あなたがいる

まず最初に言いたいのは、好き好んでDVする男を選んだのではなく、喧嘩の延長でたまたま殴られてしまっただけで。決して殴られても愛してるなんて気持ちがあるわけでもない。だからDVじゃない。

「それはDVで間違いないです」

目の前に立つ、わたしより頭一つ分位上にある綺麗なお顔。身長差があるおかげで視線だけでそちらを見るのには少々無理があるから、少し顔を上げる。
彼の視線の先は、私のおでこについた、小さめの最低限な目立たないタイプの絆創膏。それから、後頭部を少し抑える手。

「いや、こんななったのは初めてだし、そんなこと普段はする人じゃないから……」
「普段からHiMERUに恋人の愚痴を聞かせているのはどなたですか、いろいろ振り回されているとか何とか」
「それを言われると否定できないかも」

確かに殴られた――というか、床に叩きつけられたというか。そんな行為をされたのが初めてなのは事実。しかし、普段から「お前は馬鹿だ」「俺がいないと何も出来ない」「使えない」エトセトラ、思いつく限りでも上げきれないほど、こちらの自尊心を抉ってくる言葉をぶつけられているのも事実。
そのうち言い返すのも面倒になって、ああはいそうですねとしか言えなくなって、今ではもう本当に私ってそうなんじゃない?求められたことが出来てなかった?という思考の渦に陥ることも多々あるのだ。
そんな同棲している彼氏の話を、数少ない友人とも呼べるHiMERUくんには常日頃から相談していて、ついに昨晩出来てしまった傷に気がついた彼は「もしかして」と眉をひそめたのだった。

「私にも悪いところあったと思うし、」

視線を床に落とし、昨晩の彼を思い出す。なんだか酔っ払って帰宅した恋人は機嫌が悪くて、何を言っているのかわからないくらいに呂律が回っていない舌で日頃の私への不満、文句(よく聞き取れなかったけれど多分そうだと思う)を吐き捨てた。昨日は私も仕事で疲れていたし、そんなこと言うのやめなよ、私も傷つくよと少し怒り口調に反発してしまったところから始まった、ありふれた喧嘩だった。
元々手癖のいい人ではなかったと思う。ただ、今まで手をあげられたことはないという確かな事実が、昨晩、簡単に崩れ去ってしまった。
言葉に詰まったところで視線を感じて、床を映していた視界を再度上に戻す。
そこにはさらに眉をひそめた、というよりお人形みたいな顏を顰めに顰めまくったHiMERUくん。

「貴方の恋人のことはよく知りませんが」

はあ、とかさつき一つなさそうな桜色から盛大な溜息が漏れる。

「常識としてまず人に手はあげませんよ。それが恋人相手ならなおさら」
「……それもわかるよ」

離れられない?離れたくない?わからない。
同棲までしているから、今更ひとりでの過ごし方なんて覚えてない。記憶の隅にすらなくて、一緒に過ごした期間のうちに綺麗さっぱりどこかにやってしまったんだと思う。

「別れたらいいんだろうけど、一緒に住んでるとそうもいかないよ、別れたら次の日からおうちないなとかさ」

あは、と乾いた笑いが出る。
悲しきかな、家を出ていってしまったら翌日から生活に困ってしまうし、今は仕事も頑張りたい時期だからそもそも考えるのだって面倒だし、そんな時間があるなら仕事のことを考えたいと思ってしまう。元来の面倒臭がり、後回しにしがちな性格のせい。

「自宅が何処だか聞いたことはありませんが、この近くなら立地的には申し分ないと思うのですが」
「借りるにも時間かかるし……その間に決意鈍っちゃいそう」
「手続きとかは必要ないですよ」

どういうことだ、という思いを込めてぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、琥珀みたいな瞳に映った自分自身を見つめる。
わかってないですね、とまたもや盛大な溜息をつくHiMERUくん。理解力が乏しくて申し訳ないが、本当に意味がわからない。
その瞬間、視界いっぱいに広がるグレー、もとい彼が今日着用していたトップスの色。抱き締められていると理解するまでに数秒かかり、理解が追いついた頃には間抜けな叫び声が己の口から飛び出していた。

「え、ひ、HiMERUくん、きゅうになに、」
「HiMERUと一緒に住む、というのは選択肢にはありませんか?」
「選択肢っていうかそもそも友達の家に転がり込むのも申し訳ないし、色々問題あるんじゃ」

彼からこんなことされるなんか微塵も思っていなくて、突然のことにパニックに陥りそうになる。どれだけちっぽけな脳みそを回転させたところで、なんで、とかありふれた単語しか捻出できない。

「……人の気も知らないで」

ぎゅう、と背中に回された腕がよりいっそう強く巻き付く。
私の顔はHiMERUくんの胸板に押し付けられた状態だから、彼がどんな顔をしているかもわからない。

「俺が今までどんな気持ちで話を聞いてきたと――」

好きです。
先程までのように、こちらに伝える気があるのかないのか分からないちいさな旋律がぽつりと紡がれる。つまりHiMERUくんは、私の事が好き。聞こえた瞬間、パニック状態の反動かと思うくらいに頭の回転は止まってしまった。
ひ、ひめるくん……と言葉にならないまま名前だけを呼ぶ。

「しかしHiMERUは略奪なんて物騒なことしません。だから、」

回された腕が少し緩んだ瞬間、少しだけ開いた胸元と顔面の空間を利用して見上げる。

「貴方が自分自身の手で、選んでくれるまで待ちますよ」

彼の瞳は少し熱っぽく潤んでいるような気がした。溶けてしまいそうなくらい透き通った瞳から目が離せなくて、あ、と声が漏れる。
何か言わなきゃいけないのに、どうやって話していたのか、どんな顔で彼を見ていたのか、わからなくなった。ただそこにいるのは、今までに見たことの無い表情を浮かべたHiMERUくん。
頭の中を駆け巡るのは過去に見てきた彼の表情で、そのどれもが、とてもやさしい、愛しい目で私を見てくれていたこと。
その日の帰り道に私は、最低限の荷物を大きめなキャリーに詰め、『もう会わない』と書き残した置き手紙と今月分の自分が支払う予定だった家賃と生活費を置いて、二年と少し過ごした自宅とも呼べない家を飛び出したのだった。