それはまるで愛のような
「……結婚したんだ」
♢
町でたまたま見かけた、見慣れた姿。
それはよく知るグレーのスーツ姿ではなくて、繊細な花柄とフリルをあしらった、淡い色のワンピースを揺らすなまえだった。
彼女は数ヶ月ほど前までNEW DIMENSIONの事務所で事務員をしていたのだが、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなった。一時期はよく顔を合わせていたのに――というよりも、おれが彼女を一目見てから好意を寄せていて、会いたくてたまらずに姿を探して追いかけていたからだが。気になって事務所で聞き回ると、どうやら彼女は退職したのだということだけはわかった。同じ事務員だった人たちは辞めることを事前に知っていたようだが、アイドルとして、作曲家として忙しく飛び回るおれたちが知らなくても無理はなかった。
今日はインスピレーションが中々湧いてこず、気分転換に散歩でもしようかと外出したところだったから、つばの長い帽子にメガネ、それからマスクをしている。気づかなくても無理はなかったが、呼び止めて振り向いた彼女は驚いた顔をして、小さな声で「れおくん」と微笑んだ。
久しぶりだねとワンピースの長い裾を揺らすなまえは相変わらず綺麗で、事務所で業務に追われながらも笑顔を絶やさず愛想良く、更には周囲への気遣いも完璧に仕事をしていたことを思い出す。おれは、そんな彼女の笑顔に惚れていた。
立ち話もあれだよなとすぐ近くの喫茶店に誘う。
「嬉しいけどダメだよ。もう事務所の人間じゃないし、週刊誌にでも撮られたら大変」
こんな服装だから仕事でとも言えないでしょ、となまえは困ったように笑う。
そうだな、と納得した。追い求めていた彼女に会えた喜びで頭からはすっかり抜けていたけれど、ファンのお姫様たちも悲しませる訳にも行かない。
そして彼女は困ったような顔のまま、冒頭の言葉を放ったのだ。
え、と固まる。時間が止まってしまったかのように動くことは出来なくて、理解も追いつかない。
まるで岩かとでも思えるくらいに硬直したおれをそのままに、彼女が続ける。
「仕事を辞めたのもそれが理由……寿退社ってやつかな」
なまえばかりに目をやっていたからすぐには気づけなかったが、その左手の薬指には、銀色が光る。シンプルなデザインに、控えめなダイヤがあしらわれた結婚指輪。清純な雰囲気の彼女によく似合っているが、それは他の男のものだという印でもあった。
「……おめでとう」
目頭が熱くなるのが、自分でもわかった。
やっと絞り出した言葉で祝福を伝える。ありがとう、と彼女は幸福そうににこにこと笑みを称えていて、ただ、幸せなのだなと感じた。
おれじゃだめだったのか、と口をついて出そうになる。が、それはどうにか飲み込む。こんななら会いたくなかった。おれ以外の男と幸せな人生を歩んでいく彼女なんか、見たくなかった。でも同じくらい、彼女がこの先辛い思いをすることなく、彼女自身が好いた人間のそばで生涯を送っていければと相反した気持ちが渦巻く。
「じゃあ私、用事があるからこれで」
「……うん。またいつか」
結婚式が控えてるんだとなまえは視線を落とした。
もうこの先、彼女と会うことはないだろう。元々恋人同士なんかじゃなければ、友人というにも距離が遠すぎる。仕事仲間でもなくなった。おれが彼女を追いかけていい理由なんか、既にどこにだって存在していなかった。
♢
その日おれは、事務所に届けられた数多のファンレターに目を通していた。全てに返事を書くことは難しいが、お姫様たちへの礼儀として、その全てに目を通している。沢山重なった色とりどりにデコレーションされた封筒の中、なんの装飾もない、白い封筒が目に付いた。惹かれていくように、それを手に取る。
「ふぅん、無地なんて珍しい」
隣で同じように自分宛の封筒を手に取っていたセナが覗き込む。それもそうだ、ファンの思考として、目についてほしいと豪華なレターセットを用いたファンレターが送られてくることが殆どなのだ。無地というのは最近はあまり見かけることがない。
くるりと裏返すと、そこには見覚えのある文字と、名前。
「なまえ……」
記されていたのは、他でもない、忘れられないなまえの名前だった。同名の人物はこの世にいるだろうが、何度か見た事のある綺麗な文字は、紛れもなくなまえのものだ。
弾かれたようにその場で封筒を開ける。
『れおくんへ
何も言わずに辞めてしまってごめんなさい。れおくん、何回も会いに来てくれてたから、言うタイミングはあったのにね。
れおくんの作る音楽が好きでした。所属アイドルを大事にするって理由じゃなくて、ひとりのファンとして、貴方の作る音楽に何回も救われてきました。
仕事が辛いこともあったし、投げ出したくなるときもあったけど、一事務所の人間としてれおくん達Knightsの活動のためにって通勤中に新曲を聴きながら事務所に来たり。これからもファンであることに変わりはないです。
最後に自惚れだったら申し訳ないんだけど、れおくん私の事好きだったでしょ?
本当に間違いだったらごめんね。下っ端の事務員だからアイドルと顔を合わせることなんか全然ないし他の子達とも会うことはあんまりなかったのに、れおくんだけはよく会ってたから。会う度に嬉しそうにしてくれてたなぁって思ってます。あんなに何回も会ってたら、探してくれてたのかなって思っちゃうよ。
だから、結婚すること、仕事を辞めること、言えませんでした。
私今ね、すごく幸せです。でももっと早くれおくんに出会ってたら、また違う幸せがあったのかな。
今度会う時は、客席から貴方を探しているからね』
それはまるで愛のような、なまえからの手紙だった。読み終わってすぐに、トイレの個室に駆け込んだ。どうしようもなく涙が込み上げてくる。
一文一文、すべてが愛おしかった。丁寧にボールペンで紡がれた手書きの彼女の文字も、純粋な応援の言葉も。間違いなんかじゃない、と呟く。
本当に好きだった。初めての恋だった。彼女を見かける度に胸が躍って、インスピレーションが駆け巡る。発表にはいたらなかった彼女をイメージした曲が、いくつだってあるのだ。
ずるずると壁にもたれかかってかがみ、彼女にそうしたかったように手紙を抱きしめる。
もう会えないけれど、これからはアイドルとして、彼女を幸せにしたい。ひとつでも多くの曲を届けたい。いつか彼女が来るかもしれないステージのクオリティも、いつだって素晴らしいものに仕上げたい。そう決意した。
おれは人目に触れる仕事をしているから、会うことが出来ずとも、彼女が探してくれる限り、こちらから伝えることはできるのだ。
あれからしばらく経つが、そのときの手紙はまだ大切にしまってある。