ワインレッドの情熱

秘密の部屋――某魔法使い映画みたいだ、と足早に廊下を過ぎ去りながら思う。向かう先にいる人間は魔法使いなので、あながち間違いでもないだろう。気持ちはここ数ヶ月で一番急いていたので走って向かいたかったが、それはぐっと堪えた。自分にしては綺麗に施したメイクも、丁寧にセットした髪も、崩れてほしくはなかったから。
ただその化粧は、リップメイクのみ未完成である。

「……夏目くん。いる?」

以前貰った合鍵。がちゃりと無遠慮に差し込み回せば、その先に目当ての人物はいた。

「何、急ニ。どうしたノ」

こちらを振り向いた彼、夏目くんは怪しげな色をした三角フラスコを手に、くるりとこちらに首を捻った。うわぁ、変な色、と彼の指先が捕まえているガラスの中身に目を細める。
ああ、そうじゃなくて。
用事とは関係の無い思考をポイと捨て去り、ポケットに右手を突っ込む。ころんと触れたものはお気に入りのルージュで、これから塗る予定のもの。黒いパッケージに白字でブランド名が印刷されたそれを取り出し、彼に差し出した。

「夏目くんにリップ塗ってほしくて来た」
「なんデ?」
「いや、これからデートに誘いたい人がいるから成功したくて。夏目くんが塗ってくれたら自信持っていけそう」
「だかラ、どうしテ?」
「魔法〜みたいなノリで。いいからお願いっ」

嘘はついていない。全部を話してもいない。私が誘いたいのは、夏目くんただ一人なのだ。
ぎゅうと瞑った目を薄く開き、いつの間にか目の前に立っていた彼の顔を見やる。彼は怪訝そうな表情を浮かべ、そのリップを受け取りじっと眺めている。

「へエ。ピンクなんだネ」

呟き、蓋を外して中身を確認した彼は、また蓋を閉じる。

「いいヨ。こっちに座っテ」

夏目くんはくるりと踵を返し、用意されていた椅子の前に立った。そそくさと彼の後を着いて行き、スカートの裾に手をやりながら腰掛ける。彼にしてはすんなりと受けてくれたものだ、と思う。
目を閉じテ、と指示をした彼の顔が見れない。自分から頼んでおきながらという感じでもあるが、好きな人に唇を凝視され、色を塗られていくというのは気恥しい以外の何物でもなかった。
そのまま、瞼を下げて、彼の手に全てを任せる。夏目くんの恨めしいくらいに整った顔が目の前に迫ってきたような、そんな気配がして、頬に熱が集まるのがわかった。血液が一点に集中するように、かあと紅潮する。部屋はしんと静かだったから、時折、夏目くんの息遣いが聞こえる。
誤魔化すようにスカートを握りしめると、唇に冷たい感触が滑った。

「できた?もう開けていい?」
「……もう少し待っテ」

塗り終わりましたよという合図のように、かちとプラスチックがぶつかる音が響き渡った。しかしながら、それでも視界に光を取り込むのは許されないようで、まだかなあと思考を巡らせながら辛抱強く待つ。
刹那、ちゅ、と先程とは異なる暖かいものが唇に触れた。驚いて目を開くと、視界いっぱいに広がる夏目くんがいた。閉じられた長いまつげが、揺れている。

「魔法だヨ。成功するといいネ」

あっさりと離れていった彼から視線を離せないでいると、ぷるりと潤った唇が目に入る。それに色がついているのは、私にキスを落としたからだ。でもその色は私の想定していたピーチピンクではなく、燃えるようなワインレッドに染まっていた。
どこからか取り出したのか、彼が鏡を差し出す。クリアベースに細かい装飾が施された女物の手鏡を受け取り、覗き込む。反射しているのは間違いなく赤く染まりきった私自身で、色付いているのは彼とお揃いのワインレッドだった。なにこれ、と塞がりきらない口をようやく動かす。

「そっちの方が似合うと思ったかラ。あげるヨ、その鏡モ」

手のひらの上に置かれたのは、先程彼に渡した口紅と、それとは別に鏡と似たようなデザインが施された銀色の口紅。驚きのあまり、彼を見つめれば、真剣な色をした瞳がこちらを捕らえて離さない。

「……それデ」

目の前に屈んでいた夏目くんが、私の髪に手を伸ばした。ストレートアイロンと少しお高めのヘアオイルで整えた茶髪をするりと撫で、くるり、指先で弄ぶ。ぶつかったままの視線が、離せないでいる。
なつめくん、と回らない舌で呟いた。

「こんなに可愛くお洒落なんかしテ、誰を誘うノ」

ボクにこんなもの塗らせテ、ボク以外を誘うつもリ?
そうして、もう一度ごく軽い口付けが降ってくる。軽いといったって、キスはキスだし、その相手が夏目くんだなんて思うと目眩がした。くらくらと今にも意識が飛んでしまいそうだった。飛ばすまいと抵抗するように、彼の白衣の襟を掴む。
そんなの、最初から夏目くんしか誘うつもりない。

「夏目くんのこと、誘うつもりで来たよ……」
「フフ。知ってるヨ」

三度目の口付けは深くて、もう塗ってもらったリップは落ちきってしまうのだろうな、また塗ってもらわないとどこにも行けないな。と交わされる熱の間にほんの少しだけ思ったけれど、もはやそれはどうでもいいことに成り下がってしまったのだ。

Title by 人魚のなみだのシャンデリア