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『お嬢様は私が攫った 連絡手段は絶った 指をくわえて帰れ』

まるで人攫いの脅迫文のようなカミーユ=ハンバートからのメールに青筋を浮かべてイルミは店を後にした。店員はトイレに消えていった彼女に狼狽えていたが知ったこっちゃないイルミは何度もメールや電話を彼女にしたがそれもいずれ届かなくなった。

きっとイヴの自宅に行ってもいないだろう。ああ、周りに邪魔する奴が多すぎる。もうバレないように殺してしまおうかと一案が過ぎったが、それはイヴが悲しむだろうから出来ないもどかしさにただ苛立ちが募るばかりであった。

ピリリリ、と電話が鳴った。まさかイヴかと思案したがそれは裏切られ、相手は実父のシルバ=ゾルディックを示していた。


『イルミか』
「何か用」
『あ?お前、何を苛ついてるんだ』


イルミの声色は普段のそれと変わらないように思えたが、実父のシルバにはその濃淡が分かったようだった。


「別にイラついてないけど」
『イヴだろう』


そしてその原因を言い当てた。


『またイヴにフラれたのか?』
「そんな訳ないでしょ。婚約指輪を選びに来たら隙を見て攫われたんだよ、イヴの下僕に」
『お前、本当に結婚するつもりか、あの娘と』
「そうだけど。なんか駄目?」
『いや、……運命とはわからないものだと思ってな』


電話の先で感慨深いような溜め息を吐いたシルバに、歳をとるとよくわからないことを言うようになるのかとイルミは思った。


「ていうか、用件はなに」
『依頼だ。お前、スワルダニシティの近くにいるんだろう。資料を添付するから殺ってきてくれ。簡単な仕事だ』
「父さん、俺も暇じゃないんだけど」
『暇だろう、イヴに逃げられたんだから』
「逃げられてないし」
『さて、どうかな。イヴは昔から鈍かったからな』
「何が言いたいわけ?」
『はは、そう怒るな』


イヴのことになると抑えのきかない長男がおかしくてシルバは笑った。イルミは更に苛立ちを煽られて「もう切るから」と通話終了しようとすると、シルバは引き止めた。


『ああ、待て待て。婚約指輪と言ったな。お前、それは買うな』
「は?何で」
『良いものがある。後で渡す』
「何それ、」
『じゃあ依頼頼んだぞ』


ブツッ、と切れた電話。人の話を聞かずに自分の要件だけ伝えて終わるその癖。父親からの電話なんか出なきゃ良かった、仕事と苛立ちが増えただけだったと、イルミは無表情の中で憤慨するのであった。

そして依頼を終え、ゾルディック家本山へと向かった。








(羨ましい、本当に)


また夢の中だ。まるでブラックボックス。形を持たない暗闇の箱の中。誰かが私の耳元でささやいた。攻撃的な声だ。私の声に似ているが、しかし別人だった。声は反響してささやきにも遠くからにも聞こえた。


(イヴ。いいご身分、お姫様みたい)

何だ、何がいいご身分だ。姫だと?

(本当は、私だったかもしれないのに)

私だったかもしれない?何のことだ。

(彼を好きじゃないのなら)

違う、好きじゃないんじゃない。

(早く替わって)


夢にしては、なんて干渉してくるんだ。小煩い。頭が痛い。背中が何かにのしかかられて、乗っ取られるような重さが気を遠くさせようとしていた。黒い靄がブラックボックスを嵐のように荒らす。

ーーーイヴ。

その声に、嵐は突如怯えるように止んだ。ブラックボックスの外側から、その男性の声は染みるように響いた。ああ、彼の声だ。私を呼び起こそうとしている。なぜだか、助かったと感じた。私は彼の声にそのまま手を伸ばし、ブラックボックスから這い出た。








目を覚ますと、猫目が目の前にあった。

「…………………………。」

気のせいだ。もう一度目を閉じた。


「起きないと、襲うよイヴ」
「いや〜よく寝たなあ〜!おはようイルミ!」
「おはよう。本当、よく寝てたよね、昨日俺を置いてけぼりにしておいて、連絡一切せずに、自分は酒飲んで、すやすやと、よく熟睡してたみたいで、よく眠れたみたいで、ほんと、よかったよ」
「……も、申し訳ごさいません……」


言い返す言葉もなかった。まさか、私の意思で逃げた事はバレてないよな、とイルミを伺いつつ土下座せんばかりの勢いで謝ると、意外にもイルミはふんと鼻を鳴らしてそれだけで隅の小さいキッチンへと向かった。カミーユは私を庇ってくれたみたいだ。イルミは背中を向けながら話を続けた。


「ケータイは?」
「え?あ、カミーユがぽっきりと。壊しちゃって」
「まあそんなとこだろうと思ったけど。あのさー、下僕の教育はちゃんとしなよ。ウチの執事見習えば」
「…………もっと怒んないの?」
「怒って欲しいの?」
「いやいやいやいやとんでもございません」


イルミはカミーユのせいだと思い込んでいるけど、店に置いてけぼりにしたことをもっとネチネチと怒ってくるかと思ったがそれ以上言うつもりはなさそうだった。なんだか心外だな、とその背中を見つめて思った。


「イルミ、何してるの?」
「見てわかんない?」
「……お紅茶つくってくれてる?」
「そ。なんだかイヴうなされてたから」


うなされてたのか、私。確かに嫌な夢だった。あの声は本当にイルミのものだったということか。私は洗面室へ行き、顔を洗って歯磨きを済ませた。確かに、顔色はバッチシ良好ということはなく、やや不良のように見えた。少々別人のようにも。そんな自分の顔にやや不快感を覚え、唇に薄づきのリップクリームを塗るとまだマシになったような感じがした。

ソファに向かうと同時にイルミがその作業を終えようとしていた。小鍋にミルクをあたため、沸騰する前に紅茶の葉を入れ、少しの砂糖とはちみつ。いい匂い。私の大好きなイルミの紅茶だ。私、ひどいことをしたかもしれない、婚約も結婚も嫌だからと逃げ出してしまって、今でもイルミを騙しているんだ。そう思うと潜んでいた罪悪感が押し寄せるようだった。


「はい。熱いから今度は落とすなよ」
「ありがとう」


マグカップに注がれた紅茶を受け取り、さっそくハフハフして一口飲んだ。溶けるようなほのかな甘さが私の舌を喜ばせた。なんておいしい。イルミも同じくソファの私の隣へ腰掛け、私の表情をじっと伺っているようだった。「イルミ、本当に紅茶入れる天才だね」と褒めると「ほかにももっと才能あるけど」と不遜な表情を彼は見せた。


「え、例えばなに?」
「殺しとか戦闘とか。俺結構強いけど」
「……さいですか。もっと平和な才能にしなよ」
「平和な才能って何」
「そう言われても全然思い付かない、難しいこと言わないでよ」
「そっちから振っといてなにそれ」
「でも、このお紅茶だけは、本当にイルミだけだよ」


イヴはそう言うとまた一口紅茶を飲んだ。朝日が彼女の茶髪を透き通らせる。俺の作った紅茶で癒されるその穏やかな姿に、なぜだか心臓が締まるような感覚を覚えた。


「……煽てても駄目だから」
「え〜そんなつもりないのに」


目を細めて笑う彼女が、この時間が、永遠にあればいいと。


「そうだ。壊れたケータイの換えは?」
「あーまだもらってない。まあ昨日の今日だし」
「はい。じゃあこれ持ってて」


イルミが渡してきたのは六芒星の刻まれた小さなゾルディック家専用通信機だった。……これが鳴る時は暗殺完了の合図じゃなかったか。


「えーと、これ、は?」
「通信機。てゆーか俺専用の電話。言っとくけどアイツらには内緒だから」
「どして?ケータイじゃだめなの?」
「ケータイは下僕のアイツらが壊すみたいだし」


主人の通信機壊すってどうなの、とイルミは付け足した。たしかにその正論にはぐうの音も出なかった。


「それにいつでも俺を呼べるだろ」


なるほど、つまりこれは、私とイルミだけの電話線てやつか。そう思うと、なんだか紙コップでタコ糸を結んで真夜中にお喋りし合うような、そんなムズ痒いような甘い感覚がした。


「あれ?そういえばルーイやカミーユは?」
「さあ。今はいないんじゃない」
「じゃあどうやってうちに入ったの?」
「ミルキにセキュリティ解除ソフト作らせてたから自由に行き来できるけど」


緩いなウチのホームセキュリティ!
まあミルキに金に物言わせて作らせたらそんなこと簡単なのかもしれないけど、ちょっとブレアさん家としてはアカンやつじゃないかと思う。


「どこ行ったんだろ、うちのかわいいしもべ妖精たち」
「何、しもべ妖精って気持ち悪い。三十過ぎたオッサンと生意気な大学生みたいなもんでしょ」


確かにカミーユも三十過ぎてるしルーイも大学生みたいな年齢なのは事実だけどね?イルミは一言多く悪口を添えた。本当、好きじゃないんだなあ、私ん家の従事を。私はゴトーとか、ツボネとか、ゾルディック家の執事たちはみんな大好きだけど。親切にしてくれるし。……いやそう思うとうちの従事は別にイルミにご親切にしてる訳では無いからイルミが煙たがるのはそりゃ道理かも。


「ルーイにもカミーユにも、もっとイルミへ優しくするように言っておかなくちゃ」
「どういう考えでその結論になったのか知らないけど、別にいらないから。やめてくれる。それはそれでまた気持ち悪いし」
「えー皆仲良しになれたらと思ったのに」
「敵じゃないけど馴れ合いたくはない」
「え、じゃあ、私は?」


その私の余計な一言が、彼に妙な火をつけたようだった。


「それ、聞くの?」


イルミは、この期に及んでまだわかってないのか、とその感情の起伏の乏しい瞳の奥に陽炎のような滾りをチラつかせた。それは苛立ちでもあり憎愛のようにも見えた。
そしてソファがギシ、と音を立てる。イルミは私との距離を詰め寄る。


「な、なんでも、ない」
「教えてあげようか。俺がどんな思いでいるか」
「いや、だいじょぶ、いい、」
「聞きなよ。イヴ。聞け」


拒否をすることは許さないと。有無を言わさない彼の命令に、凄みに、私は声が出ず押し黙る以外に選択はなかった。
いつの間にかソファの端まで追い詰められ、腕掛けに突き当たった。イルミは私に伸し掛り、逃げられないように腕掛けに手を置き私を閉じ込める。あ、これ壁ドンってやつだ、とパニックであるのに妙に冷静な自分がいることに嫌になった。

イルミの長い黒髪が私の鎖骨に触れる。それがムズ痒くてどうにかしたくなったが、手元の紅茶が零れてしまいそうで我慢した。目と鼻の先にある彼の綺麗な顔が、唇が、艶めかしく見えてしまう。心臓が叩くように鳴っているのを知られたくなくてこらえるために息を殺すのに必死だった。



「操り人形でもいい、喋らなくなっていい、動かなくなっても、何だっていい。顔が爛れても、肥満になっても、残酷な性格になってもいいさ。それでも俺はお前が傍にいるならその慰めを見出す。例えイヴの何もかもが醜くなったとしてもセックスしたいし、俺の子供を孕めばいい。俺は、世界でイヴ=ブレアだけを対象としたこの感情が、恋とか愛だと思ってるけど?」
「そんな、」


歪みすぎじゃないか。イルミさん、それは、恋とか愛なのか?


「いい加減にしなよ、わからない振りをして俺から逃げるのは。それは絶対に無いから。たとえイヴが俺を嫌で嫌で仕方無くなって逃げて隠れて消えようとしても、それは絶対無いから。どんな手段を使っても探し出して連れ戻して縛り付けてでも俺の隣にいてもらう、だから、それは絶対に無いから。俺が絶対に無理だから」


そんなの、私の意志を完全に無視してないか。


「だから、大人しく傍にいたら、イヴ」


それが彼の結論だ。選択肢を与えているようでそうではない、私の気持ちや意見を必要としていない、自分の我を通したほぼ命令みたいなものだ。しかし、それは、彼の愛の告白も同然だった。

私は声をしぼりだすように、返事をすることにした。



「…………イルミの、きもちは、わかったけど」
「うん」
「でも、正直言うとね、いきなり、婚約状態っていうのも、ちょっと、着いていけないっていうか」
「この際結婚の約束なんかどうでもいいよ」
「え、いいの?」


マジでかやったぜ、と一瞬浮上した私のテンションをまたもや突き落とすのはやっぱり彼だった。


「それなら、これからすればいいから」


……と、言いますと?


「よいしょ、」と私の上から退いたイルミは、私を引き起こしてから紅茶を取り上げ机に置き、どうしてか床に跪いた。まるでそれは昔映画で見たような、結婚を申し込むため女に傅く一人の男のようで。

ソファに座りぽかーんと呆けて彼を眺めていると、イルミはポケットから子箱を取り出す。手の平よりずっとずっと小さな紅い子箱は、昨日ジュエリー店で吟味したあれが入っているような、まさにそれであるようで。



「イヴ=ブレア。俺と婚約を前提に付き合って」



ひらいた紅い子箱のなかには、蒼い石の煌めく指輪。
白金のリングに微細な百合の刻印が施され、一際輝く蒼いダイヤモンドが、その美しさを完全なものにしていた。なぜだか私は、昨日のジュエリー店ではあれだけ興味が無かったのに、どうしてかこの指輪だけは惹き付けられるものを感じた。そう、この蒼の色は、写真でしか見たことの無い母の瞳の色そのものだと直感した。

ーーそしてどうしてか、一時だけ、刺すような頭痛がした。しかし私は頭痛どころではない。彼に対応するので必死で、超人的な集中力でそれを無視した。



「こ、婚約前提のお付き合い?」
「はい、右手出して」
「いやなんで」


イルミは話も聞かずそのまま私の右手に指輪を嵌めた。そして指輪は私の指に馴染むようにぴったりであった。


「も、貰えないよ、こんなの」
「貰うというか、返すよ。イヴと、ブレア家に」
「どういう意味?」
「これ、イヴの母親の遺品」


ハッとして、指輪を見つめた。一度指輪を外して裏の刻印を見ると、そこには『百合と永遠に』と刻まれていた。百合は母の旧家の徽章に用いられている。確かに、母・ユリの生前の持ち物のようであった。


「まさか、どうして」
「親父がずっと預かってた。いつか時が来たらイヴに渡す、というか返すように、ユリさんに言われてたんだって」
「シルバパパが?でもこんな指輪の話、父からも聞いたことなかった、知らなかったし……」
「……まあ、昔、色々あったんだってさ」
「いろいろ?」
「その話は後に聞けばいいよ、当人たちから」


当人たち、って誰?シルバさんが、母と何があった?
疑問の尽きないだろうイヴを尻目にイルミは話を続けた。



「で。返すもので悪いんだけど、俺はその指輪をイヴに渡すから、婚約を前提に付き合ってもらいたい。はい返事は?」
「お、お付き合いって、またなんで」
「婚約でもいいけど。でも俺は親父の二の舞は嫌だから、まあ、まずはそこからで我慢することにした」
「シルバさんの二の舞?」
「胡座をかいてると盗られるかもしれない」
「とられる?」
「イヴ、なんだかんだモテるみたいだし」


いや、モテたことはこの人生この瞬間を除いては一度もないけど!



「イヴに満足してもらえるようなもので、あげられるものはこの指輪と、紅茶くらい。それじゃだめ?」


だめ、じゃない。


「ぶっちゃけ、俺みたいに金持ちで格好良くて優しい男なんて、他にいないと思うけど。それだけじゃ不満?」


不満、でもない。というか自分で言うな。


「付き合って嫌なら別れたいって言えばいい。世間的にそういうのキープ君っていうの?まあそれでもいいよ。まあ二股なり浮気なりしたら、俺以外の嫁にはなれないような身体にしてやるからそれだけ覚悟しておいてもらえれば、こっちも願ったり叶ったりだから」


ええええっ、イルミからキープ君とかいう単語が出てくるとは思わなかったっていうか私が浮ついたらイルミ以外の嫁にはなれん身体にされんのか、それどういうことだ!



「だから、受け取ってくれるでしょ。指輪」
「ーーはい……」


この指輪を、母の遺品を、シルバさんからの預かり物を、イルミの気持ちを。受け取らないなんて、そんなことは出来なかった。

イルミは私の手から指輪をとり、もう一度、右手の薬指に嵌めた。まずは恋人から。そういうことだ。その右手で窓の外の青い大空を扇ぐと、一際その蒼い石が輝いた気がした。

まだあなたの気持ちにしっかりとは答えられないけど、努力するから。普段傍若無人のくせに、それでもこれだけは待ってくれるというあなたの意志を尊いものとして、私もあなたを追いかけてみるから。


「きれい。ありがとう、イルミ」


そう呟くと、イルミは「どういたしまして」と、私の右手を取り、指輪輝く薬指にキスをした。頭痛は鳴りを潜めていた。