そして幸せだと笑ったのだ
仕事帰りに付録目当てで購入したその雑誌は、白い大理石のデザインが施されたお気に入りの机に広がっていた。
今月の付録は私が好きなブランドのポーチで、ちょっとしたものを入れるのにぴったりだと気がついたら手に取り会計を済ませていた。だがその本体ともいえる雑誌はウエディング誌で、興味本位で缶チューハイを煽りながらペラペラと捲っていたところだった。
「結婚、かぁ」
悲しいことにもう私も二十数年生きていて、結婚するには若いともいえずいい歳になってしまっている。学生の頃に冗談めかして話していた理想の人生プランでは、とっくに結婚したい年齢は過ぎ去った。あの時は若いうちに結婚してー、専業主婦になってー、かわいい子供が二人くらいなんて思い描いていたけれど、いざ社会に出てしまえば仕事に夢中で時は目まぐるしく去っていってしまう。恋人はいるが、HiMERUくんは芸能人なので――結婚と言っても公にするとか何とか考えることは多々あり、そう易々とできるものでは無い。
住居を共にしている彼は今日も仕事で帰宅が遅いと聞いている。ユニットを結成したての頃は色々あったけれど、今となってはファン数も多い人気アイドルだ。
結婚願望はある。彼のお嫁さんになって、毎日ご飯を作って待ってるだとか、口約束だけではない、紙一枚とはいえど証明された関係になりたい、と思う。
そんなことをぼんやりと考えていたら時計の短針はてっぺんを少し越した所を指していた。明日も仕事だ。起きてHiMERUくんの帰りを待っていたいけれど、お互い社会人となるとそうもいかない。心の中に渦巻いた寂しい気持ちを投げ捨てるようにぶんぶんと頭を降り、軽くなったアルミをシンクに置いてベッドに向かったのだった。
♢
「……おはようございます」
ぱちぱちと寝ぼけた頭で瞼を何度か開けて閉じて、開けた。横向きに転がっていた視界にはさながらゴールデンベリルのような双眸が飛び込み、かちんとぶつかる。
「……おはよ、起きてたの」
「先程帰宅して、シャワーを浴びていました」
おつかれさま、とまだ起ききらない口を動かす。彼がそういった通りシャワーを浴びていたらしく、朝見た時には私服だったものが寝巻へと変わっている。一緒に眠る時によく見なれた、つるりとした紺色のシルクだ。肌に気を使うとかなんとかで、シルク素材のものを愛用していると以前言っていた気がする。
日が落ちてライトも消された世界のなか、首をひねり枕元のデジタル時計を見やる。夜間でも時刻を確認できるよう配慮されたその製品の文字盤は青白く照らされていて、はっきりと読み取れた。丁度二時半。目を閉じたのが一時前だったから、一時間と数十分しか眠っていないようだった。
「HiMERUくんも寝た方がいいよ」
帰宅時間が遅ければ、朝起きなければいけないのも早いだろう。不規則なスケジュールを抱えているのだから、休める時に休んでおかないと身体を壊しかねない。彼ほど不規則で体に負担のあるものではないとはいえ、私にも同じことが言える。さっさともう一度夢の中に落ちてしまいたかった。
しかしながらぶつかったままの視線は、何か言いたげに揺れている。
何か嫌なことでもあったのだろうか、言いたいことがあるのかと疑問に思いどしたの、と投げかける。彼は何度か悩むような素振りを見せてたっぷりと悩んだ後、かたく閉ざされていた唇を開く。
「なまえは、結婚したいのですか」
「え?」
「だから、なまえは俺と結婚したいのかと」
急になんなんだと動揺が広がる。先程の彼が移ったかのように思考をめぐらせると、ぴんと思い当たる節が一つだけあった。
「あの雑誌見たの?」
そういえば、開いたままにしていたような気がする。好奇心に駆られて、中途半端なページをテーブルに広げたままの雑誌。
問いかければ彼は控えめにコクンと頷き、どうなんですかと答えを促した。
それは勿論ともいうべきか、もういい大人なんだから交際をするにあたって結婚が視野に入るのは当たり前だ。が、その辺の事情は抜きにしたってHiMERUくんと結婚したいと思う。
「したいよ」
ずっと一緒にいたいから、と素直になってみる。
すると彼は急に起き上がり、聞き逃げのような形でどこか別の部屋へと歩を進めてしまった。
(急になんなの?)
いつもと全く違うようなHiMERUくんの態度に、シンプルに心配の文字が頭を支配する。働き詰めで疲れておかしくなってしまったのか。こちらの考えなどいざ知らず、彼は直ぐに寝室へと戻ってきた。そのままいそいそとクイーンサイズのベッドに上がり、長い足を丁寧に畳んで座る。
「なまえ」
「はい」
つられて私も起き上がり、彼の前に上体を起こした。顔にかかった髪が邪魔で払うと、目の前が遮られることはなくなった。暗闇に馴れた視界に入った彼は、やはりいつもと違うような表情を浮かべている。なんだか落ち着かないような、そんな顔だ。
「俺と貴方と一緒にいたいです。……ああ、こういうのって、もっときちんとしたレストランとか、雰囲気ある場所とか、そういう方がいいんでしょうか。女性はそういうものに憧れると聞いた事があるのです」
口を開いた彼はやけに饒舌で、こちらの理解が追いつかないままに話を先に進めていく。
「俺と結婚してください。幸せにします」
数秒世界が止まったあと、キャーッと奇声を上げてしまった。情けなくも。今度は私が弾かれたように立ち上がり、探し当てたリモコンでLEDを最大にする。先程とはうって変わって明るくなった部屋と、姿がよくわかるようになったHiMERUくん。顔色まで計り知れなかった彼は茹で蛸状態で、思わず熱でもあるのかと額に手を当てた。
「熱はなさそう……」
「ふざけないでください、俺は真剣です」
きっとこちらを睨みつけたビー玉はすぐに柔らかいものに変化して、私の左手を取り、指を撫ぜた。
冷たい感触に驚いて視線を下に下げると、先程自分自身が点灯されたLEDがキラキラと反射する、エメラルドカットが薬指にお行儀よく鎮座している。
「な、なにこれ」
「エンゲージリングです」
「うん、それはそうなんだと思うけど、え、なんで、」
言いたいことは山のようにあるが、どうも脳内CPUの処理速度を超過してしまい、声にならない声しか喉は発してくれなかった。彼と違い一般社会人な私には到底手の届かない値段であろうそれは、まるで私の為に誂えましたよとでもいいたげにピッタリとはまりこんでる。どうしてこんなに丁度いいサイズのものが、いまここにあって、HiMERUくんから手渡されたのだろうか。疑問ばかりが募っていく。
「サイズは寝てる間に測らせてもらいました。ここにあるのは俺が以前から用意していたからです」
浮かんだ疑問たちは知らぬ間に口をついて出ていたようで、ご丁寧に彼はひとつひとつ答えていく。
「それで返事は」
じいとこちらを見つめる彼は、私が少し後ずさってみても視線を離してはくれないようだった。なんの冗談か、それとも夢かと自らの頬をつねる。それはちゃんと痛くて、今これが現実であることを示していた。
「断るわけないじゃん……、不束者ですが、よろしくおねがいします」
返答を聞いたHiMERUくんが、勢いよく私に抱きつく。背中に回された腕は痛いほどに強くて、さらさらに手入れされた彼の髪に指を通す。
「俺、嬉しいんです。前からいつ言おうかずっと迷ってたら、今日あんな雑誌があって」
心の底から嬉しそうな声色で話す彼を、よしよしと赤ちゃんをあやすように撫でる。嬉しすぎて考えていたらプロポーズの方法を全部飛ばして今言ってしまったのだと教えてくれた彼が、なんだか可愛らしく見えた。
恋人として一緒に過ごして同じ家に住んでいたら、世間一般の『HiMERU』のクールなイメージとはまた違う面も見えてくるのは当然だが、今日のそれは一段とキュンとくる。こんな彼は私しか知らない。私しか見ることが出来ない。恋人、もとい婚約者の知らない面を知れることほど嬉しいこともない。これから長い人生を彼と過ごす中で、私は何度この人に惚れ直すのだろう。