Repulse/第六話


「『巴水月』というアイドルを知っているかい?」
「いいえ、その……父が、そういうのを見せることを嫌がったので。『明星』も、『氷鷹誠矢』も、『佐賀美陣』も、夏目のお母さんのことも、なにも知りませんでしたし……。誰ですか、そのひと? というか、性別もわからないのですけど」
「ふふ、まあ、そうだろうね。君のお父上は、随分彼女のことを愛していたようだし。君を彼女のようにはしたくなかったんだろう」
「……え?」
 ――渉、そして彼の連れてきた助っ人である『ホッケーマスク』との戦いの後、力の抜けた人形のように倒れこんだ英智に呼ばれて、朔は彼の指定した場所である保健室に足を運んだ。がらがらと保健室の戸を開いた朔の姿を見た英智は、待っていたよ、と、ふんわりと笑う。なにか、憑き物が落ちたかのような、穏やかな感情があらわになる。英智の横たわっているベッドの傍にある棚に置かれた古びた新聞紙をばさりと投げ渡し、英智はぽつぽつと語り出す――朔の、両親の話を。
「『人気絶頂中のアイドル・巴水月、ソロライブツアーの千秋楽後、ファンに刺されて死亡。水月を刺したと思われる過激な男性ファンは、『彼女に騙されていたことが耐えられなかった』と供述している』……?」
「君の実の母親だよ。彼女は『世界の歌姫』と呼ばれていた。あの『冬の時代』には珍しい、人気のある女性アイドルだったと記憶している――日和くんの叔母でもあるしね」
 だからいちおう、君は日和くんの遠縁にあたるのかな、と、英智は言った。
 天使のような歌声を持っていた。この世のものではないような美しさと、魔力を持って引き込まれるような翡翠色の瞳。CDチャートの上位10位の半分をたったひとりで埋めるほどの人気を持った彼女は、しかしどこからか『子供を産んだ』という噂を聞きつけたファンによって切り殺され、帰らぬ人となった。
 ひとごとみたいな記事だった。あたりまえだ。新聞記者が書いているものなのだから。――でも、朔にとってはそうじゃなかった。ゆるりと英智が目を細めて、朔に言う。
「その『子供』が、君だ」
「――……」
「君のせいだと罵られても仕方がない状況で、冬海さんはそれでも、君のことを愛していたよ。君がひとり『悲劇のヒロイン』ごっこをしているうちに、君が『第二の妻のようにならないか』ということを心配していたお父上は、『男装すること』を条件に、継母の出した提案――君を夢ノ咲学院に入学させるという選択を選んだ」
 賭博。継母の趣味のためだけに通わされることになった夢ノ咲学院アイドル科の中で、なんの違和感なくスラックスを履き、笑顔と歌声を振りまいている朔の姿は――父には、どう映っていた?
「君の継母も、有名な女優だからね。質の悪いギャンブラーなんだけど、仕事は完璧にこなしてくれると評判でね。気性はあまりよろしくないようだよ。君も、それはよく知っているだろう?」
 君はなにもしらないだろうけど、と、英智がこぼす。大きな翡翠色の瞳を見開いた朔が手に持った新聞紙を凝視していれば、英智はそっと微笑み、ゆっくりとからだを起こして、朔にその細い腕を差し出した。
「『彼ら』のためだけに歌いたいなんて夢を、もう叶わないことを知っていながら追いかけ続けるだなんて、苦しいだろう? 君のお父上も、きっと心配するだろうし。その点、僕につけば心配はいらないよ。僕は君の『歌声』を買っているんだ」
 ――ただひとり、天祥院英智にとって唯一の偶像だった日々樹渉をすら、一時期のみでも凌ぐくらいには。
「……あなたになにを言われようと、俺の願いは変わりません。俺の祈りは、消えたりしません。――あの子が、夏目がまだ、生きてくれているから。夏目は俺とは違って、諦めの悪い子です。夏目は俺とは違って、一生懸命な子です。俺がいなくなっても、あの子は生きていける。だから俺は、夏目のためになることなら、なんだって」
 震えた声で英智にそう返す朔の姿は、その瞳は、吹けば飛んで行ってしまうくらいの不確定さを孕みながらも、英智の持つ群青色の瞳を見返している。
 千変万化のすべからくにもてあそばれ続けてきた踊り子の、しかし決して失われることのない、意思の強く滲み出た、萌ゆるような緑色の瞳。いつか自分が夢見ていた星の輝きを塗り潰してしまった空のような英智の光が、愉快なものを見るかのように、きゅっと細められた。
「僕をのことは憎んでいないんだろう、『かみさま』?」
「……ええ。あなたも、青葉先輩も、日和先輩も、乱先輩も。恨んでいません。憎んでいません。……後悔も、していません」
「ふふ、君ならそう言うと思ったよ、朔ちゃん。――なら、僕のために歌ってくれるかな、青い毛の金糸雀」
 ふたり以外の気配は、ここにはない。零の手を拒み、ひとりきりで英智の傍に来た朔のもとに、愛おしかった気配がいるはずがないから。ひややかで静謐な保健室の中、沈黙が下がる空気に迫られた朔がそっと息を吐き、一度瞼を閉じて、それからややあって、英智の瞳を見返す。
「あなたのためには歌えない。……だけど、いいですよ。孤独で孤高な、未来を追うために友達をうしなってしまった、可哀想な『皇帝陛下』。歌うのは、あなたのためではないけれど……それでもいいというのなら、あなたのもとで歌ってあげます。あなたの思うように」
 ――夏目に寄り添うようにして、朔が紡いだメロディ。春の木漏れ日が照らすベンチから零れたそれに乗せるように夏目が重ねてくれた歌声を、いまさら夏目以外に与えられるわけがない。いまは、その思い出の先を思うのは、朔しかいないけれど。それでも構わない。いとしい夏目のために、朔のこころは捧げられている。そのことを、他でもない英智が理解してくれているというのなら。
「それで、十分」
 それだけで冬海朔は、天祥院英智のつくった鳥籠の中に囲われた金糸雀のままでいることができる。
「ほんとうに健気だよねぇ、朔ちゃんって。『幸福の王子』のつもりかな? 差し詰め、『王子』が朔間先輩で、ツバメが朔ちゃんのように思えるけれど。僕はそんなこと出来そうにないよ。やっぱり、我儘な御曹司だからね、僕は。好きな人には僕のことを見てほしいし、僕の声に応えてほしい――それが、どんなものであれ」
「その結果が渉にいさんでしょう。あなたも厄介なひとですね、英智くん?」
 ――裏切り者、と、あのとき、夏目は朔に言った。そもそも朔はこのところ夏目に怒られ続けている。渉の立っていた舞台を見ておいてなお、怨敵である英智のいる保健室に足を向ける朔の姿は、ささくれだっていた夏目の感情に、いよいよとどめをさしてしまったらしかった。憤りに乱反射する琥珀色の瞳で、夏目が朔のことを睨みつけている。そんな記憶が、朔の脳裏に焼きついている。
 これで良かったんですかと朔の顔を覗き込んできた渉の瞳を見返して力なく笑う朔は、あの夜、渉の舞台にのこのこと上がった夏目なんかよりもよっぽど滑稽だったはずだ。五つ星の奏でた音楽の中に入るただひとつのノイズに耐えかねていたのは唯一その『ノイズ』であった朔だけで、とうの朔はみんなに『だいすきだ』と言い残して満足してしまっている。そろそろ潮時だったのかもしれないなと思い馳せる朔の姿を見て、英智はそっと笑いを零した。
 英智くん。そう呼んだ朔に後から気が付いた英智が、驚いたように瞬きを繰り返す。そのサファイアのような瞳に、朔は穏やかな水面のような翡翠の視線を返し、そっと笑い返した。
「逆先くんを守れるのはもう君だけだよって、そう言うはずだったのだけれど。まさかそんなにあっさりと僕のほうに来るとはね」
「そうだろうなって思ってました。だから、それを言われる前に認めてあげようと思って。ふふ、ちょっとしたあなたへの意趣返しですよ。あなたが殺したのは、なにも俺のにいさんたちだけのことじゃないし」
 まさか忘れたはずはありませんよね、レオくんのことを。そんな朔の言葉に、英智はゆるりとした頷きを返して。
 ――『五奇人』最後の渉が打倒され、英智の始めた『革命』は終結を迎えた。渉がいなくなってしまえば夏目を守ることができるのは朔だけ――けれど、夏目のことを覆い隠すことができるほどの力を、朔は持たない。
 夏目に知られなくてもいい。もう夏目と背中合わせで音楽を奏でることができなくたって構わない。諦めるだけでこれからの夏目のことを守れるのなら万々歳、支払うには安すぎる思い出だ。寂寞感も、口惜しさも、ないわけではないけれど。
「ねぇ、英智くん。きっと青葉先輩は、夏目のところに行きますよ。夏目も多分、それをゆるすと思います。……夏目は、あなたに似ているし。先輩も、夏目も、優しいから。お互いを拒まない。助け合おうとする、救おうとするでしょうね――きっと」
「これも因果、というやつかな。殊勝なことだね。僕は『運命の大いなる流れ』なんてひとつと信じていないのだけれど?」
「冗談でしょう。あなたが一番、運命に舵を委ねていたと思いますよ? ……あなたが渉にいさんに出会った時から」
「ふふ、確かに。違いないかもね、それは」
 英智はそう言って、なにかを諦めたかのような微笑みを蒼白な頬に受かべる。英智が手放してしまった、友人に、親友になれるはずだったものたち。輝かしい月のようなオレンジ色の天才、夕暮れにかがやく月光。あるいは英智に幸せを運んでくれていたはずの青い鳥。自分の手で地獄へと突き落としてしまった彼らのことを思いながら、英智はそれでも、だからこそ、前に進んでいかなければならない。血だまりを踏みつけてきた、真っ赤な足のまま。赤い靴を履いた、自分のまま。
「英智くん。俺は、あなたのためには歌えませんが……それ以外のことでなら、存分に使ってください。契約書も必要ないですし、そういう気分なんだったら、ぼろぬのみたいに使い捨てにしてくれて構いません。あなたの望むようにします。そうしたら、あなたが夏目を守ってくれるんでしょう?」
 あなたが偶像と断じて崇め奉った日々樹渉のことを走狗のように扱うのは、あなたには難しいでしょうし。英智はそう告げたくすんだ翡翠の瞳を見返して、こくりと頷いた。みかに告げた時と似た、自分の存在を切り売りする言葉は、いまさら取り下げることなんてできない。朔はこの学院に足を踏み入れた時とは確実に違ってしまっている自分を俯瞰し、その頃の自分とともにいてくれていた夏目のことを思う。
(――さようなら、夏目。大好きだった日々。いつかあなたたちを懐かしむ頃、俺はその度に自分の心臓を踏みつけるでしょう。それでも――あなたたちのことを、愛していました。大好きでした。だから、いまだけは)
 さらりと、朔は英智の指通りのいい髪に指を通す。幼子を寝かしつける母のように。英智はその指を拒まなかった。これが朔にとっての『五奇人』との、青い春との別れだということを理解していたから。
 するすると、朔の指先が、英智の髪を滑っていく。うとうととし始めた意識に逆らおうとする英智の視界を、朔は英智が眠ろうとしていることに気付いたのだろう、空いている方の手のひらで、そっと隠した。
(いまだけは――)
「――おやすみなさい」
prev | list | next