彼が任務に出てから、一か月近くが経った。
様子を時折見に行っている土方さんが言うにはまだ追跡している相手が姿を現さず任務が長引いているのだという。
今日も様子を見に行くというので伝言を頼もうと思っていたら、土方さんが言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「…咲。今日は付いてこい」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
「お前が心配するだろうと思って言わなかったが、山崎は潜入任務中あんぱんと牛乳しか腹に入れねぇ。俺が言っても聞かない。だから、お前が言ってやってくれ。お前の言葉ならあいつは従うだろうからな」
もう行けるか、と彼は煙草に火を付けながら言う。
「少しだけ待っててもらえますか?」
「おう」
煙草の煙を吐き出しながら彼は頷いた。
まだ食事の準備をしていないから簡単なものしかできないが、あんぱんよりはマシだろう。
先ほど炊けたばかりのお米に鮭、おかかを詰め込んでふんわりと握る。
それをラップに包んで風呂敷にさらに包んで、台所の出口で待ってくれていた土方さんに声をかけた。
「お待たせしました。行きましょう」
歩き出す彼の背を逸る気持ちを抑えながら追いかける。
どのくらい歩いただろうか、潜入任務と言うこともあってきっと土方さんは人目に付かない裏道を選んで進んでいるのだろう。殆ど人とすれ違わないまま、山崎さんがいるという建物に到着した。
あまり日当たりが良くなさそうなその空間にそっと足を踏み入れる。
途端前方から、ぱぁん、と小気味良い音が聞こえてきて思わず肩が震えた。前に居る土方さんの足元にどろりとした茶色い何かが零れ落ちる。
「ひ、土方さん…?!」
思わず身体を乗り出すと、呆然としている彼と目が合った。
* * *
もう嫌だった。
一向に娘に動きがない。ここにきてからもう二十五日も経っている。
あんぱんはもう食いたくない。牛乳も飲みたくない。折角咲さんが屯所にいるっていうのに全ッ然会えてない!!!
てか咲さんを屯所に来ないかって誘うとき、俺が守るとか格好つけて言ったくせにほったらかしにしちゃってるし嫌われてたらどうしよう。あんな男ばっかりの空間で怖い思いしてないかな。既に誰かの毒牙にかかったりしてないかな。
もうさっさと屯所に帰って咲さんに会いたい。
咲さんのご飯食べたい。
副長も局長も隊長も咲さんのご飯食べれて羨ましい、ずるい。
もうあんぱんは嫌だあんぱんは嫌だあんぱんは嫌だあんぱんは嫌だあんぱんは嫌だ。
「山崎、いるか?」
玄関が開く音がした。
のうのうと足音が入ってくる。
俺は苛立ちを抑えないまま部屋に入ってきた副長に向けてスパーキーングッ!!!!
ここ数日、壁、天空、スーパーのバイトに向けて幾度となくあんぱんをスパーキングしてきた俺は最早スパーキングのプロだ。あんぱんは寸分の狂いもなく副長の顔面に当たり、中身もろとも四散する。
ぼとりと音を立てて餡子が彼の顔から床に落ちたその時だった。
「ひ、土方さん…?!」
べたべたになった彼の後ろから、愛おしい声が聞こえてきた。
ひょいと顔を覗かせた彼女と目が合う。
え、待って?これ夢?だってこんなところに咲さんがいるわけないよね?
「山崎ィ…テメェ…」
「土方さん!抑えて!抑えて!抜刀しないでください!」
刀を抜きかけた副長の腕を咲さんが掴む。
大人しく柄から手を離した副長を見て安堵したらしい彼女は改めてこちらへ向き直り、周囲を見渡して絶句しているようだった。
「え、えっと…咲、さん?お、お久しぶりです…?」
なんと声をかけていいかわからず俺は目を逸らし、そう言う。
途端。
「山崎さん」
突然両頬を細い手が包み込んで無理やり正面を向かされた。自分よりも背の低い彼女と視線がかち合う。
彼女の手のひらは柔らかくて温かくてすべすべで、自分の肌がどれだけ荒れているかわかった。
「こんなに痩せて…!あんぱんしか食べないって本当なんですね」
彼女の頬はぷっくりと膨らんでいる。
怒ってるのかな。可愛いな。
「ダメですよ、こんな生活じゃ。隈も酷いですし、寝てないでしょう」
桃色の唇が動く。その奥にある真っ赤な舌すら美味しそうだ。
「山崎さん? 私の話、聞いてますか?」
ずいと彼女の顔が近くなった。
ぼうっとしていた頭が冴え渡るのが分かった。と同時に、これが夢じゃないと自覚する。
「あ、えっと」
「聞いてなかったんですね」
「…ごめんなさい」
離れていく彼女に謝ると、彼女は小さく溜息を零して、俺の目の前に風呂敷を差し出した。
とりあえず受け取って、開く。
そこにはまだ温度が残ったおにぎりが二つ並んでいた。
「急だったのでそれしか作れなくて。でも、あんぱんよりは身体にいいはずです。絶対食べてくださいね。次来るときはちゃんとお弁当作ってくるので。それからお野菜をちゃんと食べること。同じものばかり食べていたら体重は落ちるんですよ。毎食ちゃんと主食とおかずと…」
彼女がそう言い終わる前に、気が付いたら彼女を抱きしめていた。
柔らかい感触が、心地よい温度が全身を巡る。
「や、山崎さん…?」
驚いている彼女に反応するでもなく一か月ぶりの彼女の香りを思いっきり吸い込んだ。
石鹸のいい匂いが鼻孔を撫でる。彼女の髪に顔を埋めて何度も呼吸を繰り返した。もう変態だと思われてもいい。
「…イチャつくんなら俺ァ帰るぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください土方さん!山崎さんどうしちゃったんですか?!」
「いっつもこんなんだ。あんぱんと牛乳しか食わねえから壊れちまう」
「わかってるなら無理やり止めてください!」
「言っても聞かねえんだ。しょうがねえだろ」
…なんか仲良さそう。
俺が居ない間に何かあったのかなあ。ずるいなあ、副長。
身を捩る彼女を逃がさないようきつく抱きしめて首筋に顔を埋める。
もうやだ。このままでいたい。任務とか知ったことか。
「咲さん…帰んないで…ここにいて……」
鼻水を啜りながら縋る。
情けない。好意を寄せている女性に本来見せるべき姿ではないのだろうけれどそんなことまで考えが及ばないほどに俺はおかしくなってしまっていた。
俺に縋りつかれている彼女は困ったように眉を下げる。
「山崎さん。今回の任務、詳しくは分からないけど、正面のお店にいる女性を守るのがお仕事なんですよね?」
すっかり力なくへたってしまっている俺の髪をそっと撫でて、言い聞かせるように彼女は続けた。
「私、山崎さんに助けられて、山崎さんが助けに来てくれて、すごく嬉しかった。それはきっと、あの人もそうだと思うんです」
咲さんは少しだけ開いた隙間から窓の外を見つめている。
きっとその先には、彼女といるより長い期間ずっと監視を続けてきた楢崎幸がいるのだろう。
「私は幾らでも待っています。何だったら毎日ご飯を届けに来ます。だから、だから」
顔を見上げると彼女の笑顔がそこにあった。
「あの人、守ってあげてください」