Repulse/第一話
普段朔の周りに渦巻いている喧噪からは、いやに離れている。夢ノ咲学院の屋上は、こんなに静かなものだっただろうか。片方ではたしかにいい意味で静かになったのかもしれないが、ある種、このいやな雰囲気の漂う静寂は、朔のやる気を少なからず削ぎ落としているようにも感じられた。――ふだん、ここらへんに座り込んだりしてげらげらと笑っているひとたちの姿がない。歌うのに静かな場所はないかと夢ノ咲のぜんぶをくまなく探していた朔にとって、弓道場のすぐ近くの場所とこの屋上は、あまりに人の目が多すぎるという印象が強い。いまだに入学当初のその意識が染みついているものだから、こんなにひとのいない屋上を見るのは落ち着かなくて、ふうとひとつ、自分にしか聞こえない深呼吸をしたあとに、ゆっくりと、まだなにものでもない旋律を紡ぎはじめた。
「〜♪ ……」
朔の知らないあいだに整地されていたらしい屋上に響き渡る、ひとりの歌声がある。数いる生徒は見向きもしないが、それでもそのうちの何人かは朔の歌を好んでくれていた。それはかの『Valkyrie』の斎宮宗だったり、いま話題の『チェス』の月永レオだったり、どうにも芸術家気質のひとたちからはよくよく評価されているようだ。朔自身は素知らぬことではあるけれど、どうやら。
――夢ノ咲最大の『ユニット』。あるいは、もっと正しく表現するならば、組合といったところだろうか。『チェス』だの『バックギャモン』だのと名前の変化が多かったけれども、最終的にあれらは『チェス』を母体として分裂をはじめた。アイドル活動に対してモチベーションの欠けているひとたちの多かった印象のあるあそこは、どうやらほんとうに『ドリフェス』とやらに際して整えられた制度に沿って、ある程度仲のいい人間を集めて分割されていっているらしい。やる気がない様子だった朔の同級生もたしかあそこに所属していて、いまはチェスの名にあやかって、クイーンだか、ビショップだか、そんな名前のユニットに入ってぼんやりしているそうだけど。ともかく、あの組合は、幻みたいに、かげろうみたいにゆらゆら揺れて見える体躯だけはいやに大きかった。あれのすがたかたちを大きく見せていたのは、なにも所属している人数だけのことじゃない。あくまであまたいるメンバーを支えていたのは、たったひとりの天才――月永レオのつくる曲にほかならないのだ。その恩恵を受け続けて麻痺していた『努力する』ということに対するモチベーションが、レオという無限武生成器を失った焦燥感で、抑えを失った水道を流れる水みたいに勢いよく吹き出してしまっているだけ。
――月永レオは天才だった。朔がひとり、誰も寄り付かないような夢ノ咲の裏庭で歌っていたとき、その声を聞いただけで一曲書き上げられるくらいには。朔はあのとき、誰だって知っているようなアイドルソングを歌い上げていただけだ。特別なことなんてなにもしていない。レオに見つけられて、宗に褒めてもらえて、零に認められた才能だった。朔が零に手を伸ばしてもらうまで、朔とともに夏目のことを守ってくれたのは、間違いなくレオの作ってくれた朔のための曲だ。思い返せばあのひとは、自分が産み落とした我が子みたいな音楽を戦いのために使われるのは、あんまり面白くなさそうな表情をしていた気がするけど。
「お前の歌を聞いてたら、なんとなくこう……インスピレーションが湧いてきてさ! 勝手に書き下ろしちゃっただけなんだけど、よかったらもうちょっと歌っててくれない? さいきんあんまり気持ちよく音楽できてなかったから、お前の歌で何曲か書きたい。書きたいっていうか、もう思いついてるから、たぶんいくつかは書き上げられる! だから、歌っててくれ! 俺のたすけになると思って!」
「い……いいですけど、べつに。……えっと。あなたは、先輩、であってますか?」
「あれ? そっか、そういえば自己紹介すんの忘れてたな。俺は月永レオ。え〜っと、たぶんいまは二年生? で、『チェス』で友だちとアイドルをやってる。ちなみに嫌いな音楽家はモーツァルト! お前は?」
「冬海朔です。『ユニット』にはとくに所属していなくて……あ、あと、一年生です。まだ入学したばかりで、芸能界のこともよくわからなくて。好きな音楽家は……シューベルト?」
「あははっ、シューベルトか! たしかに、お前の名前って冬が入ってるもんな〜。俺的には、冬っていうとコルンゴルトのイメージだけど!」
「えっ、雪だるま……?」
レオと朔がはじめて言葉を交わしたのは、春の終わり頃のことだっただろうか。そのときにはすでに春一番の風のせいで桜はすっかり散ってしまっていて、けれど葉桜がつくにはまだ早い時期のことだ。昔から心優しいひとだった。徹頭徹尾、この暗黒みたいな時代の中に生きても変わることなく、純粋で、清白な。レオは誰にだって好きと言ったし、乞われたときには誰にだって曲を書いた。仲良しだから。友だちだから。俺を頼ってくれている、俺になら頼れると思われているから――だから、壊れてしまった。
春が終わり、夏を通り過ぎ、秋は悠然とそこにあった。朔がのうのうと『五奇人』の影に隠れて守られているとき、そのとき、レオが追い詰められて壊れてしまったことも知らないで、朔はただ、夏目に肩を寄せて、穏やかに眠っていた。朔の知らないうちにすべてが終わってしまっていたのではない。朔がそれを知ろうとしなかっただけだ。俺はいま幸せだからって、友人を投げ捨ててしあわせになってよかったはずがないのに。
紛れもないレオの『友だち』だった泉はレオのことを救えなかった。朔がどこで歌っていようと気分転換に朔の歌を聞きに来たなんてふらっとあらわれるレオを回収していく泉のすがたは子どものことを守っている母親のようで微笑ましかったし、なによりあのひとはわかりにくいながらも朔のことをかわいくない後輩としてかわいがってくれていたと思う。泉先輩なんて呼んで懐いて、レオといっしょになって泉のまわりで寝転んだり、ちょっかいをかけたり。楽しかったなあ――楽しかった、はずなんだけど、なあ。
屋上に、ひとの気配はなかった。普段であれば演劇の練習をしているだろう兄のすがたは、いまはない。放課後になればいるかもしれないが、授業合間にわざわざ屋上にのぼる生徒もそういないだろう。いまここでどんなに上手くなった歌を口にしたってレオは戻ってこないのに、未練たらしくこうして遊びのようにメロディを口ずさむ自分のことがひどく卑しく思えた。朔と泉に挟まれて楽しそうに音符を奏でているレオを見ることは、たぶんもうなくなってしまうのだろう。
――「俺も面倒だとは思ってるんだけど、『チェックメイト』とやらに巻き込まれちゃってねぇ。まあ、『約束』しちゃったからには、ある程度の役割はこなしてくるけど……サッちゃんって、たしかあのひとと知り合いじゃなかったっけ? ……どうせ『チェス』の内部粛清みたいなものだし、見に来れないだろうけど、まあ見にこないほうが身のためだよ」
音楽室の中だけで培った縁が、血のような赤色に鈍く光る。心底面倒臭そうに朔にそういった先輩の言葉を思い出して、朔は自分のはやる気持ちを落ち着かせるようにひとつ大きな深呼吸をした。
「俺の知らないあいだに変わっていかないで。俺の知らないあいだに壊れないで。あなたはずっとそこで優しく笑ってるだけでよかったのに――だれがあなたを地獄に落としたの?」
――朔の、歌を口ずさむような言葉に、レオはもう、答えてくれない。