03

 本の栞をせらに貰ったものに替え、今まで使っていたものは買った時についてきた紙製の物だったのでそのまま捨てる。よく晴れた空が綺麗で掃き出し窓を開けると、春過ぎのぽかぽかと心地の良い暖かさを感じる。少し開けたままにしながら本を読もうとした時だった。

「ただいまーー!!」
「おかえり津美紀!おてて洗っておいで〜」
「お母さんただいま!うん!」

 ガチャリと鍵の開いた音がして振り返ると、津美紀が丁度帰ってきたようだ。時計を見ると四時過ぎ。そこへきちんと手洗いうがいを済ませ、ピカピカの濃色の赤色をしたランドセルを大事そうに抱えて部屋へ置き、リビングへ戻ってきた津美紀が小走りで寄ってくる。

「お母さん!今日ね!クラスのさきちゃんっていう子とあいちゃんっていう子とね、たくさんおはなしたの!このかみゴムもほめてもらえたの!それでね、いっかいおうちかえったらあの桜の木があるこうえんいっしょあそぼうってなったんだけど、行ってもいい……?」
「わぁ、お友だちができたのね!褒めて貰えて良かったね!行っておいで!じゃあ公園にある時計の短い針が5と6のぴったり間になったら帰ってきて〜」
「ありがとうお母さん!かえってきたら宿題するね!」
「うん、えらいね津美紀〜!」
「えへへっもちろんだよ!もう小学生だもん!」
「そうね!じゃあこれ鞄に入れて何かあったらお電話してね」
「分かった!」

 そう言ってリビングにあるチェストの一番上の引き出しからピンクのキッズ携帯を取り出す。使い方は小学生に上がる前に教えたはずだから何とかなるだろう。


「じゃあいってきます!」
「はい、行ってらっしゃい〜」

 玄関の外で階段を降りて公園へ走っていく津美紀を見送った。




 津美紀は、恵がまだお腹にいた頃、アパートの隣の部屋で育児放棄をされていた子だ。
 そのアパートは築年数も古く、お世辞にも壁が厚いとはいえなかった為、度々赤ん坊の泣き声が聞こえていた。お隣さんとは特に関わりもなく、面識はほぼ無かったが、母子家庭であったことは覚えており、その当時私は妊娠が分かったばかりであったので、一児の母としてこれから関わりが持てたらいいなと考えていた。そう思い続けてから、数週間経った日の事だった。


 私は悪阻が酷くて、最近は横になってる事が多かった。特に、香りは全般ダメで、あまりご飯は食べられないし、芳香剤や柔軟剤も無香料のものに変えた。そんな私を心配して、甚爾くんはお仕事を減らしてくれている。申し訳ないと思いつつも何時もより長く一緒にいられることが嬉しくて、その日はいつもより体調が良かった。いつも通り赤ん坊の泣き声が聞こえてきて今日も泣いてる、可愛いなぁくらいで聞き流していたんだが、いつもより激しく泣く様子を少し変に感じた。

「甚爾くん、隣の部屋の赤ちゃん少し変じゃない?」
「そうか?分かんねぇな」
「えぇ〜、ちょっとおかしいよ、いつもはこんなに泣いてなくない?」
「いつもが分からん」
「えぇ……でもちょっと心配だよ、大丈夫かな」
「そんな事ねぇって」
「で、でも」
「じゃあもうちょっと待って、変わらなかったら行けばいいだろ」
「わ、分かった、二分くらい?」
「いいんじゃねえか。お前の体調優先だぞ」
「うん!」

 泣き止むといいなと思いつつも心配だから訪ねたくて悶々としながらテレビを見てその二分を過した。

 少し泣き声は小さくなったものの完全に泣き止みはしない。やっぱりなにかあったのかもしれない、と甚爾くんを引っ張って家を出て、取り敢えず大家さんの所へ行く。大家さんはとても穏やかな方で、事情を話すと思う節があった様で、少し考え込んだ顔をしながら一応のマスターキーを持ち、三人でお隣さん家へと向かった。
 チャイムを何度か押したり、声をかけてみたが誰かが出てくる様子もない。取り敢えず鍵が開いているか確認した所、何と鍵は開きっぱなしだった。
 恐る恐る中へ入ると、そこには赤ん坊一人で、他には誰もいなかった。

「え!?ど、どうしよう……大丈夫!?」
「お、落ち着いて……取り敢えず連絡するね……!」

 そう言って大家さんは一度家の外へ出てしまった。赤ちゃんはまだ一歳に満たない小ささで、抱えてみるとすっぽり腕に納まってしまった。あやしていると、思ったより泣き止むのは早くて安心したが、その安心で今まで気にならなかったことが気になり、この部屋に広がる何日分も溜まった洗い物のにおいなどに気分が悪くなってしまった。

「ど、どうしよう甚爾くん、気持ち悪い」
「一旦家戻るぞ」
「ぅ……ふぅっ……うん……」

 その後は何とか家まで赤ちゃんを抱っこしながら家へ戻り、速攻赤ちゃんを甚爾くんに預けてトイレへ駆け込んだ。

 ひとしきり吐いて少し楽になったのを確認してリビングへ戻ると、甚爾くんと大家さんと赤ちゃんを抱えた大家さんの奥さんがいた。……ちょっと甚爾くんが抱っこしてるの見たかったんだけどな。

「女性に電話かけてみたんだけど、少し前に外出してこれから戻るらしい。」
「そ、そんな……普通こんな小さい赤ちゃん置いて出てくか!?」
「落ち着け」
「落ち着いてられるか!有り得ないよ!すっごくイライラする!」
「ま、まあまあ。とても気持ちはわかります、十数分で戻ってくるみたいなので待ちましょう」
「……話し合い私も参加したいんですけど悪阻で香りがダメで、私たちの家でも良いですか?」
「無理して参加しなくても良いのよ?」
「奥さん、私するったらします!」
「わ、分かったわ。じゃあ香りのあるものを落としていただくのと、この部屋に来て貰うことを伝えておくわね」


 十数分して家のチャイムが鳴る。大家さんが扉を開けて入ってきた女性は想像していたような人ではなく、華奢で、心配になるほどの血色のない顔だった。

「梨花さん、こちら隣室の伏黒さん。赤ちゃんが泣いているのを聞いて助けてくれた人だよ」

 大家さんが梨花さん、と言った彼女は俯き気味であまり大家さんの紹介が耳に入っていないようだった。

「伏黒です。赤ちゃんが心配でお部屋に勝手に入ってしまったことすみません。そ、その「助けてください」……へ?」
「もう無理です……私が一人で子供を育てるなんてやっぱり無理だったんです……!」

 そう呟くと彼女、梨花さんはその場に崩れ落ちてしまった。
 大家さん達から話を聞くと、妊娠が分かってすぐ、父親にあたる男性と音信不通になってしまい、悩んでいる間に中絶も出来なくなり、中途半端なまま産んでしまったとの事だった。幾度か相談に乗っていたのか、大家さんの奥さんが梨花さんの背中を摩りながら悲しげに、施設に預けようか考えているところだったと説明してくれた。そんな今日、ついに限界が来てしまった彼女は練炭自殺をする為の材料を買いに出かけたのだという。

「そ、そんな事が……」
「……うん。だからね、彼女に寄り添ってあげたくて」

 少し落ち着いた様で、彼女は正座をしてまだ俯き気味ではあるものの、会話は届いている様だった。

「……梨花さん、ごめんなさい。私、梨花さんが苦しんでいるのなんて知らずにあなたを責めていました」
「……いいの。元はと言えばすぐ決断出来なかった私が悪いから」
「そ、そんな事ないよ!梨花さんだってこの赤ちゃんのために色々考えたのよね。とっても立派です」
「……うぅ……グスッ……ありがとう……」

 そのまま梨花さんの膝に置かれた強く握りこまれた拳を両手で包む。

「……私、今妊娠10週なんです。これからこの子の母親になるために、今修行中です」
「えっ……そうだったの……?」
「はい。私には夫がいて、周りに恵まれてる。でも梨花さんは今まで一人で頑張ってきたのでしょ?私だったら耐えられない。本当にすごいわ」
「ふぅっ……グスッ……」
「でも、でもこれからは私たちもいる。梨花さんひとりじゃないよ。それでも……それでももうこの子は育てられない?」
「……私……私は、その子に……津美紀に、一度、手をあげた事があるんです……絶対に許される事じゃないのは分かってたんです……なのに……なのにっ、この子にはなんの罪もないのに……!……泣き止まないこの子が煩わしくて、頬をはたいてしまって……後悔した時には、もう遅くて……赤くなった津美紀の頬を見て絶望しました……あぁ、私は、実の子すら愛してやれないクズなんだって。津美紀の顔を見る度に、その事を思い出します……ごめんねって……実の母がこんなのでごめんねって……何度謝っても自分が醜くて、汚くて……気持ち悪くて……挙げ句の果てには、心中しようとしました……もう、もう本当に母親失格なんです……」
「……もう、やり直すことは出来ない?」
「……はい……この子は、ただ可愛い女の子です……きっと私に育てられるより、施設の方がまだ愛を貰える……逃げなのは分かっています……でも、もう二度と、この子に手をあげたくない……弱い私にはそれすら誓えません……ごめんなさい、」
「そっか。私達は誰も梨花さんを責めたりしないよ。こうやって結論を出すまでにたっくさん悩んで、たっくさん辛い思いをしてきたんだよね。よく頑張ったね」
「ふぅっ……うわぁぁぁぁ」

 さっきとは違う、安堵からの涙だった。彼女を抱きしめた時、あまりの体の薄さに、驚きを通り越しあまりにも心配になった。



 その後、どうしていくのかを話し合った。梨花さんはまだ二十歳そこらだという。私もそう変わらないが、この子は独りだ。両親とは十五歳の頃から疎遠な状態で、大学一年生で妊娠、出産。もうすぐ大学二年生だがあがれるかどうか分からないらしく、自主退学にするらしい。そうした後は田舎の人の少ない小さな村で一度ゆっくりするそうだ。バイトは高校生の時から頑張っていたみたいで少し貯金があるみたい。ひとまずは安心だ。
 後は津美紀ちゃんの事について。

「私が津美紀ちゃんを引き取ります」
「「「……え?」」」「は?」
「お前何言ってんの?」
「そ、そうだよ?津美紀ちゃんは施設を一度探して……」
「う、うんうん。あなた、お腹に赤ちゃんいるのよ?二人一気には大変よ」
「そ、そうですよ伏黒さん、、いくらそれは旦那さんがいるとしても……」
「こんなに可愛い子を放っておくなんて出来ないわ!施設に入れるくらいなら私がみます!ね!甚爾くん!!」
「は?いやそれはいくら何でも無「なに?」……いや、お前だって体本調子じゃねe「だから何よ、これからどうなるかなんて分からないわ?」……はい」
「ちょっと旦那さん!折れるの早いっt「なんですか大家さん?見るったら見るんです」……はい」
「もうっ、伏黒さんったら(諦)」
「……ふふっ……ありがとうございます。伏黒さん」
「もちろんよ梨花さん!まだ若いんだから、いっぱい休んで好きなことしなさい!」
「はいっ……本当にありがとうございます……津美紀を……よろしくお願いします」

 そう言って彼女は深く頭を下げた。



「それじゃあね」
「はい。伏黒さん、本当にありがとうございました」
「そんなそんな!良いのよ。これからいろんなことがあると思うけど、あなたならなんだって出来るわ!」
「っありがとうございます」

 彼女と別れた後、私達は大家さん夫婦に向き合った。

「まだあなた、悪阻が酷いんでしょう?手続きやらなんやらはできるだけこっちでしておくから休んでいなさい」
「ありがとうございます」
「津美紀ちゃんは一度預かるね。妻が世話をしてくれるから」
「何から何まですみません大家さん」
「いいんだよ。私達も津美紀ちゃんは可愛いからね」

 笑顔で受け入れてくれた大家さん夫婦と解散して部屋へ戻る。もう外は暗くて夕飯の時間をとっくに過ぎていた。

「はぁ〜疲れたー」
「……無理すんなっつったろ」
「してないもん」
「……はぁ、そうかよ」
「甚爾くん夜ご飯食べる?」
「……あぁ適当に食うから作らなくていい」
「ごめんね、ありがとう」

 そのままソファで寝てしまって気づけば朝だった。起きた時には布団にいたから、きっと甚爾くんが運んでくれたんだろう。
 その日のうちに大家さんが養子縁組や戸籍謄本などの説明をしてくれて、私たち本人がやらなければいけないこと以外を全てしてくれたらしい。本当に感謝しかない。


 それから手続きをして、津美紀ちゃんが我が家のメンバー入りをする頃には二週間ほどが経っていた。それと同時に梨花さんの引越しも決まっていたらしく、出発は明日とのことだった。翌日に大家さん夫婦と私達と梨花さんの五人でひとまず落ち着いたことを含め、梨花さんの門出を祝い、見送りをした。その後、残った大家さん夫婦に子育てを教えてもらったが、やっぱり私の体が心配という事で、暫く大家さん夫婦がメインでたまに私達夫婦がが尋ねて育児について教えてもらった。本格的に津美紀ちゃんを子育てするのは、私達の子供が生まれてからとなった。




 まあ、それからもちょくちょく色んなことがあったが、津美紀も恵もとってもいい子で、心配になるくらい大人しい子だった。本当に心配ではあったものの、困った時はいつでも大家さん夫婦が力を貸してくれたおかげで何とか生活していった。せらが生まれる時に五人で暮らすには少し狭いと引越しをする事にはなってしまったが、あれからも(元)大家さん夫婦ともたまに連絡を取っている。前の家の大家さんに紅茶セットを貰ったのは、これが理由。
 色々思い出していたら、もう津美紀は居なくて公園に向かったようだった。部屋に戻り、本を手に取る。そういえばさっき作った画用紙のやつ、額縁に入れて飾りたいな。今度の休日にみんなで見に行こう。なんて考えて開けられた窓からの暖かい風にあたりながらページをめくった。
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