。ランチタイムのセットがお得でバリューだ。しかしそれほど何かを胃に詰め込むような元気はなく、軽食のフルーツサンドと、ペールエールを頼んだ。


「お嬢様、アルコールを?」
「へ?うん、なんか、飲みたいような……だめ?」
「……いいえ。しかし、少量に抑えてくださいね」


カミーユは剣呑な表情を隠さなかった。確かに、飲んじゃまずいかな。こんな昼間からはしたないか。やっぱりやめようと思ったが、カミーユがマスターを呼びさっさと注文をしてしまった。カミーユはコーヒーを注文した。
そして私は本題に入る事にした。


「ねえ、カミーユは知ってた?結婚の約束うんたらかんたらのこと」
「……存じておりました。申し訳ありません」
「あ、カミーユが謝ることじゃないの。教えてくれたら、そりゃ嬉しかったけど」
「子供同士の約束だからと、さして重要に思っていませんでした。おそらくブレア総統も。しかしイルミ=ゾルディックがこんなにもお嬢様へ執心しているとは」
「それは私もわかってなかった、かもしれない」


でもよくよく考えてみれば。縁故があるからと思っていたが、ゾルディック家に、彼の部屋に出入りできていたのは、幼馴染みだからとかそういうものではなく。家族以外の仲間を作らず、友達もいない、誰とも馴れ合わないイルミが、私を許していたのは、そういうことだったと。愛とか恋とか情に極めて近く、執心とも言える感情を私に向けていた。気づくことが出来なかった、あまりにも彼が近くに在りすぎて。

「お嬢様、」

カミーユが口を開いた時、マスターがいつもの笑顔でフルーツサンドとペールエール、そしてコーヒーを運んできた。私はアルコールに手を伸ばしたが、カミーユはコーヒーに手を付けなかった。


「……しかし、その時の約束を貴女は忘れていたのですか?」
「ん。そうなんだよね、そんなエピソード忘れようも無さそうなものだけど、そこだけぽっかり記憶にないの。三回忌のことはなんとなく覚えているけど」


ゴトーは多感な時期だったから忘れたんじゃないかって言ってたなあ、そういえば。でも、子供の頃と言えど、特別またはそれに準ずる思い出ってなんとなくでも頭の片隅に残っているものじゃないか?例えば、友人と宝を埋めた場所とか、悪口を言われたとか、こんなところに怪我をしたとか。言われて記憶を呼び覚ますこともあるだろうけど、それでもまったく覚えてないって変な話だ。


「お嬢様。因みに、アルコールは最近よく口にされますか?」


え、アルコール?なんでここで?と思ったが、確かに最近飲酒が多いと思ったため、ペールエールを口に付けながらこっくりと頷いた。カミーユは「そうですか」とようやくコーヒーを手にした、それでアルコールの話題は終わりのようだった。


「でも、なんだか、イルミをうまく突っぱねられないよ。イルミも私もいいお年頃だから、そういう相手を見つけようとするのは当たり前だし。なんなら普通にこのまま結婚しちゃった方が私の人生は正解なんだから、した方がいいのかなあ」
「なりません。男女が寄り添うには愛と情があってこそ成り立つものです。そんな気持ちが奴に無いのならば、せめて奴じゃなくて、どうか、…………」
「え?」


カミーユはそれ以上は口を噤み、下を向いた。彼の生真面目な七三分けが崩れ、少しの白髪が目立つ。眼鏡の光沢がその瞳の感情を隠したが、カミーユは咳払いをして居直り、眼鏡を掛け直した。


「どうか、一生独りで過ごしてください」


いやそれもちょっと女として寂しすぎるからどうかと思うけど!
カミーユの極端すぎる意見にペールエールが口からこぼれそうになったがなんとか堪えた。でも、ある意味ではそれも正解なのかもしれないと思った。恋愛はなくとも気の置けない仲のイルミで満足できないならば、他に誰で満足できる?



「カミーユは結婚は?カミーユもいい歳だけど」
「今年で三十七歳ですね」
「そうは見えないくらい若いしかっこいいなあ、大学生くらいにも見える」
「大学生ですか、言い得て妙ですね。私は十八の時に貴女に出会ってから時が止まっていますから」
「なにそれ、へんなの」


真実そうであるのに、とカミーユは思った。
イヴは昔と変わらない笑顔で無邪気に笑った。私が十八歳、貴女が五歳。はじめは研究対象だった。しかしいつからか貴女に取り憑かれ、私は時が止まった。あの頃から私は何一つ変わってはいない。貴女はどんどん美しく賢く成長していっているというのに。ずっとずっと、私の一方通行の恋のままであるのも変わらないのだろう。誰も愛していないのなら、どうか独りでいてくれ。それならば私は傍にいることが出来る。そしていつか私を一瞥でもいい、見てくれ。それだけで報われる。


「私には貴女がいますから」
「ええっ、なにそれ私のせいなの?」
「まあ、そうかもしれませんね」


カミーユは冗談めかしく笑った。私はその笑顔の陰りをその時はわかっていなかった。

結局、またもやアーネンエルベで夕までカミーユに酒飲みに付き合ってもらうこととなった。さすがに泥酔するまではいかなかったが、この一週間の出来事を酔いつぶれながら愚痴った。カミーユは面白おかしく笑って聞いてくれ、そして私が眠気を感じた頃合になり自宅へ送ってくれた。

任務の報告書を作らなければならないから、とベッドに私を寝かしつけてカミーユは去っていった。仕事が残ってたのに付き合わせて申し訳ないことをしたと謝ると、カミーユは「楽しかったですよ」と私を赦した。去るその後ろ姿を眺めて、私はそのまま眠りに入った。









BARでは一人の男がウォッカを嗜んでいた。端正な顔立ちの男だ。腰まである白いアッシュブロンドの髪、白く限りなく薄い色素の瞳、白い肌、白い睫毛。何もかもを白に捕らわれたような特徴的な風貌。白い男だ。

酔っ払った女から艶めかしく声をかけられるも、見向きさえせず無言で手を振り払う。この白い男が唯一興味を示すのは、ただ一人、彼女だけだった。



「待たせたか」


その男に声を掛けたのはカミーユ=ハンバートであった。白い男は彼に振り返り、少し不貞腐れたような態度を示す。


「ずるいな、君ばかり。僕も彼女と盃を交わしたいのに」
「アルコールの量が増えている」
「そうだろうね。夜会の時もそうだった。アーネンエルベでも」


カミーユは隣席に座り、彼とは違う日本酒を頼んだ。


「イルミ=ゾルディックが彼女に強く影響しているかもしれない」
「へえ、どうして」
「奴と共有した筈の過去の記憶に欠落があるようだ」
「なるほどね。彼に関わることが深層の彼女の弱点なのかな。くやしいなあ、僕も彼女が好きなのに」
「……悠長な。このまま放っておくつもりか」
「随分な言い草じゃないか。ならば君は何の為に裏切りながらも彼女の傍にいる?カミーユ=ハンバート」



カミーユは苛立ちを隠せなかったが、口を噤んだ。それでもこの白い男に頼らざるを得ない。この男もまた、彼女と同じだからだ。

バーテンダーがなみなみ注がれた日本酒を持ち寄り、卓の上に二つの盃が揃ったところで、白い男は薄く微笑を浮かべた。


「冗談さ。僕も彼女を救いたい気持ちは一緒だよ。さあ、話し合おうか、カミーユ=ハンバート」
「白々しい男だ」


儀礼的に、二人は盃を掲げた。


増えるアルコールの量。その高度な知能。研究対象であったイヴ=ブレアの頭脳の秘密。彼女の瞳の奥の奥ーー、そこにいる彼女。
早くしなければ、イヴが死ぬ日は近付いている。