「うん。異常なし。傷口も塞がってるし抜糸もとっくに終わってるし、もう退院して大丈夫だよ」
そういって、先生はにこりと微笑んだ。
着替えぐらいしか入っていない荷物を手に提げて、お世話になった先生と看護師とに頭を下げる。
「それじゃあ、行きましょうか」
目の前に居る背の高くて逞しい彼はそういって前を歩き出した。
先ほど挨拶をしてくれたこの人は、近藤勲さん…真選組の局長なのだそうだ。昨日山崎さんが言った通り迎えを引き受けてくれたらしい。
「お手数おかけしてすみません」
私服の彼に申し訳なくて思わずそう声をかける。
すると彼は首を振って、にい、と口角を持ち上げた。爽やかな笑顔だ。
「とんでもない!お世話になるお手伝いさんのお迎えなんですから、局長である私が直々に行かないと示しがつきませんよ」
良い人だな。局長という大役を引き受けられるのも頷ける。
そんな彼と他愛ない話をしながら(殆ど彼が恋をしているという"お妙さん"についての話だったけれど)数十分歩いた頃、自分の身長の何杯も大きな入り口が姿を現した。鳥居を彷彿とさせるそれは目の前を歩く彼のようにどっしりとしていて、頼もしかった。
「ここが屯所です。ささ、入って入って!」
「お、お邪魔します」
そういい、敷居を跨ごうとした私を、近藤さんは手を目の前に出して制す。しばらくそのまま固まった。何か作法を間違えただろうかと首を傾げる。
「咲さん…いや、咲。ここはもう君の家だ。"お邪魔します"じゃない」
「…え、えっと、"ただいま"?」
恐る恐るそういうと彼は満足そうに笑った。
「おう。"おかえり"!」
* * *
隊員の皆さんに挨拶を終え、屯所内の案内をひと通りしてもらって、ここで生活するようになってから数日が経過した今日。
思ったよりも整頓されている台所に私は立っていた。
ここにお世話になっている初日からずっと掃除やら食事の準備やらで忙しくしている私に少し休んでもいいと近藤さんは言ってくれたけれど、働かざる者食うべからずだ。ただでさえ今まであの人が稼いだ汚いお金におんぶにだっこだったのだから、仕事を与えてもらう以上は怠けてもいられない。
それに、とんでもなくお世話になるのだ。ここを出ていってどこか別の場所で一生働いたところで返せない恩があるというのに、その上衣食住まで与えてもらって何もせずに休むなんて自分で自分が許せない。
「うわ、すごい量」
冷蔵庫を開けて絶句。卵、牛乳、野菜、肉、その他諸々様々な食材がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
買い出しは隊員の方々が行ってくれるのだがさすが男性所帯…食材の量も尋常ではない。今までこんな量の料理をしたことはないので少し不安だがやりがいはありそうだ。
ここにある食材で大体のものは作れそうだけれどさて何を作ろうか。
「カツ丼」
耳元でそう言われ、肩がびくりと飛び上がる。
振り向くと可愛らしくまん丸い目と視線がかち合った。
「カツ丼が食いたい」
彼は念を押すようにもう一度そう言う。首にかけられたアイマスクが揺れた。
「あ、えっと。わかりました…?」
「なんですかィその顔。嫌なんですかィ?」
ぷくう、と彼は頬を膨らませる。
「いや、そ、そうじゃなくて。沖田さん急に出てくるから、びっくりしちゃって……あと、近いです…」
「ああ…こりゃ失礼しやした」
そう言って彼もとい沖田さんは膨らませていた頬を元に戻した。
「……あの。さっきより近くないですか?」
「気のせい気のせい」
「えっと…近くなってないですか?」
「気のせい気のせい」
確実に気のせいではないのだけれど、彼は真顔のまま首を振る。いや、えっと。
バランスを崩して尻餅をついても沖田さんはずいと距離を縮めてくる。とっくに距離なんて殆ど無いに等しいのだけれど、焦らすようにどこか楽しそうに、ゆっくりと…。
思わずぎゅうと目を瞑った。
「テメェ何やってんだ」
そんな声が聞こえてきた次の瞬間、すぐ近くにあった気配は遠く離れていく。
恐る恐る目を開けると、沖田さんの首根っこを掴んだ土方さんが目の前に立っていた。
「何すんでィ、土方さん。いいとこだったのに」
「なんてことしてんだテメェは。出ていっちまったらどうすんだ」
「ちょっとからかっただけでさァ」
思わず安堵の息を吐く。
立ち上がると、土方さんと目が合った。
「悪かったな。大丈夫か?」
こくりと頷く。
土方さんの表情は変わらなかったがどこか安心したようだった。
「総悟、テメェも謝れ……おい、総悟?」
彼はきょろきょろと辺りを見渡す。
決して広くはない台所、その空間の中に既に沖田さんの姿は無かった。それを確認した土方さんはため息を零す。
「あいつにはキツく言っておく。それから、こんなこと言うのは酷かもしれねえが、何かあったらちゃんと助けを呼べ。もうお前は一人じゃねェんだ。それに、あいつも多分本当にからかっただけだろう。本気で嫌がってると思ったら総悟もやめるだろうから、嫌だったら本気で抵抗するなり叫ぶなりしろ」
煙草に火を付けながら彼はそう言い、言い切った後ふう、と煙を吐いた。
ぼんやりと白く視界が一瞬霞む。
「なんで笑ってんだ?」
「え?…私、笑ってますか?」
「笑ってる」
不思議そうに首を傾げる土方さんから視線をずらして、自分の頬を触る。
確かに、口角が少し持ち上がっているような。
「嬉しいんだと思います。こんなに賑やかだったこと、両親が生きていた頃以来だったから」
「…そうか」
そういうと土方さんはくるりと踵を返す。そういえば、彼は今日は私服に身を包んでいる。
「土方さん、どちらへ?」
なんとは無しに、世間話のような感覚でそう尋ねた。
すると彼は一瞬言葉に詰まり、だがすぐに振り返ってこちらを見つめる。ちゃ、と腰に提げた刀が鳴いた。
「山崎の様子を見に行く」
彼が言葉に詰まった理由がわかった。現在潜入任務に当たっている彼のことを想う。
土方さんはこちらをじっと見つめたままこちらの言葉を待っているらしかった。
「そう、なんですか。では、お体にお気をつけて、と伝えて頂けますか?」
「…付いてくるとでも言うのかと思ったぜ」
「そうしたいのは山々ですけれど。何の戦力も持たない私が行っても迷惑でしょうし、我慢します」
ちゃんとご飯を食べているか、とか、ちゃんと睡眠をとっているか、とか、しんぱいなことは沢山ある。
できることなら付いて行って彼の手伝いをしたいけれど、足手まといになる未来しか見えない。
信じて待つことしかできない自分は情けないが自分の仕事は屯所で隊員たちのお世話をすることだ。それを投げ出すことは許されない。
「伝えとくぜ。じゃあ、いってくる」
「いってらっしゃいませ、土方さん」
台所を出ていく彼の背に小さく頭を下げ、沖田さんリクエストのカツ丼の調理に取り掛かった。