これを恋と呼ばずして

※オブリガート読了後推奨です

※ぬるく暴力的な表現があります(ほんとにぬるいです)




ふと思うことがある。
彼女が俺の『真実』を知った時に、どう思うだろうか。嘘をつきたかったわけではないが、どうしたって俺の立場を、弟を守っていくため、騙し騙しにする他なかったのだ。
最初はそれでよかった。だが向こうの「好きなんです」の六文字から始まったなまえとの交際は予想外にも順調で、共に過ごすにつれて俺から彼女への愛情もどんどん膨らんでいくばかりだ。このまま、生涯隣にいられたらどれだけいいか、願ってしまう。
しかしそのためには、今すぐにではなくとも全てを打ち明けなければならない時が来てしまう。
「嘘つき」と怒り、責めるだろうか。「どうして」と涙を流し、頬を濡らすのだろうか。ひとつ言えるのは、こんなにも重い秘密を、罪を、受け入れてもらえるはずもないことだけだった。

彼女が暮らす、三階建てのありふれたアパートメント。家賃が安い割に立地がいいんだと初めて訪れた際に彼女が笑っていた時にも変わらずそこにあった、素朴なグレーのドア。整列されたナンバー式のドアロックの横に取り付けられたチャイムを鳴らす。間髪入れずに今出るね、と跳ねたような音色がスピーカー越しに放たれ、そのグレーがちらりと隙間を作った。

「早く入って入って」

お邪魔します、と一歩踏み入れ、夜の闇から人工ライトで照らされた玄関へと身を滑らす。いらっしゃいとスリッパをぱたぱた鳴らしていた彼女は桜色のギンガムチェックがプリントされたエプロンを纏っていて、室内には香ばしい料理の匂いが充満している。夕食を作っている最中らしい。今日はなまえの家で手料理をご馳走になる約束をしていたから、俺が来る前に作り始めていたというところだろうな。

「今日はねえ煮物にしました〜、一番得意なの」

キッチン横に備え付けられた、カウンターテーブル。その前に二つ並んだ黒い合皮のキルティング素材の生地が張られた椅子のひとつに、腰をかける。
カチャカチャと小気味いい音を立てながら、洗い物と料理を同時進行に手際よくこなしていく彼女は、親元を出て一人暮らしをしてから一年半程度とは思えなかった。

「美味しそうですね」
「でしょ! HiMERUくんのために今日はちょっと頑張ってる」

しばらく彼女の姿を眺めていたものの、どうにも手持ち無沙汰で席を立ち、煮詰めていた煮物の味見をしていた彼女を背後からやわく抱きしめる。
醤油とみりんと砂糖、それから料理酒と出汁が混ざって加熱された和食特有の香りの他に、顎下で擽るなまえのシャンプーの香り。
愛おしい。そんな感情だけで胸中が支配されていく。
はと、沈めていた不安の種が顔を出す。この先を考えていくに当たって、伝えなければいけないこと。ただそれを伝えてしまえば、間違いなく彼女は遠く、離れていってしまう。さよならと冷めた瞳をする彼女を想像して、気分が悪くなった。そして、美味しいと呑気に呟きながら料理たちの面倒を見ていたなまえの肩を掴み、強引にこちらに向ける。
俺を見上げた彼女に困惑の一色が浮かんでいるのもお構いなしに、乱暴に口付けた。

「っ、ぁ、……はあ、ひめるくん……」

驚きながらも舌で口内を蹂躙される快楽に身を委ねる彼女の後頭部を掻き抱く。ショートボブに切り揃えられた栗色の髪が、ぐしゃりと手の中で縺れる。

「っ、ふ……」
「ぁ、ひめるくん、まだ夜ご飯できてないからっ、」

ぴたりとひとつになっていた顔を離すと、つうと銀の色が伝う。熱が冷めやらぬ瞳のなまえの腕を乱暴に掴み、側の寝室に連れ込んだ。肩をとんと押し倒し、すぐ下で震える双眸に目を落とす。

「ねえ、どうしたの……何かあったの?」

急に掴まれ倒された驚きと、恐怖。それでいても俺を心配して、頬に伸ばされたあたたかい手のひら。こんなにも俺を受け入れるこの女のことが好きで好きで仕方なくて、どうしようもなく腹が立った。今こんな態度を俺に向けていたって、本当のことを告げれば、手のひらを返したように去っていくのだと言うのに。恋と呼ぶのも烏滸がましいほどに、なまえに向ける愛情は汚い。
このまま殺してしまえば、共に死んでしまえば、伝えて離れて行ってしまうことも無く、ずっと一緒にいられるのだろうか。細く白い彼女の首に両手を伸ばし、掴む。弱い力でもポッキリと折れてしまいそうなそれに、ぎゅうと力を込める。そうしてそのまま、また乱暴に口付けた。

「ぁ…っ、ひゅ、」

息ができない中で歯列をなぞられ、弄ばれる彼女の顔は可哀想な程に赤く紅潮している。薄く開けた瞳からは一筋雫が流れた。酸素を求めるあまりに捩る身体は、こんなにもか弱い。
顔を離すと、ひめるくん、と途絶えそうな蚊の泣く声がはと耳につく。
――俺は何をしていた。何を考えていた。
両手に込めていた力を緩めると、なまえの胸が大きく上下する。目を閉じ、遮断されていた酸素を大きく取り込む。俺は、惚けた様子でその様を見つめていた。

「……HiMERUくん」
「……すみません」

どう説明しようか思考を巡らせる時間を稼ぎたいが、いい方法が思いつかない。固まってしまったように、彼女に馬乗りになり、首に緩く手をかける姿勢のまま動けずにいた。最低な夜だと思った。
彼女はもう一度、俺の名を呼ぶ。すずらんのような、凛とした旋律。まだ酸素が足りていないのか、少し掠れてしまっている。

「なんか不安、だったのかな。わからないけど」
「いや……いえ。そう、かもしれないです」
「言いづらかったら無理に言わなくてもいいんだよ。私、HiMERUくんに裏切られたっていいけど、私は裏切らないよ」

ずっとそばに居るからね、と頭を撫ぜつけられる。聖母のようなこの女は、たった今信じていた恋人に首を絞め挙げられ、乱暴な行為をされたばかりだと言うのに、それでも受け入れてしまうのか。
情けなくも泣きたくなって、彼女の肩口に顔を埋め、抱きしめた。

「HiMERUは……俺は、なまえを離したくないと願ってしまっても、いいのでしょうか」
「いいんだよ、私だってそう思ってるんだよ」

そうして抱き合う間にいくらか時間が経って、彼女が「お腹空いたね」と笑う。確かに食事をするにはいい時間になっていた。ゆっくりと彼女の体を離し、先にベッドから降りた後彼女の手を取る。

「お姫様みたい」
「……俺の中ではいつもそうですよ」

ふふ、と冗談めかして笑うなまえ。幸せにしてやりたいと、心底思った。たとえいつか真実を伝えることになっても、それでもよかった。俺が考えている以上に強かな女なのだ。暴力的な行為をされても抱き締めて愛を囁いてしまう彼女を前に、去ってしまうだろうかなどという俺の思考はあっさりと投げ捨てられた。いつか伝えても、彼女なら、「HiMERUくんはHiMERUくんだよ」などと大したことでもないという風に笑って俺の隣にいるのだろう。