悪魔と踊るワルツでも
※主人公の嘔吐表現があります
※市販薬ODの表現があります
苦手な方はブラウザバックをお願いいたします
帰宅が遅くなってしまったなと思いながら、なまえと二人で暮らす自宅の扉を開けた。
廊下の電気が灯されてないのは想像済みだったが、部屋が明るければ漏れ出ているはずの光すらも見当たらない。スマートフォンの画面をタップして時間を確認してみても、この時間帯は流石に買い物などには出かけていないだろう。それに、几帳面に踵を揃えたパンプスもサンダルも、仲良く玄関に並んでいる。
「遅くなってすみません。帰りました」
物音のしない廊下を進み、リビングの戸の前に立つと、中からは何やら音がする。男性の一言で大人数が笑うような声。バラエティ番組でも見ているのだろうか。だから気づかなかったんだなとその扉を押し上げる。
「……ひめるくん。おかえり」
リビングは暗いままだったが、テレビの明かりのおかげでなまえの姿がぼんやりと浮かび上がる。
ソファもクッションもこの部屋にはあるというのに、床にだらりと座って、ソファを背もたれにしている状態で、彼女はテレビに目を向けていた。その瞳がこちらを向く。
なんだか、嫌な予感がした。暗さのせいでよく見えないが、彼女の目が力ないように見えた気がしたのだ。
そして床に転がる小瓶と、白いガラステーブルの上に置かれた九パーセントのアルコールとアスパルテームのアルミ缶。
「また、馬鹿なことしたんですか」
「んー……だって、なんかねぇ」
ばたばたと足音も気にせず、彼女の傍に駆け寄った。頬を両側から掴んで強制的に顔を合わせる。
煮え切らないような返事は脱力しきっていて、双眸は虚ろに揺れている。交際を始める前からの、この女の悪い癖だった。嫌なことから逃げたい一心で、規定量以上の市販薬と酒を飲む。言いたいけれど言えなかったこと、忘れたいこと、全部無理やりに流し込む。
馬鹿だ、と声を荒らげてしまいたかった。しかしそれは彼女には逆効果であることはとうの昔にわかっている。それもそうだ、なまえもなまえで辛いのに、そこに怒鳴られたら堪らないだろう。そんなことをしたら、もっともっと辛くなる方に追い込む行為に他ならない。
「俺は……そんなに辛そうなところ、見たくないのです」
「だいじょうぶ。……もう少しで楽しくなるから」
なまえ曰く、最初は気分が悪くてふらつくけれど、時間が経てばハイになるのだと言う。薬が切れる頃にはまた気持ち悪さで立てなくなってしまうらしいが、その一時の気分が上がる感覚を求めてしまうらしい。
以前もこんなことがあった。その時は普段飲んでいるこの小瓶の風邪薬が手元になく、ドラッグストアも閉店している時間だったため全く違う薬を七十錠近くも口にしたらしい。が、勿論普段と同様の効果が出るはずもなく、どす黒い嘔吐物と共に洗面所で倒れていたのだ。痙攣するなまえに流石に大慌てで病院に担ぎこんだが、飲んでからいくらか時間が経ち吸収されているため、胃洗浄も間に合わず点滴と自宅で経過をみる他なかった。
胃が痛いと泣き喚く彼女の横で、俺は冷静さを失う以外に何もしてやれなかった。病室で眠ったまま目を覚まさない、覚ましたかと思えば錯乱する弟の姿と重なり、乱れる呼吸を抑えることに必死だった。
医者は死ぬ心配は無いと言っていたが――このまま眠ってしまったら、もう二度と、その目を覚まさないのではないか。
とにかく怖かった。だから、涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま、黄緑色の胆汁を戻す彼女の姿に何処か安心していた。眠らないでさえいてくれたら、まだ死なないんじゃないかって、大丈夫なんじゃないかって思えたから。
そんな出来事も過去にあったので、俺はなまえにこの逃げ方だけは辞めて欲しかった。
彼女も彼女で懲りたのか、しばらくは薬と離れる生活をしていた。今日は何がそんなに辛かったのか。久しぶりにこの白い糖衣錠に手を伸ばしてしまうほどに。
「とにかく、すぐに吐いてください」
めんどくさい、と我儘を口にする彼女の脇の下に手を伸ばし、立たせる。ふらりと覚束無い足取りでトイレに向かった彼女を見て溜息を零した。そのまま俺はすぐ側のキッチンに向かい、適当な大きめのグラスに水を注ぐ。酒を飲んではいるが、水を飲んで吐いてしまった方がいくらかマシだろう。
うげえと情けない声を上げる彼女が籠るトイレに向かい、途中の洗面所から取り出したフェイスタオルと水を差し出す。
「はけないよーめるめゆ」
「口が回ってないですし、何ですかその天城みたいな呼び方。いいからまず水を飲むのです」
大人しくグラスに口をつけた彼女は、まだ焦点の合わない瞳で明後日の方向を見つめていた。やる気のない手を取り、立ち上がらせる。便座に手を付かせ、痛いだろうに申し訳ないと心の中で謝罪を述べながらなまえの腹部を押した。
「んっ……ぉえ」
気分が悪そうな呻き声を上げた口から、そのまま流し込んだばかりの水が少量漏れ出る。結構力を込めたからか、いたい、と呟いて彼女の手が俺の手を力なく掴んだ。すみません、と巻き付けた腕を離す。
離せばなまえは自らの口に指を差し込んで吐こうとした。だが力の入らない手では上手くいかないようで、おえおえと嘔吐きながらも胃の中身は一向に出てこない様子だった。
「……失礼しますね」
背後から彼女の体を支えるように抱きしめ、中指と薬指を無遠慮に口内に侵入させる。ぐちゅ、と乾いた粘着質な音を立てながら、舌の奥を数度押す。
恋人の口に手を突っ込んで吐かせるなんて、この女でなければそう経験できることでもないだろう。それ以外でしてやるつもりも毛頭ないが。
ひめるくん、とくぐもった不快そうな声を漏らす彼女に、もう一度嘔吐感を刺激するように指先で押す。すると、水と酒、それから溶けきらなかった白い錠剤が便器に広がった。そして、もう一度水分を吐き出す。
何も食べていなかったのだろうか、数度吐いた彼女の口からは食べ物の残骸に見えるものは出てこなかった。水分と薬だけで、吐瀉物とは言えないような、人の胃から戻されたにしては綺麗なものが出てきている。以前のように黒かったり黄緑だったりはしていないから大丈夫だろう。それにしても食べていないまま薬と酒なんかを口にすれば、回りやすい上に当たり前に体に悪いに決まっている。
「……もうへいき。ごめん」
水を流しトイレを後にした彼女は洗面所でうがいをしているようだった。嘔吐して、少し正気に戻ったのだろうか。
なまえの後を追い自らの手を洗うと、彼女は俺の横で立ち止まり、じっとこちらを見つめていた。
「どうかしたのですか? まだ気分が悪ければ、」
「だいすき」
リビングへ戻ろうと彼女の背を押そうとした時、体がじんわりと暖かくなる。ズズっと鼻をすすりながら、俺の胸に顔を埋めているなまえ。こんなことさせてごめんね、と呟いていた。
「大丈夫だから戻りましょう」と頭を撫でてやれば、あっさりと離れた彼女は先程いた床に戻っていく。そのままごろんと倒れ込み、近くに置いていたであろう電子タバコに手を伸ばした。俺はそのままソファに腰かけ、足元に転がる彼女に視線を落とす。
「……情ねー」
先程よりも口がきちんと回るようになったなまえが、後悔を含む声色を放つ。吐き出した煙が白く立ち上った。
「HiMERUくんはこんな私のどこが好きなわけ」
「全部ですよ」
言葉通りの意味だった。調子がいい時の笑顔も、俺が掲載された雑誌を無意味に何冊も買い込んで並べているところも、おいしそうにショートケーキを頬張るところも、薬で支離滅裂になっているところも、俺が居ないと何も出来ないところも。上げたらキリがないくらいに、愛しくて仕方なかった。
「駄目なところも、全部好きです」
共依存というのだろうか。そう思ったと同時に、「HiMERUくんも私がいないとダメじゃん」と笑っていた。その通りだった。俺はなまえがいてくれればそれでいいのですよと笑えば、寝返りをうってこちらに顔を向けていた彼女は満足そうにニコニコと唇に弧を描いている。
薬の入っていない時にも少し我儘で、飽き性で、かと思えば急に甘えてきて。そして不安定になって俺を振り回すこの悪魔が、カメラやファンの前に立っていない時の俺の全てだった。
彼女の横に寝転がり、床の冷たさを頬に感じながら、きつく抱き締める。暖かい彼女の首筋に、ちゅうと軽くキスを落とす。どうかこのまま、一生俺の隣で、俺の事を振り回し続けていてくれ、と願った。