わらって、キスして、抱きしめて
「正直、もう終わりにしたい、です。色々と」
カフェシナモンのとある一席。今日の天気予報は一日雨で、明日も明後日も同じく。六月のじっとりとした空気に不快さを感じる。けれど現在のいたたまれない雰囲気は天気由来のものではなくて、目の前に座るHiMERUくんとの間に流れる空気が理由だった。私の声は届いているはずなのに、彼の表情はなにひとつ変わらない。
いつだって冷静なのは彼のいいところだと私自身思っているが、最近はそこにもうんざりしているのだ。
元々考えすぎてしまう性格だとは自覚している。けれど嬉しかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと……HiMERUくんに一番に聞いて欲しいと思ったから口にしたことでも、常にポーカーフェイスを崩さず、冗談でも大きいとは言えないリアクションが跳ね返ってくる。
芸能人として世間に知られている彼だから、人目を忍んだたまにの外出でなるべく目立たないようにしているのなら理解はできる。が、二人きりの自宅の一室ですらこの有様だった。
忙しいだろうし疲れてるんだろうなと思ってしまえば良かったが、ずっと続くと不満も溜まる。もっとちゃんと、私を見てほしい。
好きになった時点で、付き合うことを決めた時点でそうなんだろうなと予想はしていたけど、実際過ごしていると感じ方も変わってくる。
聞いたことがある。その人の好きになったところは最後には嫌いなところになる、と。
「……そうですか」
はあ、と芸能人らしく手入れしているのか、私よりよっぽど形のいい唇から溜息が漏れる。
「理由を聞いても?」
「っ、わからないならいいよ、言っても直ることでは無いし」
いつの間にやら空になったティーカップの底に、ほんの少し茶葉がこずんでいる。先程まで口にしていたアールグレイは姿を消してしまったし、言いたいことは言えたし。うだうだしているのも嫌だなと自分の会計分の千円札を一枚取り出してから席を立つ。
「とにかくもう帰るから」
「俺は、別れるつもりはありません」
彼の目を見る余裕すらなくて、音を立てて踵を返した去り際、聞こえるかどうかの小さな声で彼が呟く。それは独り言でもなんでもなく、紛れもなく私に向けた言葉だった。
好きだ。どうしようもなく。嫌気が差してしまっただけで、別れなくて済むなら別れたくはない。
ただ先程伝えた決心も、数週間悩みあぐねた末の答えだった。
思わず立ち止まってしまう。振り返りたくなった。今すぐ席に戻りたいけれど、ここで戻ってしまったらまた振り出しなのだ。
「……せめて距離を置くだけにしていただけませんか」
納得しない形で別れるのは不本意である。距離を置いた末に納得してくれたらそれで構わない。わかった、と彼の方を見ることが出来ないまま、言葉だけ残してシナモンを後にした。
ただ、雨音だけが耳にこびりついていた。
♢
それから丁度三ヶ月が経った。
肌にまとわりつく湿度と激しい雨はもうとっくに過ぎ去っていて、夏が終わりを告げようとしている。
HiMERUくんのいない季節はなんだか久しぶりで、二ヶ月と少しは詰めた仕事と自宅の往復で日々追われていたが、自宅でぼんやりとしていても考えてしまうことはひとつ。
そんな感情を紛らわせるために、休暇を利用して一人旅に出たが、美味しい名産品のスイーツが予想以上に美味しかった時にはHiMERUくんにも食べさせてあげたいと思ったり、絶景を写真に収めてみても見せる相手がいなくなってしまったなと。つまるところ、一人で過ごしたひと夏も、片時もHiMERUくんを脳内から追いやれないでいたのだ。
休暇最終日、ばっさりと切って、気持ちも切り捨ててしまおうと髪を切った。ひとつの恋が終わったからではない。茹だるような暑さで吹き出す汗がうざったいからだ。ほぼ別れたからなんて理由じゃないと自分に言い聞かせて、肩甲骨にかかるくらいの長さだったそれをショートカットにした。
「髪切ったんですね」
翌日、休暇明け一日目の職場。たまたま資料を届けに来た、あまり仕事を共にしたことが無い同僚からの一言。
十数センチメートルは密接に関わっているわけではない人からも気づく変化なんだなあとぼんやり浮かんだと同時に、ひとりの人物が頭を過ぎる。
(今、HiMERUくんよりも短いんだろうな)
彼が見たら、なんて言うのだろうか。いつもみたいに、何も触れてこないかな。それとも一言くらい褒めてくれるかな。
結局髪が短くなったって、切り捨てたつもりでいるのはその時だけで、本当の意味で忘れてしまうことなんてできないのだ。
急ぎの案件がないか手元の資料に目を通そうと視線を落とした時、メッセージアプリの通知音が鳴る。マナーモードにするのを忘れていたのだろうか。
通勤用のごちゃついたトートバッグから急いで目当ての端末を掘り出し、画面を確認する。
『今夜会えますか?』
開いた先にあったのは、来ることを想像していなかった人物からのメッセージがひとつ。
このまま自然消滅のようにして終わるのだろうかと勝手に納得していたから、驚きを隠すことも出来ず、周りに人のいるデスクだというのに頭を抱える。既読はつけてしまったから無視するのも感じ悪いし、かといって会うのもなぁ。
ピコン、と小気味いい音とバイブレーションに乗って、もうひとつ吹き出しが増える。
『今後のことをきちんと話したいのです』
一度端末をスリープさせ、資料に目線を戻す。
だがそれも形だけで、数十分間頭は彼のことでいっぱいである。
悩み考えた末にもう一度端末を取りだし、最低限の文章を送る。
『大丈夫だよ。二十時頃に退社する予定だけど遅くなるかもしれないから、終わったらHiMERUくんのマンションに行くね』
直ぐに既読がついたのを確認し、もう一度バッグに戻す。約束してしまったからには遅れる訳にはいかないなと仕事に取り掛かったが、悲しいことに、その日は全くもって仕事にならなかった。
♢
予定通りの時刻にタイムカードを切ることができ、そう離れた場所にはないHiMERUくんの自宅へと足を運ぶ。
会わなくなってから三ヶ月経過していても、何度も通った道を忘れることは無かった。週刊誌に抜かれてしまうことを懸念してあまり買い物などの外に出るデートをしたことはなかったけれど、数回だけ、泊まらせてもらった翌朝にモーニングを食べに行った喫茶店が目に入った。入念な変装をして言ったけど、マスクとメガネと普段来なそうな系統の服装がなんだかおかしくて、笑ってしまった記憶がある。
彼が隣にいることが当たり前では無い日常の中でも、いくつも彼に結びつけてしまう。別れると言ったのは私からだったのに、それがすごく情けなくて、泣きたくなった。
そうして約束から遅れることなく訪れたエントランスのチャイムを、恐る恐る押す。はい、と最後に聞いたのが遠い昔のような旋律が鼓膜を震わす。
「こんばんは、なまえです」
待たせてごめんねと一言謝罪をし、エントランスを抜ける。
久しぶりに聞いた声。最後に聞いたカフェでの声色よりも、疲れていそうだった。
扉の横にも取り付けられた呼び鈴を鳴らすと、入ってください、と聞こえる。なるべく一緒に部屋に入るところを見られないようにと付き合った当初からの決まり事だ。周囲を確認しながらも手早くノブを回し、玄関を抜け廊下を進む。
「……なまえ、」
広いリビングに置かれた三人くらいまでなら座れそうな黒革のソファに座ったHiMERUくんが、こちらを見やる。ローテーブルの上にはアイスコーヒーと思わしき氷入りのドリンクが鎮座している。
久しぶりだね、と手を振ると、彼はにこりと小さく笑みを浮かべた。仕事終わりでメイクを施しているが、目の下には隠しきれない隈が浮かぶ。
彼の横に浅く腰かけるが、私もHiMERUくんも、何も言わなかった。
彼が言っていた――今後の話について聞いてみるべきかと思ったけれど、口を動かせなかった。
顔を見てしまうと、ちゃんと別れよう、なんて言えなかった。いつも表情を崩さない彼が疲れを顔に出しているのも、寂しそうなのも、初めて見る顔だった。
「……HiMERUくん、少し痩せたね。忙しかった?」
「ええ、仕事の方は順調です」
彼の右手が、ソファの座面に添えた私の左手に触れる。そのまま体ごとこちらに向けた。
「貴方は少し……太りましたね」
頬にくすりと笑みを浮かべた彼の手の温もりを感じる。頬に触れたゆびさきが、するりと撫でてくるから、私もつられるように彼の目の下の隈に指を這わす。
「ちゃんと寝なきゃだめだよ、隈隠れてないから」
その上にある彼のはちみつ色は濡れたように潤んでいて溶けてしまいそうで、無性に涙が出そうになった。
それは私の知っている彼よりもずっと弱々しく見えた。私もHiMERUくんも弱ってるなあ、とぼんやり考えたと同時に、強く上体が引き寄せられる。
「……誰のせいだと思いますか?」
「え、」
「三ヶ月間、その日あった事を嬉しそうに話してくる相手がいなかったんです。近くにいてほしい愛おしい相手が、そばにいなかったんです」
――俺がどんな気持ちだったかわかりますか?
そう告げる彼は私よりも先に雫を零していた。たまらず、私も涙を流す。
「髪、短くしたんですね。似合っています。可愛らしいと思います。俺を思って切ったんだったらいいのに」
すっかり短くなった髪を触りながら肩口に顔を埋める彼は、子犬のようで、本当にHiMERUくんなのかと疑わしかった。だが、目の前にいる人物は紛れもなくHiMERUくん本人だ。
「ネイルも……リップの色も変えましたか?夏らしくていいと思います」
何故だか口数の多い彼は、寝癖がついているから寝坊して気づかないままいたのかと続ける。
まるでそれはいつも私を見ていたのような口ぶりだった。
「、どうしたの、今日変だよ」
「普段は言わないようにしていたのです。なまえの前で格好つけたかったって言ったら、笑いますよね」
「……笑わないよ」
あの日も本当は追いかけて抱き留めてしまいたかったと自嘲気味に言われ、ぎゅっと広い背中を掻き抱く。
「私ね、もっとHiMERUくんにそういうところ見せて欲しかったんだよ。いつもクールなのはかっこいいけど、たまには本心を見せてほしい」
ぽつりと呟くと、HiMERUくんは可笑しそうに笑った。俺たちはすれ違っていたんですねと安堵したような声が響く。
彼はずっと私を、私だけを、見ていたのだ。恋人なんだから、もっと格好つけないでいてもいいのに。
「でも、ちょっとだけ取り乱してるHiMERUくんが見れて満足」
「……それで、別れるんですか?」
「……撤回させてください」
もう一度強く私を抱きしめた彼は、やっとまたそばにいられると笑みを零した。
さらさらのスカイブルーの髪をさらさらと撫で、本当にごめんねと再度謝る。これからも一緒にいられることがただ幸せで、私も答えるように彼の背に回す腕に力を込めた。
「明日の朝は、何か外に食べに行きましょうか」
「あっそれなら行きたいところがあるんだけど」
「ふふ、以前行った喫茶店のモーニングですか?」
「なんでわかるの」
「俺も離れてる間、あの店を見て思い出したのです。トーストのセットを美味しいと笑顔で食べてた貴方のことを」